織田文化歴史館 デジタル博物館

1 越前町と織田一族

 越前町織田(おた)地区は、織田信長公をはじめとする「織田一族」発祥の地として有名であり、「織田」という名字は当町の地名に由来すると考えられる。当町と織田一族とのつながりについて注目すると、越前二ノ宮・劔神社の存在が重要となる。

 劔神社に伝わる「藤原信昌・将広置文」は、信昌・将広父子によって明徳4年(1393)に発給された。この資料は、劔神社の神宮寺を復興するために奉納されたものであり、守護への奉公が忙しい中、父子が意志を同じくして、社僧・林泉坊実秀と力を合わせて復興に尽くす旨や、劔神社と神宮寺の領田への課税を控えることなどが明記されている。おそらく、信昌・将広一族は劔神社社家のひとつであったと考えられ、劔大明神に対する崇敬の念と護持の心を古文書より読み解くことができる。

 現在のところ、この資料中にみえる藤原将広は、応永年間(1394~1428)に尾張守護代として活躍した織田伊勢入道常松と同一人物と考えられている。その根拠のひとつとして、将広の花押と常松の花押とが非常によく似ていることが挙げられる。また、将広は越前守護・斯波義将の家臣であり、義将の子・義重が越前と尾張の守護を兼任するにあたり、尾張へ移住したとされる。これらのことから、尾張へ移った将広は、故郷の地である「織田」の地名を名字とし、織田氏と名乗ったのではないだろうか。すると、将広は越前を出国し、30年間ほどを尾張で過ごしたことになる。

 また、劔神社と織田一族とのつながりを示す資料として、「柴田勝家諸役免許状」が有名である。この資料は、柴田勝家が天正3年(1575)に劔神社・織田寺へ発給した古文書であり、書中に「当社之儀者殿様御氏神之儀」と認められる。劔神社を織田信長の氏神として位置づけていることから、信長自身が当地を自己の祖先の出身地として認識していたことがわかる。


織田氏略系図

藤原信昌・将広置文 『劔神社文書』


柴田勝家諸役免許状 『劔神社文書』

※本文は、越前町教育委員会『越前町織田文化歴史館 開館10周年企画展覧会 織田一族と戦国時代の茶道 ~織田有楽斎家伝世資料を中心に~』リーフレット 2011年 より引用・一部改変したものである。

2 法楽寺五輪塔地輪の謎

 昭和36年頃、法楽寺(織田地区)の造成工事にともない、丘陵斜面から石造物群が出土した。石造物群中には正応3年(1290)の年号を有する五輪塔地輪が含まれており、側面に「喪親尊阿聖霊/正応三年庚刀二/月十九日未尅」と3行19字の銘文が見える。

 これまで、銘文中の「親尊」は「親真」と誤読され、織田一族の系図に登場する「織田親真」の墓標ではないかと話題になったが、系図中の親真の亡くなった年代(1260年)と食い違いがあることから、親真の墓標とは考えにくい。では、この「親尊」とは誰なのか。親真との関係が気になるところである。


法楽寺の石造物群

法楽寺五輪塔地輪


法楽寺五輪塔地輪の銘文

※本文は、越前町「えちぜん年代記 第81回」『広報えちぜん』平成23年12月号 2011年 をもとに改変したものである。

3 織田親真の登場とその背景

(1)織田氏出自の諸説

 法楽寺五輪塔地輪については、織田氏の系図・系譜をもとに製作した贋作の疑惑がかねてからあった。石塔資料のもつ危険性が従来評価されなかった理由かもしれない。しかし今回の検討により、鎌倉時代後期の製作で、後世の追刻や捏造のたぐいでないことは証明できたように思う。個人墓と特定できた点、誤認による親真の可能性を指摘できた点で成果のひとつとしたいが、さらに踏み込めば、織田氏の系図・系譜に登場する「親真」との関係が気になるところであろう。

 親真はじつに謎めいた人物である。『続群書類従』巻第142「織田系図」、『寛政重修諸家譜』巻488「平氏 清盛流 織田」などの官選系図集には、信長の17代前の祖先として登場し、織田氏の始祖に位置づけられている。系図・系譜、縁起などの近世の文献にしか出てこないため、実在性の議論に発展することすらなく、これまで研究対象となることも少なかった。石塔と系図・系譜との比較に戸惑いはあったが、織田氏の出自を解明する足がかりになると考え、あえて検討を試みることにした。

