織田文化歴史館 デジタル博物館

1 蟬丸の伝記

 陶ノ谷の野地籍の田の中に除地として誰もが手をつけない築山状の土地があり、その頂上に苔むした石塔が3基ある。この石塔は昔から蟬丸の墓といい伝えられている。

 蟬丸は実在の人だったと思うが、その伝記には不明の点が多い。小倉百人一首に蟬丸の歌がある。

  これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

 原歌は『後撰和歌集』巻15雑之部にあって、「別れては」は原歌では「別れつつ」になっている。そして、「あふ坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかふ人を見て」という詞書がついている。この詞書と蟬丸伝説を素材として脚色した能『蟬丸』および『今昔物語』以外には、蟬丸伝記の典拠はない。

 能『蟬丸』では、延喜の帝(醍醐天皇=897-929年)の第4皇子と蟬丸はなっている。蟬丸は幼少から盲目だったので、帝は侍臣清貫(きよつら)に命じて逢坂山に連れてゆかせ、剃髪の上、捨てさせる。蟬丸は前世の報いとあきらめ、今はただひとりの同情者博雅(はくが)の三位が用意してくれた藁屋に住み、琵琶に心を慰めている。

 一方、蟬丸の姉宮の逆髮は、髮が逆立つ病の上に心も乱れてさまよい歩いていたが、たまたま逢坂山で蟬丸の琵琶を耳にし、思わぬ対面をして身の不遇を語りあって泣く。やがて立ち去る姉宮の後姿を、蟬丸は見えぬ目に見送る、というのが能『蟬丸』のあらすじである。

 蟬丸が捨てられるとき、歎き悲しむ清貫に蟬丸は、過去の罪業を償わそうとする父帝の慈悲だといって、恨まず嘆かず従ったという能作者の発想を随筆家楠田立身は不可解としている。また、陰暦5月24日を句界では蟬丸忌としているが、生没もわからぬ蟬丸の忌日をどうして決めたのだろうかともいっている。

 『今昔物語集』第24の23話は「源博雅朝臣、行会坂盲許語」という題で、以下のようにある。

  其時ニ会坂ノ関ニ一人ノ盲、庵ヲ造テ住ケリ。名ヲバ蟬丸トゾ云ケル。此レハ敦実と申ケル式部卿ノ宮ノ雑式ニテナム有ケル。其ノ宮ハ宇多法皇ノ御子ニテ、管絃ノ道ニ極リケル人也。年来、琵琶ヲ弾給ヒケルヲ常ニ聞テ、蟬丸、琵琶ヲナム微妙ニ弾ク

 そうすると、蟬丸は宇多法皇(887―931年)の第8皇子敦実親王の雑式で、宮が琵琶をよくしたので、これを常に聞いていた蟬丸は、琵琶を微妙に弾いたということになる。能の蟬丸とは喰い違ってくるのだが、これをいずれと決定する確実な史料はない。

 蟬丸には、前記「これやこの」の歌の外に3首の歌が知られている。

  世の中はとてもかくてもすごしてむ宮も藁屋もはてしなければ

 この歌は『今昔物語集』にあって、博雅が蟬丸の秘曲を聞かんとして、人をやって「何ド不思懸所ニハ住ゾ。京ニ来テモ住カシ」といわせた時、蟬丸がこの歌を以て答えたとなっている。新古今集では第3句「すごしてむ」が「おなじこと」となっている。

  逢坂の関のあらしのはげしきにしゐてぞゐたる世をすごすとて

 この歌は『今昔物語集』に、仲秋の名月の夜、蟬丸が秘曲、『流泉、啄木』を掻きならし、その後で「盲、独り心を遣て詠ジテ云ク」として書かれている。第4句「しひてぞゐたる」は強ひてと盲ひてとが掛けてある。

  秋風になびく浅茅の末ごとにおく白露のあはれ世の中

 この歌は新古今集にある。「世の中はとても」の歌は『俊頼髄脳』によると、琴をひく乞食の蟬丸が逢坂の関に庵を作っていたのを嘲笑された時に作ったと書いているが、できすぎた話のように思う。「これやこの」の歌は「行きかふ人を見て」と詞書があるから、『旧丹生郡誌』は「盲人に非ざるに似たり」と述べている。とにかく、蟬丸の事績は伝説につつまれている。

 蟬丸伝説は、すでに室町時代にはできていたらしく、能楽『蟬丸』はそれを素材としている。また、江戸時代には人形浄瑠璃『蟬丸』にも脚色され、元禄14年(1701)に大阪竹本座で初演されている。方丈記に次のことが書かれている。

