織田文化歴史館 デジタル博物館

1 劔神社の歴史

(1)由緒

 越前二宮・劔神社は福井県丹生郡越前町織田に所在し、織田盆地のほぼ中心に鎮座している。織田盆地は日本海に接する丹生山地の中部に位置し、丹南盆地など内陸部を結ぶ交通の 要所でもある。劔神社の古伝によれば、第7代の孝霊天皇の御代、伊部の郷の住民が座ヶ岳(標高390m)の峰に素戔嗚尊の神霊を祀ったと伝えられる。

 その後、第11代の垂仁天皇の御代に、伊部臣という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が鳥取川上宮で作らせたという御剣を、素戔嗚尊の御霊代(御神体) として奉斎し、「剣の大神」と称えて崇めたと伝えられる。伊部臣とは、第5代の孝昭天皇の第1皇子の天足彦国押人命(あめたらしひこおしひとのみこと)の子孫であるといわれ、伊 部氏の長となり、代々伊部臣と称したようである。

 また、劔神社は仲哀天皇第2皇子である忍熊皇子が、座ヶ岳の剣大明神を現在の地に遷し祀ったことにちなむ。座ヶ岳は劔神社の元宮という位置づけで、両者には深い関係性が認め られる。嘉暦3年(1328)書写とされる『剣大明神縁起』では天利劔尊(忍熊皇子)、『織田剣大明神記録』では日本武尊、『越前国名蹟考』(江戸時代後期)では剣彦命(素戔嗚尊の 御子)と忍熊皇子など祭神は交錯しているが、忍熊にまつわる記述の占める割合は多い。古くから忍熊皇子が祭神として認識されていたようである。

 『延喜式』神名帳には「剣神社」とあるが、祭神までは不明である。現在の祭神は、素戔嗚大神(すさのをのおおかみ)・気比大神(けひのおおかみ)・忍熊皇子(おしくまのみこ )である。劔神社は昭和3年(1928)に国幣小社、第2次世界大戦後は神社本庁の別表神社となった。

 一方、摂社である織田神社は、保食神(うけもちのかみ)[豊受大神]、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)[仲哀天皇]、誉田別尊(ほんだわけのみこと)[応神天皇]であ る。末社の稲田姫神社には奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、同じく薬師神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)、同じく小松建勲神社には平重盛公と織田信長公が祀られて いる。


座ヶ岳

劔神社 元宮


劔神社境内

織田神社

(2)高い神階奉綬の理由

 奈良時代の国史『続日本紀』宝亀2年(771)10月16日条には、越前国に鎮座する従四位下勲六等の剣神に、食封20戸の封戸と田2町の位田を充てるとの詔がある。一地域神に俸禄 が与えられた記録であるが、国史における越前国剣神の初出である。剣神の上に位階(いかい)が付されるので、それ以前に「従四位下 勲六等」を受けていたことがわかる。しかし、奉 授の理由は一切記されず、時期も771年以前としかわからない。

 神階は従四位下と高いもので、その早さの点が強調できるが、勲位(くんい)は神として初の点でも注目される。何に対する勲功で、奉授時期など『新抄格勅符抄』所引の大同元年 牒にある剣御子神の記載を含めて考えると、神名など、いくつかの疑問点が生じる。加えて、梵鐘のところで触れたように当時の政治的な背景を踏まえると、国史のわずかな記述とはい え異例なことである。また、剣神は奈良後期の記録には登場しないので、無名の一地域神が突如として国史にあらわれたことになる。

 しかも、越前国剣神としか記されないが、『延喜式』巻第10 神名下 収載された敦賀郡の剣神社と考えられる。江戸時代から論社となっているが、福井県丹生郡越前町織田に鎮座す る越前国二宮の劔神社が奈良時代の梵鐘(国宝)や劔神社文書(福井県指定文化財)など貴重な文化財を有する関係上、その有力候補とみられる一方で、敦賀市莇生野の劔神社に比定す る説もある。

 しかし、これは古代敦賀郡の領域が、どこまで及ぶかの議論と関係している。敦賀郡とは、一般的に現在の敦賀市域と考えられがちだが、じっさいは越前町の織田盆地がその領域に 含まれることは古くから指摘されている。吉田東伍は『大日本地名辞書』「伊部郷」の項で、「白山村織田村及び城崎、四箇浦、常磐の数村是なり、北は越前岬越知山に限り、山谷頗広 く、沿海亦三里許」、「丹生岳」の項に「和名抄、敦賀郡伊部郷と云ふは此山より越智岳の間、西は梅浦までを指したるごとし」と述べる。また、北境の参考として『福井県史』には、 中世における気比神社の社領が丹生郡西部域に沿って展開し、敦賀中枢部の影響力が海岸部に浸透しているとある。

 これらの見解にもとづくと、敦賀市と北に接する南条郡南越前町、その北に位置する丹生郡越前町の西半分を含み、最北限は福井市と越前町との境、越知山から織田盆地まで及んで いたと推測できる。こうした郡域は、奈良時代にさかのぼる可能性が高いが、最大の根拠として『延喜式』巻第10 神名下に収載された敦賀郡「伊部磐座神社」の存在がある。

 その社名から伊部郷の地にある磐座をもとにした神社で、伊部氏の奉斎した神社の鎮座地とみられる。磐座といえば織田盆地北部に越前町岩倉の地名がある。その裏山は石切山と呼 ばれ、中世には良好な石の産出地で、軽石の切石が越前窯体の強度・耐久性を高める口石に用いられる。岩倉の北境は、越前町の糸生地区(旧 朝日町)と接し、古代の丹生郡との境界に も相当するので、伊部にある磐座神社は磐境祭祀ととらえられる。

 加えて、関連するのが『日本三代実録』貞観15年12月癸巳条に登場する越前国敦賀郡の伊部氏である。越前国敦賀郡出身で、右大史正六位上の伊部造豊持が飯高朝臣の姓を賜うとの 内容である。貞観15年(873)の記事であるので、9世紀における伊部氏の足取りが知り得る。『新撰姓氏録』山城国諸蕃によると、「伊部造 出自百済国人乃里使主也」とあり、百済国 人の乃里使主で、渡来系氏族の子孫とみられる。

 じっさい織田には渡来系氏族関連の考古資料が存在する。伊部と忌部は別系統とみられるが、剣神社の歴代の神官は忌部氏であるので、かりに伊部氏が斎戒を意味する忌部に由来す れば、中臣氏とともに朝廷の祭祀を担当した中央氏族との関係が指摘できる。ちなみに、伊部郷は天平神護2年(766)「越前国司解」に記載があり、その存在が明らかになっている。

 次に郡の北東端を考えてみる。そこで重要な考古資料を取り上げる。越前町佐々生の佐々生藪田遺跡出土とされる「敦賀」墨書土器である。佐々生は越前町の南東部に位置する3㎞ 四方の小盆地の集落で、東端は三床山の頂上を境に鯖江市と接し、その北側に展開する尾根先端には佐佐牟志神社が鎮座している。盆地の北側には八王子山古墳群、西側には佐々生窯跡 が展開するが、佐々生藪田遺跡は小盆地の中心部に位置している。

 発掘調査の報文には「敦賀」墨書土器が出土したとあり、『福井県史 資料編1』「県内出土墨書土器一覧表」に収録される。遺物は行方不明だが、白黒写真は残る。その観察から 無台杯で、底面の真ん中付近に「敦賀」と細字で記される。底部の調整はヘラ切りのままで、奈良時代のものに比べ小ぶりな感じから9世紀前半に比定できる。『続日本紀』和銅6年 (713)5月甲子条に「畿内七道諸国郡郷名、着好字」とあるので、行政地名の改正により「角鹿」から「敦賀」に改められたと考えるので、遺物が9世紀であれば年代的な齟齬はない。

 もし人名ならば氏族名を指し、地名ならば佐々生の地が敦賀郡の一部であったことになるが、墨書土器は移動するモノなので、あくまでも参考資料という程度にとどめたい。

 次に、佐佐牟志神社の鎮座地をもとに検討する。『延喜式』巻第10 神名下の丹生郡に収載されるので、佐々生は丹生郡との意識が強くあった。集落の一部が敦賀郡に含まれるとす れば、越前町の佐々生付近は郡境ということになる。三床山西側の山中には巨岩が20基ほど存在し、磐座・磐境祭祀を執りおこなった可能性も指摘できる。

 また、社伝によれば、もともと三床山の山頂に鎮座したとあるので、南北の尾根筋が郡境に想定できれば、その西麓から小盆地にあたる佐々生の集落自体が敦賀郡に属したととらえ られる。加えて、『上坂津右衛門家文書』「氏子村々廻状」、『北野七左衛門家文書』「剣大明神氏子村手鉾寄進帳」に記された剣神社氏子53か村の広がりも参考となる。その分布は、 越知山西方の越前海岸から越前町織田地区北端、朝日地区の南西部にかけての範囲で、佐々生村と隣接する青野・頭谷・朝日の三区は東端にあたる。敦賀郡の西限とみれば丹生郡との郡 境が佐々生付近に想定可能である。

 まとめると、平安時代末期における分郡の関係で、織田盆地一体は丹生北郡に所属することになったが、『延喜式』の完成する10世紀前葉までは敦賀郡であり、奈良時代でも同じ状 況とみられる。つまり、敦賀郡域は越前国の西部に及び、海岸部を取り囲む両翼のように展開する。北端については、丹生山地西部の越前岬から越知山までを結ぶ織田盆地の北境で、平 成の合併前の織田・朝日の町境でもある。古代の伊部郷は越前町織田地区を包括し、北境に伊部磐座神社の鎮座が想定できるので、織田盆地が古代の丹生郡であった可能性は低い。とす れば、剣神を現在の敦賀市内でとらえる必要はなく、織田盆地に鎮座する劔神社であったとしても不自然なことはない。


越前の各郡と敦賀郡各郷の位置

「敦賀」墨書土器

(3)剣神・剣御子神と忍熊王

 さて、梵鐘奉納の1年後、宝亀2年(771)10月16日、越前国従四位下勲六等の剣神に食封20戸、田2町を与えた記事がある。宝亀元年(770)10月1日、光仁天皇が即位したことか ら治世2年にあたる。光仁天皇は天智天皇の孫で、即位前は白壁王と言った。聖武・称徳天皇などの天武天皇系が隆盛を極めていたが、白壁王が脚光を浴びることで、天智天皇系が政権 に返り咲く。

 劔神社と光仁天皇とのつながりは深い。劔神社の梵鐘は光仁天皇が神馬とともに奉納したとのいわれがあり、劔神社が道鏡失脚に功績のあったからだとする。しかも、そのときの使 者が藤原雄田麻呂(百川のこと)で、梵鐘の銘文は吉備真備の筆だという。光仁天皇による梵鐘奉納は梵鐘のところで触れたが、かなり信憑性の高い伝承だと考えている。

 さて、従四位下勲六等とあるので、剣神が771年以前に位階と勲位を受けており、その時期は梵鐘奉納(770年)のときとみている。つまり、剣神への神階授与と梵鐘奉納は同時期だ った可能性が高い。剣神への神階授与は早い段階のもので、勲位に関しては神として最古の事例となる。

 また、剣御子神には宝亀3年(772)に20戸、天平神護元年(765)に10戸の封戸が与えられた。じつに、765年から772年までの8年の間に剣神社関係の記事が集中する。これは剣神 ・剣御子神が優遇されたことを物語る。称徳天皇没後から道鏡の失脚と光仁天皇の即位、梵鐘の奉納と勲位授与などの一連の過程を検討すると、梵鐘のところで触れたように剣神が道鏡 失脚事件に関与したことを思わせてしまう。それから貞観元年(859)には正四位下に格上げされることになる。

 時系列で整理すると、770年の「剣御子」(劔神社の梵鐘)、771年の「剣神」(『続日本紀』)、八五九年の「剣神」(『日本三代実録』)、765年、772年の「剣御子神」(『新抄 格勅符抄』)、927年の「剣神社」(『延喜式』巻第10 神名下)である。

