織田文化歴史館 デジタル博物館

1 地理的環境

(1)位置と環境

 越前町は東西17.8㎞、南北17.2㎞、面積152.83㎢、西は日本海に面し、東は鯖江市、南は越前市、南越前町、北は福井市にそれぞれ接する。当町一帯は、丹生山地および福井平野の中央を北に流れる日野川と、日本海との間に横たわる海抜300〜400mの低山性の広大な山地を主体とする。

 丹生山地は、南越盆地と福井平野の西端を北流する日野川を東境とし、西は日本海に沈み、北は福井新臨海工業地帯である坂井市三里浜に続き、南は吉野瀬川で南条山地を境とする畳々たる山地帯であり、多数の盆地と谷が展開し、海岸には特色ある海岸線が形成されている。

 当町は地勢的にその大半が丹生山地に属し、全体的に標高は高く、沿岸部から北部にかけて500m級の山々が連なっている。このため林野率は74.8%と高く、東部に広がる越前平野を除けば、中央部の織田盆地や宮崎盆地などに小規模な平地を残すのみで、耕地面積は少ない。


福井県の位置

越前町の位置


越前町の地区

(2)地形

 北に高須山・国見岳・金毘羅山、中央に越知山・六所山・エボシ山、南に若須岳・鬼ヶ岳がそびえ、日本海沿岸のなかでも、とくに海岸に面し競りだって展開する、地形的にみて特殊な地形といえよう。これらの山々に囲まれるように織田・白山の2つの盆地と天王川を軸とした谷々がある。沿岸部の山を分水嶺として、東側は大半が天王川流域、沿岸部は梅浦川など複数の小河川の流域となっている。

 丹生郡の中央から南に流れる天王川は、越前市千合谷から白山盆地を北上し、宮崎地区において熊谷川・織田地区から流れてくる織田川と合流する。また、山地の間を縫うように小規模な谷や盆地、河川が入り組み、流路の西岸は雛壇のような2〜3段の河岸段丘をなすため、梨棚式河線、または格子状河線とよばれる。長さ26㎞、流域面積約96.8㎢を有する。

 天王川は流行が不自然で、中流において6回も直角に流路を変え、糸生谷から出る越知川と合流し、さらに、宝泉寺区において宮崎地区の蝉口盆地で養われた和田川と合流する。最後には日野川に注ぐ。下流では朝日・天津区の重要な水資源として用水の七郷、五箇の源となる。明治時代以前の河線交通時代においては、三国・福井から丹生郡への経路上の大動脈として役割を果たす。

(3)地質

 丹生郡の地質は領家変成岩・秩父古生層・花崗岩類・第3紀中新世の石英粗面岩質凝灰岩、石英粗面岩および沖積層から構成される。そのうち花崗岩類は織田地区四ツ杉・同三崎の北方、平等北西方、宮崎地区江波南方、天王川流域の越前市曽原・粟野に露出する。第3紀中新世の石英粗面岩質凝灰岩および石英粗面岩などは、花崗岩類を基盤としてその上に堆積する。石英粗面岩質凝灰岩は織田地区北部、宮崎地区北部に広く分布する。

 また、当地域一帯の低平地には古生層の珪岩を主とする楳層・砂層、および灰白色の粘土層からなる洪積世の河岸段丘が発達し、2次生成物中の粘土が窯業に利用されている。


越前町周辺の地質図

※本文は、越前町教育委員会 編『越前町織田史(古代・中世編)』越前町 2006年 より引用・一部改変したものである。

2 歴史的環境

(1)丹生の地域性と歴史性

 越前町を含めた丹生地域の歴史性は、丹生の名、霊峰・越知山にみる精神性、対馬海流による対外交渉、外来性と開明的側面という視点に注目しなくてはならない。丹生の地名由来については諸説あるが、この地には現在でも丹生のつく神社が存在し、国府を西から一望でき丹生郡の信仰の山である鬼ヶ岳は丹生岳とも呼ばれた。

 『正倉院文書』の天平3年(731)2月26日付の越前国正税帳に「丹生郡」「郡司主張丹生直伊可豆智」という郡名と人名が登場し、『万葉集』巻第19の天平勝宝2年(750)4月3日大伴家持が越前判官大伴宿禰池主に贈答した歌のなかに丹生の地名が確認できる。越前市の丹生郷遺跡からは「丹生郷長」と記された墨書土器(8世紀後半)が出土したことからも、考古資料によりその存在がうかがえる。

 したがって、奈良時代にはこの地を丹生と呼び、丹生の姓をもつ氏族あるいは地名・郷名が存在したことは間違いなく、その由来はベンガラあるいは辰砂(水銀朱)を含む地であったためであろう。本地では至る所に真っ赤な土が露呈し、化学分析によって水銀朱が検出されている。丹が生まれる地は、奈良県の大峰山のように聖地として位置づけられる例が歴史上に多い。

 そもそも丹生の地は広大な越に属する。越は現在の北陸4県と山形県および秋田県の一部を含む地域であった。『日本書紀』神代巻によると、越は大八洲の「越州」と表され、異質な陸の孤島としての認識がなされてきた。越の特異性と文化形成については、これまで富山市開催の日本海シンポジウムなどによって指摘されてきたように、対馬海流と潟湖が大きな役割を果す。対馬海流は日本海沿岸の西から東にむかい、北部九州を通過し出雲・丹後を過ぎるとこの地に至り、さらに抜けると能登半島まで達する。

