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 越前町には各地区の史跡、神社などにまつわるたくさんの昔話・伝承が残っている。ここではその中から、各地区に伝わる行事に関する伝承や代表的な昔話を紹介する。

1 朝日地区の昔話

(1)小川のむかし話

 小川から山に入る林道を200m程登ったところに「馬どめ」という所があります。そこは、大昔、日野山と越知山(おちさん)とが背くらべをし、どちらが高いかあらそった時、どうも越知山の方が、馬のひずめだけ低いことがわかりました。
 或る時、えらいおさむらいさんが越知山に登ろうとしたところ、この馬どめのところまで来たところ、どうしても馬が進まず、仕方なしにおりて、馬のひずめとくらを山の頂上に向って投げました。ひずめは一番高いところに落ちて、その分だけ山が高くなり、村の人はやっとこれで日野山と同じ高さになったと喜んだと言うことです。でも本当は日野山の方が大ぶん高いのですが、昔の人は山の高さをはかることができず目ではかったので、こんな話が生まれたのでしょう。
 それから、馬のくらは低いところにおちて、その時以来、その場所に水がでるようになり池になったと言われます。きっと今のこっている殿池(とのいけ)、火山口のことを言っているのでしょう。
 それから、上小川の神様から100m程登ったところに岩屋があります。そのところは岩の穴になっていて、昔、平家の落武者がかくれていた場所だといわれています。
 穴の奥に入ると刀や槍のさびたものがあるといわれていますが、でも誰も中に入った人はいないそうです。
 また、小川のずっと奥の山に「いのだに」という所があります。そこに野村屋敷という所があり、それは岩穴と同じころ平家の落武者が住んだといわれていて、現在の野村という姓の先祖になったといわれます。
 次に天保8年に全国的に大凶作、大飢きんの年がありました。山あいにある小川です。今のようによい田もなく、本当にひどいもので食べるものは何もとれず、小川で159人もが餓死したと言い伝えられています。その中に一家全滅した家が10軒もあったというのですから、まるでこの世の地獄だったのですね。
 その頃かどうか知りませんが、小川のお寺のまわりには、くるみの木がたくさんあって、村の人はそのくるみをとりに行くと、お寺で白いごはんをいただけたので、秋になるとくるみとりが楽しみで、喜んでくるみ取りの仕事をしに行ったといいます。昔は、白いごはんは正月とお盆にしか食べることができなくて、ふつうの日は、ひえやなっぱをまぜてたいたごはんか、おかゆしか食べられなかったとのことです。それで白いごはんは大へんごちそうでした。
 小川のしかのすけという力もちの話はこんな話です。
 越知大権現様に千人力を授かるように百日の願をかけて毎晩お参りしました。ところが途中、大きな牛がねていたのでその牛をよけて通ろうとしたら、その牛が向って来たので、しかのすけは飛びついてたおしたら大きな岩になりました。きっとしかのすけの力と強い心をためされたのでしょう。
 百日の願を終わると本当に千人力の力が授かりました。喜んだしかのすけは、家に帰ろうとするとあまり力があるので、地面に足がうまって歩けません。さて困ってしまった。しかのすけは、もとの自分の力にもどして下さいと願ったとのことです。
 このしかのすけのことがお殿さまのお耳に入り、江戸で相撲をとりなさいといわれました。しかのすけは江戸に出て相撲をとり、その頃の相撲とりをどんどん負かしました。その時にもらった金と銀でつくられているごへいが今でも大谷寺にあるときいています。

※本文は、ふるさとづくり運動実行委員会『朝日のむかし話』1980年 より引用・一部改変したものである。

(2)火進上行事

 栃川の山に南朝の武将畑六郎左衛門が、とりでを築いたことがあった。その山を鷹の巣といい、本陣の跡を城の峰といって、毎年8月14日の午後、村の子どもたちが。その山すそで火をたき、「城の峰様火上げよう」と声をそろえて呼ばり、しばらくしてみんながそろうと、火をつけたたいまつをかざしながら、城の峰に登り、少しはげ山になっている城跡に、たいまつで「火」の字を書いて、苦戦で死んだ人々の霊を弔って、山をおりる。山を下ってから、いなごを焼いて食う。
 こうして夕方になると、太いたいまつに火をつけて、村中を引きずりながら、村はずれの用水川あたりの砂盛りという場所で、また「城の峰様火を上げよう」と呼ばわりながら、そのたいまつがなくなるまで、振り廻して行事を終わる。
 ところが文政のころ一度火の元に悪いからというので、村でその行事をさしとめたことがあった。するとその年大火事になり、村中が丸焼けになった。そこでこれはきっと、火進上をやめたたたりというので、翌年からまた火進上をつづけた。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(3)鎌田屋敷

 平家の軍勢は、くりから峠で木曽義仲と戦い、敗走した。平家の侍大将の大窪鎌太(おおくぼかまた)は、武士がいやになり、途中で一行から離れ、天王川をさかのぼって、この地に来た。ここに館を築いて居住したのが、鎌田屋敷である。
 一説には、12世紀ごろ鎌田正家が青野の大窪地籍に城を構えていた。源義朝の旗あげのとき、これに組したが、長田(おさだ)の庄司(しょうじ)の天井落としの湯で殺された。それでこの城も一代限りであった。

