織田文化歴史館 デジタル博物館

1 大谷寺石造九重塔(国重要文化財)

(1)概要

 大谷寺大長院右側の谷奥に所在する石造九重塔は、天平神護3年(767)に大谷寺で入寂されたと伝えられる泰澄大師の御廟所で、現在なお厚い信仰を集めている。昭和15年国の重要美術品、同32年重要文化財に指定された。昭和23年6月の福井震災に罹災して倒壊し、同年復旧工事が行われている。次いで保存状況に危惧が生じたため、平成2~3年に解体修理が国庫・福井県費・朝日町費の補助を受けて越知山大谷寺によって実施された。なお、その際に基壇下部の発掘調査が実施され、礫の詰められた142cm×130cm・深さ30cmを測る方形の土壙が検出された。

 本九重塔は、笏谷石製である。基壇・基礎・初層軸・九層の屋根・相輪からなり、総高447.5cmを測る。基壇は4石の切石が組み合わされたもので、正面の幅99.2cm・高さ17.0cm(うち地上部分の高さ10.5cm)を測る。内部には最大幅51.0cmを測る各方形の空洞があり、4石の石材のうち1石が12.0cmと小さいので、納入孔の閉塞石と考えられる。しかし、閉塞石とそれに接する右奥の石材は笏谷石ではなく、かつ右奥の石材に角の面取り調整が認められることから後補であることは疑いない。また左奥の石材は笏谷石であるが、その色調と質感から当初の部材とは考えられない。こうしたことから、納入施設は後補に際して設けられたものと考えられる。

 基礎は重弁の複弁反花座を持ち、上下に貫通する空洞を持つ。正面の幅82.5cm・高さ39.8cmを測る。反花は正面・右面四葉、左面三葉、背面は無紋である。背面が無紋であるのは、鬼門除けなどではなく省略とみられる。反花におけるこうした背面の省略行為は、時期は降るが鯖江市三峯寺墓地跡の五輪塔基壇に類例を見ることができる。基礎の正面には6行21文字からなる銘文があり、「元亨第三・癸亥・三月四日・願主金資・行現・大工平末光」と判読される。

 初層軸は正面の幅51.0cm・高さ49.7cmを測る。正面に阿弥陀如来を表す梵字(キリーク)・右面に聖観世音菩薩を表す梵字(サ)・左面に勢至菩薩を表す梵字(サク)が、請花の蓮華座上に小花弁を周囲に配した陽刻圏線式の月輪からなる越前式荘厳内に彫られている。屋根は、一~八層目は上部の軸と一体で作り出された有垂木有反形である。九層目の屋根は相輪の露盤と一体で作り出された有垂木無反形で、かつ角の面取り訓整が認められ、屋根にツル目が完全に消し去られずに遺る。相輪は、伏鉢・請花(下部請花)・九輪・水煙・竜車(上部請花)・宝珠からなり、伏鉢~宝珠までの総高95.4cmを測る。九輪は上部で水煙が合体表現され、板状をなす水煙は四枚のうち二枚がのこる。伏鉢は素弁複弁の反花、請花・竜車は素弁単弁の請花である。

(2)造立時期

 本九重塔の造立時期は、基礎に「元亨第三・癸亥」とあるので元亨3年(1323)とみられる。なお、九層目の屋根と相輪は基壇~八層目までの石材と色調・質感が異なっており、屋根の形式の違いや角の面取り調整の有無などから、九層目の屋根と相輪は後補であることがわかる。その時期は、寛永年間以後と考えられる。

(3)御廟所の整備

 本九重塔が泰澄大師の御廟所として現在の形に整備されたのは、九重塔前面にある石灯籠の存在から元治2年(慶応元年)・慶応2年の2年間のことであった可能性が高い。そして、御廟所の柵も別畑石であるので、この整備の際に九重塔が現在地に移され、二つに折れた相輪を鉄芯によって接合し、基壇に別畑石とみられる石材を補った可能性が高い。

(4)九重塔の製作者

 本九重塔は、基礎に重弁の複弁反花座を持つことに特色があり、この形式の基礎を持つ多層塔は越前地域には他に類例が認められない。増永常雄氏は、銘文の大工平末光が大阪市鴻池邸所在永仁4年銘石灯籠の大工末光と同一人物である可能性を指摘し、本九重塔が畿内石大工による出張製作の可能性を想定された。しかし、石大工名が類似するとしても、越前式荘厳内に梵字を彫る点から越前石大工の製作にかかるものと考えられる。


