織田文化歴史館 デジタル博物館

1 はじめに

(1)概要

 福井県内の漁師が漁に出た際に、ときおり沖合で土器を引き揚げることがある。そのまま棄てられず持ち帰られることがある。その採取場所の聞き取り調査をおこなうと、福井県坂井市三国港沖合の玄達瀬付近と京都府経ヶ岬沖合の浦島礁付近に集中している。平成25年度の越前町織田文化歴史館開催の企画展覧会の際に海揚がり土器の調査を実施した結果、弥生土器・土師器、奈良時代の須恵器、中・近世の越前焼、近代の陶器など21点を確認した。そのうち弥生土器(5点)と土師器(3点)は8点を数える。5点のうち3点は弥生中期中葉のもので、日本海の海揚がり土器のなかでは最古級に位置づけられる。

 8点の土器のなかには長期間海底に放置されていたせいか、埋没と露出の箇所が明瞭に認められるものもあった。これまで海揚がり土器は船の沈没や転覆によるものとみられてきたが、壺の内部に煮炊きしたアワの痕跡があり、単なる沈没・転落とは思えない状況が想定できる。海への意図的な投げ入れとすれば、海神に捧げ物をおこなう行為として注目される。ここでは海揚がりの土器について紹介し、土器の内外面の観察などから海神投供行為の可能性について考えてみたい。

(2)玄達瀬と浦島礁について

 玄達瀬は越前岬北西約30㎞沖合の日本海中にあり、約200~300mの海底からせりあがる起伏の激しい地形で、長さ18㎞、幅6㎞、水深約10~30mの浅瀬である。その頂上は水深約9mの地点に、テニスコートほどの広さがある。こうした地形から複雑な潮流を呼び、魚の集まりやすい漁礁となっており、古くから海の米櫃と呼ぶくらい良好な漁場として知られている。また、地元の古老たちは玄達瀬に海坊主が出て、航海中の漁船に杓で海水をかけて沈めようとしたとの話を伝えているように、潮の流れの速い海難事故の頻発地点でもあった。

 一方、浦島礁は福井県の南端、京都府と接する内浦湾から沖合約20㎞に位置し、海深約100~200mをはかる場所である。ズワイガニの生息地で、冬期の解禁時期には最良の漁場として知られる。以上の2か所は土器が引き揚がることから古くから遺跡として位置づけられている。特に玄達瀬あたりは多くの越前焼などが引き揚がることから玄達瀬遺跡と認識されている。浦島礁あたりも水深約100mの地点で、底引き網のなかに弥生土器・土師器などが混入することから、浦島礁遺跡として認識されている。

 企画展覧会にかかる調査の結果、2か所で引き揚げられた弥生土器と土師器は8点を数える。以下、その概要について述べる。

2 海揚がり土器の紹介(古代編)

(1)弥生時代中期

 弥生土器 広口壺 越前町道口の宮本嘉晴により玄達瀬付近で引き揚げられた。口縁部は欠落するが、肩部から底部まで完存する。残存高31.3㎝、最大幅24.8㎝。胴部は長胴気味で、底部はあげ底気味である。外面全体が斜め方向のハケ調整、底部付近は縦ハケ調整と押捺を施す。胴部最大径付近には粘土接合痕がある。内面も斜め方向のハケ調整を施す。底部付近は螺旋状となり、肩部付近には押捺がある。外面に黒班、全体的に煤の痕跡が認められる。

 内面の下半部と外面の肩部には炭化物が付着する。破損箇所を観察すると、意図的に連続して打ち欠いた痕跡があり、煮炊きに使用している。内面の打ち欠いたあたりにも煤が広がり、肩部に直径1㎜前後の炭化物が付着している。鑑定の結果、アワの可能性が高い。炭化物は口縁部から肩部にかけて集中することから、内容物を取り出した際に付着したものと考えられる。内外面を観察すると、縦半分の風化が激しいが、他半分は調整の残りが比較的良好で、海中に沈んでからそのまま放置されていたのだろう。外面肩部と内面胴部には石灰化した貝類がわずかに付着する。比較的流れの速いなかで放置されていたと考えられる。形態的な特徴から弥生時代中期中葉に比定できる。越前町教育委員会 所蔵。


