織田文化歴史館 デジタル博物館

1 越知山大谷寺と越知山

(1)越知山大谷寺の歴史

 越知山大谷寺は福井県丹生郡越前町大谷寺に所在する。越知山(地元では「西の越知山」、「あっち越知山」とも呼ぶ)東方6㎞の金毘羅山の東南麓には、別当の越知山大谷寺がある。大谷寺の背後には元越知山(標高200m)がそびえ、山頂を中心に大規模な遺跡が展開している。寺名を冠する越前町の大谷寺区は、越知山大谷寺を中心に発展してきた経緯があるため、本地域について考えるには、その歴史を抜きに語ることはできないだろう。

 寺伝によると、大谷寺は持統天皇6年(692)に泰澄和尚が創建し、入寂地の伝承を残す古刹である。『越知神社文書』によると、嘉元4年(1306)真言系寺院であったが(弘法大師御影供料田寄進状)、天文元年(1532)には天台系寺院として記載される(大谷寺宛朝倉孝景沙汰状)。大谷寺の寺領は承元2年(1208)の時点で、四至に「東限沢南限古坂山并赤井谷織田境西限海北限大鷹取并焼尾境」(越知山大谷寺宛公文郡代司寄進状)と記され、越知山を中心とする広大な寺領がうかがえる。同状には「泰澄和尚」とあるので、大谷寺は13世紀初頭にその故地として認識されていた。

 他にも、古文書から大谷寺の様相を知ることができる。文永7年(1270)の「夜相撲禁制状」には喧嘩や刃傷が寺中の煩費とされる。弘安10年(1287)の「沙汰状」には宝蔵を造り、寺中代々の重書や仏神物などを納めさせたとある。行事としては弘安2年(1279)の「宛給状」に山王御供、嘉元4年(1306)の「寄進状」に弘法大師御影供とある。正和3年(1314)には小白山御供、文保元年(1317)の法華八講会などの存在も知られる。

 時代は下るが、文明10年(1478)の「越知山年中行事」では、中宮平泉寺に対する本寺本宮に位置づけられ、その勢力は平泉寺に匹敵するものであった。しかし、文安5年(1448)に地頭千秋氏の横暴により神木をことごとく切売られ、堂舎廃頽一寺滅亡に及ぶ事態となった(寺僧言上状・同六年四月日付衆徒山臥言上状)。周辺農民の神領侵略も絶えず、天正2年(1574)に一向一揆による全山全焼など権勢を誇ったその勢力も次第に衰退していく。明治3年(1871)には神仏分離令にともない、越知山大権現は越知神社となり、一時はその姿を消し、明治12年(1880)に天台宗寺院として再興され、現在にいたる。


越知山大谷寺

 大谷寺には国指定文化財1件1点、県指定1件8点、町指定7件9点の文化財が残されており、往事の姿を偲ぶことができる。とくに、木造の十一面観音菩薩坐像・阿弥陀如来坐像・聖観音菩薩坐像の三所権現(県指定文化財)は、三尊一倶を呈する平安時代末期に制作された仏像である。また、特筆すべきは、かつて大谷寺所有であった木造泰澄及二行者坐像(国重要文化財)であり、像内には「明応弐暦癸丑五月廿六日」の墨書銘が認められた。室町時代の泰澄像として最古の秀逸なものである。


秘仏三所権現[県指定文化財]

前立三所権現[町指定文化財]

 また、泰澄大師御本尊感得図(町指定文化財)は特筆すべき文化財である。これは泰澄大師が観音菩薩を感得する図という。蓮糸で織られた蓮布に描かれたという伝承もあることから蓮糸曼荼羅(まんだら)ともいう。文化庁の調査報告書(昭和47年3月)は、「楊柳観音像(麻布着色、縦148㎝、横157㎝)の大幅は珍しい麻地に衣文線、赤や白の絵の具で淡彩、異色に富む画風は、おそらく朝鮮李朝頃の制作と考えられよう。」とある。

 本尊は、朱布の化仏(けぶつ)を一体正面に付け、朱色の花や冠帯で飾られた宝冠を頂き、左膝を両手で抱き、正面を向いて岩上に坐す上半身が如来形の珍しい観音菩薩である。この図には高麗仏画の特色である金彩の円文や文様は見られないが、着衣は衲衣を編祖右肩にまとい、右腕には覆肩衣という衣を覆っている。衣の内側腹部には、僧祇支とそれを締める結紐がみえる。下半身には、裙をまとう。着衣は高麗仏画に見られる服制そのものである。これらのことから日本の仏画ではみられない特色がある。

 このように朝鮮の画工によって描かれたものと推測され、この種の図は本県では唯一のものといわれ貴重なものである。(町文化財専門委員会資料)。地元では「泰澄大師観音御本尊感得の図」として古くから語り伝えられている。「越知山大谷寺什物改張」の二乗院性海法印代の什物に「観音絵像大幅兆伝主之筆」とあり、この図のことではないだろうか。(朝日町町誌編纂委員会『朝日町誌』通史編2 2004年 P729より)


泰澄大師御本尊感得図

(2)西の越知山と文化財

 西の越知山についてみてみる。『泰澄和尚伝記」(以下、『伝記』とする)から泰澄の修行地あるいは帰山の地として、とされる越知山は丹生山地の西部に位置し、標高612.8mをはかる。山域は丹生郡越前町・福井市にまたがるが、山頂付近は越前町大谷寺区の飛地となっている。これは大谷寺の領域がかつて広大であったことを物語る。越知山といえば、越前五山(越知山・白山・日野山・文殊山・吉野ケ岳)のひとつに数えられ、この一帯は越前加賀海岸国定公園の一部に指定されている。

 越知山の山頂付近からは8世紀中頃の須恵器が発見されており、泰澄の開山伝承にせまる考古資料である。奈良時代より山岳信仰の霊地として信仰されたことは確かである。平安時代になると山頂に三所権現を安置し、台密系寺院と附属していくようになる。天台宗山門派系の高僧や修験者によって繁栄の基礎が築かれたとみられる。そのあと真言宗系も加わり、越知山山岳信仰の体系が完成されることになる。

 永正11年(1514)の「越知神社社頭仏閣修理勧進状」によると、白山と越知山により両界曼荼羅が成立するとされ、越知山は白山とならぶ山岳信仰の聖地と考えられた。現在、山頂には越知神社が鎮座し、北から奥之院・千体地蔵尊・神宝庫・大師堂・室堂・護摩堂・社務所・日宮神社・本殿・拝殿・別山が配置される。社務所の前には殿ノ池と称する御前水があり、織田信長の馬が落ちて死んだという伝承を残す。