 つまり、『六国史』『延喜式』は「剣神」、それ以外の史料は「剣御子」「剣御子神」とあり、国史などでは「御子」が省略される。別々の神か同一の神かが問題となるが、本来的 には同じ神であり、表記上の違いとみている。梵鐘の銘文からいえば、剣御子神が劔神社に鎮座する神の名で、正式には剣御子神社だったようにと思う。森浩一氏が述べるように、国史 編纂時に「御子」の2字が意図的に省かれた可能性が高い。その理由は剣御子の人物像と関係する。氣比神宮との関係と劔神社の縁起や社伝を重視すると、剣御子は忍熊王を指すと考え られる。

 『日本書紀』にもとづき、忍熊王の晩年を整理する。仲哀天皇皇子の麛坂(かごさか)王と忍熊王は仲哀天皇の崩御や新皇子(誉田別尊)の誕生を聞き、幼王に皇位が決まることを 恐れて挙兵する。武内宿禰や武振熊の軍勢との戦いで麛坂王は戦死、忍熊王も謀略にかかり逢坂で敗れる。逃走の果て忍熊王は瀬田川に投身、遺体は数日後に宇治川から発見される。

 忍熊兄弟の末路だが、『織田剣大明神記録』には話の続きがある。忍熊王は越国に入り敦賀より舟で北行、海浦(現 越前町梅浦)に至った。そこで郷民より営地に凶賊多く、その 平定を請われた王は苦戦のあと平定に成功する。苦戦の際に素盞嗚尊の神助(霊剣の霊威)で危機を脱する。しかし、忍熊王は若くして亡くなったので、村人は哀惜追慕の念から神とし て祀った。つまり、剣をもった英雄が忍熊王で、剣御子の名はここに由来する。


劔神社縁起の舞台

(4)気比神と剣御子神の関係

 忍熊王は熊のつく勇ましい英傑の名であり、剣御子と呼ばれるにふさわしい。仲哀天皇は身丈10尺だというから親子ともに戦士のイメージが強い。しかも、日本武尊の第2皇子が仲 哀天皇、その孫が忍熊王なのである。彼らには不遇な死がつきまとう。仲哀天皇は神功皇后とその一派に殺害されたといい、忍熊王も正当な王位継承者にもかかわらず反逆者として葬り 去られた。

 その彼らから王位を受け継いだのが応神天皇である。父が仲哀天皇、母が気長足姫尊(神功皇后)とするが、異常に出産が遅れたことから異説もある。「是に皇后、大神と密事あり 」とした住吉大神を父とする見解もあるなど謎の多い人物である。出生の神秘性は応神天皇が前王朝とのつながりをもたない新王朝の開祖であったことを意味し、神功皇后とその一派に より皇位が奪われたことを物語るだろう。

 『日本書紀』には応神天皇にまつわる興味深い話がある。応神天皇が太子となったとき、敦賀の笥飯大神に参り、大神と太子は名を入れ替えた。大神を去来紗別神、太子を誉田別尊 と名付けたとあるが、元の大神の名が誉田別神、太子の名が去来紗別尊になるのか。

 『古事記』にも似た話がある。太子が禊のために角鹿の仮宮にいたとき、伊奢沙和気大神が夢に出てきて「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と言う。太子が承諾をすると、大 神は「明日の朝、浜に出なさい。名を変えたしるしの贈物をあげよう」と告げた。翌日、浜にはイルカが打ち上げられた。太子は「私に御食の魚をくださった」といい、その神の名を讃 えて「御食津大神」と名付けた。それが気比大神である。

 神功皇后が忍熊王兄弟を平定したあと、応神天皇が禊をしようと向かった敦賀で、気比大神と名前を交換した話である。応神の実在性の論議は別として、仲哀天皇とその息子たちの もつ王位継承権を得るという擬制的な継承行為が物語には込められている。そこで、非業な死を遂げた前王権の主要人物たちを祀り、その霊を慰撫する必要があったのではないだろうか 。それが気比神社と剣御子神社が重視されたひとつの理由とみている。

 いずれにせよ、その行為により応神天皇は正当性を得た。振り返ると、神功皇后による三韓征討から応神天皇の禊に至る一連の流れは敦賀に始まり、敦賀に終わるという物語で、 しかも応神天皇が気比大神と名前を交換するという不思議な内容に仕上がっている。それは敦賀が記紀のうえで、新しい王が誕生する場として設定された可能性が高い。応神天皇が起点 となり5世の孫として登場するのが継体天皇である新王朝を樹立した継体は越前を母体として6世紀に登場した大王である。その出自がかりに地方出身者であったとすれば、神功と応神 の説話は自らの正当化のため、新王朝の王が越前と何かしら関係するようつくられた話だったのかもしれない。

 いずれにせよ、気比神社に仲哀天皇、剣神社に忍熊王が祀られたとの認識は、少なくとも記紀編纂時の7世紀後葉から8世紀初頭にはできていたように思う。そのため正史に収録す るとき、こうした事実を隠すために「御子」を省略として剣神としたのかもしれない。繰り返すが、のちの気比神と剣神の厚遇の理由のひとつに思えてならない。


気比の松原

2 劔神社の神宮寺と神仏習合

(1)初期神宮寺の成立と神仏習合

 神仏習合とはなにか。神も仏も同じものとして、神祇信仰と仏教を調和させようとする考えである。奈良時代ごろから広まると、平安時代にはさまざまな神と仏とを結びつける本地 垂迹(ほんちすいじゃく)が説かれ、神社にも仏像を安置するようになった。なかでも福井県は神仏習合が進んだ地で、初期神宮寺にかかる創建譚(たん)で知られる。一般的に神社の 境内に建てられた寺院が神宮寺なので、その存在は神仏が習合した証ともいえる。なかでも最古級とされるのが、越前国の気比(けひ)神宮寺である。

 『藤氏家伝』下 藤原武智麻呂伝の一節に、つぎのように記されている。霊亀元年(715)、藤原武智麻呂(むちまろ)の夢のなかに奇人があらわれ、神となって宿業久しきものが あるから、仏道に帰依し福業を修行したい旨を告げてきた。夢が覚めて奇人が、もし神であるならば、その証拠を示して欲しいと願ったところ、久米勝足なる優婆塞(うばそく)を、神 力によって高い木の枝の先に置いたので、神の仕業であることを悟った。この奇人が気比神であった。

 つまり、気比神は神の身を脱するために寺院の造立を請われたことが縁となり、武智麻呂は神宮寺を造立したことになる。創建年代について確証はないが、武智麻呂伝の成立した天 平宝字4年(760)までに、由来譚が語られていたことは確かであり、越前の敦賀でいち早く神仏が混淆(こんこう)する徴候が認められたことを示している。境内からは奈良時代の瓦や 塔の心礎が発見されたというが、定かではない。

 一方、若狭国の若狭彦神願寺も記録に出てくる初期神宮寺である。9世紀末に編集された『類聚国史』の天長6年(829)3月条に次のように記されている。養老年間(717~724年 )、疫病蔓延により死者が多く出たうえ、旱魃(かんばつ)により穀物が不作となった。若狭比古神の直孫である和朝臣赤麿(やまとのあそんあかまろ)が、仏道に帰依して山岳で修行 を重ねると、これが若狭比古神に感じたのである。神は神託を下し、「この地はわれの住所である。われは、いま神身を受けて苦悩しており、仏法に帰依して救われたいと思う」と述べ た。

 赤麿は道場を建て仏像を安置した。それから赤麿は神のために修行を重ねていくうちに五穀は豊作になり、疫病で死ぬひともなくなったという。つまり若狭比古神が神の身であるこ とに苦悩し、仏法に帰依することで建てられたのが神願寺である。それが現在の小浜市の若狭神宮寺である。

 史料の示すとおり、養老年間とすれば710年代で、気比神宮寺の場合と近い時期となる。若狭神宮寺については小浜市教育委員会が発掘調査を実施し、区画石積・塔跡などの検出に 成功している。関連遺物も出土し、平城宮式の軒丸瓦も確認された。遺物は古代を中心に8、9世紀のものが大半だが、8世紀前葉の遺物も一部に含まれるので、縁起のとおり創建時期 を特定するまでには至っていない。

 ふたつの縁起に共通するのは、神が苦悩して仏に救いを求める、いわゆる神身離脱の内容である。神が仏に帰依するのは奇妙に思えるが、他にも多度神宮寺の『神官寺伽藍縁起并資 財帳』などに見え、8世紀成立の神宮寺の縁起に共通し、初期の神仏習合に見られる現象である。両社の事例は710年代後半で、他の地域神に先駆けた8世紀前半の段階で仏教との接触が おこなわれた点で注目できる。しかも両社は、若狭湾沿岸の比較的近い距離に鎮座する国を代表する地域神である。気比は越前一宮、若狭比古は若狭一宮である。仏教文化が発展し先進 地域であったはずの畿内には、同じような状況は認められないので、別の論理が働いたことが予想できる。

 本郷真紹氏は藤原氏との関係で考える。気比神宮寺の創建譚が『藤氏家伝』にあることは、藤原氏が北陸方面への勢力の拡張をもくろみ、そこに政治的・経済的理由が想定されるが 、同時に仏教思想の普及が藤原氏の果たすべき役割として強く意識されていたとすれば、北陸の宗教性に鑑みて文化的な理由も同時に考えられるのではないかという。また、武智麻呂を 通じて語られているばかりか、その子である仲麻呂が中央政界で台頭してくる過程で、北陸に集中して東大寺領荘園が設定され、のちに西大寺領荘園もこの地域に設けられていることに ついても、北陸の文化的特質により、その設営がスムーズに進む可能性が高いという判断に基づいてなされたものと推測されている。

 もちろん国分二寺の設置など、中央の政策にもとづき新たな文化が創出されたことも事実だが、ほかの地域と比較して中央の意向を受け入れるのに寛容な文化的土壌が存在していた ことは確かである。その意味で、文化的に中央と相互に影響し合う関係であったことが、北陸と中央との結び付きを強め、交流を盛んにした理由であったと考えられている。

(2)剣御子寺は日本最古級の神宮寺か

 気比と若狭比古、ふたつの神宮寺の創建譚を紹介したが、これらはあくまで文献上であるため、考古学的に立証できたわけではない。そこで、劔神社の境内に創建された剣御子寺の 考古学的な成果が、初期神宮寺の謎を紐解く、ひとつの鍵となるだろう。

 逵日出典氏によりまとめられた初期神宮寺事例一覧(7~9世紀で23例)には、劔神社の神宮寺は入っていない。しかも従来の研究史では、まったく取りあげられていない。しかし 、明らかに剣御子神社にともなう神宮寺を示した梵鐘銘文であるので、遅くとも770年の時点で神宮寺が存在していたことは間違いない。奈良時代後期となれば、けっして古くはない。逵 のリストに当てはめると、全国9番目の古さ、県下では3番目にあたる。しかし、それは、770年時点での存在を示しているので、あくまで下限に過ぎない。これまで劔神社の境内やその 周辺からは、考古資料が確認されているので、その成立がそれ以前に遡ることは間違いない。


全国の主要な神宮寺

 関連する考古資料には、境内に置かれた2点の礎石と、付近で焼かれた瓦があるので、詳細をみてみる。

 まず、拝殿に行くまでの左手に池があるが、そのほとりに丸い孔のあいた石が置かれている。いわゆる柱を載せる礎石で、不整形な柱座があり、中央に直径15㎝程度の孔をもつ。石 の表面を観察すると、柱座のあたりが赤く変色している。火災で焼失したが、その大半が埋没していたため、柱の載った部分だけが被熱を受けたものとみられる。

 こうしたあり方から塔の心礎(しんそ)で、小孔は舎利孔であった可能性が高い。礎石だと再利用などで移動することも想定できるが、もともと現在のトイレ付近にあったとも聞く ので、境内のどこかで使用されていたものであろう。また、拝殿西に鎮座する猿田彦神社へむかう参道の階段脇にも、柱座の外線に浅い溝のめぐる礎石が露出しており、心礎と同じよう な時期と考えられている。


心礎

 礎石の時期を判断する材料として、劔神社北東1㎞の地点で操業した越前の小粕(こがす)窯跡の瓦がある。2基(1・2号)併設の瓦陶兼業の窖窯(あながま)で、1号窯は床面 を階段状に造ることから瓦専用の窯であった。出土遺物は軒丸瓦・平瓦などの瓦や鴟尾(しび)、日常雑器としての須恵器(坏・長頸壺・鉢・甕など)が大量に出土し、円面硯や水注な どの道具類なども含まれていた。