大谷寺石造九重塔

大谷寺石造九重塔 図


大谷寺石造九重塔の銘文

※本文は、越前町教育委員会 編『越前町文化財調査報告書第1集 朝日山古墳群・佐々生窯跡・大谷寺遺跡』2006年 より引用・一部改変したものである。

2 大谷寺円山宝塔(町指定文化財)

(1)概要

 円山宝塔は、大谷寺集落北東に位置する「円山」と呼ばれる方形の塚上に所在する。昭和14年国重要美術品、平成2年朝日町指定文化財、後に越前町指定文化財となった。

 円山宝塔は、笏谷石製である。基壇・基礎・塔身・屋根・相輪が認められ、相輪の上部請花と宝珠が欠損している以外はほぼ当初の姿をとどめており、残存する高さ183.0cmを測る。基壇は2段からなる段形をなし、1段目の平坦面はわずかに斜向する。基壇北側に幅7.0cm・高さ3.5cmを測る方形の小孔が開口し、内部の竪穴に続く。この方形小孔は納骨孔とみられ、基壇直下に石室あるいは埋甕が存在する可能性がうかがえる。基壇正面における下段の幅68.0cm・上段頂部の幅62.0cm・基壇地上部分の高さ11.0cmを測る。

 基礎は、側面の各面に(上)竪連子・(下)格座間を左右に配し、中央に偈頌を刻む。基礎上面には重弁の複弁反花座があり、その上に塔身を載せる円形台がある。なお、基礎内部は空洞であることが観察される。反花座をみると、正面(西)と右面(南)は五葉、背面(東)と左面(北)は四葉となっており、北東隅が無紋となる。鬼門除けであろう。基礎正面の最大幅54.5cm・高さ45.0cm・円形台上部の径37.5cmを測る。

 塔身は短頸壺様の壺形を呈し、最大径は塔身総高のほぼ中位にある。体部と肩部の間にはそれを画する小さな段があり、肩部の上には壷の口頸部に擬せられる首部と呼ばれる円形台がある。体部には金剛界四仏を表す梵字が彫られ、正面(西)に阿弥陀如来を表すキリーク、右面(南)に宝生如来を表すタラーク、背面(東)に阿閦如来を表すウーン、左面(北)に不空成就如来を表すアクが配されている。梵字は字画の周囲を縁取りした加飾梵字で、請花の上部花弁の周囲を縁取りした加飾請花の蓮華座上に小花弁を周囲に配した陽刻圏線式月輪からなる、越前式荘厳内に彫られている。塔身の高さ41.5cm・底部底面の径31.0cm・最大径55.5cm・首部上面の径37.0cmを測る。

 屋根は相輪の露盤と一体で作り出された有垂木有反形で、棟には三条の陽線からなる降棟がある。露盤は無紋で小さな段が一段あり、露盤上には径14.0cm・深さ10.0cmを測る円形のほぞ穴がある。屋根の最大幅59.0cm・高さ39.0cm・露盤の幅24.0cmを測る。相輪は、伏鉢・下部請花・九輪が残存する。伏鉢は重弁の複弁反花、下部請花は素弁単弁の請花、九輪は線彫である。相輪の残存する高さ46.5cm,伏鉢の径21.5cm・下部請花の径21.0cmを測る。

(2)偈頒

 偈煩は基礎四面に刻まれる。正面(西)に「右志□□□□□□□□□□・往生菩提立之法界□□□成・□□□□□□□□□□造立・如件観応三□七月十一日敬白」。右面(南)「□□□□□□□□□□□□・□□□□□□□□□□□□・□□□□□□□□無□□□・□□□□□□□□□□□□」。背面(東)「□□□□□□□□□□阿□・□□□□□□□□□□□□・□□□如観□□生□□□□・□□□□□□□□□□□□」。左面(北)「一見(卒)(塔)(婆)□□方□□視□・永(離)三(悪)道□□□□□□□・何況造立者□□□□□□□・必生安楽國□□□□道□□」と判読される。

 各面ともに4行12文字が刻まれており、左面上段の文字は「一見(卒)(塔)(婆)永(離)三(悪)道・何況造立者・必生安楽國」と判読される。いわゆる古徳之偈である。左面は上下2段に分けて4行5文字ずつが刻まれているように見えるが、上下段の境の空白部分を観察すると文字の残画らしきものを認めることができる。