 展望台からは、西に日本海・六所山・国見岳、東に白山連峰・文殊山・日野山などを一望できる。中腹には、泰澄が清水を湧出させたと伝える「独鈷水」がある。過去に平安時代の須恵器大甕が採集されたというが、近年では奈良時代の須恵器が採集されたので、考古学的な開山時期は8世紀中頃までさかのぼる。昭和48年(1973)越知山山岳信仰跡として県史跡に指定された。かつて山頂には、平安時代末期に制作された十一面観音菩薩坐像、聖観音菩薩坐像、阿弥陀如来坐像(三尊一倶)の秘仏三所権現(県指定文化財)が安置されていたが、現在は越知山大谷寺の宝物庫に安置されている。

 また、明治年間には室町時代の瓦経が出土し、「願以此功徳普及於一切我等与衆生皆供成仏道 応永十一年(1404)九月日願主祐盛」の銘が確認できる。他に、経筒外容器などが採集されており、多くの建物跡や仏像の存在から山岳信仰の重要な拠点であったことは明らかである。


元越知山から見た西の越知山

2 大谷寺遺跡の分布調査

(1)発見史と当初の分布調査の成果

 大谷寺遺跡に関する発見史をみてみる。学術的に紹介されたのは『福井県丹生郡誌』(1960年刊行)で、須恵器の散布量の多さから「窯跡」と判断されたが、遺跡がはじめて紹介された点で重要である。その報文のためか『全国遺跡地図18 福井県』(国土地理協会 1980年発行)には「大谷寺窯跡」(遺跡番号18004)とあり、須恵器窯跡として認識された。しかし、『福井県遺跡地図』(福井県教育委員会 1993年発行)には、その場所に遺跡の記述が認められないので、その後忘れ去られたようだ。ただ、遺跡地図には、大谷寺大長院より北東約500mに位置する「大谷寺塚」(円山塚状遺構)だけが、中・近世の遺跡として取り上げられている。

 再び脚光を浴びたのは同志社大学の学生たちの分布調査からである。平成10年(1998)以降、同志社大学の大学生たちが中心となり分布調査を実施し、その成果が『下糸生脇遺跡』(福井県教育庁埋蔵文化財調査センター発行 1999年)の報告書のなかで公表された。調査は大谷寺山頂地区と平地区を中心におこなわれ、須恵器・土師器・灰釉陶器・越前焼の採集遺物、大谷寺所蔵の伝世資料である須恵器・土師器・小仏像・懸仏についての報告がなされた。とくに、須恵器の時期が9世紀後半~10世紀前半に比定できることから、遺跡は平安前期までさかのぼることになった。

 分布調査が重ねられた結果、より具体的な遺跡像が明らかとなった。元越知山山頂を中心に分布する10か所の平坦面や堀切・礎石・溝遺構などの人工的な地形改変が存在した。堀切は平坦面を囲むように配され、山頂を中心とした広範な範囲に遺跡が展開したことが明らかとなった。遺跡名は「大谷寺遺跡」と改め、安易に越知山大谷寺と大谷寺遺跡の関係を結びつけないという慎重な姿勢を示した。

 遺跡の特徴は、以下にまとめられる。①須恵器は広範に分布する。②須恵器は細片が多く、なかには墨書土器を含んだ。③遺跡の標高が高く、融着資料がないので、須恵器窯跡ではない。このことから遺跡は古代の山林寺院跡である可能性が高まった。しかも、採集遺物の時期は9世紀後半~10世紀前半と13世紀以降の2時期を中心としていた。大谷寺遺跡は平安前期の山林寺院ではあるが、のちの大谷寺につながる前身寺院なのか、断絶したあと13世紀あたりに再興されたのかは特定できず、その後の課題とした。

(2)文化財悉皆調査の成果

 平成12年度からは朝日町と朝日町教育委員会が、町内の遺跡の分布および現状の把握を目的として文化財悉皆調査を実施した。大谷寺遺跡の調査・研究も、ひとつの画期を迎えた。それまで大谷寺の裏山に偏りがちな調査について、円山塚状遺構や大谷寺の境内地区も視野に入れた。しかも、遺跡ばかりではなく、石造九重塔や円山宝塔なども歴史資料としてあつかい、総合的な視点から遺跡の位置づけを試みた。

 一方、大谷寺の伝世品についても報告がなされた。中川あや氏は、大谷寺伝世とされる洲浜桜花双鳥鏡に考古学的な検討を加え、製作年代を12世紀末~13世紀初頭に比定した。そのさいに福井県出土の和鏡を集成し、面径と縁高の相関関係により、大谷寺伝世の和鏡は県内で比較的小型の製品であることを指摘した。これは当時の京都で大量生産された和鏡と、別の規格にもとづいて製作されたことを示している。

 次に、野沢雅人氏は採集土器を紹介し、時期的な問題について言及した。採集遺物は細片であるものが多く、器種の特定も容易ではないが、福井県内で報告された資料の検討と隣接する加賀地域の編年を援用することにより、大谷寺遺跡の存続時期に関する見解を示した。

 柱状高台は11世紀後半~12世紀前半、有台椀は11世紀後半以降、無台底部片は糸切り痕が確認できることから8世紀中葉よりは古くならないとし、土師器皿は13世紀前半・14世紀前半に比定できる遺物が認められるとした。これまで10世紀後半以降~13世紀までの資料への認識が甘かったことから遺跡の断絶も考えられてきたが、これらの成果によって9世紀後半以降~14世紀前半まで存続することが明らかとなった。

 大谷寺遺跡は14世紀後半以降が不確かな状況のなか、佐々木志穂氏は元越知山山頂周辺に展開する地形改変の痕跡に注目し、城郭遺構の存在を明らかにした。人工的な堀切は不明確なものも含めて5本、平坦面は15面が確認され、ひとつの平坦面については虎口・土塁を有していた。虎口は折れをもつにとどまり、桝形にまで発展しないことから、千田編年Ⅱ期(1550~57年)に相当するとした。

 城郭遺構の築造契機は、越前地域の歴史的な事象とあわせて検討することにより、①天正元年(1573)の織田信長による越前侵攻に備えて築城した、②天正2年(1574)の一向一揆から自衛するために築城したという2つの可能性を提示した。じっさい大谷寺には一向一揆によって全山全焼されるという伝があり、②の見解には説得力がある。平坦面に確認できる虎口の年代観と若干の齟齬が生じるので、今後の検討が必要であるが、中世の大谷寺遺跡に関する新見解が得られた点で評価される。

 このように大谷寺遺跡に関する考古学的な調査は、平成10年(1998)以降、分布調査を中心に進められており、平成14年度からの発掘調査につながる多大な成果を得ることができた。


大谷寺境内の建物配置

3 大谷寺遺跡の発掘調査

(1)遺跡の概要

 越知山から直線距離5.3㎞の地点、北東方向に別当の越知山大谷寺がある。その裏山は堂山地区にあたり、地元では元越知山(標高200m)と呼ぶ。そこは越知山の山塊から谷を挟んだ金毘羅山(標高347m)の東南麓にあたる。2つの山頂は尾根同士で繋がるものの、金毘羅山の南東側に展開する一尾根に位置づけられた低山である。