 とくに、福井県では平成9年(1997)のナホトカ号重油流出事故は記憶に新しく、大正13年(1924)の特務艦「関東」座礁事故のように航海技術が発達した現代でもこの地に流れ着く現象が起こる。こうした海流の影響が、大陸・半島の最新の文化・思想をもたらす土壌をつくることになる。

 また、荒波の日本海沿岸は、大河川の河口付近に砂堤で囲まれた胃袋状に近い形態をもつ潟湖を発達させ、約1,500kmに及ぶ日本海において隔絶された各地域をつなぐ役割をもつ。潟湖は歴史上、港(潟港)としての機能を有したことも指摘されており、独特な日本海沿岸文化の形成に重要な役割を果たしてきた。

 こうした独特の地域性を有する素地は外来文化の爪痕を深く残し、越前においても神話・伝承・地名・名称、あるいは考古遺物に渡来的要素が強くあらわれる。『日本書紀』垂仁天皇2年是歳条には越国の笥飯(けひ)浦に意冨(おほ)加羅国王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が来航した説話、越前国一の宮で伊沙奢別命(いささわけのみこと)を祀る北陸道総鎮守の気比神宮には新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)説がある。

 また、『万葉集』巻第19の大伴家持の長歌のなかで、日野川は「叔羅(しらき)川」と表記され、のちも白鬼女川、信露貴川とよばれた。丹生郡の新気(しんけ)神社(越前市新保町)、敦賀郡の式内社の白城(しらき)神社(敦賀市沓見)、信露貴彦(しろきひこ)神社(同市白木)、南条郡の2か所の新羅(しんら)神社(南越前町荒井)など新羅に関係した神社名の存在も注目される。

 加えて、天王川の源流となる越前市千合谷町の解雷(けら)ヶ清水の由来は、越前町干飯浦から上陸した百済国の歓喜王の長女の自在によるとされ、付近の白山神社(越前市二階堂町)にも関連した縁起が存在している。

 考古資料では、鯖江市の西山公園遺跡の有鉤銅釧(弥生後期初頭)、鯖江市の持明寺遺跡の中九州系高坏(弥生後期)、福井市の小羽山30号墓で出土した北部九州系の刃関双孔鉄剣(弥生後期中葉)、福井市の塚越墳丘墓、原目山墳丘墓群、乃木山墳丘墓に副葬された素環頭大刀・鉄剣(古墳早期)など、大陸・朝鮮半島をはじめ日本海沿岸を通じた地域間交流の一端を知ることができる。

 古墳中期には、朝鮮半島とのつながりが顕著となる。越前町の劔神社隣接地出土の陶質土器とみられる有蓋高杯の身と蓋(5世紀後葉~6世紀前葉)、福井市当山美濃峠古墳の五朱・貨泉・大泉五十などの中国銭貨と陶質土器の有蓋高杯(6世紀前葉)がある。これらは、朝鮮半島南部の洛東江下流域東側、釜山から慶州を含む新羅ないし新羅の影響下のある地域で焼かれたとされる。

 また、福井市和田防町遺跡からは、古墳前期末~中期の土師器とともに格子目叩文をもつ韓式系土器(5世紀)が出土し、福井市天神山7号墳(直径約50mの円墳 5世紀前半)からは朝鮮半島南部製の金製垂飾付耳飾、二本松山古墳(墳長89mの前方後円墳 5世紀後半)からは韓国・高霊の池山洞32号古墳出土の冠と酷似した銀鍍金の冠が出土した。これらは朝鮮半島南部地域との深い交流を示す一例であろう。

 このように断片的だが、丹生だけでなく福井県内には大陸・半島の文物がもたらされており、とくに古墳前期末以降、新羅などの半島関係の遺物が多くなり、それに関する伝承や記録が顕著になるようである。

 こうした交流による所産以外に、丹生の歴史性をあげてみる。弥生後期前葉になると丹生山地東麓沿いをはしる日野川中流域を中心に高地性集落が密に展開したあと、弥生後期中葉に丹生山地東麓の志津川中流域において小羽山30号墓が造営される。本墓に被葬された人物は、越(こし)地域に最初に誕生した広域に影響力を有する政治権力者とみられる。その人物は自らの墓制に山陰地域に特徴的な四隅突出形墓を最初に採用し、その基盤は日本海と丹生山地を背景としたことが大きく、日本海を通じて対外的な交渉をおこなった可能性が高い。

 古墳時代前期には顕著ではないが、中期になると丹生山地では渡来系の遺物が確認されるようになる。それから200年ほど経過した飛鳥・奈良時代には、山林修行者の泰澄和尚が登場する。泰澄が西の越知山にむかったのは、丹生の異質性と居住した渡来系の人びとの噂を耳にし、本地への憧れと好奇心が誘ったためだろうか。