(3)造立時期

 基礎に「如件観応三□七月十一日敬白」と北朝の年号が刻まれており、観応3・文和元年(1352)の造立であることがわかる。

(4)性格

 偈頒の判読が困難であるため、石塔の状況から性格を検討する。まず、塔身に金剛界四仏が刻まれていることは、円山宝塔が金剛界大日如来を表すものであることを示す。そして、基壇北側に方形の小孔が開口し内部の竪穴に続くことから、小孔は納骨孔の可能性が高く、円山宝塔は納骨を目的とした施設であったと考えられる。


円山宝塔

円山宝塔 図

※本文は、越前町教育委員会 編『越前町文化財調査報告書第1集 朝日山古墳群・佐々生窯跡・大谷寺遺跡』2006年 より引用・一部改変したものである。

3 仏性寺石造多宝塔(町指定文化財)

(1)概要

 越前町小倉に所在する仏性寺の石造多宝塔は、越前地域最古の石造多宝塔として知られる。石造多宝塔は笏谷石製で、基壇・基礎・下重軸・裳階〜亀腹下部・亀腹上部〜高欄型・上重軸・屋根・相輪の露盤・相輪の請花〜宝珠と9個の部材からなり、総高297.0cmを測る。築造当初の基壇は除去され、基礎以上が平成元年12月に新造された基壇の上に移築されている。基壇と言う場合、当初の基壇を指す。

 基壇の幅99.0cm・高さ12.0cm、基礎の幅77.5cm・高さ29.0cm、下重軸の幅49.5cm・高さ49.5cm、裳階の幅98.0cm・高さ28.0cm、亀腹の下部径63.5cm・高さ8.0cm、亀腹の上部径57.0cm・高さ9.5cm、高欄形の径45.5cm・高さ4.5cm、上重軸の径31.0cm・高さ17.5cm、屋根の幅79.0cm・高さ29.5cm、相輪の総高110.5cm・露盤の幅27.0cm・高さ14.5cm、下部請花の径29.0cm・高さ12.0cm、九輪の最大径21.0cm・高さ62.0cm、上部請花の残存径19.5cm、復元径21.0cm・高さ7.0cm、宝珠の径21.0cm・残存高15.0cmを測る。

 基壇は板材基壇で、上部はツルによる紋様的仕上げを行い、側面は手斧状工具による粗い削りの痕跡をそのまま残し、土中に隠れる部分の仕上げを行っていない。回縁を表現した基礎は各面に3個の枡形を刻み、その上部に一段の段形を造る。

 平面方形の下重軸は刳り抜き式で、柱・頭貫・地長押を省略することなく四面に削りだす。正面中央には請花の蓮華座上に南無妙法蓮華経と髭題目を刻み、その左右に軸部陽刻式仏座像、釈迦如来と多宝如来を刻む。軸部右面に「弘治三年〈甲辰〉/孝蔵坊順慶/四月二十六日」、軸部左面に「起塔之願不竟而順慶帰本矣今到三回之忌辰充其願斂其霊者也」と刻む。

 裳階の軒先は反りが緩く、軒先の下端には垂木型がくの字に浅く削り出される。裳階下面には水切り、続いて下重軸の平面形に合わせた平面方形の斗供型が削り出される。斗供型に軸受け孔の存在は認められない。亀腹は二重をなし、下部は裳階上に削りだし、亀腹上部は高欄型と共に削り出す。上重軸は八角形をなし、円柱形8本が削り出される。屋根の軒先は反りが緩く、軒先の下端には垂木型がくの字に浅く削り出される。屋根下面には水切り、続いて上重軸の平面八角形に合わせた平面円形の斗供型が削り出される。

 相輪は露盤、請花〜宝珠が二石で造り出され、伏鉢・水煙は当初より省略されている。露盤には格狭間が各面に2つずつが彫られ、露盤上には直径8.0cm・深さ10.0cmを測る枘穴が認められたという。下部請花の蓮華紋は素弁単弁の蓮華紋であるが、花弁間に配される間弁は主間弁に副間弁二葉を配した三葉間弁である。九輪は9つが削り出され、その上に上部請花・宝珠が削り出される。上部請花は破損が著しく、素弁単弁の蓮華文であることが観察されるに過ぎず、間弁の弁数も確認することは出来ない。蓮華紋は下部請花が素弁単弁であるので、上部請花もまた素弁単弁であったとみられる。

