織田文化歴史館 デジタル博物館

1 色絵陶器と伝統的作品

 越前町は平安時代から続く越前焼の産地であり、現在も職人達が窯を開いている。明治・大正期に一時衰退の危機に瀕するが、日渉園、その後の小曽原焼、織田焼やふくい焼の窯元達は色絵陶器や白磁のような新しい越前焼製作をめざし、芥川賞作家である津村節子氏の小説『炎の舞い』のモデルにもなった北野七左衛門氏や、伝統的な技術で現代的な製品作りに挑んだ左近製陶所、その技術が福井県指定無形文化財と認められた8代目藤田重良右衛門氏がつづき、伝統は今に伝わった。

2 小曽原焼とふくい焼

 「小曽原焼」は『原色陶器大辞典』(加藤唐九郎編・淡交社)によると、「福井県丹生郡宮崎村小曽原の陶器。明治初年、左近弥三右衛門が鉢・壺・瓶などをつくったのに始まり、以後製造者が輩出し、土管・瀬戸陶器も併出するようになったという。(後略)」と書かれている。

 『福井県窯業誌』(福井県窯業誌刊行会)では明治2年(1869)頃、鉢・壺など小型製品や土管を製作していた宮崎村小曽原の山内修蔵の跡継ぎ、伊右衛門が合資会社「日渉園」に参加した。その解散後、個人で窯業を続け「小曽原焼」と称したとしている。

 伊右衛門が参加した日渉園は、九谷焼や粟田部焼風の色絵陶器生産を目指して明治30年に設立された合資会社である。地元資産家10人が出資し、山内窯が技術的な面で中心になっている。定款どおり明治40年(1907)に日渉園が解散すると、伊右衛門は個人で花瓶・茶器・酒器などを生産していたが、大正2年(1913)に廃業した。

 また、伊右衛門は操業を続けていくうえで、跡継ぎとなる職人育成の必要性を感じ、明治27年(1894)に「私立小曽原焼徒弟学校」を設立した。また新しい技術を習得するため、京都から職人を招いている。

 その後、昭和21年(1946)、同じく小曽原の木原文右衛門が日渉園再興をめざして開窯する。当初は「日渉園」としていたが、翌年には窯名を「ふくい焼」へと変更する。学校や会社などの記念品や、茶器を中心に生産していたが、昭和24年(1949)に廃業した。


日渉園 急須


粉本・図案

粉本・図案

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3 葵園

 江戸時代の古文書に登場する瓶屋連中の一人に名を連ね、広大な農地を持つ兼業農家である吉田家の当主であった長兵衛は、城ヶ谷・八田・熊谷など地元でとれる原材料を使って、「白いやきもの」の生産を目指した。明治24年(1891)に左近長治郎とともに瀬戸・常滑などの先進地視察をおこない、明治30年(1897)平等に磁器生産用の登り窯を作り、「葵園」と名付けている。

 このような状況のなか、吉田は私費を投じて明治35年(1902)、福井県陶磁器徒弟養成所を作った。この養成所では14歳から18歳までの男子が、盃・小皿などのロクロ形成、型成形、陶画、釉薬、原料試験などを学んだ。養成所の学生には毎月の食費など生活費が給付されている。

 その後、養成所は経営母体がかわり、明治41年(1908)織田村陶磁器徒弟養成所、同43年(1910)丹生郡徒弟養成所と名称を変更していき、廃止となった。しかし、福井県陶磁器徒弟養成所で学んだ人材は、その後、織田焼鈴木窯、芦原焼、京焼など県内外で活躍した。

4 織田焼 鈴木彦左衛門窯(すすきひこざえもん)

 大正6年(1917)、鈴木彦左衛門(本名:三日太郎(みかたろう) 1871-1957)は、河井寛次郎(寛の字はつくりの右下に点あり)に学んだ長男の久(1898-1926)、京都の橋本龍岳に学んだ3男の玉治(1907-1985)とともに、織田村寺家(現 越前町織田)に鈴木彦左衛門窯を開窯し、色絵陶器を生産した。ここでは、徒弟養成所出身の山崎一三や山内仁蔵、九谷焼絵付師篠野安行・末川泉山などの職人を招いている。また、杉本剛の尽力により福井市内に販売店「織田焼本店」を開き、展覧会を開催するなど活動をおこなっていたが、不況や販路の弱さから昭和13年(1938)頃に廃業となった。

5 北野七左衛門と森崎長太郎

 北野七左衛門(1912-1989)は、昭和10年(1935)、自宅敷地内に窯を造り陶器の製作を始めた。当時20代半ば、北野は幼名の「左仲」を名乗り、窯の名前を「八劔窯」として九谷焼風の絵付けをした陶器を製作していた。

 織田小学校に残る「球技大會優勝記念壺」は、昭和11年(1936)に開催された福井県体育協会、丹生郡教員会合同主催の球技大会で、高等女学校の部、排球(バレーボール)と尋常小学校男子の部、避球(ドッジボール)で優勝した記念に、7月5日「北野左仲」氏によって寄贈されている。

 「左仲」とは、昭和28年(1953)に「七左衛門」を継ぐまで名乗っていた北野の名前で、底部には「織田庄 八劔窯」の銘があり、窯を開いた翌年の製作であることがわかる。北野の作風は、のちに上絵付けから越前の土身を生かした物へと変わり、伊羅保釉を使った作品を得意とした。