 その頃、丹生山地の中央付近に展開する丹生窯跡群は、奈良・平安時代を通じた須恵器の一大生産の地であったが、とくに越前町佐々生窯跡では8世紀中頃の鉄鉢・瓦塔などの仏具が大量に生産されている。おそらく、瓦や仏具が供給された宗教施設が数多く存在していることが予想できる。じっさい丹生郡には分布調査の成果により多くの宗教施設を確認したが、こうした特徴は本地の神聖性を示す例であろう。

 越前・若狭における神宮寺創建の古さは、これまで指摘されてきたが、越前町の劔神社にもその一端が認められる。本神社に伝わる梵鐘(国宝)は「剣御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」の銘をもち、剣御子神社にともなう剣御子寺という神宮寺が西暦770年に存在したことが判明している。しかも、先に触れたように隣接地では陶質土器が発見されるなど、織田盆地を中心とした丹生山地一帯は外来的要素が強い。

 たとえば、付近の小粕窯跡では8世紀前葉の湖東式軒丸瓦を焼成しており、滋賀県に多い渡来人系寺院の瓦の分布の北限を示す。他にも、百済系とみられる伊部氏の存在も注目される。かりに、瓦の供給先が剣御子寺であれば、渡来系の氏族と初期神宮寺が結びつく可能性は高い。

 平安時代末期になると、城山の東南麓に位置する織田・宮崎地区の各丘陵先端では東西3㎞・南北6㎞の範囲で越前焼の生産が開始される。日本六古窯のひとつの越前焼は12世紀後葉に成立し、一時的な断絶はあるものの、現代まで連綿と発展してきた。これは生産地が山を越えると、すぐ西側に海を抱えるという地理的条件のもと、海上交通を背景に展開していったからに他ならない。加えて、越前焼は潟のネットワークを通じて、日本列島の東西端にまで広く流通し、太平洋沿岸を中心に分布する常滑焼と並び称されるようになる。

 なお、最近の研究では越前焼生産と時を同じくして、月輪をもつ石造遺物の造営が現在の丹生郡を中心に開始される可能性も指摘されている。

 このように日本海に面した山林地帯という地理的条件から最新の文化・思想は導入されても、それを背景に一大勢力たる基盤をもち続けたかというと、そうではない。弥生後期中葉に丹生山地を母体に勢力を拡大した小羽山30号墓の王は福井市南部(旧 清水町)に誕生するが、後期後葉には永平寺町南春日山1号墓の王が示すように松岡地域に移動してしまう。その流れのなかで、古墳前期後半以降に九頭竜川を制し、福井平野を基盤とした政治権力者は、連綿と墳長100mを超える大型前方後円墳を造営するのに比べ、天王川流域と丹生山地を背景とし、南越盆地を基盤とした政治権力者は、経ヶ塚古墳(全長74m)と朝日山古墳(全長58m)のように墳長100m未満の前方後円墳しか築造できない。

 さらに、泰澄和尚はこの地で修行したあと白山におもむき、福井県の内外に広大な分布圏を示す白山信仰の基盤を形成したが、その源流となりうる本地は、さまざまな意味で歴史の片隅に追いやられた感じがする。大陸・半島の文化・思想を受け入れる先進性や開明的側面はあっても、一大勢力たる基盤を維持できず、越前において手工業地帯あるいは精神文化の拠所として発展してきたと考えられる。それは海に近い山地という地理的環境、それが理由で大陸・半島文化を常に受容できた異質性の要素、越知水や丹生などの聖なる地となる土地柄を包含していたからであろう。

(2)朝日地区の遺跡

 越知山山岳信仰跡(県指定文化財) 本遺跡は標高612.8mの越知山の山頂に展開し、『泰澄和尚伝記』によると、泰澄が14歳の時に越知山に入山することで知られる。現在、山頂には越知神社の本殿が鎮座し、室堂、護摩堂、奥の院が建ち、周辺には独鈷水、殿池などがある。昭和48年(1973)に越知山山岳信仰跡として県史跡に指定された。かつては越知山山塊のどこかに平安時代後期の十一面観音菩薩坐像、聖観音菩薩坐像、阿弥陀如来坐像(三尊一倶)の越知山三所権現(県指定重要文化財)が安置されていたという。

 明治時代には室町時代の瓦経が出土しており、瓦経の表面は仏像で型を印刻し裏面に願文が刻まれている。全文は読めないが、「願以此功徳普及於一切我等与衆生皆供成仏道 応永十一年(1407)九月日願主祐盛」とある。また、過去に山頂では平安時代の須恵器製の大瓶が出土したというが、9世紀頃のものだろうか。越知山の開山時期は断片的であるが、少なくとも平安時代までさかのぼり、多くの建物跡や貴重な仏像などの存在から、中・近世に至るまで信仰の拠点となっていたと考えられる。

 佐々生上川去遺跡 上川去に所在し、標高10mの沖積低地に立地する。採集遺物は玦状耳飾のみだが、採集時に爪形文を施した土器が出土したとされる。県内で玦状耳飾が出土した遺跡は4遺跡しかなく、貴重な事例である。類似した形態から推測すると、縄文前期中葉以降のものと考えられている。

