織田文化歴史館 デジタル博物館

1 梵鐘の概要

 口径73.9㎝、総高109.9㎝をはかる。奈良時代の梵鐘としては小型で、鐘身の高さに比べて口径が大きい。小型ながら口径に対して身丈の低い堂々とした風趣がある。鋳造は荒く、作技は放胆であり、形姿・作行に奈良時代の特色があらわれる。笠形の圏線や、未発達の駒の爪などは古式の様式をそなえている。

 上部は欠損のため、火焔宝珠はない。竜頭は笠形を噛み、簡単ながらも力強い。笠形は中央に向かってしだいに高くなり、2条の鈕(ちゅう)を同心円状に廻らして内外2区に分ける。湯口は長方形で、笠上の周辺近くの2か所に、竜頭と直交するような形で配する。上帯・下帯はともに素朴である。上帯の下端と池の間の下方には、鋳張りが認められる。鐘身を機械的に2分割し、その上に笠形部を重ねて全体を3分割する鋳型分割と考えられ、奈良・平安時代前・中期に通有のものといえる。重さは529㎏をはかる。

 乳(ち)の間は4面ある。乳は簡素な形で各区に3段5列に並列している。撞座(つきざ)は手彫りで、蓮華形につくる。片方が10弁、もう片方が11弁である。湯口は笠形圏線の外側にある。竜頭の長軸と直交方向をなす長方形の突起が2か所に残る。撞座の高さは4.1割の位置にある。竜頭との関係は、竜頭の長軸線と2個の撞座を結ぶ直線に交わる位置に据える。駒の爪は単に3条の鈕を廻らすが、口撞縁の1条はやや太くつくられる。

 銘文は草の間の第1区には「剣御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」とあり、3行16文字が陽刻で鋳出される。飛鳥・奈良時代の銘文をもつものは4例しかないので、明治35年(1902)4月に国宝に指定された。旧 国宝であったが、戦後の昭和31年(1956)には再審査がおこなわれ、その年の6月28日にふたたび国宝に認定された。

梵鐘
梵鐘
梵鐘の各部名
梵鐘の各部名

 各部の計測値は以下となる
  総高 109.9㎝ 身高88.1㎝
  竜頭 高15.0㎝ 幅20.5㎝ 厚8.3㎝
  笠高 6.5㎝ 笠径 52.6㎝
  口径 73.9㎝ 口厚5.7㎝ 乳径2.2㎝ 高1.9㎝
  上帯 高2.9㎝ 下帯 高4.8㎝
  乳の間 高10.7㎝ 幅(上)33.7㎝(下)36.6㎝
  池ノ間 高31.8㎝ 幅(上)36.8㎝(下)41.6㎝
  草ノ間 高15.6㎝ 幅(上)41.6㎝(下)42.0㎝
  縦帯 高75.0㎝ 幅(上)8.6㎝(下)11.9㎝
  撞座 径(A)12.5㎝ (B)12.3㎝
  撞座 高(A)31.3㎝ (B)31.0㎝
  横帯 高11.8㎝  湯口(A)最大幅3.0㎝ 長6.0㎝
    (B)最大幅3.0㎝ 長6.8㎝
  外型 上段高41.3㎝ 下段高46.8㎝

2 梵鐘にまつわるエピソード1

(1)梵鐘の来歴と、もうひとつの梵鐘

 飛鳥・奈良時代の紀年銘をもつ梵鐘は数少ない。現在、その時期の梵鐘は16口ほど確認されているが、銘文をもつものは4口しかない。京都市妙心寺の梵鐘(文武天皇2年 698年)、奈良市興福寺の梵鐘(神亀4年 727年)、福井県越前町劔神社の梵鐘(神護景雲4年 770年)、千葉県成田山市出土の梵鐘(宝亀5年 774年)である。