  歩みわづらひなく、心遠くいたるときは、これより峰つづき、炭山を越え笠取を過ぎて、或は石間に詣で、或は石山を拝む。もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉うたの翁が跡をとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸太夫が墓を訪ぬ

 このことから、鎌倉末には文人墨客の注目する所となっていたのであろう。

 逢坂の関は今も交通の要衝、国道1号線の検問所の近くに、音曲の神として蟬丸を祀る関蟬丸神社がある。

2 蟬丸の伝説

(1)『今昔物語集』

 宮崎地区には蟬丸の琵琶について、次のような伝説が残っている。

 蟬丸は敦実親王から琵琶の秘曲『流泉、啄木』を教わっていたが、秘曲であるために、ふだんはこれを弾かなかった。その頃、都に源博雅という琵琶の名手がいた。一度、『流泉、啄木』の秘曲を聴きたいものと思って蟬丸を訪ねたが、そのことを言い出せずに帰った。それから蟬丸の庵の近くに隠れきくこと3年。たまたま或年の仲秋の名月の夜、蟬丸は興に乗じてかの秘曲を奏でた。隠れ聞いていた博雅は思わず感嘆の声を放った。その声に応じて出てきた蟬丸は、博雅の熱意に感じて秘曲のすべてを伝授したという。

 この伝説のもとは『今昔物語集』にあって、宮崎地区の誰かが『今昔物語集』を読み、逢坂山を陶ノ谷に置き換えて、かく伝えたものと思われる。

 『今昔物語集』には以下のように記されている。

  盲、独言ニ云ク、「哀レ興有ル夜カナ。若シ我レニ非ザル者ヤ世ニ有ラム。今夜心得タラム人ノ来カシ。物語セム」ト云フ。博雅聞きテ、音ヲ出シテ、「王城ニ有ル博雅ト云者コソ此ニ来タレ」ト云ケレバ、盲ノ云ク「此申スハ誰ニカ御座ス」ト。博雅ノ云ク、「我ハ然々ノ人也。強チニ此道ヲ好ムニ依テ、此ノ3年、此庵ノ辺ニ来ツルニ、幸ニ今夜汝ニ会ヌ。」(中略)盲、「故宮ハ此ナム弾給ヒシ」トテ、件ノ手博雅ニ令伝テケル。

 このように博雅は盗み聞いたのでなく、庵にはいって秘曲を伝授されたことになっている。

(2)『平家物語』

 『平家物語』には以下のように記されている。

  ここはむかし、延喜第四の王子蟬丸の関の嵐に心をすまし、琵琶をひき給ひしに、博雅の三位と云し人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、三とせがあひだ、あゆみをはこび、たちききて、彼の三曲をつたへけむわら屋の床のいにしへも、おもひやられてあはれ也。

 蟬丸醍醐帝第4皇子説は『平家物語』に始まるのかもしれない。ただし、『平家物語』の成立年代が不明なので、その点はわからない。

(3)泉丸王の伝説

 一方、福井市の月見1丁目は藩政時代、岡という木田の大木戸の外にあった集落だったが、この部落に『秘書御因果記』という文書が残っている。それによると、聖武天皇の皇子に泉丸王という方があり、白癩病という悪い病気になられたので、種々療術祈祷をされたが、効果がなかった。父君は心配され、帝釈天に27日の間参し、いかなる過去によりこのような病気になったのかお告げあれと祈願した。満願の日の明け方、次のようなお告げがあった。

 釈尊出世のとき、須弥山の北に羽登山という山があり、その山に40里四方の池があり、この池に5丈(15m)ばかりの白蛇が住んでいた。時折、日照りがあって水が不足し、白蛇は釈尊の説法を聞いて報謝の念を起こし、如来のもとへ薬水を運んだ。その功力により蛇は人身を得ることができた。しかし、過去の因果によって白癩病になっている。これが泉丸王である。これからは善根功徳を心がけ、仏法を観念せよとのことだった。

 天皇は宮中においては人の口にかかり侮られるであろうと考え、天平年中、越前の八田というところへ捨てた。『旧足羽郡誌』は、八田に捨てた泉丸王は後に足羽郡宮地・大畑に移り、その従属者の子孫は、王の姿を写し奉じて足羽郡岡に来たとある。

(4)蟬丸と泉丸

 蟬丸と泉丸は同音であるために、また、皇族の一人が不具、廃疾のために捨てられるという筋も同じなので、この2人は同一人でないかと鈴木平氏は推定している。しかし、『若越医談』第14号によると、土肥慶蔵氏は、この伝説を悪疾不具により社会から落伍したものが、自己の出自を尊くするために、救癩・済民に事績のあった聖武天皇に結びつけ、岡の住民はその泉丸王の子孫であると、おのが祖先を誇示した作りごとと解釈している。