 八王子山古墳群 越前町岩開・佐々生の境に所在し、八王子山の丘陵上に立地する。北・南・西の3群に分かれ、9基を数える。北群には丘陵最高所の南北にのびる稜線上に円墳2基・方墳1基が分布する。南群には丘陵のほぼ中央にあたる稜線上に円墳1基・前方後円墳1基が分布する。西群には北群の位置する頂部から南西に延びる急な尾根の先端に円墳1基がある。南側山麓には横穴式石室をもつ古墳が2基確認されている。そのうち1号墳は石室の形態などから古墳後期後葉~末(7世紀)と考えられる。町指定文化財である。

 旧龍生寺幸若関係墓所(幸若墓地)(町指定文化財) 佐々生に位置し、ほぼ宮崎地区と接する南側の丘陵東斜面裾に立地する。幸若諸家および龍生寺檀家の墓所が営まれており、龍生寺が西田中区に移転した際にその一部は移されたものの、現在でも石造物が遺存する。おもに江戸時代から明治時代中期頃までに造立されたもので、歴史的な重要性から平成4年(1992)3月5日に町文化財に指定された。

 幸若墓地には総数352基の石造物が残されている。その内訳は組合式五輪塔15基・一石五輪塔2基・宝篋印塔2基・無縫塔38基・燈籠8基・石仏18基・光背型墓塔17基・板碑形墓塔10基・櫛形墓塔86基・笠付型墓塔38基・台頭角柱24基・尖頭角柱1基・自然石2基・石室2基・基礎60基・標石1基・不明25基・集積されたもの3基である。

 A区は幸若小八郎家の分家である三右衛門家、B区は龍生寺歴代住職、D区は幸若八郎九郎家と分家である源兵衛家、E・F区は龍生寺檀家群、G区は宝泉寺村坂田家の墓所であることが確認される。造立された石造物の形式は被葬者群ごとに異なる傾向があり、僧侶にともなうものは無縫塔を、無縁墓には石仏・光背型墓塔が多い。また同じ家系の当主同士でも形式が違う場合も認められ、時期的な違いによるものなのか検討が必要である。


旧龍生寺幸若関係墓所の地形測量図

旧龍生寺幸若関係墓所

 上川去遺跡 上川去に所在し、標高10mの沖積低地に立地する。『福井県弥生土器集成』では弥生土器が紹介された。遺物は弥生中期後葉から後期のもので、古墳時代早期、前期の土師器も含まれる。

 岩開腰前遺跡 岩開に所在し、「由」墨書土器が出土した遺跡である。岩開区の八幡杜の南方で採集されたといい、現在の遺跡では岩開腰前遺跡に相当する。須恵器の有台付椀の内外両面に「由」と墨で書かれている。須恵器の時期は9世紀後半に比定できる。

 田中遺跡 田中に所在し、標高10mの沖積低地に立地する。『福井県弥生土器集成』では弥生土器が紹介された。弥生土器は中期後葉から後期にかけてのものである。古代の遺物として9世紀前半の「出雲」と書かれた墨書土器が7点あり、平成16年度に町文化財の指定を受けた。

 栃川遺跡 栃川に所在し、標高35mの丘陵尾根に立地する。1971年に朝日町教育委員会が工事敷地造成にともない緊急に発掘調査を実施した。遺物は大量の土器の他、石鏃・打製石斧・磨製石斧・石皿・磨石・石匙・石錘などの石器も多数出土した。土器は縄文中期中葉から後期前葉の土器に比定できる。出土遺物は平成6年度に町文化財の指定を受けた。

 大城野遺跡 横山に所在し、丘陵尾根に立地する。1994年に朝日町教育委員会が横山住宅団地造成にともなって試掘調査を実施した。多量の土器・石器が出土し、遺物のなかに耳栓も含まれていた。土器は前期のものが少量確認され、主体となるのは中期から後・晩期のものである。

 朝日山古墳群(県指定文化財) 朝日に所在し南2つの丘陵の最高所に、経ヶ塚古墳と朝日山古墳という2基の前方後円墳が立地し、それぞれの東側の緩斜面に墳丘墓と古墳が密に展開している。最北部に位置する二口・郡山支群は約30基(すべて消滅)、経ヶ塚古墳を中心に展開する観世音山支群は59基、朝日山古墳群を中心に展開する朝日山支群は46基を数え、合計130基以上(現在は105基)からなる県内有数の古墳群である。前方後円墳の2基は、昭和31年(1956)に県史跡(番号19)に指定され、観世音山支群一帯は昭和50年(1975)に保存目的から古墳公園として整備されている。

 朝日山古墳群東側の山麓、朝日区の中央区浄水場前の墓地内で、古墳時代の須恵器が採集された。時期は6世紀中葉に位置づけられる。立地条件から古墳にともなう遺物である可能性が高い。

 また、朝日山46号墳は弥生墳丘墓を破壊し、石列・石組み・集石などをともなう中世墳墓に改変したものである。墳丘墓にともなうものはなかったが、中世墓は越前焼などの遺物から13世紀頃に比定できる。さらに、朝日観音山遺跡からは越前焼の筒形容器と蔵骨器が採集されており、鎌倉時代頃に比定できる。