 劔神社の梵鐘は年代的には3番目に古いものとなるが、剣御子寺の銘文から劔神社境内に創建された神宮寺の鐘を示し、現在も剣の名を冠する神社で所持し続けているので、奈良時代以来1250年近く同じ地で守り続けられたことがわかる点で、全国でも貴重な文化財といえる。しかし、長い歴史のなかで、その安置場所が若干変わったことも考えられるので、ここではその来歴を追いかけてみたい。

 梵鐘が描かれた最古の史料は、劔神社所蔵の「劔神社古絵図」(縦96㎝、横62.5㎝)[町指定文化財]である。国京克巳氏によると、古絵図は明応6年(1497)以前に描かれたものだという。室町時代における栄華を極めた社寺の様子を知ることができる貴重な文化財である。とうぜん梵鐘は神宮寺域に置かれていた。仁王門を通過した右手あたりに「鐘つき堂」と墨書きした鐘楼があり、黒々とした梵鐘が描かれている。

 そのあとの来歴は、よく分からない。社伝によると、劔神社は平清盛に焼き討ちにあい、息子の重盛によって再興されたという。とくに、天正2年(1574)の一向一揆による社殿の焼失後は復興が進まず、本社と気比社がひとつの建物として建設されたこともあったという。それ以降も復興がはかられたが、慶長3年(1598)の太閤検地に絡む騒動でふたたび焼失、翌年に西の宮を移築し、社殿として使用したことも記録に残っている。

 江戸時代には徐々に復興が進むと、ふたたび鐘楼の記載があらわれる。延享3年(1746)には、剣本社・八幡宮・神楽堂・籠所・護摩堂とともに「鐘楼堂」が併記される。文化13年(1816)、江戸時代後期の『越前国名蹟考』「織田境内図」に描かれた鐘楼には「古鐘」と記された。古鐘との記載から現在の梵鐘と考えられるが、劔神社には別の梵鐘も存在していた。

 それが「宝暦の鐘」である。宝暦13年(1763)、奈良時代の古鐘の鋳造1,000年を記念してつくられた新鐘である。宝暦年間につくられたことから、そのように呼ばれた。現存はしていない。1816年の境内図に描かれた梵鐘が、かりに新鐘であったとすれば、古鐘はどこかに大事に保管されていたのだろうか。

 梵鐘の来歴については不明な点が多い。明治31年(1898)の『劔神社境内図』には、境内地北東に鐘楼の表現がある。同年の『若越宝鑑図録』「劔神社之景」にも、同様の場所に鐘楼が描かれている。これらの梵鐘が古鐘か新鐘かの判断は難しい。ただ、明治35年(1902)に古鐘が国宝に指定されると、宝暦の鐘を撞くようになったとも聞く。とすれば、それ以降は新鐘をついていたことになる。

 なお、宝暦の鐘に関しては次のような逸話がある。昭和18年(1943)に太平洋戦争が激化すると、当時の政府は金属不足から全国で金属回収をおこなった、そのとき劔神社は、国の命令で宝暦の鐘を献上したのだという。

 このように古鐘の来歴は不明な点が多い。昭和44年(1969)の宝物殿完成までは拝殿西にある神庫に収められ、そこで実際に鳴らされていたと聞く。古老にたずねると、自分が子どものころに何度も古鐘を突いたことがあったと語ってくれた。

 部分的ではあるが、梵鐘の来歴を追ったが、平安時代以前の状況はまったくの不明である。長い歴史のなかで劔神社は何度も焼かれ、そのつど再興を繰り返したが、その盛衰のうねりにあって、現在もその雄姿が見られるのは奇跡としかいいようがない。それは、歴代の神社関係者をはじめ、地域の宝として住民が大事に守ってきたことを意味している。

(2)梵鐘は鯨で、その音は黄鐘調

 福井県にはほかにも国宝の鐘がある。敦賀市の常宮神社所蔵の朝鮮鐘である。唐の太和7年(833)の銘文をもつ、統一新羅時代の鐘である。高麗時代以前の朝鮮鐘は、朝鮮半島のほか日本にも伝来しているが、常宮神社の鐘は年代の明らかなものとして国内最古である。日本の梵鐘は、中国の様式を倣ったものが大半で、朝鮮鐘を倣ったものは例外的である。