 調整は基礎正面・下重軸正面では研磨され丁寧に仕上げられているが、正面以外の鑿痕が完全に消し去られていない。屋根・裳階上にはツル目がわずかに残るが、研磨され比較的丁寧に仕上げられている。宝珠の下半には宝珠と上部請花を削りだした際のツルによる敲叩痕がのこる。

 基壇の側面部分は手斧状の工具による粗い削りの痕跡をそのままにして仕上げを行っていない。下重軸・上重軸・相輪の請花〜宝珠以外には角の面取り調整が認められる。裳階・屋根の観察結果では軸受け孔の存在は認められないが、構造から考えれば少なくとも上重軸と露盤に枘が存在しないと強度に問題があるので、上重軸と露盤に枘の存在することは疑いない。

(2)建立目的

 本石造多宝塔の建立目的は、下重左面に「起塔之願不竟而順慶帰本矣今到三回之忌辰充其願斂其霊者也」と示される。この銘文を読み下すと「塔を起てる願いは竟わらずして順慶帰本す。今、三回の忌辰に到りてその願いを充て、その霊を斂むるものなり」となる。帰本はもとに帰ることを意味する言葉であるので、順慶が亡くなったことを指すものと解すると「順慶は塔を起てる願いを持っていたが、それを実現しないうちに亡くなってしまった。今、三回忌に至って、その願いによって塔を起て、その霊を納めるものである」となる。銘文に三回忌に塔を建てたと記され、旧仏性寺背後の墓地に順慶の墓碑があることから、本石造多宝塔は供養塔として建てられたと考えられる。

(3)建立時期

 本石造多宝塔の建立時期は、下重軸部右面の「弘治三年〈甲辰〉/孝蔵坊順慶/四月二十六日」の銘文より、弘治3年に亡くなった順慶の三回忌である永禄二年(1559)に建立されたものとなる。ところが弘治3年(1557)の干支は甲辰ではなく、丁巳である点に問題が残る。そこで、石造多宝塔の製作技法・紋様などから、建立時期に検討を加える。

 まず、石造多宝塔の裳階と亀腹・屋根に施された調整をみると、仏性寺塔では研磨によって仕上げているが、福井市足羽妙国寺の元和元年(1621)銘塔・寛永11年(1643)銘塔・12年(1635)銘塔・19年(1642)銘塔、敦賀市原西福寺の正保4年(1647)銘塔、新潟県上越市中門林泉寺元和9年(1623)銘塔では荒たたきと呼ばれる敲叩による調整を施している。荒たたきは研磨工程を省略する意図によって生じた手法とみられ、研磨による調整が型式的に先行すると想定できる。そして、荒たたき調整によって仕上げられた石造多宝塔が元和以後の紀年銘を持つものばかりであることから、仏性寺石造多宝塔の建立時期は元和以前に比定される。

 次いで、越前地域の石造塔で紋様の変遷過程が明らかとなっている相輪の蓮華紋から検討したい。相輪の蓮華紋の変遷は多層塔の研究で明らかとなったもので、多層塔・宝篋印塔・多宝塔という形式の違いを超えて同じ変化をたどる。伏鉢では無紋のものが古く、次いで素弁単弁の反花、素弁複弁の反花と変化するのに対し、請花では素弁単弁の蓮華紋のみで変化に乏しい。しかし、仏性寺石造多宝塔の請花にみられる素弁単弁の蓮華紋は、花弁間に施される間弁が主間弁と副間弁二葉の三葉からなる三葉間弁を呈し、特徴的である。

 現在のところ、仏性寺石造多宝塔以外では、福井市方山真光寺跡の天文2年(1533)銘石灯籠中台、永平寺町志比磨崖仏群の施主常祐・永正14年(1517)4月29日銘地蔵菩薩座像にのみ三葉間弁が認められることから、三葉間弁は16世紀に特徴的な型式といえる。そのため、本石造多宝塔の建立時期を弘治3年に亡くなった順慶の三回忌である永禄2年(1559)に比定しても、齟齬はないことがわかる。おそらく、年号と干支の対比を誤ったのであろう。


仏性寺石造多宝塔

仏性寺石造多宝塔

※本文は、越前町教育委員会 編『越前町文化財調査報告書第2集 越前町文化財調査報告書Ⅰ』2006年 より引用・一部改変したものである。

4 大年神社宝篋印塔(町指定文化財)