 郡栄塚古墳(町指定文化財) 内郡に所在し、天王川によって形成された自然堤防上に立地する。平野部に造営された町内唯一の前方後円墳である。日吉神社の境内にあり、墳丘は神社や用水などにより削平されるが、墳丘北西側に前方部の痕跡が残存する。前方部長は不明であるが、墳丘長33m以上の帆立貝形とみられる。段築・葺石・埴輪などは確認されていない。築造時期は古墳中期前葉(5世紀前葉)と考えられている。

 下糸生脇遺跡 下糸生に位置し、標高53mの丘陵緩斜面に立地する。1996年に福井県教育庁埋蔵文化財調査センターが越知川改修・道路改良を含めた農村整備事業にともなって発掘調査を実施した。遺構は甕棺と考えられるもの13基、屋外埋甕、集石4基などが検出された。1基の甕棺の付近からは斐翠製の垂飾が検出され、土器を作るための粘土を埋納・保管したとみられる土坑も確認された。遺物は土器・石器・土製品などが主に出土し、時期は縄文後・晩期が主体である。集石遺跡にともなう押型文土器・貝殻条痕文土器は縄文早期・前期に位置づけられる。石器は打製石斧・磨製石斧・石鏃・石錘・石皿・砥石・石刀・石棒・独鈷石、土偶片・石冠形土製品などが出土した。古代の遺物として8世紀後半~10世紀前半の須恵器・土師器・灰釉陶器などが出土した。このなかには鉄鉢形須恵器などの仏具や黒色土器といった宗教色の強い遺物も確認された。

 小倉石町遺跡 小倉に位置し、越知川の支流である野末川西側、標高63mの谷部に立地する。1997~98年に福井県教育庁埋蔵文化財調査センターが県営中山間地域総合整備事業にともなって発掘調査を実施した。掘立柱建物・礎石建物・井戸・土坑などの遺構が検出され、13世紀代に成立し19世紀代まで継続した集落跡であることが確認された。遺物は多量の土師器皿・越前焼のほかに白磁・青磁・瀬戸美濃・須恵器などを含み、鞴の羽口・鉱滓片・焼土塊が出土したことは特徴的である。遺跡は小字「鍛治屋敷」に位置していることから、当遺跡は鍛冶生産に携わった遺跡と考えられる。

 大谷寺遺跡 大谷寺に所在し、越知山大谷寺裏山の元越知山(標高200m)を中心とした広大な遺跡である。これまで同志社大学の学生たちが分布調査を実施し、古代の山林寺院の可能性を指摘した。平成14~17年(2002~05)にかけて、朝日町教育委員会(平成17年2月1日より合併して越前町教育委員会となる)が、重要遺跡範囲確認調査にともなう発掘調査を実施した。

 測量調査では門状遺構、基壇状遺構、塔跡推定遺構とそれらを囲む溝状遺構が確認された。発掘調査では、大型と小型の基壇状遺構が検出された。須恵器・土師器・灰釉陶器・緑釉香炉・越前焼などが出土し、特徴的なものとして「神」・「大」・「大谷」・「鴨家」・「公我女」・「戌」・「□国」などの墨書土器、転用硯、墨・煤付着の土師器・須恵器があり、寺院活動の痕跡を示す遺物である。なかでも六器とみられる須恵器の無台杯は注目される。また、緑釉陶器の香炉は福井県内初の出土となっている。

 小型の基壇状遺構が神社遺構とし、「神」墨書土器の存在を踏まえると、寺院内で神祀りを執りおこなった可能性が指摘できる。採集遺物の時期は多少の断絶を含むが、9世紀中頃から近世に至るまで連綿と認められる。泰澄入定したあと約60年経った頃のものが確認されるので、泰澄入寂の地として信仰上重要地であったことがうかがえる。

 大窪鎌太館 青野に所在し、天王川に南面する河岸段丘上に立地する。測量調査によって規模や構造が把握されている。館の東西南と北側の一部は基底幅8m・高さ2.0~2.5mの土塁によって囲まれ、西面には幅6mほどの外濠が確認される。規模は土塁を含めて東西96m・南北75mをはかり、県内でも屈指の大きさである。館の正面は西側にあたり、東面には裏門が造り出されている。現状で確認できる南面の出入り口は後世に造成されたものと考えられる。土塁北東部は鬼門除けのためかわずかに屈曲し、土塁内部はほぼ平坦であるが、北西・南西隅に高さ1.2mほどの高まりがみられる。伝承によると、館主は平家落武者のひとりである大窪鎌太といわれるが、鎌太正家という説もある。館の時期について特定することは難しい。

(3)宮崎地区の遺跡

 江波経塚群(町指定文化財) 大門に所在し、日吉神社背後の丘陵端から派生する丘陵尾根支脈上に立地する。宮崎村誌編纂にともなう分布調査によってその存在が明らかになり、1981年に宮崎村教育委員会・福井県教育庁文化課内博物館建設準備室が発掘調査を実施した。確認された6基のうち、2・6号経塚の調査はおこなったが、いずれも盗掘を受けていた。遺構は地山削り出しと若干の盛土によって築造され、表面には河原石が葺石状に存在する。内部構造については盗掘のため詳細はわからない。遺物は常滑焼甕・壺・鉢、越前焼甕・鉢、珠洲焼片口鉢、須恵器製経筒蓋の細片、土師器皿などが出土しており、12世紀後半~13世紀前半に比定できる。