 そもそも梵鐘とはなにか。寺院の鐘楼に吊す釣鐘で、寺院内の行事のとき合図に打ち鳴らす仏教法具である。青銅製がほとんどだが、まれに鉄製もあるという。梵語brahman(ブラフマン)を音訳したもので、清浄・神聖の意味がある。当初は教団内の律を知らせるための合図に使用されていた。撞木(しゅもく)でたたくと、荘厳な音が発っせられ、人々を仏の世界へと導いてくれる。

 鋳造品の鐘は大きさにより呼称が違う。大きい順から梵鐘・半鐘・喚鐘という。つまり、梵鐘とは鐘高55㎝(1尺8寸)以上、口径76㎝(2尺5寸)以上、重量375㎏(100貫)以上を指した。それ以下のものが半鐘、口径約30㎝以下のものが喚鐘となる。

 また、梵鐘には別称がある。洪鐘(こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)など鯨の名がつく。鯨にたとえられるのは、その大きさにあるようだ。なかでも蒲牢は竜の子といい、鯨に追われて大声で鳴くことにちなんで、懸吊部にかたどられたのだという。梵鐘には、より大きな音が鳴ることを期待した意味合いが込められたようである。

 竜との関係でいえば、梵鐘の最上部にあって鐘楼に吊すおりに用いる、釣り手を竜頭(りゅうず)という。腕時計の時間調整のネジも竜頭というのは、偶然か。時を刻むものとして同じ名称を用いることが興味深い。梵鐘の竜頭は竜をかたどり、2頭が背中合わせに配される。とうぜん間にはすき間が生じるので、鐘楼では鉤(こう)の部分につり下げるわけである。

 次に、劔神社の梵鐘の音色は、どのようなものだったのか。梵鐘は昭和44年(1969)の宝物殿建築にともない、ひと目に付くことは少なくなった。これまで宝物殿で大事に保管されていたため、梵鐘を鳴らすことはできないし、その音色を聞くこともない。その後、『日本の名鐘』というカセット付の本に、梵鐘の音色が収録されていることを知った。録音されたものだが、からりとした甲高い音色であった。その音色は最も格式の高い、黄鐘調(おうじきちょう)だという。

 黄鐘調といえば、吉田兼好が『徒然草』で紹介した妙心寺の梵鐘の音色が有名である。黄鐘調とは、12律の第八音葉を主音とする調子で、律旋(りっせん)の配列になっている。その音階が醸し出す雰囲気から、季節では夏の調子とされる。黄鐘調といえば、西洋音楽のイ短調(A minor)の自然短音階とほぼ同じだ。イ短調の曲をあげれば、ロックではX-JAPANの「Rusty Nail」、演歌では石川さゆりの「津軽海峡冬景色」、Jポップではポルノグラフィティの「アポロ」、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」などがある。どこか切なく悲しげな曲調だ。

 梵鐘が織田盆地に鳴り響いていたことを思うと、1250年近くの歴史の重みが感じられる。その音を想像しながら手を合わせると、どこかからりと晴れた空のような心地になるだろう。

竜頭
竜頭

(3)梵鐘には予知能力があった

  月いづこ 鐘はしづみて 海の底

 元禄2年(1689)、松尾芭蕉が金ヶ崎(かねがさき)(福井県敦賀市)で吟じた俳句である。句中に出てくる鐘は、かつて敦賀湾沖合に沈んだ鐘のことで、金ヶ崎の地名由来になっている。じつは、その沈んだ鐘というのが劔神社所蔵の梵鐘(国宝)とも関係があるという。劔神社の縁起が記された『織田大明神記録』(劔神社所蔵)には、「神護景雲年中豊後国より釣鐘弐(ふた)つつり剣大明神に奉納する海上において、越前金ヶ崎に一とつりハ沈、是故に後代是処を鐘ヶ崎と云、当社釣鐘則是なり」とある。