小粕窯跡[町指定文化財]

 とくに、単弁六葉蓮華文の軒丸瓦は滋賀県の湖東に多い様式で、湖東式軒丸瓦とも呼ばれる。一部は湖北や美濃などに分布するが、北陸では小粕のものが唯一といえる。ただ近年、 長野県長野市の善光寺大本願境内(元善町遺跡)出土の単弁六葉蓮華文の軒丸瓦が、湖東式ということで話題になっており、分布域は広範に及ぶようだ。

 小粕窯跡の出土瓦については、年代を決める特徴的な須恵器(有鈕かえり付蓋など)が確認されないことから8世紀前葉、西暦710年代に比定できるが、それ以前に遡らせて考える のは難しいだろう。寺院の創建にさいして窯が操業したととらえれば礎石と瓦は同じ時期で、しかも瓦は礎石のある境内に供給された可能性が高い。こうした考古資料にもとづけば60年 ほど遡上し、気比神宮寺・若狭彦神願寺の創建譚に近い時期までせまってくる。

 創建にかかる壇越(だんおつ)については弥生時代以来、中墳墓群と中古墳群に埋葬された氏族だと考える。その系譜の特定は難しいが、秦氏(はたうじ)など渡来系氏族であった 可能性が高い。それは、小粕窯跡の湖東式が秦氏とのつながりを示すもので、じっさい丹生山地では渡来系遺物が出土し、奈良時代の史料に秦・曰佐(ひさ)などの渡来系氏族が確認で きることなども根拠とする。

 また、劔神社境内隣接出土の2点の陶質土器は、朝鮮半島の洛東江下流域東側あたりのもので、新羅ないし新羅の影響下にある地域で焼かれたとされる。ほかにも丹生山地では福井 市美濃峠古墳出土の陶質土器の高杯や、越前町番城谷山5号墳出土の陶質土器の大甕があり、いずれも新羅系とされている。日本海に面する丹生山地は、朝鮮半島南部ないし東南部地域 との強い関係がうかがえる。しかも、湖東式の密な分布は朴市(えち)秦氏の根拠地にあり、剣御子寺の創建時に採用されたのは渡来系氏族を介した技術交流も想定できる。

 境内に想定できる初期神宮寺の証明のために、越前町教育委員会が文化財悉皆調査の一環で劔神社境内の発掘調査を実施した。境内から小粕窯跡の瓦は出土しなかったが、埋土から は奈良時代後期の遺物は確認された。また、22,000㎡に及ぶ神林からはほとんど遺物が出土せず、古くから禁足地として認識され、杜として維持されていたことが判明した。境内に残る 寺院痕跡や奈良時代後期の遺物などを勘案すると、神地にともなう神宮寺が奈良時代に成立していた可能性は高いだろう。

 なお近年、劔神社南西1㎞の丘陵で、未発見の須恵器窯が発見された。須恵器は杯・皿・甕・壺などで、奈良時代後期に比定できる。西暦でいえば、梵鐘の紀年銘770年に近い時期 といえる。梵鐘の寄進がきっかけとなり、食器など日常雑器などの需要が高まった結果と考えられる。

(3)神宮寺創建に至る論理

 気多神社と剣神社の両社は、初期神宮寺の創建の点で注目できるが、ほかにも多くの関係性が指摘できる。劔神社所蔵の「劔神社古絵図」(室町時代)では、剣神の鎮座する御本社 の横に、ほぼ同規模の建物として気比社が描かれる。現在、劔神社の秋季例大祭や御幸大祭では、気比神と剣神の神輿がともに神幸する。蒙古襲来撃退を祝う戦勝パレードともいわれる 御幸(おわたり)大祭はその武神たる性格を示している。

 両神社の位置関係をみても、織田盆地北の座ヶ岳を基点として劔神社と氣比神宮は南北軸を意識した直線上に鎮座している。歴史上も気比神社には仲哀天皇、剣神社には忍熊皇子が 祀られ、気比の御子神のなかに剣神や天利剣神も存在する。これらを考えると、古くから両神の強い関係性がうかがえる。しかも、ともに奈良時代初頭に神宮寺が創建された可能性が高 い。なぜ越前国の敦賀郡なのかは、おそらく両社に合祀された天皇霊・皇族霊にあり、のちの氣比神宮と劔神社の厚遇とも関係している。


座ヶ岳と劔神社・氣比神宮の位置関係

 梵鐘の銘文を検討すると、剣御子とは剣御子神のことで、剣御子神社が鎮座したことを示している。嘉暦3年(1328)成立とされる「剣大明神縁起」を参考にすれば、仲哀天皇第2 皇子(御子)の忍熊皇子を指すものと思われる。『延喜式神名帳頭註』の「越前国風土記逸文」にあるように、気多神社には古い段階に仲哀天皇が合祀されたことは分かるが、気比の御 子神である剣御子神(忍熊(おしくま)皇子)も、同じような時期に劔御子神社(劔神社)に祀られた可能性が高い。

 つまり、気比神と剣神との関係は、そのまま仲哀天皇とその御子の忍熊皇子に対応している。問題は祀られた2人は、いささか問題があり、祟り性を帯びた取り扱いの難しい存在だ ったという点にある。

 『日本書紀』によれば、仲哀天皇は身丈10尺の武人であるし、忍熊皇子についても熊のつく勇ましい名前で、剣の御子にふさわしい。親子ともに戦士のイメージである。しかも、日 本武尊の第2皇子が仲哀天皇、その孫が忍熊皇子で、彼らにはともに不遇な死がつきまとう。仲哀天皇については神功皇后と武内宿禰の一派に殺害されたとの説があり、忍熊皇子につい ても正当な王位継承者にもかかわらず反逆者として葬り去られている。

 一方、彼らから王権を継承したのが応神天皇である。応神は父が仲哀天皇、母が息長足姫尊(神功皇后のこと)とするが、異常に出産が遅れたことから異説もある。先に触れたが、 『住吉大社神代記』には「是に皇后、大神と密事あり」とした住吉大神を父とする見解もあり、じつに謎の多い人物だ。こうした出生の神秘性は、応神天皇が前王権とのつながりをもた ない、新王権の開祖であったことを意味し、神功皇后とその一派に政権が奪われたことを物語るだろう。

 『日本書紀』には応神天皇にまつわる興味深い話がある。応神が太子となったとき、敦賀の笥飯(けひ)大神に参った。そのとき、大神と太子と名を入れ替えた。大神を去来紗別( いささわけ)神、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名づけたという。つまり本来、笥飯大神の名が誉田別神、太子の名が去来紗別尊だったということになる。『古事記』に似た 話がある。太子が禊(みそぎ)のために角鹿(つぬが)の仮宮にいたとき、伊奢沙和気(いささわけ)大神が夢に出てきて、「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と言う。太子が承 諾をすると、大神は「明日の朝、浜に出なさい。名を変えたしるしの贈物をあげよう」と言う。翌日、浜にはイルカが打ち上げられていた。太子は「私に御食の魚をくださった」と言う 。その神の名を讃えて「御食津大神(みけつのおおかみ)」と名付けた。それが気比大神である。

 いずれも神功皇后が忍熊兄弟を平定したあと、応神天皇が禊に向かった敦賀で、気比大神と名前を交換した説話である。応神天皇が仲哀天皇とその息子たちのもつ、王位継承権を得 るという擬制的な継承行為ともとらえられる。その行為により応神天皇は正当性を得ることになった。2人の実在性の議論はともかく、記紀上は忍熊皇子を倒して登場するのが応神天皇で 、神功とともに敦賀の気比と関わる内容に仕上がっている。

 その応神の五世孫が越前を母体とした継体天皇である。以後の王権が前王権の霊を恐れたことは充分に考えられる。それが後世の認識だとしてでもある。しかも、神功皇后と振媛、 応神と継体の系譜状の関係には共通性が認められるので、やはり越前の重要地である気比と即位前の応神をからめる政治的な意図があったのだろう。

 さて、こうした説話上の人物たちが、天武・持統朝には国家王権と関わりの深い神を中心に特定の社殿に定住して、縁の深い人物を守護する観念が定着し、御陵に宿って天皇を守護 する天皇霊も、国家守護神として創出されていった。こうした流れのなか、氣比神宮には大宝2年(702)の社殿修造とともに仲哀天皇などが合祀され、従四位下勲六等にみる高い神階と 初の叙勲を受けた越前国剣神についても、同じ時期に忍熊皇子を祀ったとみられる。ともに国家の守護神としての役割を担ったのか、それとも厄介払いされたのだろうか。両社に祀られ た経緯は、応神・神功の新王権の誕生によって、不遇の死を遂げた前王権の主要人物を、ある意味で追いやり、封じ込めることを意図して祀った可能性が高い。

 しかし、天武・持統朝を定点に常駐する国家の守護神が誕生したにもかかわらず、古代のカミが基本的に祟る存在としての非合理的な性格を脱することがなかった。とくに仲哀天皇 と忍熊皇子は祟り性を強く帯び、ほかの場合とは性格を異にしていた。ともに非業な死をとげ、現王権にとって危険性を帯びた人物だったからである。

 こうした認識があったので、忍熊皇子については正史収録のさいに御子の二字を削除し、剣神としたのである。それを祀る神社への高い神階奉授は当然の帰結で、厚遇の理由のひと つになったことは確実である。祟り、祀り、慰撫(いぶ)。敗者の霊ですらも、国家の守護神へと昇華させようとしたことのあらわれともいえる。

 次に、神宮寺創建にかかわった人物に注目する。剣御子神宮寺については考古学的な成果から神地の存在を根拠として奈良初頭に創建された可能性があり、気比神宮寺については霊 亀元年(715)、近江国司の藤原武智麻呂による創建譚があることは先に触れた。

 後者については最古級の神宮寺として研究史上でも知られるが、その存否に争点を絞ると、気比神宮寺を維持してきた有力氏族が、のちに政権を握った藤原仲麻呂と接触する目的で 工作したとの見解はある。しかし、なぜ霊亀元年に設定し、気比の名前を出すことができたのかという疑問があり、逆に710年代に存在したことを暗示している。

 710年代といえば、劔神社の神宮寺のほかに若狭比古神願寺にも養老年間(717~724年)の創建譚があり、いずれも国内最古級の事例として知られている。村山修一氏は、気比と若 狭比古の両社については地域的にあまり隔たらず、時代も相接するところから、両神宮寺設立には同一僧侶による神仏習合的教化活動があったと述べる。同一僧侶という表現が興味深い 。当時の僧侶といえば、白山信仰の祖、泰澄和尚がいる。

 まず、剣御子神宮寺については泰澄和尚の関与が考えられる。『泰澄和尚伝記』の記述によるが、越知山で修業していた時期と重なるし、泰澄和尚の実在性の議論については近年、 考古学的な証拠が数多く発見されている。なにより気比と剣の密な関係性を鑑みれば、同じような時期に村山氏のいう同一僧侶、泰澄的な人物が関与していた可能性が高い。

 若狭比古神願寺についても、泰澄の弟子である滑元の創建という寺伝が伝えられる。気比神宮寺や剣御子神宮寺などは、泰澄和尚がその創建に関与した可能性を考えておきたい。そ ういう視点で『気比宮社記』をみると、泰澄に関する記事がある。敦賀に鎮座する道後神社の記載のなかで、泰澄和尚が霊亀元年(715)氣比神宮に参籠して行法を勤め、道後神の神徳を 唱えて観世音菩薩を彫像したと記されている。これは泰澄による神仏習合の事例で、文献上の創建と同じ年代となる。武智麻呂伝にもとづく創作かもしれないが、社記の「旧記曰く」の 表現から古い伝承であったとも考えられる。

 『泰澄和尚伝記』によると、泰澄はたんなる地方の山林修行者などではなく、元正天皇の病気平癒をおこなう看病禅師という国家的な側面をもつ僧侶として描かれている。泰澄を架 空の人物とみて、その業績は『続日本紀』にもとづく創作との見解はあるが、近江から京都周辺に広がる泰澄伝承と十一面観音の道、近江国司の藤原武智麻呂が創建したとの伝えや、劔 神社付近で焼成された瓦と朴市(えち)秦氏との関係などから、泰澄による畿内・近江の活動が追えるので、神宮寺を介した両者の関係性も見えてくる。