 平坦面には本地堂・不動堂・金堂・西国三十三番観音堂・十王堂・鐘楼・井戸跡を配する。本地堂の南には別山があり、別山堂を配する。15分ほど北に行った尾根上には奥院があり、白山の遥拝所となっている。元越知山の山頂においても三所権現は形成されている。

 しかも、元越知山の山頂には巨大な平坦面が展開し、平安時代の山林寺院や近世の城郭寺院、その後の大谷寺に関係する遺構が多数残る。遺跡自体は山頂だけでなく、越知山大谷寺の裏山から谷間にかけて展開する東西650m、南北850mの大規模な遺跡である。とくに、堂山地区では門・基壇・それらに伴う溝などの遺構が現在も明瞭に残っている。

 朝日町教育委員会(平成17年2月1日以降、合併により越前町教育委員会となる)は、平成14年(2002)から17年(2005)度にかけて元越知山山頂付近の堂山地区と、その麓の大長院周辺および円山塚状遺構の測量調査と範囲確認調査を実施した。平成17年度に刊行された報告書や、その後の調査成果にもとづいて大谷寺遺跡の概要を述べる。


大谷寺遺跡の様相

(2)山頂地区の発掘調査

 山頂の発掘調査は大規模な平坦面1の周辺に設定したトレンチ(A~G)、平坦面の中央部で確認できる大型の基壇状遺構を十字に横断するトレンチ(H・I)、平坦面にめぐる溝に附属する小型の基壇状遺構に設定した十字のトレンチ(J)の大きく3か所でおこなった。

 A~Gトレンチ 平坦面1の北西側斜面のAトレンチ、西側斜面のFトレンチで遺構は確認できず、遺物は細片のみが出土しただけで包含量も少ない。一方、東側斜面に位置するB~Eトレンチでは柱穴跡、谷状の落ち込み遺構、性格不明の遺構が検出され、いずれも地山から掘り込みであった。A・Fトレンチに比べて遺構密度は高く、遺物も一定量出土した。平坦面の周辺では場所ごとに遺物の包含に差が認められる。

 とくに、B~Cトレンチで検出された5つの柱穴跡(BトレンチSP01・03、CトレンチSP01・02・03)は40~50㎝の一定の距離をもち並んで検出されたため、大規模な平坦面1の外周には柵列がめぐると考えられる。ただ、これらの遺構からは遺物が出土しなかったため、時期までは特定できなかった。しかし、B~Eトレンチの出土遺物は細片が多く、上の方から集中して出土した。しかも、遺物の時期は9世紀中頃~10世紀前葉に限定できるので、地山に掘り込んだ遺構は当該期か、それ以前と考えられる。その付近に配置したJトレンチの基壇状遺構の遺物も同じような時期にあたるので、平坦面1から斜面にかけて遺物が2次的に流れ込んだものとみられる。

 また、奥院へ行く道の入口付近にあたるGトレンチでは、8基の柱穴跡が検出されたが、無遺物のため時期は分からなかった。唯一、地山から掘り込んだ柱穴跡(SP-01)からは、須恵器の有台椀を転用した硯(10世紀前葉)が出土した。

 以上、各トレンチの遺構は、ほとんど遺物をともなわず、時期の特定は難しかった。しかし、周りから出土する遺物の大半は須恵器であり、9世紀中頃~10世紀前葉を中心とした時期であった。したがって、遺構の多くは当該期に比定できる可能性が高いだろう。

 H・Iトレンチ H・Iトレンチでは大型の基壇状遺構が検出された。各トレンチで確認された基壇状遺構の裾部で計測すると、南北25.2m×東西16.0mの長方形を呈し、高さ0.5~0.9mをはかる。長軸方向N-66°-Eをとる。平坦面は南北12.1m×東西10.0mの長方形を呈し、基壇は地山の削り出しによって成形していた。基壇の平坦面上から各裾部にかけては、土師器皿や陶磁器が出土しており、11~12世紀に比定できる遺物であった。とくに、東側の裾部には当該期の土師器皿や底部が大量に廃棄されており、須恵器の破片も若干混じっていた。

 基壇状遺構の平坦面上では、Hトレンチの溝遺構(SD-01)、不明遺構(SX-01・02)、Iトレンチの土坑(SK-01)、柱穴跡(SP-01・02)などの遺構が検出された。これらは建物跡に関連する遺構と考えられる。その一部の遺構の深さは比較的浅く、しかも周辺に礎石が散乱することから、礎石を安定させるための遺構と考えられる。建物跡が基壇状遺構の上に存在したとすれば、礎石建物の可能性が高い。遺構は地山の削り出しによるもので、時期比定は困難だが、唯一、Iトレンチの土坑(SK-01)からは多くの土師器皿や底部片が一括して出土した。時期は12~13世紀に比定できるもので、確認された遺構のなかで最も新しい時期となる。

 溝遺構からは出土遺物がなく、時期比定できなかったが、基壇状遺構の方向と異なることから時期的に前後する可能性が高い。現在でも明確に残る大型の基壇状遺構は造成時期が特定できないが、周辺の出土遺物の状況から12世紀まで機能した可能性が高い。なお、大型の基壇状遺構の平坦面は10mを超える規模であるため、寺院であれば講堂などの建物が想定される。

 さらに、方向が異なる溝遺構の存在は、それ以前に別の方向の建物跡ないしは、それ以降の建物が存在したことを示すが、時期は特定できなかった。他に、基壇状遣構の周辺から柱穴跡や不明遺構が検出されたが、幅1mという限られたトレンチ調査のため、遺構の性格は特定できなかった。

 Jトレンチ Jトレンチでは上層において南北13.2m以上×東西14.7m、高さ0.4~1.3mをはかる小型の基壇状遺構が確認された。平坦面の上面では南北8.8m×東西8.4mの長方形を呈し、長軸方向はN-28°-Wをとる。基壇状遺構の造成土や盛土内からは杯・皿・椀・壺などの須恵器が大量に出土し、9世紀中頃から10世紀前葉に比定できた。本遺構は平安前期に造成されたと考えられる。しかも、H・Iトレンチでは10~12世紀の遺物が出土するが、Jトレンチの遺構内からは10世紀前葉以降に下る時期の遺物(土師器や土師器皿)はまったく含まれないため、基壇状遺構の造成は9~10世紀に限定できる。トレンチの断面観察によると、基壇状遺構の西側部分は盛土による造成がなされており、基壇構築後に一部改変されている。