 上開谷遺跡 寺に所在し、丘陵上に立地する。須恵器などの遺物が採集できることなどからその存在は知られていた。鉄鉢形須恵器を含むことから、古代の山林寺院といった宗教施設である可能性が高い。

(4)織田地区の遺跡

 中古墳群(町指定文化財) 中に所在し、織田盆地北の標高140~150mを最高所とした八手状に派生した低丘陵上に立地する。織田地区唯一の古墳群である。前方後円墳1基を含む円墳・方墳など25基からなるが、再調査により30基となった。5つの尾根上にそれぞれ分かれて展開している。墳長30m、後円部径20m、後円部高2~3.25m、前方部幅11m、前方部長19m、前方部高0.87~1.87mをはかる。3号墳は前方後円墳で、後円部径21m、全長34mで、1976年に織田町の指定史跡となった。『福井県史』資料編13考古では、織田古墳として紹介されている。町指定文化財。

 四門遺跡(町指定文化財) 織田に所在し、曹洞宗禅興寺の墓地内に立地する。遺跡は南北22m、東西23mをはかる平面方形の土塁状遺構であり、土塁の四面中央部にそれぞれ入口をもつ。1988年、土塁の修復時に数点の越前焼甕が出土しており、16~17世紀に比定できる。遺跡の性格は不明だが、朝倉氏と関係の深い小笠原氏によって始められた龕堂と火屋のうち、火屋に相当するものではないかと考えられている。なんらかの宗教施設であろうか。明治年間には土塁内部に土俵を設けて相僕をおこなったとの記録もみえる。また、遺跡が立地する墓内には天文19年(1550)の年号を有する五輪塔が遣存している。

 釜ヶ淵遺跡 織田に所在し、丘陵裾部に立地する。過去に旧石器時代の石器が採集されており、丹生郡内では最古の遺跡となる。石器は瀬戸内技法によって製作されたサイドスクレーパーもしくはエンドスクレーパーで、石材は永平寺町浄法寺から産出したガラス質安山岩だと考えられている。

 杉の花遺跡(劔神社境内遺跡) 織田に位置し、劔神社境内を含んだ遺跡である。発掘調査は越前町教育委員会が越前町文化財悉皆調査事業の一環で、平成22~26年(2010~2014)の第6次にわたり試掘調査を実施した。奈良時代における神宮寺の解明と、劔神社古絵図の検証を目的とし、奈良時代後期の遺物が出土し、古絵図にある御手洗川・殿池などを特定することができた。なかでも神林の調査では、無遺物が広範囲に展開し、遺物が出土するのは低地の部分に限られるので、古くから杜が形成され、神域という認識が古くからあったことを確認した。

 堤遺跡 織田に所在し、劔神杜西側の田畑に立地する。平成12年(2000)に織田町教育委員会が道路・区画整理計画にともなって発掘調査を実施した。調査では井戸・ピットとともに平面正八角形を呈する土坑が検出され、土坑内からは青磁・白磁などの貿易陶磁器や天目茶碗・瀬戸といった国産陶器とともに多量の土師器皿が出土した。また漆塗りの木製品や刀子などの鉄製品は祭祀に使用された道具であると考えられる。井戸は7基が確認されており、埋土中から越前焼石造物が発見された。遺跡は土師器皿の年代槻から14世紀末~15世紀前半に比定され、小字「市場」に位置することから劔神杜との関わりが指摘されている。

 法楽寺遺跡 織田に所在し、標高約140mの丘陵南西斜面に立地する。昭和39年(1964)、法楽寺無縁墓地造成工事中に発見された中世墳墓である。過去に蔵骨器である越前焼甕・擂鉢・壺・瓶子・水注など30点以上の遺物が採集されたが、ほとんどが散逸してしまった。当該遺跡からは正応3年(1290)銘の五輪塔下から越前焼甕が出土しており、編年の基準資料となっている。また、丘陵斜面に位置する光音寺遺跡からは、14世紀後半~15世紀にかけての越前焼甕・擂鉢が出土しており、現在でも周辺に五輪塔が散乱していることから中世墳墓であると考えられる。

 浄秀寺遺跡 織田に所在し、鯖江街道北側の丘陵先端部に立地する。過去に越前焼2点が採集されていることからその存在が明らかになった。現在は国道417号線の開発工事によって削平されたため、その痕跡は認められない。採集遺物は越前焼瓶子・甕で、時期は形態よりそれぞれ13世紀後半・14世紀後半に比定される。本遺跡は瓶子が出土したことから中世墳墓であると考えられ、少なくとも存続時期は100年におよぶ。

 北釜屋甕墓(町指定文化財) 平等に所在し、当地は古く平安時代から焼物の村として名が知られ、「織田焼」の名は江戸時代の文献にも記されている。平等村は焼物を中心に集落ができたところといわれ、当時の窯跡数10基が散在する。この平等の共同墓地に、伏せた甕を墓標のかわりとした「甕墓」と呼ばれる墓が残されている。また、法名版と思われる陶板が添えられているものもある。昭和51年(1976)に町指定文化財となった。