 加えて、劔神社の神宮寺は湖東式の軒丸瓦を採用したことから、その背景に壇越(だんおつ)として秦氏の存在が見え隠れする。しかし瓦当文様を根拠のみで、造営氏族を特定する ことは危険といえる。滋賀県蒲生郡竜王町雪野寺のように施設の建増しや修理再建の一時期に湖東式瓦を採用した事例が指摘されているからだ。

 また近年、滋賀県湖東から遠く離れた長野県長野市の元善町遺跡の湖東式軒丸瓦が出土した。そこは善光寺大本願明照殿建設地点で、いわゆる善光寺瓦が主体を占めるなか湖東式は 1点確認されている。その瓦は小粕窯跡のものと比べ、中房圏線があり外区に二重圏線がないなど相違はあるが、中房蓮子の規則的配置や外区内縁の珠文数の多さなど共通点が認められ るので、近江からの直接流入あるいは北陸道ルートで信濃に持ち込まれた可能性が指摘されている。

 なお、滋賀県愛知郡愛荘町の軽野塔ノ塚廃寺などでは、初現から退化文様に至るまで湖東式を一貫して採用するので、渡来氏族の存在が想定されている。元善町の湖東式は1点の出 土ではあるが、その背景に渡来系氏族との交流を考えてもいいのかもしれない。

 小粕窯跡の場合はすべて湖東式で、ほかの系統の瓦は確認できない。しかも、福井県内唯一であることから、寺院の創建にさいして湖東を拠点とする渡来系氏族との技術交流が想定 できる。仏教の伝来自体が渡来系氏族によって導入された経緯を踏まえると、神地あるいは神社境内に寺院を創建する発想じたいも、渡来系氏族による思想的な何かがあった可能性も考 えられる。

 なお、大分県宇佐市の宇佐宮とその宮寺の弥勒寺は、その背景に新羅系秦氏の存在が指摘されている点も、これらの見解を補強するものといえる。また近年は、神仏習合外来説も有 力視されているが、大陸の玄関口であった越前国の敦賀郡に、2つの初期神宮寺が創建されることは、つねに外来文化にさらされた地域性ならではといえよう。

 以上をまとめると、福井県の氣比神宮と劔神社の神宮寺については、前者に仲哀天皇、後者に忍熊皇子の霊が祀られたこと、つまりは神社に祀られた天皇霊・皇族霊の祟り性から発 し、仏法による慰撫行為を神宮寺の成立要因と考えたい。おそらく8世紀初頭に仲哀天皇と忍熊皇子の霊を祀ったことが、飢饉・自然災害・疫病を引き起こしたと、貴族を含めたひとび との意識のなかに生まれたのであろう。その原因が祀られた霊に向けられることは自然な流れである。

 そこで、その祟り性を仏の力で鎮魂することに大きな意味をもつ。とすれば、そのことに怯えた者たちが神通力を有する泰澄和尚に要請し、神宮寺の創建に至るという図式になるが 、それが国家主導であったか否かは今後の検討を要する。池上良正氏がモデル化したように、仏法の力を使い、祟り性を帯びた天皇霊・皇族霊を含んだカミをも供養・調伏の対象とした 点が重要なのである。そのことが「神融禅師」と呼ばれ、神仏習合の祖として後世に伝えられた泰澄和尚の偉業だったのかもしれない。


湖東式瓦の分布

(4)神社建物の寺院の影響

 劔神社本殿をもとに建造物の観点から神仏習合について考えてみる。

 拝殿の奥に存する本殿は、平面形態と直接的な関係をもたない屋根のみを入母屋造(いりもやづくり)とし、平入の正面に向拝(こうはい)が取り付き、その部分に軒唐破風(のき からはふ)と千鳥破風(ちどりはふ)を取り付けて複雑化させる独特のかたちを呈している。こうした本殿の建築形式を「織田造」と呼ぶ。

 福井県内における近世の神社本殿は、流造(ながれづくり)形式が80%、入母屋造形式が10%、切妻(きりづま)形式が7%を占める。若狭の場合はほとんど流造形式だが、越前で はこれに入母屋造形式が加わることが特徴である。越前の入母屋造本殿は屋根が複雑化し、江戸時代後期(18世紀中頃)には有力な神社本殿に取り入れられていく。なかでも丹生郡では 越前のほかに先駆けて採用されるが、初期の事例として注目できるのが劔神社本殿である。その建立時期は寛永元年(1624)以前に遡るので、江戸時代初期の事例が少ない県内では貴重 な建物遺構といえる。

 こうした建物形式は丹生郡が半数以上を占め、そのうち半数以上が中世から近世にかけて劔神社の氏子であった地域で、近年改築された神明神社本殿(越前町小曽原)や劔神社本殿 (越前町大樟)にも受け継がれている。また、流造に千鳥破風と軒唐破風が取りつく本殿についても大滝神社本殿を除き、丹生郡に分布が集中している。これは劔神社本殿の建築的な影 響が強かったことを意味する。じっさい佐々牟志神社の本殿(越前町佐々生)は、劔神社の大工棟梁がかかわったという。織田の大工が関係した本殿は入母屋屋根の棟と千鳥破風の棟を 同じ高さとし、T字型に造るのが特徴といえる。

 さて、いつまで劔神社本殿の形式は遡るだろうか。『劔神社古絵図』(室町時代)には、正面三間以上の入母屋造平入の正面に千鳥破風をもつ本殿が描かれている。古絵図は明応6 年(1497)以前の特徴を有するので、軒唐破風はないものの、室町時代にはその原型が確立しており、いまの本殿はその様式を受け継いでいるものとみられる。つまり、千鳥破風をもつ 入母屋造の建築様式がベースとなり、江戸時代初期に軒唐破風のつく独特の「織田造」へと発達したことになる。

 一般的に、入母屋造の社殿は仏堂の影響を受けたと言われる。中世の神社建築で入母屋造とする本殿のうち、とくに大社は本殿が大きく、平面と入母屋屋根との関連が指摘されてい る。また、平面と屋根との関係のない本殿は、神仏習合の傾向の強い神宮寺を備えたり、旧寺院の鎮守であったりする場合が多いことも指摘されている。劔神社は古文書や古絵図、境内 とその周辺の考古遺物、発掘調査の成果などによって、奈良時代より中世末期まで神宮寺とともに繁栄していたことが明らかであるので、入母屋造本殿の形態はさらに遡り、古式を継承 していたことがうかがえるだろう。

 ここで注目すべきは前室(外陣)の柱が角柱であることで、庇(ひさし)として取り込まれた形態をみせる流造は、一般にみられるものであるが、入母屋造本殿に取り入れられた国 の重要文化財建造物は数例しか見当たらないので、劔神社本殿は非常に珍しい建物形式といえる。角柱が、いつまで遡るかは分からないが、本殿の前に拝殿あるいは幣殿的機能をはたす 前室をあらわす角柱を、いまなお本殿内に取り込んで本殿と一体化した平面をなし、入母屋造の外観を呈することは、神宮寺との関係をさらにうかがわせるものといえる。このように劔 神社本殿は、神社と神宮寺が一体となって栄えたことから仏堂の影響を強く受けた本殿形式をもつ全国でも貴重な文化財といえるだろう。


劔神社本殿[県指定文化財]

3 劔神社境内の発掘調査

(1)発掘調査の概要

 劔神社境内の発掘調査は越前町文化財悉皆調査事業の一環で、平成22年7月から実施し、平成26年7月で第6次におよび、トレンチは25か所を数えた。調査目的は2点であった。

 第1は、剣御子寺の成立時期と神仏習合の解明である。越前国二宮劔神社は丹南唯一の国宝 梵鐘を所蔵している。梵鐘銘文には「剣御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」と鋳出 された。神護景雲4年は西暦770年の奈良時代後期で、飛鳥・奈良時代の紀年銘をもつ梵鐘は全国4例しかなく、しかも3番目に古いものである。銘文の分析から、剣御子神社に付属する 剣御子寺という神宮寺が奈良時代後期には存在し、神仏が混ざりあっていたことが分かっている。第2は、剣神社所蔵の「劔神社古絵図」にみる神社域と神宮寺域の確定と各建物配置の 比定にある。


劔神社古絵図と復元模型の配置図

劔神社古絵図の復原

 国京克巳氏によると、「劔神社古絵図」は明応6年(1497)以前の時期に比定できるので、室町時代の建物配置が分かる貴重な史料といえる。詳しく見ると、御手洗川を境に神社と 神宮寺は区別される。神社域には御本社・気比社・神楽堂・神輿堂など神社関係の建物が、神宮寺域には御本地堂・護摩堂・鐘つき堂・御供所・三重塔・仁王門・講堂など寺院関係の建 物が描かれる。こうした関連施設が特定できれば、古絵図との照合から神社・神宮寺関係の建物配置が比定でき、中世における神仏習合のあり方を解明する足がかりとなるだろう。

 かりに建物の焼失により、そのままの状態で埋没していれば、その配置が比定できる可能性が高い。じっさい神社の記録には天災・人災で何度も焼けたことが出てくる。応保元年( 1161)の平清盛の焼き討ち、宝徳元年(1574)の天災、天正2年(1449)の一向一揆、慶長3年(1598)の太閤検地時などである。焼土や灰、焼けた礎石などの遺構・遺物が出土すれば 、劔神社の盛衰の歴史をさぐるうえで貴重な資料になる。

 平成22・23年度は境内の中心参道の東側、平成24年度は中心参道の西側を調査の対象とした。主な成果としては埋土からではあったが、梵鐘銘文の時期に近い奈良時代後期の須恵器 が含まれた点にあった。付近に何かの遺構が存在したと考えられる。

 また、古絵図には御手洗川が描かれるが、第1次調査第2トレンチでは水路状遺構を検出したので、神社と神宮寺を仕切る境界が明らかとなった。つまり、遺構の北側が神社域、南 側が神宮寺域に相当する。しかも、江戸時代末から明治時代初頭に一気に、かつ大規模に埋められたことも判明しており、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の考古学的な事例としても貴重 といえる。

 他にも、古絵図に描かれた施設の比定できた点である。古絵図の神宮寺域には、池・講堂・仁王門などが描かれる。第1次調査第1トレンチ南では礎石、第2次調査第1トレンチで は地表下2.3mで、仁王門から講堂に続く道状遺構、第4次調査第4・5トレンチでは池状遺構を検出した。遺構上面で踏み固められた中世の土師器皿は、古絵図の描かれた時期のものも 含む。これらの調査の成果から、じっさいに古絵図に描かれたものが遺構として検出され、その信憑性の高さを示す結果となった。


劔神社境内のトレンチ配置図

第1次調査第1トレンチ (南より)


第2次調査第1トレンチ 道状遺構(東より)

第2次調査第1トレンチ出土遺物


第4次調査第5トレンチ 池状遺構(北東より)

(2)かつて劔神社の神地は杜だった

 劔神社境内の西側は一段高い段丘で、平坦面が展開している。その面積は広大で、現在においても約22,000㎡をはかる。杉による神林であり、地元では「おはやし」と呼ばれ親しま れている。その北側には越前町織田文化歴史館が建つが、かつての神林の一部であったと聞いている。

 それでは、この神林はどのあたりまで広がり、またいつまでその歴史は遡るのだろうか。古老に聞くと、現在の劔神社から西に300mほど行った三叉路あたりまでが神林であったと いう。その南北の道を南に走ると、左方向に弓なりにカーブが続き、南の方に抜ければ、劔神社馬場通りの延長上の交差点で合流する。これは、神林が道路あたりまで展開していた可能 帯が高い。明治時代の地籍図をひも解くと、緑で塗られた一帯が神林で、その範囲はほかの地形などとの検証から、現在の道沿いに重なることが分かった。普通は道を通すとき最短距離 になるよう直線道路をつくるはずだが、この県道鯖江・織田線は神林の縦断を避け、その南に沿って道路を通している。それほど神林が神の宿る杜(もり)として認識されていたことを 示している。