 その前に、織田氏の出自に関する3説(平氏説・藤原氏説・忌部氏説)の研究史を整理しよう。

 まずは、平氏説である。一般的な系図・系譜によると、平重盛の子資盛の遺児である親真が、近江国津田(滋賀県近江八幡市)の郷長に母とともに養われ、のちに越前国織田社の神職の養子となり、その子孫が織田と名乗ったことに由来する。織田氏の祖先は平氏につながることから、主に系図・系譜を根拠とする説である。なお、大師堂(岐阜県郡上市白鳥町石徹白)所蔵の銅製鰐口(県指定文化財)には、表面「元亀二年辛未(1571)六月吉日」、裏面「信心大施主 平信長」の銘文がある(『越前大野郡石徹白村観音堂鰐口』)。金石文ではあるが、信長が平氏を名乗ったことを裏付ける数少ない資料といえる。

 世間一般の認識について、次のような見解がある。信長が将軍義昭を追放した2ヶ月後の天正元年(1573)9月、兎庵の『美濃路紀行』という旅記録の中で、「源氏の権柄も漸々その勢のおとろへぬべき時もやめぐり来にけむ。天が下信長公になびかぬ草木もなき有さまは、先代にもそのためしいまだきかざりし事なり。その本系をたづぬれば、小松のおとど第二の後胤なれば、暑往寒来ことはりにて、今四百年のあと立かへり、平氏の再栄ゆべき世にやとおぼえて」とある。小松のおとどは平重盛、第2の後胤は平資盛を指す。信長の平氏後胤話が16世紀後半に囁かれており、織田氏が平氏の流れを汲む認識が広まっていたことがわかる。

 信長は平氏を自称したとされるが、それを示す明らかな資料は数少ない。信長が積極的に「自分は平氏である」とピーアールした形跡もなく、そもそも源平交代説思想が信長の時代にどれほど世間に受け入れられたのか自体よくわかっていないという。いずれにしても、信長が生物学的に平氏の子孫であったと積極的に主張するのは難しいであろう。

 次に、藤原氏説である。田中義成氏は、信長の父信秀の主君にあたる清洲城主・織田大和守達勝が藤原を名乗り(『尾張円福寺文書』)、天文18年(1549)の信長の制礼(『加藤文書』)にも藤原信長の署名の実例などから、平氏ではなく藤原氏であるとの説を提唱し、信長の平氏への改名は源平交代思想を利用したものと論じた。つまり、信長が天下を図るにあたり、源氏の子孫である室町幕府の足利将軍の打倒を正当化するために考え出したことになる。

 最後に、忌部氏説である。多賀谷健一氏は、織田氏が七条院領織田荘(越前町織田)の荘官だったとの田中説を進め、同荘内の織田劔神社の神官の出身で、本姓は忌部氏であろうと考証した。福尾猛市郎氏は、次のような見解を提示した。越前町織田を中心に形成された織田荘の年代は明らかでないが、本領主は京都の貴族、高階宗泰である。宗泰は建保6年(1218)本家職を後鳥羽上皇の生母七条院に寄進する。七条院は安貞2年(1228)これを上皇後宮の修明門院に譲り、皇室御領荘園であったが、のち妙法院領として同門跡に伝えられた。織田荘の性格については詳細にできないが、荘の中心的存在が劔神社であり、その祀官が荘官として豪族的存在であったことは否定できないとする。

 なお、越前町織田と忌部氏の関係については、吉田東伍氏の見解が知られる。吉田は、劔神社の所在地を律令制下の敦賀郡伊部郷(『和名類従抄』郷里部)、現在の越前町織田地区(旧・織田町)あたりに比定し、伊部は忌部に同じ、織田の社司を忌部氏とする。村田氏春の『越前藩拾遺』(寛保3年(1743)成立、天明2年(1782)までに完成)では、「織田神社(中略)老祝斎部氏神人ノ第一、惣髪白髭、劔之神社ヲ掌握ス。権祝忌部氏気比ノ神社ヲ掌握ス」とあり、近世に至っても織田の祀官は「いんべ」姓であったことがわかる。

 織田氏の出自には諸説あるが、その発祥が織田の地という認識はあった。また、信長が越前を平定した直後の天正元年(1573)、家臣木下祐久の書状(『劔神社文書』)に「殿様御氏神」と記すことから、信長は自分の祖先が織田から出たという認識もあった。そのため、織田氏の出自が越前町織田にあることに異論は少ないと思うが、要はその一族の出自が平氏なのか藤原氏なのか、それとも忌部氏なのかの違いなのである。