 蟬丸と博雅の話はあくまで伝説であって、史的事実ではなかろう。だが、このような話を住民が父から子へ、子から孫へと語り伝えて来たことは史的事実である。そこに、われわれの祖が、この陶ノ谷にはかかる高貴の方が住んでいたのだという郷土を誇り、かつ愛する心情を読みとれば足りるのではなかろうか。

※本文は、宮崎村誌編纂さん委員会『宮崎村誌』上巻 宮崎村役場 1984年 より引用・一部改変したものである。

3 昔話にみる蟬丸

(1)蟬丸の墓

 ある日の 夕ぐれ 一人の旅人が いっけんの家の 門口に立ちました。
 そして せなかにおっていた びわをおろして かき鳴しました。
 びわというのは むかしのギターです。
 それは それは 美しい音色でした。
 だれが聞いても うっとりするような 音色でした。
 そのびわの音に合せて 歌を歌いました。
 歌は 平家と 源氏の たたかいの 物語です。
 よく見れば その人は目がふじゆうです。
 「お名前は。」と 聞きますと 「蟬丸です。」と 答えました。
 蟬丸は「どうぞ この村へ とめてください。」と たのみました。
 「いいとも いいとも。」と 親切な 村人たちは とめることに しました。
 「そして いつまでも いつまでも この村にいて 美しい びわの音を 楽しませてください。」と 言いました。
 それから 蟬丸は この村に 住むことになりました。

 春の のどかな かすみたつ日 またさくらの花の さく日 びわを 鳴らしました。
 夏の 緑の木の葉が しげる 木の下で、また 夕すずみの時、星を ながめて 歌いました。
 秋の もみじの 山々、また 美しい 月夜のばん、びわを 鳴らしました。
 冬の しずかに 雪のふる日、銀世界をながめて 歌いました。
 春 夏 秋 冬 いつもいつも 美しい びわの音が流れ 美しい 物語が 流れたのです。
 そのため 村人たちは 楽しい毎日を おくり、美しい心に なっていきました。
 やがて 蟬丸は としをとり 体もよわり 死ぬ日が近づいて いる事を 知りました。
 その時 村の人たちの前で、「私が死んだら 私を七谷の真ん中に うめてください。」と たのみました。
 それが 今のすえの谷の 真ん中の せみまるのはかの あるところです。
 そして蟬丸の いた所を 蟬口というのだと 言われています。
 ほんとうに 美しいお話しですね。


蟬丸の墓

(2)蟬丸の池

 舟場の 南の山の ふもとに かいたくの 村があります。
 村といっても四、五けんです。
 舟場から ここまで よい道が ついています。
 この道を 歩いて行きますと 山の 杉林の所に かかります。
 そのとき、右の方を ふりむくと まわりが10メートルほどの 池があります。
 この池を 蟬丸の池と いうのです。

 昔 昔 蟬丸様が 舟に乗って ここまで やって来ました。
 きっと 舟場というのは そのためでしょう。
 あたりはみずうみだったに ちがいありません。
 舟が着くと ここにしずめて しまいました。
 そして 舟をこぐかいを 投げてしまいました。
 そのかいの 落ちた所を 八田では 開谷という地名でよんでいます。

 さて、雨がふらないと 舟場では あまごいを します。
 あまごいというのは 神様に どうか 雨を早く ふらせてくださいと おねがいするのです。
 舟場では あまごいのとき この池の まわりに村の人が みんな 集まって 池のまわりの草を かりとって きれいにします。
 それから 神様に おそなえをし おみきも かざります。
 こうして 池の水をかえます。
 水が だんだん 少くなってくると 池のそこに 昔 しずめた舟の くすの木の板が あらわれてきます。
 あらわれてきた くすの木の板を おこして きれいに あらいます。
 こうして また 舟の板を 池の底へ しずめます。
 それから みんなが 「どうぞ 神様 雨をふらして ください。雨が、ふらないので 田んぼがからからになって お米がとれません。」
 と 村中の人が いっしょうけんめいに おいのりをします。
 そして さかもりをして 雨の ふるのを 待つのです。
 やがて 雨が ふってきます。
 今でも あまごいを しているのでしょうか。
 今から 20年ほど 前に したのが あまごいの 終りだったと 聞きました。


蟬丸の池

※本文は、宮崎村『こどものむかしばなし』1989年 より引用・一部改変したものである。