 さて、神林はいつごろ形成されたのだろうか。劔神社所蔵の「劔神社古絵図」(室町時代)には、すでに鬱蒼とした杜が描かれているので、おそくとも室町時代にはこの一帯が神林 であったことは間違いない。越前町教育委員会は劔神社境内の発掘調査を実施しているが、境内でもっとも広い平坦地であり、かつ神宮寺関係施設の展開が予想できたので、平成25・26 年度に調査対象とし、合計18か所のトレンチを入れた。各トレンチの堆積状況を見ると、表土から地山まで一様に黒色系土が詰まり、深さ60~70センチほどで地山に至った。

 地山から掘り込まれた古代・中世の遺構はなく、表土層に近世以降の遺物が混じる程度で、遺物はほとんど出土しなかった。ただし、第5次調査第2トレンチと第6次調査第1トレ ンチでは、地山を掘り込んだ土坑が検出され、遺構内からは弥生土器が出土した。第5次調査では1点で、いわゆる器の内外面をハケ状の条痕で調整をおこなう甕である。滋賀県に出自 をもつもので、弥生時代中期前葉に比定できる。

 また、第6次調査出土のものは破片だが、5点が確認できた。ハケ状の条痕の甕や櫛描文の壺などがあり、いずれも弥生時代中期中葉に比定できる。

 これらの土器が廃棄されたあとは、地表に至るまで黒色系の土層が一様に堆積していた。おそらく弥生時代の土坑が埋没して以降、現代まで人為的な痕跡がいっさい認められず、約 2000年近くのあいだ杜であった可能性が高い。こうした無遺物の範囲は猿田彦神社の周辺、水木稲荷神社から宝物殿あたりまで及んでいた。

 しかし、第6次調査第8トレンチ・第5次調査第9・10トレンチからは、古代から中・近世までの遺物が数多く出土した。神林でも拝殿西側から川にかけての一段低くなった一帯が 、祭祀で使用した土器などの廃棄場所になっていた。境内は遺物の有無に極端な差があるので、長期間捨てない場所の観念が働いていたとみられる。織田盆地のほぼ中央に位置し広大な 平坦地をもつ、境内の一等地に、まったく手が加えられていないことが驚きである。このことは古くから神林が神聖な場所として認識され、そのまま入らずの杜として保持されていたこ とを示している。

 ところで『万葉集』には、以下のような歌がある。

  木綿(ゆう)かけて 斎(いつ)くこの神社(もり) 越えぬべく 思ほゆるかも 恋の繁きに 巻7の1378番

  山科の 石田の社(もり)に 幣(ぬさ)置かば けだし吾妹(わぎも)に 直(ただ)に逢はむかも 巻9・173番

 ふたつの歌では神社と社には「モリ」とルビが振られる。『万葉集』では「モリ」を神社とするのが3例、社とするのが11例を数える。つまり古くから神社や社を「モリ」と呼んで いる。ちなみに『出雲国風土記』では、「ヤシロ」に「屋代」という字があてられ、神社を数ではなく「所」の数で表現している。神祭りの建物のある場所がヤシロの原義であり、近く に樹林をともなっていたことが考えられる。

 こうした点も踏まえると、神林における無遺物地帯が考古学的に特定できたことは大きな成果であり、劔神社の歴史を考えるうえで重要な発見となった。


第5次調査第10トレンチ土坑 遺物出土状況

第6次調査第1トレンチ土坑 弥生土器出土状況

4 劔神社境内隣接地出土の陶質土器

(1)陶質土器の概要

 劔神社の東にある個人宅において、井戸の掘削中に2点の須恵器系の青みがかった硬質の土器が出土した。有蓋高杯の身と蓋の2点であり、形態的特徴と全体的な雰囲気から朝鮮半 島製の陶質土器の可能性が高い。県内で陶質土器の発見は数少なく、のちの剣御子寺の存在とそれを供給した小粕窯跡の存在を考えれば、その前段階の古墳時代後期、6世紀に外来的な 要素を示す資料といえる。現在は、織田文化歴史館で常設展示されている。以下に詳細を紹介する。

 1は蓋である。口縁部径10.5㎝、器高5.9㎝、鈕の径3.4㎝をはかる。色調は暗灰色を呈し、胎土には微細な長石質の白色粒と黒色の発泡粒を多く含む。焼成は堅く緻密である。口縁 部はほぼ垂直に立ち上がり、口縁部と天井部とは鋭い断面三角形の稜で画されている。天井部は尖り気味に高く、その頂部には逆ハの字形を呈する鈕がつく。調整は天井部に回転ヘラケ ズリ、他の部位は丁寧な回転ナデ調整が施される。轆轤の回転方向は左回転となる。

 2は有蓋高杯である。口縁部径9.1㎝、器高7.2㎝、受部径10.2㎝、口縁部の立ち上がりの高さ0.8㎝、杯部の高さ3.95㎝、脚部径8.0㎝、5.0㎝をはかる。色調は明灰色を呈し、胎土 に微細な長石質の白色粒を多く含み、黒色の発泡粒がわずかに認められる。焼成は堅く緻密である。口縁部は内傾して立ち上がり、その端部は丸い。受部は痕跡程度で短いため使用によ って摩滅した可能性が高い。脚部はハの字形に開き、その脚端部は丸みをもった鈍い三角形を呈する。脚部に穿たれた透孔は細長い長方形で3孔が配置され、杯底部に棒状の工具による 全周しない沈線2条が施される。調整は杯底部に脚部接合後にカキメ調整、脚部側面にカキメ調整に似た粗いヨコナデ調整、他の部位は丁寧な回転ナデ調整が施されている。

 これらの2点の土器は、県内および国内出土の一般的な須恵器と比べると明らかに異質である。そのため製作地は朝鮮半島に求めざるを得ない。定森秀夫氏によれば、形態的特徴か ら朝鮮半島南部の洛東江下流東側、釜山から慶州を含む新羅ないし新羅の影響下にある地域で焼かれたという。

 とくに、有蓋高杯の蓋は慶州月城路古墳群10の2号墳出土の蓋に類似することから5世紀後葉~末、有蓋高杯は慶州月城路古墳群4号墳、釜山林石遺跡2号墳出土の高杯に類似する ことから6世紀初頭~前葉に比定できる。蓋と有蓋高杯は同一器種であるが、製作時期には時期差が認められる。

 また、有蓋高杯と蓋の口径は規格が異なるので、2つはセット関係とならず、井戸掘削時という不時発見の状況から、付近に他にも遺物が存在した可能性が高い。これらの土器が朝 鮮半島のものであれば、一時期に限定されたのではなく、5~6世紀の継続的な流入が考えられる。

 これらの陶質土器は朝鮮半島製と断定できない。有蓋高杯の蓋天井部の調整は朝鮮半島南部であれば、回転ヘラケズリのあとに回転ナデ調整を施して痕跡を消すことが一般的だが、 境内隣接地出土のものはそのまま回転ヘラケズリを残す。その点からいえば、蓋は陶質土器ではなく、国内で焼かれたことも考えなくてはならない。しかし、日本出土の須恵器に類似品 を認めることはできないため、ここでは朝鮮半島南部製と位置づけておく。今後の研究成果に期待したい。


劔神社境内隣接地出土の陶質土器

(2)朝鮮半島系遺物の流入とその背景

 ここでは朝鮮半島系の遺物について考えてみる。劔神社境内隣接地出土の陶質土器の有蓋高坏と蓋の他に、丹生山地には福井市清水町当山美濃峠古墳がある。本古墳からは、五朱・ 貨泉・大泉五十といった中国銭貨、陶質土器の有蓋高坏(古墳後期 6世紀前葉)が出土した。有蓋高杯は、朝鮮半島南部の洛東江下流域の東側、釜山から慶州を含む新羅ないし新羅の 影響下のある地域で焼かれたという。

 他にも福井県内には渡来系遺物が知られる。福井市の中角遺跡からは格子目文をもつ韓式系の土師器(古墳前期中葉 4世紀中葉)、福井市の和田防町遺跡からは格子目文をもつ韓 式系の甕(古墳中期前葉 5世紀前葉)が出土した。福井市の天神山7号墳(直径約50mの円墳)からは、朝鮮半島南部製の金製垂飾付耳飾(古墳中期前葉 5世紀前半)、永平寺町の 二本松山古墳(墳長89mの前方後円墳)からは、韓国・高霊の池山洞32号古墳出土の冠と酷似した銀鍍金の冠(古墳中期後葉~末 5世紀後半)が出土した。これらは朝鮮半島南部との 地域間交流を示す一例であろう。

 それでは、5世紀後葉~6世紀前葉の時期に、どのような社会背景があったのだろうか。最大の事件は475年の高句麗による百済の首都、漢城の殲滅である。百済は熊津に遷都する と、文周王、三斤王、昆支の子で倭国にいた東城王が王となり、百済王権の再起をはかる。そこで倭王武は477年と478年に宋へ遣使し、上表文を提出して高句麗との交戦の意思を明らか にする。そして、朝鮮半島での軍事的支配権の国際的承認と高句麗の南進を阻止しようと試みる。一方、大加耶は442年以降、実質的に百済の影響下にあったが、高霊を本拠地として大加 那連合を組織し、百済からの自立の契機をはかる。

 その後、百済が大加那の勢力範囲と境を接する地域で国家再建を進めたことから、大加耶は旧宗主国にあたる百済よりも新羅との間に密接な関係を保持しようとした。さらに、倭国 に有力氏族たちは倭王権の求心性の弱体化に乗じて、大加耶地域の支配者層の要請により傭兵的役割を果す。しかも当時、多くの倭人たちが百済や新羅など朝鮮半島南部に移住するとと もに、列島各地に渡来して定住した人々も数多い。

 境内隣接地出土の陶質土器の流入は、百済の一時殲滅による大加耶連合の成立、大加耶と新羅との関係の深化、倭王権の求心力の弱体化による独自の相互交流の盛行が背景にあった と考えられる。

(3)境内隣接地で発見された陶質土器の意味

 なぜ、時期の異なる陶質土器が、境内隣接地で出土したのか。ひとつの仮説を提示する。

 陶質土器の発見場所は、劔神社東の馬場通りを挟んだ場所にあたることから、すでに5~6世紀にその一帯が神地であり、神祀りが執りおこなわれていたというものである。

 劔神の梵鐘には「剣御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」の銘文があり、剣御子神社が奈良後期には存在していた。しかも、小粕(こがす)窯跡で焼かれた8世紀前葉の瓦が、境 内に供給されたことを考えると、神宮寺とともに剣御子神社の存在も、その時期に遡ることになる。

 陶質土器は西暦500年前後であり、剣御子神社は700年頃には鎮座したとなれば、約200年間の開きがある。隣接地というだけでは、神祀りのものかは判断できない。しかし、神地が 5~6世紀頃に存在したと証明できれば、神祀りの器であった可能性も高くなるだろう。

 その証明は発掘調査の成果を根拠としたい。境内西側に展開する神林の発掘調査をおこなうと、調査区は弥生時代中期の遺構しかなく、その遺構が埋没したあと黒色土だけの堆積で あり、遺物も皆無であった。遅くとも、古墳時代には神地が展開していたとみられる。したがって、古い神地が存在したとすれば、その境内周辺で発見された遺物は生活にともなわず、 祭祀に使用された可能性は高くなるだろう。

 それでは、誰がその祭祀を執りおこなったのか。やはり織田盆地に居住した渡来系氏族が想定できる。のちの史料にはなるが、『越前国司解』には敦賀郡伊部郷の秦氏が知られる。 小粕窯跡の瓦は湖東式といい、滋賀県湖東に居住した秦氏ゆかりのものである。また、『日本三代実録』貞観15年12月条によると、越前国敦賀郡には伊部氏が存在しており、『新撰姓氏 録』山城国諸蕃の「伊部造 出自百済国人乃里使主也」の記述を踏まえると、百済に出自をもつ渡来系氏族であった可能性が高い。

 つまり、織田盆地には文献・考古資料から渡来系氏族の居住が指摘できる。そういった点から考えると、境内隣接地で発見された2つの陶質土器は、神社の存在だけでなく、渡来系 氏族が関与した可能性を考えるうえで貴重な資料となるだろう。