(2)系図・系譜の中の親真

 系図・系譜の史料をもとに、「親真」について詳しく見てみよう。

 『続群書類従』「織田系図」・『寛政重修諸家譜』「平氏 清盛流 織田」・『系図纂要』「平氏朝臣姓織田一流」を参考にすると、親真は通称・三郎、官位・権大夫。別諱は「親実」。忌部(斎部)親真・平親真・織田親真と称し、織田氏・津田氏の祖とされている。生年は平氏滅亡前の寿永2~3年(1183~1184)頃で、没年は不明である。平資盛(平清盛の孫で、平重盛の子)とその愛妾(三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪)の間に生まれた子とする。

 寿永4年(1185)の平家滅亡にさいして、愛妾(親真の母)と幼子(親真)は近江蒲生郡津田庄に隠れた。愛妾は津田の土豪の妻となり、織田庄の神職の養子となった。その後、神職を継ぐが、剃髪して覚盛と号した。つまり、親真は平氏の子孫で、織田庄の神職に養子にはいることで、織田氏の祖先は平氏につながるわけである。

 なお、『続群書類従』「織田系図」の末尾には、「右織田内匠長清本をもって写す。元本備州法華寺所蔵也、/元禄九年(1696)丙子之春」という彰考館の識語がある。その底本は、彰考館の史臣丸山可澄が編んだ『諸家系図纂』といい、同じ識語と元禄5年(1692)の序がある。ここに紹介した親真の話は、少なくとも17世紀末以降の認識となる。

 一方、『忌部氏系譜』・『越前織田明神社家忌部上坂系譜』・『織田氏系譜』(織田家子孫織田完之家所有系譜)の系図・系譜があり、親真の出自に違いが認められる。母は富田二郎・平基度の娘で、神祇権大祐・忌部(斎部)親澄に嫁ぎ、親真を生む。貞永2年(1233)織田明神の神主となり、正嘉2年(1258)に比叡山に登り、法名を覚盛(覚性)と称した。その2年後、正元2年(1260)2月18日に亡くなる。死亡年月日を記す点が特徴である。

 特に、「平氏にあらず、忌部神主の正系なり」(『越前織田明神社家忌部上坂系譜』)とある。系譜では、親真の母が平氏の娘というだけで、平氏後胤説を否定し、忌部氏の祀官の正系だと強調している。

 この点に関しては、山田秋甫氏の指摘があった。山田は、織田氏に関する史料を収集し、忌部氏説を展開する。「親真を平氏の庶子と称するは親真の母が平基度の女なるに依りて誤られ 又資盛の妾某が津田郷に逃れたりと云へるは親真の男親基が正応三年(1290)五月津田に移住したるに據りて誤られ(中略)故に織田家の系譜と平氏の系譜とを混同せるは全然誤謬なり 今左に精究せる系譜を掲載して以て天下の疑團(胸につかえている疑いのこと)を氷釈(氷が溶けるように消え失せること)せしむ」とする。

 そして、「此に由て之を観れば親真は親澄の実子にして資盛の庶子に非ざること明白なり」、「以て親真は平氏に非ずして純然たる忌部氏なりしを證するに足るべし」と言葉を強め、平氏説を完全に否定する。

 このように、親真を忌部氏の正系とする系図・系譜が存在していた。作成年代が特定できない問題点はあるが、越前町織田には平氏後胤説を認めない風潮があったようだ。他に、忌部氏系図として、好古社編の『好古類纂』「織田系図」(明治33年(1900)〜明治42年(1909)刊行)がある。平氏後胤説の系図に比べて数は少ないが、親真が忌部氏とつながる系図・系譜は確かに存在するのである。

(3)石塔銘文と忌部氏系譜の比較

 それでは、親真の死亡年月日(正元2年庚申(1260)2月18日)を検討しよう。

 まず前提として、平氏後胤説の織田氏系図・系譜には、死亡年月日が記載されていない。その点で、『忌部氏系譜』・『越前織田明神社家忌部上坂系譜』は、越前町織田に伝わる独自の系譜と考えられる。また、親真墓五輪塔の埋葬者は親尊(尊の異体字)という人物の可能性が高いとしたが、採拓しても親真と読めてしまうことから、やはり従来、親真の墓として認識されていたのだろう。石塔の銘文を親真と読んでいたとすれば、石塔と系図・系譜、同名の死亡年月日が併存することになる。

 そこで、死亡年月日を改めて比較しよう。

 ・系譜 …… 正元2年庚申(1260)2月18日

 ・石塔 …… 正応3年庚寅(1290)2月19日

 正元と正応、庚申と庚寅、2月18日と2月19日。庚寅と庚申は30年、日は1日違い。ふたつの元号・干支と年月日が似ていることに気づく。従来の見解では、系譜の死亡年月日を重視したため、石塔を30年後の1290年に子供の親基が、父親真の供養塔として建てたと考えられていた。しかし、1290年没の個人墓であることはすでに検討した。しかも、親真の父親澄の死亡年月日も貞永2年(1233)3月18日(『忌部氏系譜』・『越前織田明神社家忌部上坂系譜』)とあり、石塔の死亡年月日の数字とやはり似ているのである。