北釜屋甕墓

(5)越前地区の遺跡

 厨1号洞穴遺跡(町指定文化財) 昭和7年(1932)のころ斎藤優氏の試掘によって遺跡が確認され、昭和42年(1967)から昭和44年(1969)まで3次にわたり、神奈川歯科大学の小出義治氏が中心となって調査を実施した。洞穴は第3紀時代の海蝕によるもので、現在のように隆起したあと、弥生時代後期から人々に利用されるようになった。とくに、古墳時代前期は季節的に移り住んで、海産物の保存加工(ウニが主体)と製塩をおこなう場として、その後は埋葬者の白骨が多数出土したため、古墳時代後期まで墓地として使用されたと考えられる。

 厨海円寺遺跡 厨に位置し、厨集落の東側、標高約60mの海岸段丘上に立地する。1995年に福井県教育庁埋蔵文化財調査センターが国道305号道路改工事に先立って発掘調査を実施した。遺構は小ピット群が検出され、縄文時代中期中葉、平安時代の土師器、黒色土器、中世の越前焼、染付などの陶磁器類が出土した。地元の伝承では、遺跡付近一帯に海円寺という寺院が存在していたとされ、黒色土器などとの関連性が指摘されている。

 洞穴遺跡群 仁科章氏は海蝕洞の調査を実施し、越前町には15の海蝕洞穴が確認されている。呼烏門1~3号洞穴・烏糞洞穴(左右)、玉川観音洞穴(玉川)、梅浦郵便局裏洞穴・泰春治宅東洞穴(梅浦)、明達洞穴(新保)、城ケ谷洞穴(城ケ谷)、道の口1・2号洞穴(道口)、城崎北小南・厨1号・2号洞穴(厨)、米の浦1号洞穴(米ノ)をあげている。そのうち、遺物が確認されたのは厨1号洞穴だけだが、仁科氏は遺跡の可能性があるものとして呼烏門2号洞穴、玉川観音洞穴の2箇所をあげている。

(6)窯跡群

 丹生窯跡群 鯖江市の西部に位置する丹生郡の各丘陵に61基の須恵器窯をほこる大窯業地帯が形成された。その分布範囲は越前町内の東西約6km、南北約13kmの広大な地域である。なかでも宮崎地区小曽原に35基、同区樫津に13基と丹生郡内の約80%がここに集中する。操業は8世紀初頭の小粕窯跡にはじまり、10世紀初頭の金比羅山登口窯跡まで約200年間も連綿と続く。本窯跡は鎌坂、佐々生、樫津、小曽原の4つの支群に分かれており、鎌坂支群を最初にして操業時期を変えながら、最後は小曽原支群に集約していく。調査が実施された窯は小粕1・2号窯跡、佐々生1・2号窯跡、上長佐2号窯、神明ケ谷窯跡の6基のみである。その他に灰原が調査された遺跡として鎌坂遺跡、舟場窯跡、八田新保1号窯、鉢伏2・3号窯があげられる。また採集資料の紹介によって知られた遺跡としては樫津窯跡群、金比羅山登口窯跡が知られている。

 佐々生窯跡 佐々生に所在し、現在3基以上の窯からなる。標高100~120m前後の八ツ手状の丘陵に挟まれた谷状地形の斜面に位置する。近接した1・2号窯は山道によって削平された窯体が露出していたため、平成14~15年(2002~2003)、朝日町教育委員会が国庫補助事業にともなう遺跡範囲確認の試掘調査を実施した。調査の結果、8世紀中頃を中心に1号窯→2号窯という操業順が判明した。鉄鉢・瓦塔などの仏具を焼くのが特徴である。

 小粕窯跡1・2号窯(町指定文化財) 織田に所在し、1990・1991年に織田町教育委員会が発掘調査を実施した。4基以上で構成されている。1号窯跡は地下式窖窯で、全長8.2m、床面全長9mをはかり、床は無階無段となる。2号窯は無階有段形式の窯で、北陸では3例しか確認されていない。窯からは単弁六葉蓮華文を有する軒丸瓦、指頭圧痕を施す軒平瓦が出土し、湖東式製瓦窯のものと同系統に位置づけられている。劔神杜の神宮寺に供給されていた可能性が指摘されている。

 上長佐2号窯[小曽原1号窯](町指定文化財) 小曽原に所在し、1975年に名古屋大学が発掘調査を実施した。1号窯は灰原のみで8世紀末、2号窯は窯体が確認され9世紀前半に比定できる。

 神明ケ谷1号窯(県指定文化財) 小曽原に所在し、1966年に名古屋大学が窯体と灰原の発掘調査を実施した。窯は全長9.3m、最大幅1.2mをはかる半地下式窖窯で、窯体の上方に馬蹄形の溝状遺構をもつ。操業時期は10世紀初頭を中心とした時期と考えられる。