劔神社の神林

5 釈迦八相涅槃図

(1)釈迦八相涅槃図とは

 越前二ノ宮・劔神社には「釈迦八相涅槃図」と呼ばれる絵画が伝わる。この資料は鎌倉時代に描かれたものであり、国重要文化財に指定されている。ここでは釈迦八相涅槃図を取り あげ、その画題と内容について考えていきたい。

 日本美術史の研究によれば、仏教絵画は「顕教絵画」のうち「釈迦」に分類される。では、「釈迦」・「八相」・「涅槃図」とはなにか? 釈迦は、サンスクリットで「ゴータマ・ シッダールタ」といい、「瞿曇・悉達多」もしくは「悉陀」の漢訳も認められる。「釈迦族出身の聖者」を意味し、仏教の開祖である「釈迦牟尼」の略称とされ、悟りを得た者に対する 尊称「世尊」をあわせて、「釈迦牟尼世尊」と呼ばれる。日本では親しみをこめて「お釈迦さま」と呼んだりする。

 近年の仏教学では、釈迦を「ゴータマ・ブッダ」または「ブッダ」と呼ぶことが多い。涅槃は、サンスクリットで「ニルヴァーナ」、パーリ語で「ニッバーナ」と表記され、「泥洹 」の漢訳も認められる。原義は「吹き消すこと」・「消滅」を意味し、転じて「煩悩から解放されて到達する自由な心境」をいい、仏教における修行上の究極目標である。仏伝図は、ブ ッダの諸事件を表した絵画であり、日本ではほとんど普及しなかった。

 これに対し、釈迦八相図はブッダの生涯における主要な事蹟(8場面)を描いた絵画で、日本で大いに流行した。このようにみると、「釈迦八相涅槃図」とは、仏教の開祖であるブ ッダが亡くなり、完全に煩悩から解放された際の場面(涅槃)を描いた絵画。しかも、涅槃を中心に、その周囲に仏伝8場面が描かれるもの、といえる。

 涅槃図の場面 ブッダの入滅時期については諸説あるが、紀元前383年頃(中村元 説)と考えるのが一般的である。ブッダはインド北部を治めていたシャカ族の 出身であり、カピラ(迦毘羅)城城主の浄飯王(シュッドダーナ)と摩耶夫人(マーヤ夫人)の間に生まれた。29歳の時に出家し、まず山中に入って6年間にわたり苦行生活を送ったが 、その空しさを知り、ボードガヤーの菩提樹の下で静かに瞑想をこらし、ついに悟りを開く。その後、インド各地を巡歴して多くの人々を教化した。80歳の時、パーパー村において鍛冶 屋の息子・純陀(チュンダ)の捧げた食事で中毒(キノコor豚肉)になり、クシナガラの熙連河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した。涅槃図は、この場面を描いている。

 経典 ブッダの入滅に関しては、パーリ語『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』(大いなる死)に詳しい。これは、南伝経典で最古のものと考えられ、ブッ ダ最後の旅の様子が克明に描写されている。漢訳経典では『遊行経』がこれに対応し、ほかにいくつかの異訳も認められる。また、涅槃図の作成にあたり、『大般涅槃経後分』・『摩訶 摩耶経』・『仏母経』・『仏所行讃』・『仏祖統紀』なども題材とされた。

 涅槃会 涅槃会は「涅槃講」・「涅槃忌」ともいわれ、毎年2月15日、ブッダの入滅日に日本と中国で行われる追悼法会である。この場合の「涅槃」とはブッダ の亡くなった日を指すが、実際の入滅日は不明である。パーリ仏教では、ブッダの入滅日は「ヴァイシャーカ月」となっており、インド歴第2の月に相当するため、日本・中国では2月 になった。

 涅槃会では、寺院の本堂に涅槃図をかかげ、『仏遺教経』を唱える。涅槃会の風習は奈良時代に中国から日本へ伝えられた。とくに、平安時代の興福寺(山階寺)涅槃会が有名であ り、「常楽会」とも称された。この涅槃会において重要な役割を果たすのが『涅槃講式』である。涅槃講式は、平安時代の僧・恵心僧都(源信)、鎌倉時代の僧・明恵上人が撰述した涅 槃会のマニュアルであり、釈迦八相涅槃図とともに室町時代の断簡が劔神社に伝わっている。

(2)劔神社の釈迦八相涅槃図

 劔神社釈迦八相涅槃図は鎌倉時代に制作された。縦210.3cm・横282.1cmをはかる。室町時代に造られた『涅槃講式』断簡とともに劔神社に伝わる。かつて、劔神社境内には真言宗寺 院の「織田寺」が建立されており、当該資料は織田寺本堂に掲示されていたとみられる。正面に画題である涅槃図を描き、左右両側に八相図を配置する。仏伝にしたがい、向かって右下 から上へかけて「託胎」・「降誕」・「試芸」・「三時殿 四門出遊」が、左下から上へかけて「出家」・「吉祥献草」・「降魔」・「初転法輪」が描かれる。

(3)涅槃図

 ブッダ 画面全体に対してブッダの姿は小さく、寝台向かって左側(頭側)からみた構図。ブッダは右手枕し、右脇を下にして横たわり、両膝をまげて両足を重 ねる。これは、『仏所行讃』にある「首を北に右脇を臥せ、手を枕に双足を累ね」の記述と合致しており、経典に忠実に描かれたことがわかる。ブッダの頭は北へ、顔は西に向けられて おり、これが「北枕」の語源になった。
 『遊行経』には「頭を北首にし、面を西方に向かわしめよ。しかるゆえんは、わが法は流布して、まさに久しく北方に住すであろう」と記述されている。このほか、「ブッダの亡くな ったクシナガラから北方には、郷里であるカピラ城が位置し、尊敬する両親に対して足を向けてはならないという、親孝行を示している」という説もある。

 会 衆 ブッダの足下に老女、枕元に菩薩が描かれる。寝台周辺に仏弟子、その外側に仁王・天・俗人・悪鬼が配される。寝台正面では悶絶して倒れる阿難(ア ーナンダー)が描かれる。

 老 女 インド・中央アジアの涅槃図では、ブッダの足下にいるのは必ず大迦葉である。これに対して、日本では老女が描かれることがある。『涅槃経』によれ ば、阿難は「世尊在世中、女性でその座下に詣でた人は少数であった。されば今はまず女性達から先に拝させよう」と考え、女性を優先して弔問させたと伝えられる。多くの女性たちが ブッダに花を捧げに来たが、なかでも最長老が百歳の老婆であった。これが、ブッダの足下に描かれている老女である。この老女は血の涙を流してブッダの死を悲しみ、涙のシミがブッ ダの足から離れなかったと記されている。一説には、この人物を老女ではなく、医者であるともいわれる。

 阿 難 阿難は十大弟子の一人で、「多聞第一」と呼ばれる。常にブッダの傍らにつき、ブッダ最後の旅にも同伴した。仏弟子の中でも、阿難が悟りを開いたの はもっとも遅く、ブッダ入滅後のことである。ブッダの入滅に際し、阿難は「諸行無常」の理を理解しておらず、とりわけブッダの死を恐れた。この時の様子が、経典に「阿難は悶絶し て地に倒れ、なお死人の如く、寂として気息なく…」と描かれている。倒れた阿難を解放しているのが、阿那律(アヌルッダ)である。
 阿那律は阿難の顔に水をかけて助け起こし、「共に精進してブッダの恩に報おうではないか」と阿難を励ました話が『大般涅槃経後分』に記述されている。その声で、阿難ははじめて 悟りを開いたと伝えられる。
 ちなみに、阿難はインド1の美男子とされ、修行中に多くの女性から色目を使われ、困ってブッダに相談している。その時に、ブッダは「女性と目を合わすな」という教えを授けた。 このように、平安時代の作品に比べて、鎌倉時代の涅槃図では仏弟子の悲嘆慟哭のさまが激しく、大げさな表情、身ぶりを表すようになる。

 仁 王 寝台正面下側で泣きくずれている2匹の赤鬼が「仁王」である。仁王は「金剛力士」・「金剛薩埵」と呼ばれ、『宝積経』によればブッダの2人の兄弟 とされる。金剛力士は「兄が成仏の時、外護の力士として法を守る」との大願を立て、仏法の守護者となった。

 阿修羅 寝台右側、手に白い玉を持っている1匹の赤鬼が「阿修羅」である。阿修羅は「八部衆」と呼ばれる「天」のひとりで、もともとはインドの神である。 一般には「三頭六手、全身赤色にして甲をかむり、髪冠にして赤髪」と表される。「怒髪天を衝く」という言葉の通り、髪はまっすぐに立っている。

 悪 鬼 寝台右側、ブッダの足下より右側にいる1匹の赤鬼が「悪鬼」である。悪鬼は「羅刹」ともいい、「人の血肉を食い、空を飛び、素早く地を行く、恐ろ しい存在」として描かれる。さらに、「男の悪鬼は極めて醜く、女の悪鬼は非常に美しい」と経典に記されている。

 動 物 寝台正面下側に、馬・ウシ・極楽鳥・孔雀・水鳥・オシドリ・象・カエル・亀・兎・虎・鹿・猿・犬・ヒョウなどが描かれる。とくに、白象は仰向けに なって嘆いており、大変激しい悲しみを表現している。白象が嘆き悲しむ図像は鎌倉時代の涅槃図の特徴であり、白象は普賢菩薩がのっていることや、摩耶夫人の夢の中に出てきたこと で知られる。ブッダの前世の姿ともいわれる。
 インド・中央アジアの涅槃図に動物が描かれることはなく、敦煌の涅槃図にサル1匹が1例、中国の涅槃図に獅子2頭が1例、認められるにすぎない。日本では、次第に涅槃図に登場 する動物の種類が増え、身近にいるトカゲ・蝶・トンボ・蟹・カタツムリなど爬虫類や昆虫も描かれるようになる。
 逆に、経典中に表れるも、乾闥婆鳥(けんだつば)・迦蘭陀鳥(からんだ)・鴝鵒(くかく)・倶翅羅鳥(くじら)・婆嘻伽鳥(ばきか)・極楽鳥・耆婆耆婆鳥(ぎばぎば)など、想 像の及ばない動物は省略されていく。
 鎌倉時代以降の涅槃画では、中国の宋画を手本に動物が描かれるが、異国の動物に対する無理解から、これを省略したり、不正確な表現に改めたりし、次第に日本独自の動物を加える ようになった。さて、身近な動物ではあるが、ほとんど涅槃図には描かれないものがある。
 それは、猫である。猫を描かない理由として、猫が死者を踊らせたり奪ったりするため臨終の場にはタブーであった、また沙羅樹にかかった薬袋(実際は衣鉢)をブッダのために取り に行ったネズミを猫が食べてしまったため、ともいわれる。ただし、唯一、京都東福寺大涅槃図にのみ猫が描かれる。

 摩 耶 画面右上隅に、忉利天から雲に乗って駆けつける摩耶夫人と侍女6人が描かれている。摩耶夫人を立った姿で表現するのが鎌倉時代の特徴である。その 摩耶夫人を先導しているのが、阿那律(アヌルッダ)である。実は、涅槃図中に阿那律が2人登場してくるが、これらは同一人物である。経典中では、阿那律は卒倒した阿難の世話をし た後、直ちに天上界にいる摩耶夫人を迎えに行く。
 つまり、涅槃図には経典の二つの場面が同時に描かれているのである。こうした手法を「異時同図法」という。阿那律はブッダの従兄弟といわれ、十大弟子のひとり。ブッダの説法中 に居眠りをしたため、ブッダに叱責された。その後、ブッダの言葉を一言も聞き漏らすまいと眠ることなく修行に励み、失明するも、ついには心眼を開いたと伝えられる。ブッダ入滅の 際、葬儀を取り仕切った。

