織田文化歴史館 デジタル博物館

織田文化歴史館ホーム > 朝日観音 福通寺

1 沿革

(1)創建

 朝日観音・福通寺は、養老元年(717)、泰澄により開創されたと伝わる。

  泰澄大師がこのあたりを巡錫(仏の教えを広め人々を救う修行をすること)していたところ、山に妖しい雲がただよい、ただならぬ気配が村をつつんでいるのに気がつかれました。村人にその理由を聞けば、この山に魔神が棲み、人々を苦しめているとのこと。

  人々は泰澄大師に魔神のたたりを鎮めてくれるように哀願しました。泰澄大師はその願いを聞きいれ、魔障うずまく山中に籠り、衆生済度(人々を救う)の仏である観音菩薩に祈りを捧げました。一心不乱に祈る事二十一日目、ついに悪魔は失せました。

  魔神が棲んでいた山中には大きなクスノキの大木が立ち、それが光を放ったので、泰澄大師はこれこそ霊木であると歓喜し、一刀三礼しながらこの霊木から仏像を刻み、無病息災のために正観世音菩薩像を、災難厄除のために千手観世音菩薩像を、そして五穀豊穣・万民快楽のために稲荷・八幡の両鎮守神像を作られたのでした。

  そしてこの観音像の開眼供養(仏像に魂を入れる儀式)の時、観音像の額の白毫から朝日のように光が射したので、この観音さまを「朝日観音」と呼ぶようになったということです。以来この観音さまは「朝日のお観音さん」として人々に親しまれ、篤く信仰され続けています。


朝日観音から見た白山

朝日観音・福通寺

※本文は、「朝日観音 福通寺ホームページ」より引用したものである。

(2)織田庄内郡朝日

 京都の真言宗教王護国寺(東寺)に伝来した「東寺百合文書」の中の一点に、文安2年(1445)8月9日付「越前国朝日寺東寺修造料足奉加人数注進状」(町外中世文書10号『朝日町誌』資2)がある。冒頭に「越前国丹生北郡織田庄内郡朝日寺」とあるように、織田庄内郡に朝日寺はあった。朝日寺の11人の僧侶が東寺の修造のための料足を各人100文、計1貫100文を奉加しているが、11人の僧侶は各自が1坊を経営していたから、朝日寺は11坊で構成された大寺であった。

 天正2年(1574)2月に越前一向一摸が蜂起すると、平泉寺・豊原寺を始め国内の他宗他派の諸社寺は次々と襲撃され焼亡していった。『朝倉始末記』は越知山大谷寺が灰尽に帰したのは同年6月18日としているが、この時、近在にあった応神寺天王宮や朝日寺も同時に焼亡したと考えられる。『越前国名蹟考』では、朝日寺の本尊は、開基泰澄大師が立樹から彫り出した長さ6尺の観音立像で、彫刻の時に朝日照耀として尊像の眉間(みけん)を照らしたので朝日寺と称したと伝えている。

 この朝日観音は近郷の民衆の信仰を集めていたと考えられ、往時の面影は失ったものの焼亡後は正観音堂のみ再興されたのであろう。慶長3年(1598)の太閤検地の際には「朝日寺観音山」を中心に寺屋敷4畝18歩が除地として残った(御岳治郎兵衛家文書2号『朝日町誌』資2)。同家文書には、貞享4年(1687)の文書に「長福院」、明和8年(1771)の文書では「福通寺」と見えるが、ともに同一寺院で、正観音堂を守護する別当寺院で、『越前国名蹟考』には「郡栄山長福院福通寺」「観音堂五間四方」とあり、真言宗古義派の京都東寺の塔頭、観智院(かんちいん)の末寺であったが、檀家は少なくしばしば無住となった。

 先に示した文安2年の「越前国朝日寺東寺修造料足奉加人数注進状」には朝日寺は「越前国丹生北郡織田庄内郡」に存在したが、この内郡が内郡・朝日・印内(西田中)の三ヵ村に完全に村切りされるのは、慶長3年の太閤検地が契機であって、近世の朝日村は、このように中世に繁栄した朝日寺の廃寺坊域や旧寺領地などを中心にして内郡村から分離した一村と考えられる。現在、朝日観音堂を朝日・内郡の両区で守護しているのも、この地縁的関係を示すものであろう。