 越前焼窯跡群 標高513mの城山の東南麓にある各丘陵の先端、東西3km・南北6kmの範囲には日本六古窯のひとつ越前焼窯跡群が分布する。越前焼の名称は昭和17年の小山富士夫氏の報文を嚆矢とし、水野九右衛門氏・楢崎彰一氏・田中照久氏などの地道な調査研究により様相が次第に判明してきた。以下、その成果にもとづいて越前焼窯跡の変遷を確認していく。現在までに確認された窯跡のうち、最古の操業が天王川東部丘陵に分布する小曽原支群である。上長佐窯跡群の調査により12世紀末に生産が開始されていたことが判明し、越前焼研究の端緒となった。

 また、南に位置する土屋窯跡群・奥蛇谷窯跡群でも同時代に製作されたと考えられる遺物が採集されている。鎌倉時代前期になると、窯は天王川西部丘陵の増谷支群へと移り、その後、熊谷・小熊谷・織田・焼山・大窯屋支群などに窯が分散して窯体は大型化する。この時期における窯跡の発掘調査例は豊富にあり、熊谷支群水上窯跡群・小熊谷支群奥堂の谷1号窯・織田支群西山窯跡群・大釜屋支群上大師谷東8号窯などで発掘調査が実施された。鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて、分散化した窯跡は各地域で数基から10数基の小支群を形成する。窯の数量も増大し、越前焼窯跡群の約半数が当該期に集中する。

 しかし、室町時代中頃になると窯の減少が目立ちはじめ、宮崎地区では熊谷支群が平窯跡群を経て、釜屋谷窯跡群をもって生産は終焉にむかう。織田地区では大釜屋支群上松尾窯跡群で当該期の資料が採集されている。室町時代後期に平等大釜屋支群1カ所に生産は集中し、このほかの地域において窯跡は確認できない。

 その後、江戸時代前期にかけて引き続き大釜屋支群に生産は集中するが、江戸時代中期ごろに劔神杜裏へ生産の拠点が移る。伝承では奥窯・新窯・北窯の3窯があったという。明治時代になると、殖産興業を目指す資産家達が資本投下し新しい製品を生み出すが、いずれも短期間で廃業に追い込まれた。そのような状況下、地元の窯元たちの努力によって中世以来の伝統技が今日まで受け継がれ、昭和61年に伝統的工芸品の指定を受けた。

 上長佐窯跡群(町指定文化財) 小曽原に位置し、集落東側の小独立丘陵の西斜面に立地する。上長佐窯跡群は7基より構成され、昭和50年(1975)に名古屋大学考古学研究室・福井県陶芸館・宮崎村教育委員会が3~6号窯の発掘調査を実施した。調査の結果、須恵器窯ではみられない分焔柱が検出され、また3号窯より出土した三筋壺の形態から平安時代末期~鎌倉時代初頭の年代観が与えられた。この年代観は考古地磁気の結果とも符合し、越前焼は東海地域の瓷器窯の影響を受けて成立したとする見通しが得られた。

 水上窯跡群 熊谷に位置し、熊谷川左岸の丘陵南斜面に立地する。昭和53年(1978)圃場整備事業計画に先立ち、周辺の分布調査がおこなわれ、水上窯跡群は6基より構成されることが確認された。昭和54~55年(1979~80)に宮崎村教育委員会が2・4・6号窯の発掘調査を実施し、13世紀前半に比定される甕・壺・播鉢・陶錘などが出土した。また瓶子・水瓶・蔵骨器などの宗教的色彩の強い器種も確認されている。2・4号窯ともダンパー部より円形ピットが検出されており、その中心部からは火焔制御棒とよばれる装置の痕跡がみつかっている。

 奥堂の谷窯跡 熊谷に所在し、厨城山東麓の南斜面に立地する。過去に水野九右衛門氏が1号窯の発掘調査を実施しており、13世紀後半に比定される甕・壺・擂鉢が出土している。報告書が刊行されておらず詳細については不明だが、煙道奥壁から工人の昇降施設と考えられる痕跡が検出されたことは興味深い。

 西山窯跡群 織田・下河原に所在し、劔神社西方の標高140mの丘陵上に立地する。1996年に福井県教育庁埋蔵文化財調査センターが灰原部分の発掘調査を実施した。出土遺物の大半は13世紀後半に比定される甕・壺・片口鉢であるが、経筒外容器・人面形陶製品・陶硯などの特殊遺物も確認され、越前焼生産が基本三種に規格化される以前の様相を示す貴重な資料である。出土遺物は県文化財に指定された。

 岳ケ谷窯跡群(町指定文化財) 平等に位置し、丘凌上に立地する。岳の谷窯跡群が属する大釜屋支群では42基の窯跡が確認されており、岳の谷は4群からなる16基の窯跡で構成される。1986~87年に国立歴史民俗博物館が1号窯の発掘調査を実施し、全長27mにおよぶ巨大な窯跡が検出された。出土遺物の大半は16世紀後半に比定される甕・壺・播鉢であり、窯の大規模化と規格化された製品という特徴から越前焼生産がもっとも繁栄した時期のものと考えられる。


越前町の遺跡

※本文は、越前町教育委員会 編『越前町文化財調査報告書第1集 朝日山古墳群・佐々生窯跡群・大谷寺遺跡 重要遺跡範囲確認調査報告書』2006年、越前町教育委員会 編『越前町織田史(古代・中世編)』越前町 2006年、織田町教育委員会『織田町文化財図録』1989年 より引用・一部改変したものである。