 これは偶然の所産なのか。石塔の人物の死亡年月日が、系譜作成のさいに利用されたばかりか、親真(親澄も含めて)の死亡年月日に何らかの影響を与えたように感じられる。石塔の親真が1290年に亡くなったとすれば、生年とされる平氏滅亡前の頃から100年以上も離れるため、石塔の親真はかなりの長命になってしまう。系譜には54歳で亡くなったとある。

 かりに、その年齢をもとに、1290年から逆算しても1236年生まれで、鎌倉時代中期から後半にかけて活躍した人物となる。すると、石塔と系譜では、相当の年代的な齟齬が生じてしまう。しかも、系譜には親真の息子に親基という人物が存在するが、親基の基と親尊の尊も字体が似ているため、親基の存在も石塔の銘文をもとにつくられたことも考えられるだろう。

 したがって、系譜作成のさいに、石塔の銘文をもとに親真・親基の親子が生み出されたばかりか、親尊の誤認により生まれた親真という人物(本当は親尊であるが)の死亡年月日を遡らせ、織田氏の祖先を平氏につなげたと考える方が自然であろう。しかも、元号・干支・年月日の酷似がいかにも恣意的である。平氏との接続により権威付けとしたのか、それとも、江戸時代に広まった源平交代思想の影響が強かったのか。いずれにせよ、誰の行為かが問題となる。越前町織田に残る系譜に記されたことから、織田神社の関係者だった可能性が高い。

 現在、劔神社には平氏後胤話・津田遺児話・織田養子話に関する縁起がふたつ存在する。わずかな記述しかないため、以下に全文を引用する。

  一 小松の社と申すは、太政大臣平信長将軍の御造営なり、御先祖内大臣重盛公を勧請す、系図在り、氏神として崇敬し給う、重盛公の息、資盛の嫡子親真は織田神主の養子と成る、廿五人の子在り、皆社職の家を次がしむなり(『剣大明神略縁起(一)』)

  重盛次男資盛一族と海に没す、孤児あり其母懐中に深く匿して江州津田郷に来る、越前織田神職忌部権正彼孤児請受て養子し織田村帰る 是津田権太夫親実と云」(『剣大明神略縁起(二)』)

 これらの縁起は、平氏後胤説を採用した小瀬甫庵の『信長記』(以下、『甫庵信長記』)・『続群書類従』・『寛政重修諸家譜』などの豊富な記述量と比べて極めて短く、要点を抽出した感がある。内容は、平資盛の子親真が織田神主(神職)の忌部氏の養子となり、社職の家を継いだ点で共通する。平氏後胤説が縁起で語られる一方、忌部氏を正系とする系譜が存在したことになる。

 つまり、平氏説と忌部氏説が併存するわけである。その理由については、織田神社関係者内部の葛藤にあるとみている。ある一派が平氏とのつながりを権威づけに利用しながらも、それを快く思わない一派が別の系譜を残したとは考えられないだろうか。

 平氏後胤話はのちほど触れるが、縁起の成立時期ともかかわる問題である。系図・系譜を作成する際、越前町織田に古くから伝わっていた縁起をもとにしたのか、それとも信長の頃から急速に広まった平氏後胤説が一般化するなかで、織田氏の系図・系譜がつくられ始め、それらをもとに縁起の一部に加筆したかで、その解釈も変わってくるからである。いずれにしても、石塔の銘文がもとになり、その誤読によって親真が登場したと考えている。

(4)親真の登場

 それでは、親真がいつ史料に登場するようになったのだろうか。

 親真の話を整理すると、平氏後胤話・津田遺児話・織田養子話は、『剣大明神略縁起(一)』(『劔神社文書』)が最も古い史料となる。ただ、これには年代的な問題がある。『剣大明神略縁起(一)』は、嘉暦3年(1328)に神主忌部正統が記述したものと、永禄6年(1563)に、斯波義将公御問訊に対し神主忌部正長が書き上げたものを、後世になって書き写した縁起だからである。

 じっさいに縁起を観察すると、全体的にそろった丁寧な筆致であるが、肝心の書写時期が記されていなかった。永禄6年(1563)の記述に親真は出てくるが、後世の書写という点で内容をそのまま信じることはできない。『剣大明神略縁起(二)』(『劔神社文書』)にも同様の話が出てくるが、結局のところ書写の時期が不明である。かりに近世末以降に一括書写したならば、幕府などが編纂した織田氏の系図・系譜をもとに追記した可能性も出てくるからである。