 また、基壇状遺構の造成以前に地山を利用した下層に展開する遺構が存在していた。部分的な調査であるため詳細は分からないが、地山は2つの面的に広がる平坦面が展開し、断面の観察によると北側では谷状地形が確認できる。下層遺構として柱穴跡が6基、土坑1基、溝遺構1基が検出された。これらの遺構からは遺物が出土しなかったため、時期比定はできないが、基壇状遺構が造成される以前の9世紀中頃~10世紀前葉に比定できる。その後に構築された基壇状遺構にともなう遺物は特定できない。

 ただ、柱穴跡がまったく確認できない点、付近に多くの礎石が露出している点から、のちに上部に礎石建物が存在した可能性が高い。しかし、付近からは「神」墨書土器が出土したことから、9世紀中頃~10世紀前葉の時期に神祀りが執りおこなわれたとみられる。そのため、基壇状遺構は一時期、神社遺構として機能していた可能性が高い。

 なお、基壇状遺構の中央部は円筒状に上部から大きく掘りくぼめられていた。これは、比較的新しい時代の盗掘跡の可能性が高く、下部に埋設された何かをねらって掘削したことが考えられる。


大谷寺遺跡の遺構配置図

山頂地区の調査区

(3)大谷寺遺跡の出土遺物

 平安前期の遺物 最古の遺物は平安前期の須恵器である。なかでも型式的に時期比定可能な資料は蓋・皿・杯・椀などの器種である。大部分の蓋は、口縁端部を丸くおさめるもの、鍵状になるもの、面をもつものが多く、いずれも天井部に鈕をもたない形態である。9世紀中頃から10世紀前葉に比定できる資料となる。しかし、杯蓋の天井部には鈕が剝離した痕跡が認められるため、9世紀前葉にさかのぼるとみられる。それ以前の遺物は確認できないが、今後の調査では、さらに古い時期のものが発見される可能性は高いだろう。

 平安前期の特徴的な遺物として灰釉陶器と緑釉陶器がある。灰釉陶器は6点出土しており、Bトレンチの椀の口縁部1点は9世紀中頃、Eトレンチの椀の口縁部1点とHトレンチの椀の口縁部4点は10世紀に比定できる。過去にはB~Eトレンチ付近で、灰釉陶器の浄瓶の口縁部も採集された。また、3点出土した緑釉陶器は注目される。Bトレンチからは香炉の蓋1点、Jトレンチから香炉の鈕1点、Jトレンチから椀1点が出土した。香炉は同一個体の可能性も考えられる。これらは9世紀中頃から10世紀の仏具と考えられる。


須恵器浄瓶・灰釉陶器・緑釉陶器

 平安後期の遺物 G、H、Iトレンチからは、9世紀から下る遺物も多く出土した。Hトレンチからは10世紀代中頃と推定される土師器の椀が出土し、須恵器形態の椀を踏襲するものである。また、土師器の多くはロクロ土師器と呼ばれるものであり、底部に糸切り痕を残すのが特徴である。破片が多いなか、底部については比較的残りがよい。これらと同じ系統の土器は福井県越前市の徳神遺跡のものがあり、共伴する灰釉陶器から11世紀前半の時期が与えられている。町内では劔神社境内出土の土師器があり、11世紀のものとみられている。

 また、手づくねの土師器皿がある。ロクロ土師器から手づくねへと技術転換する過渡期のものが多いなか、2段なで技法で成形されたものもある。これらは11~12世紀に比定できる。なかには小型の土師器皿を含む。比較的平らな底部から口縁部をほぼ直上になでて屈曲させ、口縁端部を尖り気味におさめる器形である。コースター型のもので、12世紀後葉に比定できる。

 他に、白磁などの貿易陶磁器、越前焼・古瀬戸などの陶磁器が出土した。Hトレンチ出土の古瀬戸の壺は、肩部から胴部にかけて複数の沈線が施され、安定した高台がつく。白い肌に薄緑がかった釉薬をもち、古瀬戸Ⅱ期の13世紀前葉に比定できる。浄瓶・水瓶などの仏具の可能性も考えられる。Hトレンチからは貿易陶磁器として白磁の椀1点が出土した。太宰府編年白磁椀ⅩⅡ類、11世紀後葉~12世紀前葉に位置づけられる。これらの陶磁器は12世紀後半代におさまる資料である。

 加えて、Eトレンチから越前焼の肩部、Hトレンチから壺の口縁部1点が出土した。その他に図化していないが、Hトレンチから3点の越前焼の破片が出土している。今回の調査では土師器を含めて大量の遺物が出土したが、越前焼の少なさに特徴がある。土師器皿は12世紀までにおさまるものが多く、陶磁器なども同様である。越前焼が12世紀後葉に成立することを考えると、それを数点しか含まないことは土師器皿と同様、遺跡の存続時期が13世紀初頭付近で一時断絶することの証となる。

 特徴的な遺物 須恵器のなかでも、硯に転用した転用硯、灯心油痕をもつ器、墨書土器などの特徴的な遺物を含んでいた。これらは、僧による写経活動の痕跡を示すものである。図化されただけでもBトレンチ4点、Dトレンチ1点、Eトレンチ1点、Gトレンチ1点、Hトレンチ2点、Iトレンチ4点、Jトレンチ7点であり、合計20点を数える。他に、須恵器のなかには灯心油痕をもつものも確認でき、土師器にもHトレンチ7点、Iトレンチ1点の資料が認められる。

 本遺跡では多くの墨書土器が出土した。そのうち文字が判読可能なものは14点ある。Bトレンチでは「神」の1点、Cトレンチでは「泰ヵ」の1点、「大」の1点、Iトレンチでは「□国」の1点、「大谷」の2点、「大」の1点、Jトレンチでは「大谷」1点、「神」1点、「東」1点、「公我女」1点、「鴨家」1点、「山内」1点、「戌」1点が確認された。墨書はいずれも須恵器の食膳具に施され、杯蓋は上面に、有台椀や無台杯・無台皿は底部面に文字が記載される。


墨書土器と転用硯

 文字の種類をみると、大半の文字が1点なのに対して「大谷」は数点が確認できる。Jトレンチからは「大」や「谷」など「大谷」と推定できるので、当遺跡において「大谷」記載資料は重要な位置を占めていたようである。「大谷」墨書土器は須恵器の型式から9世紀後半に限定できるため、時期的に集中したあり方である。

 文字の筆跡をみると、数種類に分類できるため、複数人による記載だとわかる。文字が示す意味について「大谷」は人名や土地名、「公我女」は人名、「鴨家」は賀茂郡の施設名をあらわすものと考えられる。「神」は2点あり、神祀りを考えるうえで興味深い資料である。「山内」は空間あるいは場所を意味し、越知山を中心とした信仰圏の領域を示すのであろうか。