(1)概要

 越前町織田の大年神社境内に越前町織田の大年神社境内に1基の宝篋印塔がある。。宝篋印塔は笏谷石製で、基礎・塔身・屋蓋部が遺存する。相輪が失われ、塔身の一部と屋蓋部の隅飾りが欠損しているほかは、保存状況は良好である。基礎は無紋で、幅45.0cm、高さ25.5cmを測り、二段の段形を持つ。

 塔身は、幅29.0cm、高さ28.5cmを測る。正面に二段形の普通請花の蓮華座に乗り、舟形光背を背にする舟形光背内陽刻式の仏座像が刻まれている。仏座像は阿弥陀如来座像で、顔は風化によって失われているが、阿弥陀定印を結び、流動観のある衣紋など写実性の高いものに属する。脇侍として、右面に聖観世音菩薩を表す梵字(サ)・左面に勢至菩薩を表す梵字(サク)が彫られ、二段形の普通請花の蓮華座上に小花弁を周囲に配した陽刻圏線式の月輪からなる、いわゆる越前式荘厳内に配置される。なお、請花の弁数は仏座像の請花の方が多い。

 屋蓋部は、最大幅44.5cm、高さ32.0cmを測る。隅飾りはすべて欠損しているが、上外方に開かず直立するものであったとみられる。段形は軒上の段形六段、軒下の段形二段を数え、近畿地域に普遍的に認められるものである。なお、屋蓋部の下面と塔身の上面を観察した結果、そのいずれにも枘と枘孔は認めることができない。

(2)製作時期と性格

 大年神社宝篋印塔の製作された時期は、梵字の字画の形状より1270年代、すなわち鎌倉時代後期に比定される。

 塔身に刻まれた仏座像と梵字が阿弥陀三尊を表していることから、浄土信仰を背景に建立されたのであろう。


大年神社


大年神社宝篋印塔 図

大年神社宝篋印塔

※本文は、越前町教育委員会 編『越前町文化財調査報告書第2集 越前町文化財調査報告書Ⅰ』2006年 より引用・一部改変したものである。

5 栃川尼公墓所(町指定文化財)

 栃川区寺谷に文亀2年(1502)10月2日銘の栃川尼公の墓がある。栃川尼公(法名如祐)は本願寺七世存如の女で八世蓮如の妹。本願寺の教線拡大をめざした存如は越前に布教し、石田西光寺を開き(現在は鯖江市吉江町)、荒川興行寺(上志比村)周覚の子永存(存如の従兄弟)を如祐の婿にとり初代の住職とした。

 文明3年(1471)蓮如が吉崎に進出したのち、永存・如祐夫妻は四男蓮実をつれて栃川に隠居し、栃川西光寺を開き、後円福寺となる。如祐は栃川尼公、蓮実は栃川中将とよばれた。栃川尼公宛ての蓮如の御文はこの頃のものである。文明12年に永存が死去した後、如祐・蓮実母子は加賀一向一揆の支配する加賀二俣に移り諸江(もろえ)坊(金沢市)を開いた。文亀2年如祐は80歳で死去、栃川と上石田(鯖江市)に分骨して葬られたと伝えられている。


栃川尼公墓所

※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編2 2004年 より引用・一部改変したものである。

6 句碑千鳥塚(町指定文化財)

 この句碑は、気比庄気比神社境内にあり芭蕉門美濃派五世安田以哉坊(いさいぼう)(安永9年、1780没)を偲んで、当村の芦周(丹尾伊左衛門)が天明3年(1783)に建立したもので、以哉坊が天王河畔で詠んだ

  又も斯ふ行きかよへとや蹄千鳥
  以哉坊師塚願主丹尾芦周造建天明三葵卯秋八月未九日

が刻まれている。句は、自分もまたこの地にきて、皆とともに俳諧を楽しみたいという気持を渡りくる千鳥に託したのであろう。この頃、当地では、大変俳諧が盛んで、可隆・呂竹・芦周(気比庄)、夏窓・令羽(天王)、東逸(西田中)等がいて、「仙流社中」をつくっていた。芦周は、資金面でこれを支援し、俳諧撰集「千鳥塚」を発行している。明治になって、その流れは、当区の山本扇山により「南越獅子林分社」の創設となった。


句碑千鳥塚

※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編2 2004年 より引用・一部改変したものである。

メニュー