弥生土器の壺

 弥生土器 広口壺 経ケ岬沖の浦島礁付近(通称キツジマ)で引き揚げられた。口縁部は欠落するが、肩部から底部までは完存する。残存高23.6㎝。胴部は長胴気味で、最大幅19.1㎝をはかる。底径5.2㎝のあげ底気味の底部をもつ。海底にあったので外面の風化が激しく調整は摩滅している。内面の調整は残りがよく、肩部から胴部中央にかけてハケ調整、底部付近はナデ調整が残る。外面には黒班がある。内外面には煤が付着する。外面の胴部は襷掛けのような痕跡で残存する。内面は割れ口にも及び、煮炊きした有機物を取り出す際に付着したとみられる。

 全体の色合いは淡褐色で、海底に埋没していた部分は暗赤褐色を呈する。石灰化した貝類が内面の肩部から胴部にかけて多く付着しているが、外面はまばらである。比較的流れの速い場所に沈んでいたと考えられる。器面の風化具合を見ると、口縁部の一部と胴部の大部分の残存状況が良好であるから底を下にして斜め方向で埋まっていたことがわかる。形態的な特徴から弥生時代中期中葉に比定できる。越前町教育委員会 所蔵。


弥生土器の壺

(2)弥生時代後期

 弥生土器 甕 平成8年(1996)頃、蟹の底引き網漁の際に経ケ岬沖の浦島礁(通称キツジマ)付近の海底約350mで引き揚げられた。口径13.5㎝、器高16.6㎝。完形。口縁部はくの字状に外反し、端部を摘まみあげるように直立した端面をつくり、わずかな有段状を形成する。胴部最大径13.8㎝、底径3.5㎝。端面には櫛状工具による4条の擬凹線文を施す。胴部の外面には縦ハケ調整を全面に施す。内面の調整は胴部下3分の2がケズリ調整ののち丁寧なナデ消しをおこなう。肩部付近は横あるいは斜め方向のケズリ調整が残り、ナデ消しはない。

 外面には煤の痕跡が広範囲に認められる。特に、口縁部から肩部に強く残り、胴部に部分的に残存する。外面に煮炊きの痕跡は残るが、内面に煤はない。水を煮沸させたものか。器面には風化が認められる。甕の縦割り半分の残りはよいが、他の半分は風化が激しい。煤についても同様である。横位の状態で長期間放置され、引き揚げられるまで原位置を保っていただろう。流れにより継続的な堆積を妨げられたのか。九頭竜川下流域の出土土器と特徴が酷似する。形態などの特徴から弥生時代後期中葉に比定できる。個人 所蔵。


弥生土器の甕

(3)古墳時代

 土師器 甕 京都府経ケ岬沖の浦島礁付近で引き揚げられた。口径14.3㎝、器高19.1㎝。口縁部から胴部上半にかけては縦半分、底部付近はほぼ完存する。段部が不明瞭な有段口縁で、1.8㎝の縁帯部を有する。胴部は長胴気味で、反転復元では最大径15.6㎝をはかる。底径2.5㎝の底部はわずかにあげ底気味である。海底にあったにもかかわらず、調整の残存は良好である。外面は口縁部から肩部にかけて横方向のハケ調整、胴部が斜め方向のハケ調整、底部付近が縦方向のハケ調整を施す。内面は口縁部が横方向のハケ調整、胴部全体はケズリ調整を施し、砂粒の動いた状況が看取できる。口縁部と胴部の接続部まで削り、底部は自立しないほど矮小である。

 煤は胴部下半部全体に付着している。内面には煤が認められないため、水を煮沸させたものか。外面の肩部から胴部上半にかけての底部付近に、直径3~5㎜程度の石灰化した円形の貝類が、内面には肩部と底部に石灰化した棒状のものが付着している。比較的流れの緩やかな場所に沈んでいたと考えられる。形態的な特徴から丹後半島の特徴を有する土器で、古墳時代早期に比定できる。越前町教育委員会 所蔵。