 神護景雲年中とは767~770年のこと。豊後国より運ばれた釣鐘は、もともと2つ存在していたが、剣大明神に奉納する際に、海上においてひとつが沈んだことから、のちにこの場所を金ヶ崎という呼ばれるようになったという。また、鐘の岬では漁師は常に沈んでいる鐘を見ることができるが、この鐘を引き揚げようとすると、恐ろしいことが起きたので止めたという伝承まで残っている。

 他にも沈鐘の伝承は数多く残る。池や淵などの水中から引き揚げられたり、竜宮から来たという不思議な内容をもつものもある。竜宮を含めた水中や死者の宿る地中は、異世界という認識があった。川や海に死者が葬られ、様々な供物が流されたりするので、この世とあの世の接点と考えられている。竜宮といえば、人ではないものたちの住む水の世界でもあった。そして地中も、死者の世界や黄泉の国や地獄が存在した地として認識されていた。

 これは、鐘があの世・異界・他界から現世に出現した、もしくは鐘は2つの世界を繋ぐ能力をもつ特別な器具で、普通の人間が簡単につくり出せるようなものではないという意識が存在したことを示している。それに関連した伝承が劔神社の梵鐘にはある。

 まず、災難の予知についてである。火事や水難が起きるとき、その方角にむかって鐘の表面が湿気を帯び、雫が垂れることがあり、その落ちた位置から判断して災難などが起こる方角を占ったのだという。次に、お守りとしての効能である。梵鐘には「火伏せの鐘」という別称がある。戦国時代の武将たちが参拝のおりに、鐘の銘文の箇所を拓本にとって持ち帰り、家臣に与えて火伏せの護符としたという。梵鐘に秘められた力の恩恵にあやかろうとしたのだろう。

 これらの伝承から梵鐘のもつ興味深い性格が読み取れる。それは、災害の予知と防火・防水など水にかかわる点である。予知にかかわる点では、本来人がつくりあげたはずの梵鐘がその効力を宣伝するために、いつの間か他界からこの世に出現したものとされ、それゆえ鐘はあの世とこの世とを繋ぐ能力をもつと意識されたようである。いわば神仏からのメッセージが伝えられる道具としての機能をもっている。

 加えて、水にかかわる点では、梵鐘のもつ水神の性格と関係している。全国に残る伝承を調べると、梵鐘は雨乞いに用いられたものもある。梵鐘が竜の子として認識されたこととはその証といえる。竜といえば、雨を司る神の思想があるので、竜ゆかりのある梵鐘に雨乞いや水にかかわる内容があっても不思議ではないだろう。

金崎宮から見た敦賀
金崎宮から見た敦賀
海に沈んだ梵鐘の記述(『織田大明神記録』)
海に沈んだ梵鐘の記述(『織田大明神記録』

3 梵鐘にまつわるエピソード2

(1)銘文をもつ国宝の梵鐘

 全国には飛鳥・奈良時代の梵鐘が16口残っているという。なかでも、紀年銘をもつものは4例しか存在していない。飛鳥時代の1口、奈良時代の3口である。ここでは古い順から3つを紹介しよう。

 その前に、梵鐘の渡来に関する最初の記事は『日本書紀』にあり、大伴狭手彦が欽明天皇23年(562)に高句麗から日本に持ち帰ったとあるが、現存する梵鐘でこの時代のものは発見されていない。

 それでは、現存する銘文をもつ梵鐘をみてみる。

 ひとつ目が、妙心寺(京都府京都市)所蔵の飛鳥時代の梵鐘である。口径86㎝、総高151.3㎝をはかり、鐘の内面には、「戊戌年四月十三日壬寅収 糟屋評造舂米連広国鋳鐘」と鋳出されている。戊戌年は文武天皇2年(698)で、筑前糟屋評は現在の福岡県福岡市東区付近にあたる。日本製のなかで、製作年代だけでなく、製作地や製作者の明らかなものとしては最古である。その音色も有名である。雅楽の黄鐘調に合うことから、「黄鐘調の鐘」として知られている。このことは吉田兼好の『徒然草』にも述べられている。