 このように、縁起には様々な問題を含む。ここでは除外して考えると、平氏後胤話・津田遺児話・織田養子話は『甫庵信長記』「信長公御先祖の事」が最初であろう。慶長16年(1611)末〜17年(1612)5月までに成立したことから、江戸時代初頭における親真話の原型としてとらえられる。「信長公御先祖の事」の一部を以下に引用する。

  遠く先祖を尋ぬるに、平相国清盛公より信長公まで廿一代の後胤とかや。其の由来は元暦年中に平家の一族、悉く亡びし時、平氏の貴族の中に、最愛せられし妾(おもいもの)一人、孤(みなしご)を抱へて近江国津田と云ふ所へ落ち給ひしに、津田郷の長、彼の端厳美麗なるに愛で、之を深く隠し、則ち旧妻を追打って、我が家の妻にかしづきければ、子供あまた出来けり。髪に越前国織田庄の神主、毎年天下御祈祷の巻数を捧げて上りけるが、毎度彼の長が許にして宿しけるに、児童の多きを見て、子や持たざりけん、哀れ一人給はれかし。養うて我が代せさせ、老を安んぜんと申しければ、元より子は多し、然るべき事とて、何れをといふ程に、幸継子ではあり、彼の孤をぞ与へける。神主悦びて帰国し、其の子に吾跡を継がせけるとかや

 簡単にまとめてみる。①信長は平清盛の21代の後胤で、②「平氏の貴族」と、平氏の貴族の中に最愛せられし「妾」との間に生まれた子供が「孤」である。③平氏滅亡時に「妾」と「孤」は近江国津田に逃れ、④「妾」は津田郷の長に嫁ぎ、子供をたくさんつくった。⑤越前国織田庄の神主が津田の郷長の家に泊まった時に、多くの子供の中から前妻の孤をもらい受ける。⑥神主は越前に帰国し、その「孤」に跡を継がせた。

 具体的な内容にもかかわらず、親真の母を思わせる人物は「妾一人」、親真の父と思わせる人物は「平氏の貴族」、本人を思わせる人物は「孤」・「其の子」としか出てこない。つまり、人名がまったく記されていない。清盛21代の後胤とある「平氏の貴族」については、平資盛と比定できるかもしれないが、母子に関しては誰か特定できないのである。

 はたして小瀬甫庵は、「信長公御先祖の事」を、どのように書き上げたのだろうか。完全な創作だったのか、何かの史料にもとづいたのか、加筆にとどまるものだったのか。執筆にあたり、『剣大明神略縁起』を参考にしたとも考えられるが、人名を特定しないことの説明が難しくなる。むしろ、縁起自体が江戸幕府の官選系図集をもとに加筆したことを考えるべきである。いずれにしても、一連の話については、内容の具体性から創作性の高さを示しているように思う。この点は『甫庵信長記』の性格にも関係するだろう。

 太田牛一の『信長公記』については資料的価値が高いが、『甫庵信長記』については、『信長公記』を底本に儒教的価値観にもとづき、創作や脚色を加えて書かれたもので、資料的価値は低いという。しかも、『信長公記』には信長の出自話はないが、『甫庵信長記』には平氏から信長につながる津田遺児話と織田養子話が記されている。そのため、小瀬甫庵が『信長公記』の記述の物足りなさから、そこに創作を加えたことも考えられるだろう。

 なお、平氏後胤話については「小松のおとど第二の後胤」(『美濃路紀行』)とあり、1573年頃に流布していた。「平信長」(『越前大野郡石徹白村観音堂鰐口』)の銘文も元亀2年(1571)のことである。これらを勘案すると、小瀬甫庵が1571~1573年以降の平氏後胤話をもとに、独自に書き上げたことが推測できる。『剣大明神略縁起』が底本となったことも考えられるが、縁起の書写時期の特定ができない点、縁起の文字数の少ない点で根拠としては弱い。それらを参考にしたのであれば、親真という人名が登場してしかるべきである。『甫庵信長記』の内容の具体的な点、人名がまったく書かれていない点が、創作性の高さを物語るからである。

 それでは、そもそも津田とは何に由来するのか。山田秋甫氏は、『忌部氏系譜』などをもとに、親真の息子親基が正応3年(1290)5月に津田へ移住した点を津田話の原型と考えた。しかし、むしろ津田とのつながりを親真の母との関係に求めてみたい。親真の母の記述に着目しよう。『続群書類従』「織田系図」には、三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪とあるが、この史料的な根拠はわからない。