 沙 羅 寝台四方には2本1組計8本の沙羅が描かれ、そのうち足下の4本の葉は色が白い。『遊行経』には「釈尊入涅槃のとき、沙羅双樹は時ならざるに花咲 、すべての花は満開となった。」とある。沙羅の木は、木の上でも香り、落花してからも良い香りを放ち、枝から落ちてくるときにも香るというほど、非常に香りが強い植物である。そ のためか、開花時には周辺が香りのベールに包まれたようになり、神秘的な印象すら感じる」という報告もある。このようなイメージが、ブッダの死と結びつき、経典に記載されたと考 えられる。
 なぜ、八本の沙羅が描かれているのか。『涅槃像勧喩録』には「四本はブッダの最後の説法が終わると直ちに枯れ、他の四本は栄えた。これは、ブッダは涅槃に入ったが(四枯)、仏 法はあとに残り栄える(四栄)」と説かれており、「四枯四栄」を表現したものと考えられる。
 次に、なぜ四本の木は白く表現されているのか。『大般涅槃経後分』には、ブッダが入滅した際、沙羅樹が「即時に惨然として白に変じ、なお白鶴の如し」とある。このことから、「 鶴林」とはブッダの入滅やその場所を指す言葉となった。

 跋堤河 ブッダはインド北部クシナガラ村の熙連河畔で亡くなったとされる。この熙連河は跋堤河とも呼ばれ、この河から汲まれた水をブッダ は「末期の水」とした。ブッダが川の畔で亡くなったのは、「人間の命は水の流れの留まらざる如く、夜も昼も留まらず。命も水の流るる如く次第に縮まるということを、川の流れで説 明した」と解釈されている。

 満 月 ブッダはインド第2月の満月の晩に亡くなったとされ、涅槃図右上隅に満月が描かれている。『涅槃経』によれば、「十五日の月の満々として少しも欠 くることがないように、ブッダも大涅槃に入って少しも欠くることがない。」とあり、このため満月の日を選んで入滅したとされる。

 鉢など ブッダの頭部左側には赤い包みが置いてある。これは、生前に托鉢で使用した鉢を包んだものであり、左側の沙羅樹に立てかけられた錫杖とともに、ブ ッダの持ち物である。劔神社釈迦八相涅槃図では寝台の上に包みが置いてあるが、涅槃図によっては、錫杖とともに包みが沙羅樹にかけられているものもある。
 そのため、江戸時代の日本では、この包みを「摩耶夫人が天から投じた薬袋であるが、沙羅双樹の枝にひっかかってしまい、ブッダの手元に届かなかった。そのため、ブッダは亡くな ってしまった。」という説が流行した。現在でも、そのような説明をしている涅槃図もある。

(4)託胎

 託胎は降兜率、入胎とも呼ばれ、ブッダの前身が兜率天より降り、摩耶夫人の胎内に入り込む場面が描かれる。つまり、ブッダの母親・摩耶夫人が懐妊するシーンである。兜率天と は弥勒菩薩の浄土であり、兜率天の浄幢菩薩が摩耶夫人の胎内に入ると表現されることもある。仏伝によると、摩耶夫人は自分の右脇から白象が胎内に入ってくる夢をみたとされる。劔 神社本では、雲に乗った白象が飛来しているさまが描かれている。

(5)降誕

 降誕は出胎、誕生とも呼ばれ、ブッダ誕生の場面が描かれている。出産を間近にむかえた摩耶夫人は里帰りの途中でルンビニー園に立ち寄り、無憂樹という樹に手を伸ばしたところ 、右脇よりブッダが生まれた。誕生直後のブッダは、七歩歩いて天を指さし、「天上天下唯我独尊」と叫んだと仏伝に説かれる。ブッダが宣言した「天上天下唯我独尊」は、「獅子吼」 と呼ばれ、百獣の王である獅子の咆哮に喩えられる。

 また、ブッダが歩いた跡には蓮の花が咲きほこり、これを「七歩蓮華」と呼ぶ。経典では、ブッダの誕生を祝し、難陀・優婆難陀の二竜王が産湯を注いだとされる。これを「二龍灌 水」という。毎年4月8日にブッダの誕生を祝う「花まつり」で、誕生仏(右手を上げた童子形の金銅像)の頭に甘茶をかける風習があるが、そのルーツを「二龍灌水」に求めることも ある。

 なお、摩耶夫人はブッダを出産した後、7日ほどで急逝し、神になり天に昇ったとされる。その後、摩耶夫人の妹である摩訶波闍波提(マハー・プラジャーパティー)が継母となり 、ブッダを育てた。

(6)試芸

 ブッダが数々の武芸を修め、従兄弟である提婆達多と力競べをした場面が描かれる。劔神社釈迦八相涅槃図では、画面中央右側に弓を引いている二人の人物が認められ、弓の射競べ を行っている場面とわかる。仏伝によると、7つの金銀製の的を弓で射る競技であるが、ブッダは1本の矢で7つの的を射抜いたとされる。涅槃図によっては、象を投げ飛ばすなど力比 べを行っている場面、「書算」といい読書など教養面の修養を行っている場面が描かれることもある。

(7)三時殿 四門出遊

 三時殿とは、ブッダのために父王が建てた、雨期・夏・冬に合わせた三種の宮殿をさす。ブッダが生まれた国はインド北部に位置しており、マガダ国・コーサラ国という二大国に挟 まれた小国であった。幼少・青年時代のブッダは王族の子として不自由なく生活をしていたが、ブッダの出家後、国は滅亡してしまう。三時殿に合わせ、四門出遊の説話も描かれる。

 ある時、ブッダは従者を連れて、気晴らしに城の四方門から外出した。すると、東門で老人に、南門で病人に、西門で葬式の列に出会い、人である限り老・病・死は避けることの出 来ない定めと知り、諸行無常を感じる。そして、最後に北門をでると、光輝く比丘(托鉢僧)と出会い、出家を決意したとされる。

 仏伝によると、誕生したブッダをみて、あるバラモンが「太子は王となれば世界を支配する大王となり、出家すれば世界を救うブッダとなるだろう。」と予言した。ブッダの父であ る浄飯王は、ブッダが世を憂いて出家しようとする気を起さないよう、周囲に楽しいもの、美しいもの、元気なものばかりを揃えた。常に、ブッダの周囲には若く健康な男女ばかりが集 められたという。

 そのため、ブッダは四門出遊で初めて老人・病人・死人を見、大きな衝撃を受けたと説かれる。劔神社本では下側が南門となり、ムシロに横たわる病人の姿が描かれる。

(8)出家

 出家踰城、「出城」とも呼ばれ、ブッダが修行のため妻子を捨てて家を出た場面が描かれる。四門出遊以来、ブッダは憂鬱となり出家への思いがつのる毎日であった。息子が家を捨 ててしまうことを恐れた浄飯王は、ブッダに妃を娶るよう勧める。そこで、ブッダは耶輸陀羅(ヤショーダラー)姫と婚姻し、一人の息子を授かった。長男の名は羅睺羅(ラーフラ)と いい、「妨げとなる者」という意味である。つまり、ブッダは妻子が出家の妨げになると考えていた。結局、出家への希求はやみ難く、ついに29歳の時、ブッダは白馬カンタカにまたが って城を出た。妻子を捨てて出家したのである。

(9)吉祥献草

 出家したブッダは山中に入って6年間にわたり苦行生活を送った。しかし、いくら自分の肉体を極限に追い込んだところで、まったく悟りに近づけないことを知る。そこで、苦行を やめ、菩提樹の下で瞑想にふけろうと考えた。その時、一人の農夫が「吉祥草」(カヤに似た草)を献じ、ブッダはこれを敷いた上に座り、瞑想を始めた。これが吉祥献草であり、「吉 祥草座」とも呼ばれる。

(10)降魔

 ブッダが悪魔を降伏させた場面が描かれる。菩提樹のもと、瞑想を行っているブッダの前に悪魔(マーラ)が出現し、ブッダが悟りを開くのを妨害するため誘惑・恐喝を行った。ブ ッダはこれをことごとく退散させ、ついに悟りを開くことに成功する。これら魔族を退散させた時に示した印相が降魔触地印であり、座禅を組んで右手指先を地面に触れさせる。劔神社 本では、ブッダの前に悪魔がひれ伏している様子が描かれる。

(11)初転法輪

 ブッダが悟りを開いた後、初めて説法を行った場面が描かれる。はじめ、ブッダは自らの悟りは深遠のため、他の者に説くのは難しいと考えた。しかし、三度にわたる梵天の願いに より、ついに自分の教えを広めようと決意した。これを梵天勧請という。まず、ブッダは鹿野苑に行き、5人の比丘に教えを説いた。これが初転法輪である。この5人の比丘はかつての ブッダの修行仲間であり、ブッダが苦行を捨ててスジャータの勧める乳粥を食すのを見、ブッダを見限った人物である。

 その後、ブッダは仏教教化の旅を続け、火を祀る(拝火教?)迦葉3兄弟と門弟1,000人、舎利弗・目腱連と門弟250人など、多くの人々を弟子にした。それに従い、仏教教団も大型 化し、インドを代表する宗教団体となった。

6 劔神社の文化財

(1)国宝

梵鐘 総高109.9㎝、身長88.5㎝、口径73.9㎝、撞座中心高31.5㎝、鋳銅、龍頭は宝珠、火炎を欠損、龍頭は厚みのある力強い構成で、笠形は中央に盛り上がり、二 条の圏線で内外2区に分かれる。乳は簡素で3段5列、上・下帯は無文である。撞座は龍頭側面に対し平行にとるタイプで、その位置は高い。作技は放胆である。銘文は草の間一区には 「剣御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」と陽鋳している。口径に比して鋳身丈が低いので、古式を示す。飛鳥・奈良時代の鐘で紀年銘を有するものは、妙心寺・興福寺の鐘など4口 のみである。明治35年(1902)4月23日に国宝指定、昭和31年(1956)6月28日に再審査により国宝に指定された。詳細は梵鐘のところで述べた。

(2)国重要文化財

絹本著色釈迦八相涅槃図1巻と付 紙本墨書涅槃講式(断簡) 縦231㎝、横248㎝。仏陀がクナシガラの沙羅双樹林で入滅する姿(涅槃相)を描いている。左右に縁 を設けて仏伝図を添えるのが特徴である。右縁の下から上へ向かって托胎・入胎・誕生・四門遊出であり、左縁の下から上へ向かって城・成道・初法輪の七相を描くが、八相最後の入涅 槃をクローズアップした表現形式をとる。肥痩のある筆線を使って緻密に描かれており、仏・菩薩・弟子・王侯らの表情をよくとらえており、縁辺の山岳描写なども古様を伝える。なお 、本図には涅槃講式断簡1巻が付属し、涅槃会の際に使用されたものと思われる。時代は絵の特徴などから鎌倉時代中期頃とみられている。大正3年(1914)4月17日に国宝、昭和25年( 1950)8月29日に再審査により重要文化財となった。現在は奈良国立博物館に寄託され、写真図が越前町織田文化歴史館に展示されている。

(3)県指定文化財

劔神社本殿 桁行三間(5.41m)、梁間四間(5.56m)。入母屋造(いりもやづくり)の主屋根の正面に千鳥破風(ちどりはふ)を付し、さらに向拝(ごはい)を鎚 破風(すがるはふ)とし、正面中央に唐破風を付す杮(こけら)葺の複雑な屋根構成をもつ建物である。「織田造」と称せられ、江戸初期の秀麗な姿をとどめる。
 もともと本殿は、応保元年(1161)の平清盛の焼き討ちにより長寛2年(1164)頃に建立されたというが、そのあと焼失し、宝徳3年(1451)頃に再建されたと伝えられている。その 後、宝徳元年(1574)の天災、天正2年(1574)の一向一揆、慶長3年(1598)の太閤検地騒動、その他の自然災害などに遭遇し、社殿の解体修理や屋根葺替えがおこなわれてきた。現 在の本殿は寛永4年(1627)改建と伝えられる。
 正面3間と側面2間の母屋に1間幅の前室を付し、正側面三方に高欄付の縁を廻らし、3間の向拝を設けた構成と考えられるが、母屋と前室との境は母屋前寄1間の中程に柱列を設け 後退させ、前室内に母屋柱が独立して立つ。挙鼻(こぶしばな)を付した平三斗(ひらみつど)を組み、二軒繁垂木(しげだるき)の軒を支える。向拝虹梁(こうりょう)上には蟇股( かえるまた)を入れるが、全体的に装飾は少なく、木柄が大きく随所に古式な様式もみられる建物である。現在の本殿は高さ1mほどの基壇の上に建ち、亀腹は青色切石を使用している。
 寛永4年(1627)の墨書銘から改建さたとみられるが、その創建は寛永4年より古い時期にあたり、あまり遠くない時期と考えられる。したがって、寛永4年に改建された姿が現状に 近いだろう。昭和54年2月6日に県文化財に指定された。