 余談になるが、これに匹敵する古い梵鐘は、ほかにも存在する。銘文はないが、飛鳥時代とされる2つの梵鐘である。ひとつが、福岡県太宰府市の観世音寺所蔵の梵鐘である。口径86.3㎝、総高160.5㎝をはかる。妙心寺の梵鐘より若干大きく、兄弟鐘だと言われている。もうひとつが、奈良県葛城市の当麻寺所蔵の梵鐘である。口径86.7㎝、総高150.6㎝をはかる。銘文はないが、妙心寺のものと同時期か、その数年さかのぼる製作日で、681年頃と推定されている。

 さて、銘文をもつ2つ目が、奈良県奈良市の興福寺所蔵で、奈良時代前期の梵鐘である。興福寺の子院、観禅院に伝来したものである。口径89.2㎝、総高149㎝をはかる。撞座の位置が高く、竜頭と撞座が平行に取り付けられるなど、奈良時代の特徴が認められる。銘文には神亀4年(727)の年号や銅と錫との比率が刻まれる。梵鐘の基準作であり、銘文をもつものとしては2番目に古い。

 3つ目が福井県越前町の劔神社所蔵の梵鐘である。先に紹介したので詳細は省くが、口径73.9㎝、総高109.9㎝をはかり、草の間の第一区に銘文が鋳出される。黒光りする表面には、はっきりと文字が浮かぶ。銘文は横11㎝×縦14㎝の枠のなかに、「剣御子寺鐘/神護景雲/四年九月十一日」とある。陽刻で、3行16文字が刻まれる。1文字は、だいたい横3.0㎝×縦2.5~3.0㎝角におさまる。

 神護景雲4年は770年となるので、奈良時代後期にあたる。銘文をもつものとしては3番目に古い。奈良・京都・太宰府などの寺院に存在するのはわかるが、劔神社の場合は北陸の玄関口にあたるものの、山塊に画された越前国である。とくに、織田は日本海には近いが、北陸道から離れた丹生山地の中程に展開する小盆地である。

 このような地にあること自体が異例といえるが、越前国の式内社の約3分の1が敦賀郡(織田あたりを含む)に集中することを踏まえると、越前の宗教的な重要性を示すひとつの証ともいえる。逆に解すれば、山奥に存する剣という地域神に、律令国家が重視せざるを得ない何かの理由があったともとらえられるだろう。

梵鐘の銘文
梵鐘の銘文
梵鐘の銘文
梵鐘の銘文

(2)明神ばやしの太鼓と梵鐘の音色

 福井県・越前町の明神ばやし保存会が、平成27年(2015)2月21・22日開催の「第15回地域伝統芸能まつり」のイベントに出演を果たした。地域伝統芸能まつりとは、全国の地域伝統芸能と古典芸能が一堂に会し、NHKホールで日頃の成果を披露するという行事である。今年は「咲(わら)う」がテーマで、全国10の地域伝統芸能の団体などが出演していた。

 「オイ!出て来いやぁ!」の掛け声とともに、元気よく子どもたちが飛び出し演奏をはじめる。明神ばやしは、もともと劔神社に奉納される太鼓で、寛文3年(1663)に再興の記録があることから、織田の伝統芸能として古くからおこなわれていた。地元では「台ずる」ともいい、昭和46年(1971)4月16日には県の無形文化財に指定された。

 その由来をさぐると、織田地区において豊年が3か年続いたとき、御幸(おわたり)大祭が開催されたという。この期間中には神輿や獅子舞などの行列が村内を練り歩き、その先頭と後尾の屋台の上で、大人組と子ども組が交互に台ずるを打った。現在の明神ばやしは御幸大祭から切り離され、公演するようになったものである。