 一方、『忌部氏系譜』・『越前織田明神社家忌部上坂系譜』には、「富田二郎平基度の女、世に津田女と称す」とある。しかも、津田女は伊勢国朝明郡富田(三重県四日市市富田)、富田進士三郎平基度の子にして、近江国津田、住士伴五家次に嫁すも家次死し後親澄に再嫁と一子を設けるとある(『越前織田明神社家忌部上坂系譜』)。

 基度は『吾妻鏡』に登場する人物である。進士三郎基度は、伊勢国朝明郡富田庄を本拠地とした伊勢平氏の一族で、三日平氏の乱において平賀朝雅に殺されている(『吾妻鏡』元久元年(1204)4月21日)。また、近江国の住人盤(伴)五家次は、元久元年に追討された伊勢平氏の富田三郎基度の聟(むこ)だという(『吾妻鏡』承久元年(1207)9月24日)。

 盤(伴)五家次については、囚人となっていた柏木五郎家次の子息の貞次とあること(『吾妻鏡』承元2年(1208)11月14日)から、その根拠地を柏木(滋賀県甲賀市水口町あたり)に求められている。柏木と津田が何らかの形で関係するとしたら、『越前織田明神社家忌部上坂系譜』の津田女もここに由来するかもしれない。

 『吾妻鏡』にもとづき忌部氏の系譜を作成したといえば、それまでであるが、何より親真の母は津田に一度嫁ぐが、夫の家次が亡くなり、織田明神の神主と再婚したため、津田女と称したという内容が興味深い。推測の域は出ないが、津田とのつながりは何らかの事実が反映していた可能性が高い。それが実際の親真の母かどうかはわからないが、織田明神の神主と津田に嫁いだ女との再婚話が、津田話の原型になったとは考えられないだろうか。

(5)親真話の展開

 次に、平氏遺児話・津田遺児話・織田養子話はその後、どのような展開をみせるのか。親真が織田氏の系図に登場した時期を検討する。

 まずは、江戸時代前期の動向に注目しよう。3代将軍徳川家光は儒官林道春(号、羅山)に命じて、『信長譜』1巻を撰述させた。林羅山は寛永18年(1641)に11月上旬に筆を起こし、わずか1か月にして脱稿、12月7日これを家光のもとに進呈した。明暦4年(1658)5月に刊行された『織田信長譜』である。そこには系図が掲げられており、以下の説明文が続く。

  重盛次男資盛、新三位中将と号す、赤間関に於て一族とともに同じく海に没す、孤児有り、其の母これを懐中に匿し、以て江州津田郷に流落す、郷長其の母の麗質あるを以ての故に、これを納れて妻と為して其の孤児を育なふ、世の人其の平族たるを知ること無きなり、越前織田庄の神職の者、甞て来りて津田郷長の宅に宿し、孤児を請ひて以て養子と為し、これを携へて越前に帰り、神職を継がしめ、織田権大夫親真と号す、其の子孫相継ぎて越前に住す、足利氏の天下を領するに及びて、斯波氏武衛と号す越前国主たり、織田神職の児の容貌端正なるを見てこれを召して小臣となし、織田を以て称号となす、乃ち越前より尾張に移る、斯波氏六家老有り、其の一人罪有りて放流せらるるや、織田氏を以てこれに代ふ、是より其の氏族繁栄して以て信長に至る、信長は親実十八代の後なり

 平氏後胤話・津田遺児話・織田養子話が、親真(親実)という人物で結びつけられている。同じく林羅山が関与した『寛永諸家系図伝』においても、平資盛の子として親真が出てくる。寛永18年(1641)、将軍徳川家光によって編修の命が下され、同20年(1643)に完成した幕臣諸家の系図集である。今回の検討では、これらより古い事例を探せなかったことから、親真話は1640年代に定着したのだろうか。

 それ以降の系図・系譜を見てみよう。諏訪忠晴の『本朝武林伝』を以下に引用する。

  織田は其の先大師平清盛より出づ。清盛は桓武天皇十二代の後胤(中略)重盛の次男資盛、新三位の中将、赤間関に於て一族とともに同じく没海す、孤児有り、其の母これを懐中に匿し、以て江州津田郷に流落す、郷長其の母の麗質あるを以ての故に、これを納れて妻と為して其の孤児を育つ、世の人其の平族たるを知るもの無きなり、越前の国織田の庄の神職の者来て津田郷長の第に宿る、孤児の秀朗あるを見てこれを請ひて以て猶子と為し、これを携へ越前の国織田に帰り、その職を嗣がしめ、織田権大夫親真と称す、其の子孫相継ぎて越前に住居す、足利氏の天下を取るに及び、斯波氏武衛と号す越前の国守たり、織田神職の児の容貌端正なるを見てこれを召して小臣となし、織田を以て称号となす、乃ち越前より尾州に移る、斯波氏六家老有り、其の一人罪有りて放逐せらるるや、織田氏を以てこれに代ふ、是より其の氏族繁栄して以て信秀備後守に至りて権勢益顕然たりなり