土師器の甕

 土師器 壺 京都府経ケ岬沖の浦島礁付近で引き揚げられた。口縁部が一部欠損するが、それ以外は完存である。口径9.7㎝、器高16.9㎝。直線的に立ちあがるが、わずかに外反する口縁部で、丸底の球形に近い胴部がつく。胴部最大径15.2㎝。表面の風化は著しいが、縦と斜め方向の荒いハケ調整が残存する。内面は口縁部外面と同様の横方向のハケ調整と押捺、口縁部と胴部の接続部には絞り痕と押捺、胴部全体には横方向のハケ調整と押捺、底部付近には斜め方向のハケ調整と押捺を施す。外面の胴部には煤の痕跡が認められる。内面は煤の痕跡が確認できないため、水などの無機物を煮沸させたのか。内外面の口縁部付近に直径1~3㎜程度の石灰化した円形の貝類が全体的に付着する。風化は器面全体に及び、貝類が全面に存在することから、海底に埋まることなく露出した状態であったことがわかる。使用感はない。形態的な特徴から古墳時代後期に比定できる。越前町教育委員会 所蔵。


土師器の壺

 土師器 福井県越前岬から北西55㎞の玄達瀬付近で、カレイの底引き網漁に出漁中、水深640mの地点で引き揚がった。口径19.9㎝、器高30.0㎝。完形。くの字状に外反する口縁部をもち、強い横ナデ調整で波状風となる。胴部は胴長の球形で、最大径25.4㎝。外面には斜め方向のハケ調整を全面に施す。内面は胴部下半分が横方向のケズリ調整、上半部が横方向のハケ調整を施し、一部に押捺の処理がなされる。外面には煤の痕跡が広範囲に認められる。特に胴部全体に強く残る。内面の上半部には煤が認められ、直径2㎜前後の炭化物が付着する。炭化物はアワとみられる。口縁部から肩部にかけて集中することから、煮炊きしたものを取り出した際に付着したものか。海中にあったため器面の風化が認められる。縦割りした半分の残りはよいが、他の半分の風化は激しい。煤についても同様で、横位の状態で放置され、引き揚げられるまで原位置を保っていたのだろう。流れにより継続的な堆積が妨げられたのかもしれない。形態的な特徴から古墳時代後期に比定できる。個人 所蔵。


土師器の甕

(4)奈良時代

 須恵器 長頸瓶 越前海岸沖出土。越前町小樟の川上一海氏が浦島礁(通称キツジマ)で底引き網漁のさいに引き揚げた。口径10.8㎝、高さ19.8㎝。大きく外反する口縁部に扁平な算盤玉形の胴部がつく。口縁部長は9.8㎝、胴部高は10.0㎝。器高に対する口縁部の比率は2分の1。底径7.3㎝。頸部の最も細い部分は4.1㎝で、口縁部中程にヘラによる沈線3条を施す。胴部の約3分の1より下は回転へラケズリ調整、肩部にはカキ目調整、それ以外は回転ナデ調整を施す。内面は回転ナデ調整を施す。口縁部下半には絞り痕が認められる。黒色粒子と直径2㎜前後の白色粒子をまばらに含む。口縁部下半から肩部にかけて自然釉が認められる。形態的特徴から奈良時代(8世紀)に比定できる。越前町教育委員会所蔵。


須恵器の瓶

3 海揚がり土器の紹介(中世・近世・近現代編)

(1)江戸時代

 越前焼 擂鉢 越前海岸沖出土。口径40.7㎝、高さ15.0㎝。2㎝の厚みのどっしりとした安定した底部に、52度の角度で直線的に伸びる口縁部がつく。口縁端部を3㎝ほどつまみあげて外湾させる。器壁は1.2〜1.8㎝、口縁端部の幅は8㎜。成形段階の段が外面にめぐり、粗い横ナデ調整による。内面は全町が擂目を施すが、下半部は不明瞭である。底径22.8㎝。実際に使用していたため、内面の調整が摩滅している。内外面に多くのフジツボが付着し、口縁部の約半分を占める。採集地点は越前海岸沖というが、フジツボの付き具合から近海であったと考えられる。形態的な特徴から江戸時代後期(18、19世紀)に比定できる。越前町教育委員会 所蔵。