 「御輿渡御再興連判状」によると、寛文3年(1663)に御渡式とあるのが最も古く、それ以前の記録は残されていない。近年では平成20年10月に開催された。神輿の頂上には青い雉(剣神)と、白い雉(気比神)がのる。この神輿を中心に前には鉾をもつ一群、後ろには馬に乗った宮司などが長い行列をつくり、53か村を練り歩く。一説には蒙古撃退の戦勝パレードとも言われている。

 さらに織田は、福井県の風物詩ともなっている太鼓の祭典「O・TA・I・KO響」が有名だ。織田の「OTA」、明神の「お太鼓」と大太鼓、「織田へ行こう」をかけている。織田は太鼓だけでなく、国宝の梵鐘があることでも知られている。先に、沈んだ鐘の話を取りあげ、鐘は異世界から現世に出現した、もしくは鐘はこの世とあの世を繋ぐ能力をもつ特別な器具だと述べた。その関連でいえば、昔は神隠しにあった人を探すのに鐘だけでなく、太鼓を鳴らして探したことが民俗事例で分かっている。

 神隠しとは、本来人間が神や天狗・妖怪など異界・他界の住人によって、彼らの世界へさらわれることである。むかしの人々にとって、ついさっきまで一緒にいた人の姿が急に見えなくなったり、行方不明になることは人の意志による行為ではなく、異界・他界の住人の仕業だと考えられていた。

 神隠しにあった者を探すためには、この世からあの世に連絡を取る必要があった。そのために用いられたのが鐘や太鼓だったという。鐘や太鼓などの音は、2つの世界をつなぐ効果があるとされた。これらの音ならば他界にいる神隠しにあった者に届き、この世とあの世をつなぐ音の力によって、この世に引き戻すことができたと考えられていたのだろう。

 また、劔神社の近くに「辻」地区がある。そもそも辻とは、道路が十文字に交差している所で、霊と関係をもつ場とされている。高取正男は、辻が物心両面において未知とのもっとも直接的な第一次的な接点で、この世におけるあの世の露頭であったと述べる。

 このように辻とは、古くから霊の集まりひそむ特殊な場所で、霊の閉じ込められた地との認識があった。集まり来る霊は、悪鬼・善鬼や様々な妖怪、さらには神をも含まれていた。そして、ひそむ霊は人の通る道を使って集まるので、病気をもたらす悪霊の一部も、その地を中心にしながら移動すると考えられていた。

 悪霊がもたらすものは疫病である。疫病の流行は、前近代において集落の存亡にかかわりかねなかったので、その対策は地域全体でなされていた。疫病を流行させないためには、原因となる悪霊を集落に入れなければいいので、道を伝わってやって来る悪霊を入口で追い返すための呪術もおこなわれていた。あたりに響き渡る梵鐘の音色と、明神ばやしによる太鼓の囃子。人々はそれらを見聞したとき、なにを思い、なにを感じていたのだろうか。

(3)剣神の力と道鏡の失脚

 奈良時代の正史である『続日本紀』宝亀2年(771)10月16日条には、「詔して越前国従四位下勲六等剣神に食封二十戸と田二町を充てる」とある。越前国の剣神に封戸20戸と田2町の俸禄を与えられた記録である。

 剣神とは、越前国に鎮座する劔神社の神とみられ、しかも従四位下勲六等と前書きがある。つまり、従四位下の位階と勲六等の勲位を受けていて、その時期は771年以前であったことが分かる。

 それでは、神階奉授のきっかけは何か。771年以前といえば、劔神社の梵鐘の銘文に記された神護景雲4年が前年であり、光仁天皇が寄進したとの逸話もあることから、西暦770年のことと考えられる。

 注目すべきは勲六等である。剣神に対して勲位が与えられたことを示している。勲位とは、勲功・武功に対して人に対して授与されるものであり、本来は神に対してなされるものではなかった。剣神の事例は記録上、神として初の叙勲となるので、全国数ある神々があるなか地域神としては異例のことになるだろう。つまり、770年頃に勲位が授与された理由があったはずである。推測の域は出ないが、ここではその理由について考えてみたい。