「神」墨書土器

「大谷」墨書土器


「鴨家」墨書土器

 仏具の意味 「山内」墨書土器は須恵器の無台杯であるが、通常のものと比べて小型であり、金属器を模倣したような特殊な形態を呈している。これまで窯跡や消費地などの遺跡で類例は少なく、他の遺跡であれば宗教施設における出土が目立つので、仏具として使用されていた可能性が指摘できる。かりに当資料が仏具だとすると、どのような用途なのだろうか。

 出土資料から9世紀中頃に寺院が創建されており、9世紀後半~10世紀代にかけて活動が活発化している。この時期は、仏教思想史上における大きな画期にあたり、大同元年(806)の空海の帰朝による純密の導入につづき、天台宗でも円仁・円珍による本格的な密教の導入が果たされた直後である。空海によって体系的な密教が伝えられる以前、日本では古密教(かつては雑密と呼ばれた)と位置づけられる断片的な密教が浸透していた。

 当該期は古密教から純密への転換が急速にすすむ時期にあたり、貞観7年(865)の宗叡の帰朝までに新しい教義とともに経典・仏像・仏具などが大陸から数多く請来されている。しかし、じっさい日本で純密にともなう仏具が製作されるようになるのは、わずかな現存する資料から平安後期と考えられ、100年以上の空白期間が認められる。

 とすれば、純密の導入が果たされたあとでも、仏具に関しては従来のもの(古密教的なもの)で代用し、在来の材料を用いて模倣品を作成し急場をしのいでいた可能性は高い。じっさい奈良県の大峯山山頂遺跡では古密教にともなう遺物が出土し、8世紀後半以降、山頂において仏教儀礼がおこなわれていた。出土品のうち、須恵器の浄瓶・壺は水瓶・華瓶として使用したと推測され、密教法具の一部として須恵器が用いられたからである。これは古密教の事例だが、純密導入直後の本期においても、同じような状況が想定されるだろう。

 話を戻すと、「山内」と墨書した須恵器は、ほかに類例が認められないので、通常の用途ではなく仏具であった可能性が高い。より具体的にいえば、密教法具のうち「六器」に形態が類似し、その代用品とみている。そのような視点で、他の出土品をみると、大峯山山頂遺跡の出土事例も考慮に入れ、香炉は「火舎」、瓶子の壺は「華瓶」の役割を果たしていたと考えておきたい。

 このことからも、推測の域は出ないが、これらの仏具を用いて9世紀後半から10世紀にかけて密教壇供がつくられ、山頂で密教修法をおこなっていた可能性が指摘できる。加えて、数多く出土した須恵器の転用硯などは、僧による継続的な写経活動を示しており、かつ小型の基壇状遺構付近における「神」墨書土器を勘案すると、平坦面北東端に神社遺構が存在し、寺院内で神祀りがおこなわれた可能性が高い。


「山内」墨書土器

4 円山塚状遺構について

(1)円山塚状遺構の概要

 円山塚状遺構の調査は、マウンドと平坦面1を中心に遺跡の規模・造営方法・時期・性格の確認を目的としておこなった。また周辺に展開する平坦面についても視野に入れ、測量調査とトレンチ調査によって様相の把握に努めた。調査の結果、当遺跡はもともと谷状地形であったことが判明した。そして整地をおこなうことにって平坦面1を造成し、さらに盛土によってマウンドを築造している。平坦面1は南北36.0m×東西34.8m、面積1252.8㎡の規模をはかる。整地層は1m以上の厚さにおよび、人力による調査では最下層を検出することはできなかった。遺構としては近年のものとみられる区画溝が検出されただけである。

 一方、マウンドは平面円形を呈し、南北18.1m・東西17.2m、高さ1.75~3.32mの規模をはかる。平坦面1の造成にさいして基礎が削り出され、数回にわたる盛土により築造されている。盛土は締まりの良い土を堤状に盛り、その隙間に岩盤を削り出した土を充填することにより、次第にその高さをあげている。マウンドの周囲には排水溝などの施設は確認されていない。

 平坦面1の表土からは、土師器の長胴甕の口縁部(9世紀末~10世紀)が出土しており、かつては古代の遺構が存在していたとみられる。その後の大規模な造成工事によって破壊されたものとみられる。平坦面6・8・10からは室町後期(16世紀後半)に比定される土師器皿、数点の土師器片が地山直上より検出されたが、いずれも遺構にともなわず、数量もわずかであるので、丘陵斜面に展開する平坦面の造成時期は不明である。

 また、平坦面1およびマウンド表土からは、近世以降の陶磁器が検出されただけで、ほかに遺物は出土していない。このように円山塚状遺構の造営時期を明確に示す遺物は確認されておらず、現在のところ9~10世紀以降、16世紀後半以前としかいえない。

 遺跡の性格について調査前は、場所が「三昧谷」という字に位置し、かつて当地に石造物が散立していたとの伝承から中世墳墓を想定していた。しかし発掘調査では、中世墳墓にともなう遺構・遺物はまったく検出されておらず、性格の特定には至らなかった。このあたりは農地に利用されていたという話もあるが、Nトレンチで確認された区画溝および攪乱層がそれに相当する痕跡なのだろうか。

 発掘調査では、マウンド頂部に位置する石造宝塔の再検討もおこなった。宝塔はその構造より納骨堂的な性格を有していた可能性が高い。調査はマウンドの中心部直下まで及んでおらず、宝塔の下部に集骨施設が存在したとみられるが、調査では確認できなかった。かりに、そのような施設がマウンド内に存在するならば、宝塔はマウンド造成にともなって設置されたものになる。とすれば、宝塔の分析から遺構の性格を推測することも可能である。

 しかし、円山宝塔が過去の記録には出てこないので、別の場所から近年(ここ100年以内か)に移転したとの見解もあるので、このことを重視すれば宝塔との関連性を考える必要もなくなり、円山塚状遺構は墳墓としての性格が浮上してくる。この点も含めて、今後の課題としたい。


円山塚状遺構の遠景

円山宝塔[町指定文化財]

(2)遺構の性格と造営時期

 円山塚状遺構の性格の特定は難しいが、立地や石造宝塔の性格から考えてみたい。

 造営の意味 遺構は大谷寺の北東にあたり、峠状となった地形に位置する。北へは福井市(旧清水町)、南へは大谷寺、西には大谷寺遺跡が展開する元越知山へと続く3本の道が交叉する地点である。大谷寺大長院からみると、北東の方向にあたる。

 かつて、大谷寺大長院の前を葬儀による参列を通過させないため、火葬場と墓地を集落の南北に配したという。円山塚状遺構北東の丘陵尾根上には「上ノ三味」とよばれる墓地が存在していた。このような立地を踏まえると、遺跡は集落内外の境、いわゆる「無縁の場」に造営されており、しかも大谷寺大長院からみて鬼門方向に位置している。宝塔基礎部に鬼門除けがあることからも、北東方向を意識していたことは確かである。