 これらの内容は『織田信長譜』と酷似している。『織田信長譜』をもとに一部改変したのだろう。他の史料を見てみよう。

 遠山信春の『総見記』[貞享2年(1685)成立]には「信長より十八代の先祖権太夫平親真と云人初江州津田郷に住せられしが其後越前国織田庄に移り織田大明神の神職となる後に出家して覚盛と号す是即常氏織田の曩祖也」とある。

 新井白石の『藩翰譜』[元禄15年(1702)成立]には「親真 津田権大夫 越前織田津田等の祖」とある。

 寒川辰清の『近江輿地志略』[享保19年(1734)成立]には「織田親実 蒲生郡津田の人なり権大夫と号し津田先生といふ。法名覚成法師織田氏元祖、桓武天皇十四世の孫也。其家記にいふ、安徳天皇寿永二年秋八月小松三位資盛西海に赴く日、妾孕めるなり近江国津田郷に奔る。然る後男子をうむ是親実也。越前国織田明神祀官養うて親実を子とす。是に於て織田氏を称すと。織田信長は親実十四世の孫なり。今織田氏の庶流津田氏を以て称するは之に因れり」とある。

 村田氏春の『越前藩拾遺』[寛保3年(1743)成立、天明2年(1782)までに完成]には「伝ニ云、平ノ重盛公ノ二男資盛ノ嬰児ノ母懐ニシテ江州津田ノ庄ニ隠ル。此頃当社之神職従五位左衛門尉忌部宿祢親澄子ナキヲ以テ彼ノ嬰児ヲ子トシ、織田権ノ太夫斎部宿祢親真ト号ス。(中略)織田・津田両姓ノ祖ニシテ十八代メ信長公也」とある。

 このように親真の話は、17世紀末から18世紀にかけて史料上に頻出する。なかでも古い記録は、林羅山が編纂に関与した『織田信長譜』・『寛永諸家系図伝』で、いずれも1640年代の官選系図集である。林羅山をはじめとした編者が、どの史料から親真を取り上げたのかはわからないが、『剣大明神略縁起』の成立年代の方が古ければ、その編纂時に越前町織田側の史料(縁起や系譜など)をもとに親真を登場させたと考えられる。

 また逆に、幕府側が織田氏の系図・系譜を作成することがきっかけとなり、越前織田側の縁起や系譜の整備を進めたとも考えられる。そして、そのさいに、法楽寺に祀られていた五輪塔が(その当時まで埋まらずに現存したことを前提とするが)一級資料として採用された可能性が高い。

 いずれにしても、親真にまつわる一連の出生話は、『甫庵信長記』の平氏後胤話・津田遺児話・織田養子話をベースに、林羅山などの幕府編集のもとに完成し、それから世間一般に広まった公算が高いだろう。

※本文は、越前町教育委員会『越前町織田文化歴史館館報 第7号』2012年 より引用・一部改変したものである。

4 尾張織田家と信長の誕生

(1)織田家の分立と大和守家の台頭

 織田氏が守護代・又守護代を継承する体制が戦国期まで続く。「広」を通字とし兵庫助・伊勢守の官途を名乗る系統=本家が当初守護代を継承し、大和守の官途を名乗る系統が又守護代を継承する。またこれら以外にも庶家が成立する。しかし、それぞれの具体的な系譜関係についてはよくわかっていない。

 15世紀後半の織田氏で活躍が著名なのか織田敏定である。敏定は又守護代・大和守久長の子である。久長を常松の孫とする説がある。これが正しいとすると、敏定は常松のひ孫になる。ちなみに、酬恩庵(京田辺市)に伝わる織田宝岩祐居士像の像主を久長と見る説がある。また敏定の母は、朝倉教景(孝景祖父)の女=為景(孝景父)の姉妹=孝景のおばにあたる。よって、織田敏定と朝倉孝景とは従兄弟の関係になる。

 応仁・文明の乱では本家・敏広は西軍に、大和守家・敏定は東軍につき、抗争を繰り広げた。いったん尾張を退いた敏定であったが、足利義政の命により再び尾張に入り、斯波義廉・織田敏広と戦う。文明10年(1478)年の清須城防戦で、籠城側の敏定は、戦いのさなか矢を右目に受けるが、抜きもせずそのまま戦い続けたという。現在、実成寺(愛知県甚目寺町)に伝わる敏定の肖像画は目がつぶれた後の風貌を描いている。文明11年(1479)に敏定と敏広は和睦し、敏定は尾張南部二郡守護代となる。敏定―清須方守護代家と敏広―岩倉方守護代家による尾張分割支配の成立である。