※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編 2003年 より引用・一部改変したものである。

2 文化財

(1)木造 正観世菩薩立像

 像高204.7cm。鎌倉時代。高髺を結い、半眼閉口し、三道を刻出する。右手は胸前で一・二指を捻じ、左手に持つ蓮華の蕾を開こうとする聖観音菩薩の代表的手印である。袈裟、僧祇支、裳を着す。構造は寄木造で、玉眼を嵌入する。頭部は挿し首とせず、地髪部から地付けまで頭体幹部は前中後の三材製とし、両肩部各一材を矧ぐ。頭体部は内刳りを施し、玉眼嵌入する。像が前のめりに立つため、前面材は耳前から腋下を通り、像正面袈裟下端部で途切れ、中後面材のように地付けまで達しない。また、前面材の内刳りが深くなり、袈裟部に穴が空いたため木目を合わせ、埋木をした箇所もみられる。彩色や下地の痕跡はみえない。


木造 正観世菩薩立像[朝日観音 福通寺 写真提供]

※本文は、福井県立歴史博物館『泰澄ゆかりの神仏 -泰澄寺・蕗野寺・朝日観音の秘仏-』2012年 より引用・一部改変したものである。

(2)木造 千手観世音菩薩立像

 像高180.1cm。平安時代。髺上に仏頂面を置き、菩薩面は天冠台上に7面、髺半ばに3面を2段に配する。半眼閉口し、耳朶は環状とする。三道を刻出する。条帛を掛け、裳を着す。裳は上部を大きく折り返し、両脛横で撓ませ、中央で合わせ、裾は地面に付く。胸前の合掌手、定印手の他、脇手は19本ずつ左右に配する。構造は地付けまで頭体幹部を一木で造り、内刳りはない。脇手は古いものも含まれるが、腕と手先の矧ぎ目が合わないものが多く、後世の修理時の混乱がみられる。現状は漆箔だが、本来の仕上げは不明である。


木造 千手観世音菩薩立像[朝日観音 福通寺 写真提供]

※本文は、福井県立歴史博物館『泰澄ゆかりの神仏 -泰澄寺・蕗野寺・朝日観音の秘仏-』2012年 より引用・一部改変したものである。

(3)梵鐘

 朝日観音の梵鐘は、かつて丸岡町にあった不動院の梵鐘として、住持快秀が願主となって貞享3年(1686)に鋳造したものであるが、のち幸若家にわたり、元禄5年(1692)願主幸若八郎九郎直良によって寄進されたものである。全高105.7㎝、外径62.1㎝の中型の梵鐘で、金沢の有名な釜師宮崎彦九郎義一(初代寒雉(かんち))、彦三郎義治(2代寒雉)の合作である。鐘の竜頭、乳の形、口縁部の断面には、寒雉作の特徴がよく見られる。


福通寺梵鐘

※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編2 2004年 より引用・一部改変したものである。

(4)算額

 千手観音堂に二面の算額が掲げられている。これらは、元の観音堂の正面に掲額されていたもので、昭和57年の再建の際、千手観音堂に移されて掲額されるようになったものである。一面は文化4年(1807)、桃田其治かその縁の人によって奉納されたもので、本県でも古い算額である。大きさは縦54.5㎝、横95.1㎝で、材は杉である。内容は問、答、解法の構成で、連立方程式(49次方程式)である。この解法は元禄2年(1689)、京都の安藤吉治が解いた有名なもので、「一極算法」といわれている。

 ところでこの算額は、文政4年(1821)10月7日西田中村の桃井直員(江戸の和算家長谷川寛の門人で幸若小八郎家12代)を訪ねて約1ヵ月滞在した越後(新潟県水原町)出身の和算家山口和(江戸の長谷川寛の高弟で四天王の1人といわれた)の著『道中日記』に写されている。これには全部で84面の算額の写しがあるが、この算額は全国で唯一の現存算額であり、和算史上大変貴重といえる。もう一面の算額は、明治12年、内郡の竹内與三左衛門によって奉納されたものである。問題は3問からなり、いずれも仏教説話に題材をとったものである。

※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編2 2004年 より引用・一部改変したものである。