 また、円山塚状遺構は円形のマウンドという視覚効果の高さから、集落内外の人々にそのことを明確に示すとともに意識させる必要があったものととらえられる。マウンド上には納骨施設である石造宝塔が位置するが、先に触れたようにその周辺から中世墳墓にともなう遺構・遺物は検出されていない。しかも、全体が葬地であるのではなく、マウンドと宝塔にだけその機能が集約されている。つまり、マウンドと宝塔は象徴的なものになっている。

 なお、かつて越知山大谷寺は白山平泉寺と並んで、白山信仰にともなう金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅を表現し、大谷寺には金剛界の役割が与えられたという。興味深いことに、石造宝塔には金剛界四仏が表されており、宝塔が曼荼羅の象徴として意識されていたのかもしれない。

 さて、遺構の造営時期が、いつまでさかのぼるかは明白にできない。遺構の北東は「上ノ三味」という字で、集落の北側に住む人々の葬地であったとすると、宝塔に納骨されるのは一般の住民ではなく、おそらく大谷寺大長院の歴代住職や僧侶たちであった可能性が高い。状況証拠となってしまうが、円山塚状遺構と石造宝塔はその立地や象徴的な機能から、大長院や元越知山を中心とする結界のうち北東方向をつかさどるとともに、鬼門を封じる役割を果たしているのではないだろうか。

 造営時期 円山塚状遺構の造営時期は調査の結果、10世紀以降~16世紀後半に造営されたものと考えられる。しかし、これでは非常に漠然としており、より厳密な時期を探るために石造宝塔や周辺の石造物を参考にして考えていく。

 宝塔には観応3年(1352)銘が残されており、この時期はひとつの目安となる。また、遺跡の北側に安置されている地蔵には観応2年(1351)銘が認められ、ほぼ同時期のものである。現在、大谷寺境内には数多くの石造物が集積されるが、大半が14世紀代以降のものである。この時期は大谷寺にとって勢力を盛るような何らかの変革があったのだろう。

 さらに14世紀といえば、全国的に火葬が導入されるピークにあたり、この時期に火葬を利用した納骨施設を新造することは大いにあり得る。マウンドと平坦面の造成には、莫大な労力が費やされることから、その経済的な背景も視野に入れ、当遺跡は大谷寺が盛時であった室町時代に造営されたものと考えておきたい。

 以上のように推測を重ねながら、円山塚状遺構の性格と造営時期について考えた。今後は、ここに示した課題に答える形で調査を進めていきたい。


円山塚状遺構の調査区

※本文は、堀大介ほか『朝日山古墳群・佐々生窯跡・大谷寺遺跡 重要遺跡範囲確認調査報告書』越前町教育委員会 2006年、朝日町誌編纂委員会『朝日町誌通史編』朝日町 2003年をもとに加筆したものである。

5 越知山大谷寺と開運講

(1)越知山大谷寺の概要

 泰澄和尚が持統天皇6年(692)に開創した古刹である。本尊は十一面観音菩薩・聖観音菩薩・阿弥陀如来の越知山三所大権現で、宝物館には最古の本地仏の3躯(平安末期~鎌倉初頭制作)が安置されている。『泰澄和尚伝記』によると、麻生津に生まれた泰澄は白山を開く前にこのあたりで修行し、天平宝字2年(758)に越知峯の大谷仙崛に蟄居すると、神護景雲元年(767)大谷の地で結跏趺坐し、定印を結んだまま86歳で遷化したという。境内に祀られている石造九重塔(国重要文化財)は泰澄の廟所で、元亨3年(1323)の銘をもつ。大長院から北に500mにある円山塚状遺構は直径20mの円形墳丘をもち、頂部には観応3年(1352)銘のある円山宝塔が建つ。


石造九重塔[国重要文化財]

(2)幕末の大谷寺

 嘉永3年(1850)越知山諸堂の火災・焼失 『朝倉始末記』によると、天正2年(1574)に蜂起した越前一向一揆により大谷寺は灰燼に帰した。柴田勝家・丹羽長秀の領主の保護により復興の兆しが見えたが、太閤検地により神領・坊領のほとんどが没収、衰微の一途をたどる。結城秀康の越前入国後、三代の松平忠昌までに100余国となり、福井藩主の保護のもと寛永年間から積極的な復興と整備が始まり、元禄2年(1689)の講堂造営以降、着々と諸堂の建立が進んでいった。

 しかし、嘉永4年(1851)5月の「越知山諸堂再建勧進帳」 (『朝日町誌 資料編2』越知神社関係文書123号)によると、「去戌十二月十一日夜、社堂并寺院共焼失仕候ニ付」、「去戌十二月十一日回禄に罹て巍巍たる堂宇一炬に灰燼となる」とあるので、嘉永3年(1850)12月11日夜、大谷寺諸堂は火事にあい、社堂ならびに寺院とも焼失してしまう。

 嘉永4年(1851)諸堂再建への動き 諸堂が焼失した翌4年(1851)5月には「越知山諸堂再建勧進帳」が作成され、諸堂再建勧化のため、家中・町在への巡回について福井藩の御祈願奉行所宛に願い出ている。勧進帳には「已に文政丁亥年の開帳より当該年まで二十五年に及り、しかれハ来己未歳までにハ速に諸堂再建して、我人一同に大悲殊勝の尊容を拝礼し奉ことを欲のミ」とある。

 文政10年(1827)の開帳から25年が経過、次の開帳までに速やかに諸堂を再建し、秘仏の尊容を拝礼したいと述べ、諸堂再建にかかる資金が集められている。この結果、狛帯刀・本多修理などの福井藩の重臣をはじめ藩士238人、足軽組20か所、在方や福井町・府中町家中などがいて、奉加された銀高は41貫689匁4分3厘に及ぶ。そのうち13貫目は本山の山門双厳院よりの借入金、4貫942匁1分3厘は「福井駒屋氏世話ニて上り候高」とある。

 そして、最後に「三十七貫五百目/御寄附末盛講御徳分被下候/駒屋取持ニ而出来ス/内七貫五百目ハ別祭祀料ニ/駒屋預ケ置約定也」ともある。駒屋の取持による末盛講の徳分37貫500目は、他の奉加に匹敵する額である。三井紀生氏によると、越知山開運講の記述はないが、諸堂再建のために駒屋の発願に従って浄財寄進に加わった人々を母体に開運講が発祥したのではないかとみられている。

 「堂社再建帖」は先の「越知山諸堂再建勧進帳」が作成された1か月後の嘉永4年(1851)6月に印刷されたものである。内容は「越知山大権現ハ北陸第一之勝地にして霊験のあらたかなること世人知ところ也」に始まり、「相承の神秘をして退転せざらしめん事を願、謹で有縁の信者に告たてまつる事しかり」に終わる、勧進帳そのものの文面であるが、奥書があり発起世話人7人 井上七兵衛・竹内五兵衛・八木次助・内藤理兵衛・山口弥太郎・鷲田次良兵衛・駒屋善右衛門(朱印)の名前を、また奉加の明細は前記「福井駒屋氏世話ニて上り候高」と「末盛講徳分」を記述している。