 応仁・文明の乱の後も戦乱は続く。長享・延徳年間の足利義尚・義材の近江六角攻撃にも敏定は従軍し、戦功を挙げる(義尚の近江攻撃のさいには朝倉貞景が、敦賀郡司・朝倉景冬を指揮官として派兵。貞景自身は越前国内に留まる)。ちなみに、長享・延徳年間の斯波義寛・朝倉貞景間の訴訟は、この時期に重なる。このとき織田敏定は、斯波義寛を支援する態度をとる。同じころ、貞景と美機守護代斎藤妙純の女との婚姻があった。この連携強化に対し、敏定は牽制を試みたということだろうか。

 さてその後、敏定と岩倉方守護代家との抗争が再燃する。美濃船田の石丸氏とその主家・守護代斎藤氏との抗争、すなわち船田合戦では、敏定は石丸方に与し、織田寛広(敏広の子)は斎藤方に与した(また朝倉貞景は、斎藤方に与して美濃へ派兵した)。そのさなか、明応4年(1495)、敏定は陣中にて病没する。翌5年(1496)、石丸は自殺して斎藤方の勝利に終わる。

 この後も守護代は、寛広の系統と敏定の系統で継承される。しかし、その具体的な系譜については、よくわかっていない。

(2)弾正忠家の台頭

 信長の直系の先祖のうち、確実な史料でたどれるのは曾祖父までであり、それ以前の系譜はわかっていない。信長の曾祖父良信以来この家は、代々弾正忠の官途を名乗る。これに先行して、正長元年(1428)に織田常松の配下に「織田弾正」がいたとの記録がある(『満済准后日記』)。しかし、良信以下の弾正忠家との関係は不詳である。織田氏の中でも早い時期に分かれた系統であろうか。

 良信は織田敏定に仕えた。ただし「良」字は守護・斯波義良(のち義寛)から名の一字を与えられたことを示すと考えられる。その点、敏定の家人というよりかは、守護被官としての性格が強いと考えられる。

 良信が行ったことの中で著名なのが、文明14年(1482)の清須宗論である。これは敏定が主催した法華宗の宗論であり、敏定自らが信仰する本圀寺方と身延山久遠寺方とを争わせた。この宗論の判者・奉行の中に良信がいた。ちなみにこの宗論は本圀寺方が勝利する。

 信長の祖父・信定(信貞)の活動は、永正年間(1504〜21)に確認できる。清須方守護代家に清須三奉行と呼ばれる有力家臣がいた。その一人が信定であった。守護被官というよりは清須方守護代家の被官としての性格を強めたということであろうか。信定は勝幡を本拠とした(良信以下の系統を「勝幡系」とも称する)。また港町・門前町である津島を領有したことが、弾正忠家の重要な経済基盤となったといわれている。

 信長の父信秀の活動は、天文年間(1532〜55)に顕著となる。主家たる清須方守護代家や三奉行家の残りの家との戦争が起こる。信秀の戦争は尾張国内にとどまらなかった。三河・美濃まで出兵し、松平氏・今川氏・斎藤氏と戦い、一時は三河から美濃にまで領域を広げる。居城を那古屋へ移したのは、三河方面への進出指向と関連する。とはいえ尾張国内自体がまだ織田諸家が分立した状態であり、安定した支配を確立することはできなかった。信秀の没年は天文21年(1552)ともいわれるが、諸説がある。

(3)信長の登場

 信秀の死により信長が家督を継承する。信長は尾張一国を統一すべく、国内の反信長勢力を各個撃破していく。弘治元年(1555)(天文23年(1554)とも)、主家・清須方守護代織田信友を滅ぼし、これ以後清須を本拠とする。永禄2年(1559)、織田の本家・岩倉方守護代織田信賢を滅ぼし、尾張一国をほぼ制圧する。かの桶狭間の戦いは永禄3年(1560)のことである。尾張統一から間もない時期だった。その後、美濃制圧が信長にとって重要な政策課題となる。永禄10年(1567)、信長は美濃稲葉山城を攻略し、岐阜と改称し、本拠とする。上洛が近づく。


織田信長像

織田信長安堵状 『劔神社文書』


織田一族発祥地 碑

※本文は、越前町教育委員会 編『越前町織田史(古代・中世編)』越前町 2006年 より引用・一部改変したものである。