 まずは、劔神社に伝わる梵鐘の伝承を取り上げる。それは梵鐘が光仁天皇の奉納であり、その使者として藤原雄田麻呂(のちの百川)がやって来て、しかも梵鐘の銘文は吉備真備の筆だというものである。なにより奉納の理由が興味深い。称徳天皇のころ道鏡が政治に関与し、法王までのぼりつめたが、白壁王(のちの光仁天皇)はその事態を危惧し、密かに藤原雄田麻呂を使わし、国家安泰と道鏡失脚の祈願を剣神に対しておこなったという。じっさい歴史的事実として道鏡が失脚したので、この伝が正しければ梵鐘の奉納はその成果品ということになる。

 その信憑性については判断が難しい。銘文には神護景雲4年と刻まれていて、奈良時代から守り続けている社宝であるので、その権威づけとして梵鐘の年号と、『続日本紀』の記述をもとにつくりあげた逸話と解することもできる。

 しかし、それでは神として歴史上初の勲位を受けるなど、厚遇の理由が説明できない。荒唐無稽と切り捨てるのは簡単だが、その逸話にはどこか真実を含んでいるようにも思える。そこで、『続日本紀』をもとに770年8月以降の出来事を時系列で追う。

 8月4日、称徳天皇の没後、白壁王が皇太子となる
 8月21日、道鏡が下野薬師寺に左遷される
 8月22日、藤原雄田麻呂(百川)が越前守を兼任する
 10月1日、白壁王の即位と宝亀元年(770)の幕開けとなる

 そして翌年の771年10月16日条、越前国従四位下勲六等剣神に食封20戸田2町を充てるの記事になる。そこへ銘文の9月11日をあてはめると、道鏡の下野左遷と白壁王即位との間にあたる。異例ともいえる梵鐘の寄進と、剣神への神階奉綬が一連の流れでとらえられる。とすれば、雄田麻呂(百川)らの計らいにより、本当に剣神が道鏡の失脚に関与したのではないかとの憶測も生まれてくる。

 しかも、藤原雄田麻呂の越前守兼任というのも、どこか示唆的である。これらの政治的な動きに劔神社との関連性を認めたいところだが、かりに道鏡失脚の祈願をおこなうにしても、なぜ全国の名だたる有力神ではなかったのだろうか。

 律令国家は、770年8月1日に伊勢神宮に幣帛(みてぐら)と馬2匹、若狭彦神と八幡神にも馬1匹ずつを奉納し、8月2日に越前の気比神と能登の気多神に奉幣をおこなう。浅香年木によると、これらの奉幣は称徳天皇の不予(ふよ)(天皇の病気のこと)のための祈願という。その祈願もかいなく、8月4日に称徳天皇は崩御してしまう。

 天皇の不予という国家緊急の事態に、臨時奉幣の対象とされた5社は称徳天皇側、あくまで体制側からの祈願であるので、全国の名だたる有力神が選ばれるのは当然である。ただし、5社のなかに北陸道の3社が含まれることは、本地であることも含めて検討すべき課題であろう。

 さて、ここからは想像になるが、藤原雄田麻呂(百川)らの悲願は政権奪取であり、道鏡の失脚にあった。しかし、山林修行もこなしていた道鏡は強力な呪力を有していた。当時の感覚でいえば、それを封じ凌駕するには強力な神威の力と、道鏡と対抗できるだけの特別な霊験が必要であった。とくに、なんの理由もなく正史にあらわれる剣神の記載であるが、梵鐘の年月日が道鏡の失脚と一連の政治的な流れのなかでとらえられる点が偶然の一致としてはできすぎである。

 しかも、越前国の剣神が有力神ではないことに、ひとつ意味があったのかもしれない。剣神は初期神宮寺(剣御子寺)が建立された地域神としても知られている。最近の研究によると、神宮寺の創建は仏の力による神の神威を増幅させる効果も期待されているので、初期の神宮寺を建てることができた地域神に対して、特別な霊験や神助を期待していたとしても不思議ではないだろう。

梵鐘と銘文
梵鐘と銘文

4 梵鐘の系譜はどこに?