 最後の頁には、勧進帖が揃った上は速やかに諸堂再建をするべきで、なお記帳した銘々の家門の繁昌や祈祷を永代怠ることなく執行するべきだと記されている。また、駒屋善右衛門の署名と花押があり、駒屋が取り仕切っていることが分かる。

 ちなみに、駒屋は近世には北庄大橋(九十九橋)北詰に屋敷を構えた豪商であり、大谷寺の譜代の信者でもある。「駒屋清慎寄進状」(『朝日町誌 資料編2』越知神社関係文書123号)によると、駒屋善右衛門清慎は安政5年(1858)11月に屏風一折、「越知山山上千体地蔵尊寄進姓名録」(『朝日町誌 資料編2』越知山関係文書8号)によると、万延元年(1860)に千体地蔵尊のうち35体を寄進している。また、「越知山柴燈護摩記」(『朝日町誌 資料編2』越知山関係文書138号)によると、六十余州でも稀なる極秘神秘の越知山柴燈護摩神事の口伝を、慶応3年(1867)正月に詳細に記述して駒屋へ相伝しているほどである。なお、享禄2年(1529)の「越知山大谷寺神領坊領目録」(『朝日町誌 資料編2』越知神社関係文書41号)に「水落 駒屋分」とあるが、近世の駒屋氏との関連性までは分かっていない。


堂社再建帖(『大谷寺文書』)

(3)越知山開運講の成立

 安政4年(1857)越知山開運講が結ばれる 大谷寺講堂の完成から5年後、安政4年(1857)には護摩堂が再建される。その年の6月には駒屋善右衛門・竹内五兵衛・鷲田次郎兵衛の3人が肝煎となり、「越知山開運講」が結ばれた。「越知山大権現は大日本の祖神、当国に住む人誰に対してもその恩徳があるが、その御恩沢を知らない人が多いためであろうか、近年は風雪地震水火の難が多い。恐るは自身の事、仏法の法を重んずる人は、せめて年に一度は(越知山へ)歩を運び神徳を仰ぎ、恩徳を報謝すべきではないか。ここに越知山開運講と名付けて講を結び、越知山大権現のご神徳を仰ぎ、国家安全子孫長久開運出世を祈願する同士の人々に進め奉る」とある。


越知山開運講(『大谷寺文書』)1

越知山開運講(『大谷寺文書』)2

 安政6年(1859)半鐘の寄進 越知山大谷寺本堂の入口には半鐘(総高60.9㎝、口径35.0㎝)が吊されている。縦帯の両側には「越知山大権現」「奉納開運講中」の文字が陽刻で鋳出される。池の間には奉納に関わる越知山開運講のメンバー28名が連名で刻まれる。「奉納開運講中」の左側からは肝煎として駒屋善右衛門清慎、竹内五兵衛、鷲田次郎兵衛、駒屋義三郎が並び、世話役として辻彦兵衛ほか23名が記される。「安政六年 己未二月」とあり、秘仏三所権現の33年開帳直前にあたる安政6年(1859)2月に寄進されたことが分かる。


半鐘

 なお、越知山開運講に加入すると、切手が発行される。安政4年(1857)のものは横6.1㎝ ×縦15.3㎝をはかる。表には「越知山開運講」との墨書きがあり、ほぼ中央には「大長院」と楕円形の朱印が押される。下部の方には左から駒屋・鷲田・竹内の黒印が押されている。裏には「安政四年巳八月/松組何番 何町/何屋/何某」とあり、上部には駒屋の割印が押される。朱印には「此切手御持参被成候ヘバ/何時にても御開帳相出来申候/其外万事都合究候」とあり、越知山に参詣する時の切手とみられる。

 もう一枚の切手(横7.2㎝ ×縦17.9㎝)は幕末のものとみられる。中央に「越州 越知山開運講鑑」とあり、左には「肝煎 駒屋氏」と朱印が、右には「御祈願所 大谷寺」と記されている。上部の朱印には「越前州/大長院/越知山」とあり、大長院で発行されていたことがわかる。

 裏の黒枠内には「越知山ヘ参詣之節此切手御持参/御成来候 何時ニよら須(ず) 室堂ニて簾飯進上/可申御勝手ニ相成候ハゝ御止宿可成候 且又/御本社ヘ御案内申開運講出世之御守/無料ニて進上可申候間 無御遠慮御所望/可被成候 以上」とある。越知山参詣の折に、この切手を持参すると、いつでも室堂で粗飯を差し上げ、勝手にならば宿泊もできるといい、また御本社への案内と開運講出世のお守りを無料で差し上げるとの旨が記されている。


越知山開運講 切手(『大谷寺文書』) 表

越知山開運講 切手(『大谷寺文書』) 裏


越州 越知山開運講鑑 切手(『大谷寺文書』) 表

越州 越知山開運講鑑 切手(『大谷寺文書』) 裏

 安政6年(1859)30日間の開帳 御開帳は貞享元年(1684)の泰澄大師1,000年祭として旧暦3月3日~6月18日の100日間開催された。三所大権現の本地仏・不動明王像を開帳している。なお、大谷寺に残る札に「右開攸之志趣者泰澄和尚一千年之尊忌為神恩謝徳也」とある(三井紀生『越知山大権現の神仏と石造物』75頁より)。

 それ以後も17年、33年の開帳がおこなわれたが、幕末には安政6年(1859)3月に30日間の御開帳がおこなわれた。詳細については、越前海岸の上海浦に住む岡田茂十郎の日記などで知ることができる。茂十郎は4月1日・14日に大谷寺に参詣したことが『天文日記』『岡田健彦家文書』(『朝日町誌 資料編2』越知神社関係文書124号など)に出てくる。境内は遠方よりの参詣者で立錐の余地もないほどの賑わいで、見せ物芝居を見物したり、茶店で憩い中飯を食したことを記している。

 『諸事雑記』『岡田健彦家文書』(『朝日町誌 資料編2』越知神社文書125号)においても、文久3年(1860)6月18日の越知山御祭日に参詣して「日中ヨリ於本社拝殿御神事始アリ、山内皆巡り参詣群集ス」とある。なお、「大谷寺方丈(院主)・福井ノ駒屋・鷲田ニ面会シ、開運講ヲ談シ」とあるので、大谷寺では開運講を興行していたことがうかがい知れる。