越前焼の擂鉢

(2)明治時代

 陶器 花瓶 越前海岸沖出土。越前町新保の藤川満喜氏が海昌丸で漁のさいに、越前海岸沖合の海底約300mの地点で引き揚げた。口縁部以外は完存する。胴部最大径28㎝、高さ20.0㎝。安定した底部をもち丸みを帯びた胴部から、なで肩状に口縁部まで滑らかに伸びる。頸部は細長くもっとも狭い部分は2.7㎝。一輪差しと考えられる。底径7.2㎝。調整は板状の工具で回転ナデ調整を施し、所々に工具への原体が明瞭に残る。内外面に釉薬を施す。肩部に直径7㎜の半月状の竹管文が施される。胴部にエゾバイ科の巻き貝の卵嚢(らんのう)が付着する。エゾボラモドキ(Neptuneaintersculpta)が近い。エゾボラモドキは福井県沖にも生息している。形態的な特徴と焼成具合から明治時代に比定できる。越前町教育委員会 所蔵。


陶器の花瓶

(3)大正時代

 越前焼 蛸壺 越前海岸沖出土。口径13.0㎝、高さ17.0㎝。どっしりとした安定した底部に、口縁部が直線的にのびる筒状を呈する。フジツボが全面を覆う。垣間見える部分を観察すると、端部が若干外側に傾斜する平坦な口縁部で、外面はナデによる段々状に波打つ。胴部径は約17㎝、底径14.5㎝。内外面にフジツボが付着して全面を覆う。底部付近は器面が露出する。採集地点が越前海岸沖ということは分かっているが、フジツボの付き具合から近海であったと考えられる。形態的な特徴と焼成具合から大正時代に比定できる。越前町教育委員会 所蔵。


越前焼の蛸壺

4 海神に捧げる行為はあったのか?

(1)弥生土器と土師器の内面に付着したアワ

 まずは、海揚がり土器を時期別に整理する。弥生中期中葉が3点、弥生後期が2点、古墳早期が1点、古墳後期が2点を数える。器種別では壺4点、甕4点である。すべてに共通するのが煤の付着である。壺は一般的に貯蔵用であるが、弥生中期のものは同時期・同形式であり、口縁部を打ち欠いて煮炊きに使用している。壺を同じような方法で割る点で意図的な行為であった可能性が高い。

 とくに、弥生土器の壺と土師器の甕の内面には、粒状の有機物が顕著に認められた。後者の方を、越前町立福井総合植物園で鑑定すると、アワという結果が出た。前者も似た状態なので、アワであった可能性が高い。二つの時期は異なるが、アワが内面の肩部に付着した点で共通している。その状態から推測すると、煮炊きの際にアワはペースト状となるが、内容物を取り出すとき、肩部に残り張り付いたものと思われる。しかも、アワ付着の2点は、玄達瀬付近の採取である。同じような状態の土器が同じ場所で採取されるので、単なる偶然の一致としては片付けられない。他の弥生土器の内面にはアワの付着は認められないが、口縁部の欠損のあり方から同じような行為が想定される。


弥生土器のアワ付着の状態

土師器に付着したアワ


土師器に付着したアワの拡大

(2)海揚がり土器の意味

 次に、陸地から遠く離れた沖合に土器が沈んでいた意味について考える。その答えを導き出すのは困難であるが、2つの推測が成り立つ。

 ひとつは、航海や漁の途中で船が転覆し積み込んでいたモノが海中に落ちる偶発的な場合である。とくに、中・近世の海揚がりの擂鉢や甕は優品で、かつ未使用のものが多いからである。三国港などで船に積み込まれた越前焼は日本海沿岸の消費地へ運ばれる途中に海難事故などで沈んだもので、未使用である点がそれを証している。

 ひとつは、海中に食物を捧げるなど土器とともに供献する意図的な行為の場合である。古代の人々は神々の加護が得られると、平穏無事に航海が進み、反対に神々の怒りに触れると、雨風に見舞われて海が荒れ、漂流や難破の危険にさらされると信じていた。古代の航海は危険を伴う偶然の要素が強く、海神しだいの行為でもあったので、その怒りを慰撫(いぶ)するため、神々の好むものを海中に投げ入れた行為が「海神投供」であった。