 また、北野は作陶を続ける傍ら、福井県総合美術展工芸部門に出品し、昭和25年度第3回展で「市長賞」、昭和27年度第5回展では「知事賞」を受賞し、のちに審査員も務めている。昭和36年(1961)には福井県工芸作家協会に参加、昭和42年(1967)には越前焼振興会結成に参加し、越前焼復興に尽力し若手職人の育成にも努めた。その功績から昭和47年「卓越した技能者(現代の名工)」表彰、昭和59年には勲六等瑞宝章を受賞している。

 芥川賞作家の津村節子は北野をモデルに、小説『炎の舞い』に登場する老陶芸家、荻野庄右衛門を書いた。

 この北野を初期の頃から一緒に窯を支え、ロクロびきの第一人者といわれた森崎長太郎(1912-1980)は、緻密な細工を施した装飾性の高い器を得意とした。森崎は青年期、九谷で修行を積みロクロ技術を身につけた。昭和35年頃から越前焼の需用が高まり大量注文が入るようになると、そのロクロ技術をいかし活躍した。また窯に集まっていた若者達にもロクロ引きを教え、昭和52年(1977)優秀技能者として知事表彰を受けている。

 織田小学校の優勝記念壺、「尋男避球選手名列」の最後には、後に北野と同じく「陶器製造」で平成4年度「卓越した技能者」表彰を受けた左近甚太夫(1925-1995)の名前がみられる。

6 織田土人形

 瀬戸三兵衛(1908-1980)は、戦災を逃れて昭和22年(1947)に福岡県博多から宮崎村樫津へ移り住み、「陶工園」に勤めた。その後、織田村へ移る。瀬戸は故郷で博多人形の人形師を生業としていたが、戦時中は製作を中断しており、越前焼窯元の北野七左衛門の勧めで再び人形製作を始めた。当初仕事場のなかった瀬戸は、北野の窯場や鈴木彦左衛門の絵付け用の錦窯を借りている。

 瀬戸は、「尉と姥」や「恵比寿大黒」・「干支」など伝統的なものや、子守りや晴れ着姿の女の子などといった幅広い題材で土人形を作った。その作品は「織田土人形」と呼ばれ、劔神社や観光地で販売された。また、瀬戸は絵付けの腕を見込まれ、寺院の像の修復やだいずりの装飾を依頼されたという。

7 左近製陶所

 左近製陶所は昭和25年(1950)、以前より平等村(現越前町平等)で窯を開いていた左近勇吉、左近甚太夫、左近斧之助の3名で創業した。昭和30年(1955)に勇吉が経営から退き、その後、父斧之助に師事した精右衛門(本名:強)が参加する。昭和34年に斧之助が死去すると、左近製陶所は甚太夫・精右衛門の2人体制で創業を続けた。ここでは主に蛸壺、大甕、灰甕などを生産している。土管を生産したこともある。

 甚太夫と精右衛門は「ねじたてロクロ技法」の後継者として鎌倉時代以来の技術を伝えロクロ製品を得意とする。その技術が評価され、2人は伝統工芸士に認定されている。平成7年(1995年)に甚太夫が逝去すると、精右衛門1人で製作を続けたが、平成20年(2008年)に閉窯した。

8 8代目藤田重良右衛門

 8代目藤田重良右衛門(1922-2008)は、父である7代目より大型陶器を製作する伝統技法「越前輪積技法」を伝授された。藤田家は江戸時代中期頃、「たいら窯」を開窯し、昭和初期、経営不振によって多くの窯元が廃業していくなかでも操業を継続し、大甕や灰甕のほか、蛸壺・酒器・花器などを生産している。

 藤田の技術の高さは特に評価され、昭和43年、国体開催時にご来県の天皇皇后両陛下ご使用の茶器、花生を制作、昭和47年、越前陶芸村開村にあたり高松宮ご夫妻の前で実演披露している。この技法は「陶芸越前大がめ捻じたて成形技法」として、昭和61年(1986)に福井県無形文化財に指定され、藤田も保持者として認定を受けた。

 その他、昭和51年(1976)に福井県伝統的工芸優秀継承者表彰、昭和59年(1984)に北野七左衛門と同じく「陶器製造」で「卓越した技能者(現代の名工)」表彰、昭和60年(1985)に黄綬褒章、平成6年(1994)には勲六等単光旭日章を受章している。

 また、藤田はいけばな草月流初代家元、故勅使河原蒼風使用の花器の制作を依頼されるなど、越前焼の芸術性を高めた。

  「舞踊のようにうつくしい動作です」と、草月陶房の勅使河原宏氏もいわれた。
    (司馬遼太郎『街道をゆく十八 越前の諸道』朝日新聞社 昭和57年)

当時の人々が見た藤田の捻じたて成形の様子やたいら窯の様子を、作家司馬遼太郎が著書に書き残している。


近代織田窯業史年表

※本文は、司馬遼太郎『街道をゆく18 越前の諸道』朝日新聞社 1982年、福井県窯業誌刊行会『福井県窯業誌』1983年をもとに執筆したものである。