 奈良時代の梵鐘は撞座の位置が高く、竜頭の長軸線と直角の位置に撞座が設けられるのが特徴である。その点で劔神社の梵鐘は奈良時代の特徴を有するが、湯口の配置については、平安時代前期の傾向が認められる。ここでは、湯口に注目して、そこから分かる工人の流派の点から劔神社の梵鐘を位置づけていく。

 まず、湯口とは青銅を流し込む長方形の穴のことである。梵鐘が仕上がったとしても、湯口の痕跡は残ることが多い。場所は梵鐘の上部で、笠形に属している。笠形とは竜頭と鐸身をつなぐ部分である。五十川伸矢氏は、湯口の形態をA~D類に分類したが、話の展開上、A類とB類の説明を加える。

 湯口A類とは、笠形上の鐸身近くに長方形の湯口が2か所あり、竜頭の長軸線と湯口の長方形の長辺がほぼ平行するものである。このタイプは圏線の外側に位置するのが特徴である。圏線とは竜頭を取り囲む段状の区画のことである。

 湯口B類とは、笠形上に長方形の湯口が2か所あり、竜頭の長軸線と湯口の長方形の長辺が直交するものである。このタイプは、圏線の外側にあるもの(B1類)と、圏線の内側にあるもの(B2類)が認められる。ちなみに、劔神社の梵鐘はB1類である。よく見ると、鋳出したときの湯こぼれの跡も見て取れる。

 まとめると、湯口A類は竜頭の長軸線に対して平行、湯口B類はそれに直交することになる。こうした配置の違いは梵鐘を製作した鋳造工人、つまり鋳物師の流派や時代の違いに起因するものと見られている。また、梵鐘の形態や文様意匠を検討した杉山洋氏は、北九州・奈良・京都から発展した河内などの流派の存在について言及した。とくに、湯口の形態については流派にうまく対応するという。

 A類は7世紀末に位置づけられる最古の梵鐘から、8世紀にわたるもので、北部九州に本拠を置いた工人と、奈良の工人の流派とされる。B類は劔神社の梵鐘に始まり、9・10世紀に多く認められる。奈良より京都を中心に分布するため、A類に遅れて新しく成立した京都周辺に本拠を置く工人と、その系譜を引くいくつかの流派ではないかという。

 つまり、A類は北部九州と奈良の流派、B類は京都の流派とその系譜の流派に比定できる。

 次に、湯口の配置をみてみる。A類・B1類は笠形下部の位置に比べ、B2類・C類・D類は笠形上部でも竜頭に近い位置である。また、湯口の位置は平安時代になると、完全に上昇して竜頭に近づく。この方が鋳造上、熱効率がよいらしい。こうした傾向は、いわば改良型で、製作上の技術革新としてとらえられる。

 それでは、劔神社の梵鐘(B1類)はどうか。湯口の配置は笠形の下部に位置するA類でありながら、湯口の方向は竜頭の長軸に直交するB類である。A類とB類の折衷型といえる。しかも、劔神社の梵鐘は770年の紀年銘ずあるので、製作時期が押さえられる。つまり、奈良時代後期にB類の最も古いタイプ(1類)が登場し、北九州・奈良の流派から京都の流派への過渡期に位置づけられるのである。

 その背景には、光仁天皇による新王朝の樹立と、その息子の桓武天皇による平安京遷都が影響していないだろうか。光仁・桓武朝を天武天皇の系統から脱した、天智天皇系の新王朝ととらえるならば、折衷型が生まれた契機として京都系の技術者集団が組織化され、その集団が関与した可能性が指摘できる。それは梵鐘にみる技術的な萌芽期が、光仁朝の頃にうまく重なるからである。

 なお、繰り返すが、劔神社の梵鐘には光仁天皇の奉納という伝承がある。梵鐘の湯口の系譜を併せて考えると、劔神社の秘められた歴史が浮かび上がるようで興味深い。

梵鐘の湯口
梵鐘の湯口