劔神社本殿

織田神社本殿 桁行一間(2.15m)、梁間一間(2.15m)。三間社流造りで、檜皮葺の建物である。劔神社の摂社である。一間社流造りで、檜皮葺の建物である。建 築様式から推して、後世の改修による部分が多い。しかし、全体として創建当初の室町様式がよく残されている基壇、亀腹から上部は後世修理の際、根太をせり上げて雪害を防いでいる 。腐朽の根太、通し柱を継矧して構造自体を高くしたようである。台輪・貫・組物などを丸柱が支えるので、巧みなバランスを得ている。流麗な屋根の勾配、二重垂木の配列、蟇股など の細部構造にまで優雅な風情を残す。流れ造りの典型的な遺構である。本殿と異なり、おとなしく、よくまとまった建物で、保存も比較的よい。建立年代は明らかでないが、その様式か ら判断して室町時代後期と考えられる。


織田神社本殿

不動明王三尊像 紙本著色 不動明王三尊像は3幅からなる。不動明王像は縦79.8㎝、横33.3㎝をはかる。二童子像は縦98㎝、横36.3㎝をはかる。中央に不動明王像 、向かって右に矜羯羅(こんがら)童子、左に制吒迦(せいたか)童子像を配する3幅1組の画像である。二童子は不動明王の眷属(けんぞく)として知られる。中央の不動明王像は長 い間、織田寺において本尊画として真言修法の対象となっていたため、全体的に損傷と煤汚れが多く、画像は判明しにくい。脇侍の二童子画像は、素朴な筆致ながら面貌、姿勢ともに均 整のとれた秀作で、保存状態も比較的良好である。ともに鎌倉時代から南北朝時代にかけての作と伝えられる。昭和59年(1984)3月2日に県文化財に指定された。

劔神社文書 越前二宮・劔神社は、延長5年(927)の『延喜式』神名帳に名がみえ、宝亀2年(771)には従四位下勲六等を賜る(『続日本紀』)など、北陸鎮護 の神として朝廷に崇敬された神社である。当社には数多くの文化財が伝わることでも知られており、古代から近代にかけての豊富な歴史資料が遺存する。その大半は『劔神社文書』と呼 ばれる古文書群で、219件220点から構成され、平成25年(2013)に210点が福井県指定文化財となった。本項では、そのうち代表的な文書を紹介していこう。
 「剣大明神略縁起并来由之事」は劔神社の由来を伝える資料で、嘉暦3年(1328)に神主忌部正統が記述したものなど、いくつかの資料を後世になって書き写したものである。応神天 皇の御代に、天利劔尊(あまのとつるぎのみこと)(忍熊皇子(おしくまのおうじ))が異国から襲来した軍兵と戦って敵将を討ち、帝より「劔大明神」と名乗ることを認められたとあ り、劔神社に古くから忍熊皇子が祀られていた可能性が高い。また、梅浦山上で旅人を襲っていた妖鬼を劔命が征伐し、荒暗嶽(座ヶ岳(くらがだけ))に鎮座した後に、現在の地へ遷 座したことなど、劔神社の来歴を記す。
 「藤原信昌・将広置文」は、信昌・将広父子によって、明徳4年(1393)に発給された。劔神社の神宮寺を復興するために奉納され、守護への奉公が忙しい中、父子が意志を同じくし て復興に尽くす旨や、劔神社と神宮寺の領田への課税を控えることなどが明記されている。信昌・将広一族は劔神社社家のひとつであったと考えられ、劔大明神に対する崇敬の念と護持 の心を古文書より読み解くことができる。
 現在のところ、資料中にみえる藤原将広は、応永年間(1394~1428)に尾張守護代として活躍した織田伊勢入道常松に比定されている。おそらく、尾張へ移った将広は、故郷の地であ る「織田」の地名を名字とし、織田氏と名乗ったのではないだろうか。
 また、劔神社と織田一族とのつながりを示す資料として、「柴田勝家諸役免許状」が知られている。柴田勝家が天正3年(1575)に劔神社―織田寺へ発給した文書であり、書中に「当 社之儀者殿様御氏神之儀」と認められる。劔神社を織田信長の氏神として位置づけていることから、信長自身が当地を自己の祖先の出身地として認識していたことがわかる。
 「劔神社古絵図」は、明応6年(1497)以前に描かれたとされる境内図である。御手洗川を境に、北側には御本社・気比社・神楽堂・神輿堂など神社関連の施設が、南側には御本地堂 ・護摩堂・鐘つき堂・三重塔・仁王門・講堂など寺院に伴う施設が描写され、劔神社―織田寺の繁栄の様子を伝える。平成22年から26年にかけて、越前町教育委員会は劔神社境内の発掘 調査を実施し、御手洗川と考えられる水路状遺構や、仁王門から講堂に続く道状遺構、寺院西側の池状遺構などを確認した。出土遺物より、少なくとも奈良時代後期以降、江戸時代末に 至るまで連綿と境内の造営活動がなされ、明治時代初頭に境内を大規模に埋め立てていたことがわかり、「劔神社古絵図」の描写は比較的信憑性が高いものと考えられる。
 『劔神社文書』のうち、中世文書は写しも含めて107点伝わり、朝倉氏に関係するものや、織田信長あるいは信長麾下発給の文書など、当時の支配関係や土地制度を知ることができる。 朝倉氏が発給した文書として最古の資料は、文正元年(1466)の「朝倉孝景諸役免許状」であり、孝景は「山門末寺織田庄織田寺」への兵糧米など諸役の賦課停止を命じている。応仁・ 文明の乱以前、すでに朝倉氏と織田寺とが結びつきを持っていたことを示している。
 天正元年(1573)八月付「明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益連署状」は、織田信長政権による当地の支配を示す最初の記録である。織田大明神領・坊領・山林について、朝倉氏による支 配の時代と同じ権利を保証したことを示す。明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益が越前を離れた後は、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次の「北庄三人衆」が越前支配に関する文書を発給した。 『劔神社文書』にも木下祐久のものを多く確認でき、(天正元年か)9月8日付「木下祐久書状」が最初の記録となる。ここでは、「織田神領并坊領」の押領・苅田の禁止について奉行 が伝えたにもかかわらず、実施されていないことに対し、状況によっては使者を派遣することを伝えている。
 天正2年(1574)、越前国内で一向一揆が蜂起し、一乗谷や北庄に侵攻した。織田も戦乱の舞台となり、劔神社―織田寺の「両社末社数多之堂塔」が消失したことを『劔神社文書』は 伝える。翌天正3年(1575)8月、織田信長は再度越前へ出陣し、府中を制圧する。一向衆の多くは誅伐され、「織田庄」でも一揆勢の追跡や逮捕が行われた。越前の支配は北庄に入っ た柴田勝家と、前田利家・佐々成政・不破光治の「府中三人衆」が担った。天正3年以降の文書は、勝家ならびに府中三人衆によるものが多い。このうち、興味深い資料を紹介しよう。 天正4年(1576)正月付で劔神社―織田寺が柴田勝家へ提出した「織田寺社申条々」には、寺社・内者の「刀さらへ」について「諸役高除」であるため、これを免除することが記される 。日本における刀狩の現存最古の記録とされ、百姓の武装解除ではなく、戦争遂行のための武器挑発を目的としたものであったと考えられている。
 最後に、『劔神社文書』と越前焼の関係について述べたい。天正5年(1577)9月8日付「劔大明神領分平等村田畠居屋敷指出状」は、決まった年貢量を平等村の人々が納めることを 約束した文書である。各住人の名前の下に略押(りゃくおう)が認められるが、これと近い形状の記号が同時代の越前焼に窯印として施されている。この略押と窯印の相関関係から、戦 国時代末期における越前焼の生産体制が復元されており、産業史を考えるうえで重要な資料と位置づけられている。
 簡単ではあるが、『劔神社文書』の紹介を行った。これをみると、劔神社の成立過程を示す伝承や神話をはじめ、織田信長の先祖と劔神社との関係や、中世における土地支配の実態や 繁栄の様子を伝えるもの、また越前焼研究に多大な寄与を与えた文書など、『劔神社文書』は当地の信仰・政治・経済など多岐に渡る内容を今に伝える貴重な資料といえる。

(4)町指定文化財

 旧 神前院護摩堂 旧剣大明神、織田寺の別当である神前院の護摩堂として、延宝3年(1675)に建立された。数少ない神宮寺の面影を残した建物である。堂内は 煙のために黒く煤けており、真言密教の修法により護摩祈祷がおこなわれたことがうかがえる。明治政府は慶応4年から明治元年にかけて神仏判然令を発布し、神社境内から仏像や仏教 関係一切のものを除去するよう命じた。そのため本尊の不動明王像などは境外へ移され、堂宇だけが残った。明治6年(1873)には学制の発布により進明小学校の校舎となり、その後、 社務所・役場として使用された。現在は絵馬堂と神輿殿に使われている。昭和62年(1987)11月1日に町文化財に指定された。


旧 神前院護摩堂

 神輿 2基ある。1基には屋根の頂上に青雉(きじ)の飾りを置いて剣大明神を奉ずる。もう1基には、白雉の飾りを屋根の頂上に置いて気比大神を奉ずる。『 剣大明神縁起』によれば、雉は剣大明神のお使鳥(つかいどり)とある。神輿の仕様は黒漆塗りで、堂の四方に朱塗りの鳥居と勾欄(こうらん)があり、堂の四面に金襴の御戸帳を懸け 、正面中央上部には神鏡を飾る。屋根裏より金メッキの瓔珞(ようらく)を四隅に吊す。真紅の鈴縄は、屋根のわらび手より長柄に取り付け、金鈴をつけ、紅と金色との色彩調和よく絢 爛燦然(けんらんさんぜん)としている。製作年代は寛政4年(1792)で、修理は昭和53年におこなわれた。昭和53年(1978)2月17日に町文化財に指定された。


神輿

 獅子頭 1面。獅子頭は昔から劔神社の「御渡(おわたり)」という神事のとき、獅子舞に用いられたものである。木彫で、全体が黒漆で塗られ、眼は金色、歯 は黒漆に塗られ、口は赤漆が塗られる。顔つきは重厚で、凄みが感じられる。寛文3年(1663)劔神社に、長らく中断していた御渡神事の再興が寺社奉行より認められ、氏子総力で大祭 がおこなわれたが、その頃よりこの獅子舞がおこなわれていたものと思われる。この獅子舞の社中を告獅衆(こくししゅう)と称し、座元を中心として30余人をもって構成され、今日ま で継承されている。江戸時代。昭和53年(1978)2月17日に町文化財に指定された。

※本文は、福井県郷土誌懇談会『図録 福井県の文化財』1968年、『図録 織田町の文化財』1989年、織田町史編纂委員会『織田町史』資料編 上巻 織田町 1994年、越前町教育委員 会『越前町織田史』(古代・中世編) 越前町 2006年、古川登「越前町織田劔神社隣接地出土の陶質土器について」『越前町文化財調査報告書Ⅰ』越前町教育委員会 2006年、村上雅 紀「講義8 絵解き・釈迦八相涅槃図」『平成21年度越前学悠久塾講義要録』越前町教育委員会 2010年、福井県教育委員会『白山信仰関係古文書調査報告書』2012年、堀大介「第2章 海を渡ったモノ・ヒト・ワザ―古墳時代編―」「第4章 海と信仰」『平成25年度 越前町織田文化歴史館企画展覧会 海は語る ふくいの歴史を足元から探る』越前町教育委員会 2013年 、堀大介「劔神社境内遺跡第5・6次発掘調査報告」(『越前町織田文化歴史館 館報』第10号 越前町教育委員会 2015年、堀大介『平成27年度 越前町織田文化歴史館 国宝梵鐘展示記 念企画展覧会 神と仏 祈り・祟り・祀りの精神史』越前町教育委員会 2015年、堀大介「越前国剣神考」(『越前町織田文化歴史館 研究紀要』第1集 越前町教育委員会 2016年より 引用・一部改変したものである。