 後者については文献史料があり、栄原永遠男の論考にもとづいて具体的にみてみる。その前提として古代の人々にとって海や島、浦や津が神々の満ちるところとして認識されていた点である。『万葉集』を例にとると、山上億良が出発直前の遣唐大使の多治比真人広成に贈った「好去好来の歌一首」の歌には以下のように記される。

  (前略)海原の 辺(へ)にも奥にも 神づまり 領(うしは)き坐(いま)す 諸々の 大御神たち 船舳(ふなのへ)に 導き申し(下略) (『万葉集』巻第5 894)

 大海の岸にも沖にも神として留まり支配される諸々の大神たちとは船の先に立って先導し申しとあり、少なくとも山上億良は海辺や沖に神々が鎮座すると考えていたと解釈できる。また、『万葉集』「入唐使に贈る歌一首」の歌には以下のように記される。

  海若(わたつみ)のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船は早けむ (『万葉集』巻第9 1784)

 左注によれば、いつの遣唐使に贈ったものか不明であるが、海のどの神を祈ったならば行きも帰りも船は早いだろうかとある。

 そこで具体的な投供の史料として3例をあげる。まず、『古事記』仲哀天皇段には、神功皇后が瓠に入れた真木の灰・箸・比羅伝(葉盤)などを海に浮かべると、その軍勢が無事に玄界灘を渡れたとある。これは海が荒れないよう、あらかじめ神々に物を捧げた事例である。次に、『日本書紀』神武即位前紀には、神武天皇一行の船が急に暴風に雲われて難破しそうになったとき、兄の稲飯命が剣を抜いて海に入ったとある。これは、荒れ狂う海のなかに物(特にヒトや金属製品)を投入して、神々の怒りを鎮めた事例である。

 また、時代は下がるが、紀貫之の『土佐日記』も好事例である。承平4年(934)12月、貫之は土佐守の任期が終わり平安京への帰路についた。翌5年(935)2月5日に船が住吉の浜の松が見えるところまで帰り着くと急に風向きが変わり、いくら漕いでも後ろの方に戻ってしまう。危うく沈みそうになったので、揖取は「幣を奉りなさい」と告げた。住吉明神に幣を奉ったが、風波はおさまる気配はなかった。「幣では住吉神の心に添わない。神が嬉しく思う物を捧げなさい」と揖取が言った。今度は鏡を海中に投じると海は静かになった。これは風波を起こすのは海神であり、無事に航海できるか否かは、神々の心しだいと考えていたことを示している。

 これらの事例を踏まえると、玄達瀬付近は出航時の最初の難所であるので、対馬海流に飲み込まれる船を見たとき、海神の怒りに触れたと思ったはずである。とすれば定期的に訪れ、海神に神饌を捧げ、甕や壺も沈めることも充分に考えられる。弥生時代中期にそれを認めれば、海神投供の最古の事例となるだろう。それを証するには意図的か偶発的かの検証が必要である。投供は意図的な行為といえるので、土器中にその要素を見出す必要がある。

 そこで注目したのは、弥生土器に共通する口縁部の打ち欠き方で、壺の時期が中期中葉に集中する点の他に、上半部を意図的に欠損させたあと、火にかけた点である。壺が煮炊きとして利用され、しかも同じ打ち欠き方のものが海底に沈んでいるので、偶然の一致とは言い難い。そこに、壺から甕への転用の要素を加えると、意図的な行為であった可能性が高くなる。

 加えて、玄達瀬付近のものの内面に、アワが付着した点も重要である。玄達瀬付近採取の土師器にも似た痕跡があり、アワの付着は偶然の産物とは考えにくい。以上の点を踏まえれば、海神に対する意図的な投供行為という見解に舵を取ることになるが、最終的な結論については今後の資料増加を待ってくだしたい。

※本文は、堀大介「海神投供再考―海揚がり土器からその可能性を探る―」『越前町織田文化歴史館 館報』第9号 越前町教育委員会 2014年、堀大介『平成25年度 越前町織田文化歴史館 企画展覧会 海は語る ふくいの歴史を足元から探る』越前町教育委員会 2013年をもとに執筆したものである。

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