千体地蔵

 万延元年(1860)千体地蔵堂の造立 越知山山頂には千体地蔵堂が建ち、千体地蔵尊が収められる。「越知山山上千体地蔵尊寄進姓名録」(『朝日町誌 資料編2』越知山関係文書8号)によると、万延元年(1860)12月の発起で、発願からの経過と詳しい寄進者の名前が記される。寄進者の分布を見ると、福井が330体と最多で、次に三国の143体を数え、他にも越前国全域にわたる。越前国外でも京都・大坂・金沢など34体を数えるので、越知山信仰の全国的な広がりを示している。個人で最も多く寄進したのは三国の豪商・三国氏の100体、駒屋の35体である。発起元の駒屋は個人として2番目に多い。越知山開運講の肝煎でもあるので、熱烈な越知山信仰者とみられる。

(4)越知山開運講の展開

 元治元年(1864)加入者の増加 越知山開運講は順調に運営されてきたが、元治元年(1864)の「越前国越知山永代開運講勧誘記」によると、「中にも開運出世を守らせ給ふ御神事の故に 去安政丁未歳 同士の輩申合報恩の為め開運講と号し毎日一銭掛の御講を結ひたるに御神慮に叶い日何らす一千人に及ひ種々の利益を得る者日ましに増多なり」とあり、講員が急増し約1,000人にも及んだという。

 勧誘記によると、越前以外の遠国の加入者も増え、「日一銭講」の運営が困難になってきたため、講の加入時に「永代掛金二百疋」(または「金二歩」)に改めて永代講員の加入を勧誘することになった。右の史料は元治2年(1865)3月の年紀をもつ「越知山開運講懸銭受取証」である。松組の689番である向山村(現 福井市千合町)の末(松)沢利兵衛が、永代懸銭200疋を納めた受取証で、毎年祈祷の札守と供物を送給することを約している。

 勧誘記には講員約1,000人とあるが、その名簿は現存していない。ただ、勧誘記には「永代加入姓名録」が添付されており、「永代掛金二百疋」への改定後の講員については判明している。講員名には番号が付されるが、順番通りではない。三井紀生氏の分析によると、当初の「日一銭掛」講加入時の番号で、これらの講員が永代掛金を納めた順に名簿を再製した姓名録という。

 三井紀生氏の分析にもとづき、「永代加入姓名録」に記載の組ごとの最大番号と永代講員数を整理すると、次のようになる。

 組名 肝煎名   ①最大番号  ②永代講員数 ②÷①(%)
 松組 駒屋善右衛門  701番   403人     57.5
 竹組 竹内五兵衛   74番    24人     32.5
 梅組 鷲田次郎兵衛  142番    72人     50.7
 合計         917番   499人     54.4

 講銭を永代掛金二百疋に改めたことにより、従来の講員の扱いは不詳であるが、永代講員として加入した人数は半数に近くに減少している。

 元治2年(1865)3月、手水鉢の奉納 明治3年(1870)12月の「越知山峯奉納手水鉢勧進状」(『朝日町誌 資料編2』155号)によると、「奉納願主/越知山開運講中」とあり、越知山開運講は明治時代初頭になっても継続していたとみられる。金一両以上の寄進者は越知山峯に奉納する手水鉢に姓名を彫り付け、末代まで残すとして勧進奉加を求めている。

 手水鉢は願主が越知山開運講であり、大谷寺に石造のもの(縦98.8㎝×横152.0㎝×高さ56.4㎝)が現存している。「越知山峯奉納手水鉢勧進状」には「右元治二年丑三月、福井ヨリ朝日天王マテ至リ、今年明治三午六月、天王坂ヨリ牛越ヲコシ、同十二月日御山麓宿ノ堂一ノ王子社マテ参着ス」とある。さらに「右、是より引続き御山御広前江相納申度処、高山之儀、御講銀之入用大双なる事ニ付、一時に引上かたく、集銀之上又取懸り可申志願ニ御座候」ともある。宿堂までは運び、引き続き山頂まで納めたいが、講銀入用が多額になるので、一時に引き上げがたく、集銀の上また取り掛かることにしたいとしている。結局のところ山頂まであげられることなく、現在の地で保管されている。


手水鉢

 元治2年(1865)5月、石灯籠の寄進 駒屋善右衛門が石灯籠を寄進するが、越知山大谷寺境内の泰澄大師御廟所内に現存し、石造九重塔(国重要文化財)の前に建つ。

 慶應元年(1866)5月、石碑の寄進 福井市朝倉氏遺跡の奥にある一乗滝の上には白滝神社が鎮座し、その背後には越知山開運講が寄進した石碑が建つ。外側の2基には、ともに「慶應元年乙丑五月吉日」の年紀があり、左側には「願主 竹内布珀、鷲田省斎、駒屋羽江」、右側には「願主 越知山開運講中惣肝煎清慎」と記される。竹内五兵衛、鷲田次郎兵衛 寛隆、駒屋善右衛門 清慎の3人は、号をそれぞれ布珀・省斎・羽江と称していたことがわかる。一乗滝といえば、泰澄が越知山にいるとき、東に霊感を感じて下りてきたゆかりの地である。越知山開運講の肝煎たちは泰澄関係の地に石碑を寄進したとみられる。

(5)その後の開運講の行方

 明治元年(1868)の神仏判然令がきっかけとなり、越知山大権現社から仏教色が排除され越知神社が誕生した。明治4年(1871)には越知山大権現の別当大谷寺の住職は還俗し、越知神社の宮司となり、大谷寺の法灯は一端途絶えることになる。幕末から続いた越知山開運講であったが、その1年前の明治3年(1870)12月にも続けられており、新たな講加入者の募集もおこなっていたとみられる。

 明治5年(1872)修験禁止令が公布され、修験道は廃止されると、天台宗系の本山派(本山聖護院)は天台宗へ、真言宗系の当山派(本山醍醐寺派三宝院)は真言宗へ統合された。それと軌を一にして越知山開運講や駒屋銘を記す石碑・石仏ほかの奉納物は越知山や大谷寺および周辺から姿を消す。開運講の所期の目的としていた活動の継続が困難になったためと思われる。加えて、開運講の立役者たちの死去がある。

 肝煎を務めた鷲田次郎兵衛寛隆は明治6年(1873)に死去、その6年後の越知山大谷寺が再興した明治12年、駒屋善右衛門清填も死去し、福井市の安養寺に葬られた。それから明治12年(1879)大谷寺は天台宗の延暦寺末寺として再興された。そして間もなく無禄・無檀の大谷寺を永続させるための資金を集めるため、越知山開運講の復興がおこなわれた。

 大谷寺と大谷寺村の信徒総代4人(佐々木輿三右衛門・佐々木勘右衛門・山田多左衛門・佐々木岩左衛門)が中心となり、新たに「越知山開運講勧誘記」と「定則」(『大谷寺文書』)を認め、再来講員の募集活動を開始した。以前のような大規模な団体ではなかったが、大正年間の中頃まで継続していたとみられている。

※本文は、越前町教育委員会『特別展 幕末・明治の越前町』リーフレット 2018年を引用・一部改変したものである。