※本文は、ふるさとづくり運動実行委員会『朝日のむかし話』1980年 より引用・一部改変したものである。

(4)雷受けの神

 金谷の淵に毎夜光るものがあり、皆が不思議がっていた。ある日松田甚右衛門という人が、その淵にはいって、光るものを拾い上げたところ、半身の仏体だったので、神社に納めた。その後これは、宮崎村下江波のものが、天王川に捨てた神さまだったとわかった。下江波からもらい受けに来たが、神様が帰らぬといわれるので、そのまま今も金谷区でお守りしている。
 あるとき神のお告げに、「世話になっているが、何の返しも出来ないので、今後は雷はわしの手で受け止めて、金谷へは落とさない」とあった。それで金谷に落雷はない。
 江波側の伝説によると、貞享4年(1689)まで江波に仁王堂があり、仁王様が安置してあった。今もそのあたりを仁王堂といっている。その年の大洪水で仁王堂も仁王像も流されて、金谷地籍にかかっていた。それを区長が拾い上げて、区の神社に祭った。江波ではこの仁王様をお迎えして、元通り安置したいと希望していた。大正5年8月江波区青年団の役員が金谷区長宅を訪れ、返還を要望して、承認を得た。江波からは日を改めて、からびつを持って迎えに来た。
 金谷区長は、「江波の神様であるから、お返しすることに異議はないが、一応神意を伺いたい。」といって、織田の劔神社の神主を招き、神占いをしたが、江波へ帰らぬとのことにて、江波の人はがっかりして帰った。
 しかし神様は、「江波には一度祭られていた縁故があるから、江波の者が水死しても、金谷より下へは流さない。」と約束したという。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(5)清水の神様

 清水(しょうず)の神様はかた目です。昔、上糸生中の神様を今の八幡神社に合祀(ごうし)しました。その時、清水の神様も上糸生の八幡神社にまつりました。
 その神様の中で、かた目から血を流しておられるお方が清水の神様なのです。どうして片目になられたかというと、昔、清水におおくぼと言った所がありました。そこに神様がおられたのですが、今神社のあるところに移りたいとおっしゃったそうです。そこで神様は馬にのって移って来ました。ところがその途中に大きな梅の木がありました。梅の木にはとげがいっぱいあります。馬で通られた神様はその梅の木のとげに目をやられてしまい、たらたらと血が流れて、とうとう片目になってしまわれたといわれています。
 それから後、そこを馬で通る時は、目をつくので馬からおりて通りなさいと書いた看板を出したといわれています。
 それに今一つ不思議なこととして、上糸生地区の神様はみんな八幡神社に合祀されたと言われているのに、清水には、今でも八王子社として神社があります。それは、祭神だった薬師如来は八幡神社に納めましたが、その他にも神様がまつられており、その中に聖徳太子像、泰澄大師像もあるといわれています。それらの神仏をまつり、今なお氏神とされています。尚、この八王子社は他の神社とちがい、わらぶきの屋根であり文政7年(1823)、今から150年前に建てられた古い神社です。

※本文は、ふるさとづくり運動実行委員会『朝日のむかし話』1980年 より引用・一部改変したものである。

(6)鱈(たら)売り地蔵さん

 朝日の観音さんの段下のお堂に地蔵さんがまつってあります。むかし浜の魚屋さんは魚のふれ売りに毎日早起きして浜を出ました。そしてこのお堂のあたりで夜があけ始めますので、それから在所をふれ売りにまわるならわしになっていました。ある日、お堂に着いた魚屋さんが時を間違えたのか、なかなか夜があけません。
 堂内に入れていただいたが、疲れがでてぐっすりねこんでしまいました。そしたら地蔵さんが現れて、
「これ魚屋さん!あんたは毎日早うから休まずやって来て感心だ。どんなに疲れるだろう。今日はあなたに代って魚を売って来てあげよう。」
へんな夢を見ました。不思議な夢だったと思いながら魚のかごを見たら一匹の魚もなく、お金がかごのわきにのせてありました。
 それからここの地蔵さんを鱈売地蔵としてみんなが信仰しています。

※本文は、ふるさとづくり運動実行委員会『朝日のむかし話』1980年 より引用・一部改変したものである。

(7)敵力倍(てきちばい)

 むかし、むかし下糸生に、それはそれは力の強い男がおりました。男の名は伍作(ごさく)といいます。伍作は自分の力をとっても自慢にしていました。その頃は今のように機械もなく、力の強い人が人から頼りにされる時代なので、村の人はもちろん近郷近在(きんごうきんざい)、そして武生あたりまで、力もち伍作の名がつたわりました。
 ところがその頃、武生の町にも大変力自慢をしている男がありました。その男は、下糸生の伍作のことを聞き、ぜひ力くらべをしたいと思い、手紙を書き、使いの者にもたせて試合を申し込みました。
 さて驚いたのは伍作です。試合を断ることもできません。そこで、
「よろしい、試合をたのしみにしています。」
と使いの者に返事をしました。返事はしたものの伍作は心配になりました。こんな小さな下糸生の村ではいばっていられるが、大きな町武生の一番の力もちには負けてしまうのではないかと思い、不安で仕方がありませんでした。
 そこで、越知神社に毎晩お参りして「敵力倍」といって敵の2倍の力を授かるように願をかけました。願が通じてか、伍作の力は段々と強くなり、力くらべが近くなった頃には、伍作が歩いた後は、道がへっこんでしまい、石の橋でも落ちてしまう程でした。伍作が歩くと地面がビリビリと地ひびきをし、家の中に入ると床が抜けてしまいました。
 こうなるとまた大変です。伍作は力強くなりすぎて困りました。いくら力くらべで勝ったにしても、この調子では村の人や家の者に迷惑をかけてしまいます。そこで伍作は考えなおし、力一ぱいがんばって試合をし、それで負けても仕方がないと思い直し、翌日からは、敵力倍の願をやめ、どうぞもと通りの自分にして下さいとお祈りをしました。越知大権現もさぞかしびっくりされたことでしょう。
 いよいよ力くらべの日が来ました。おかげで、力は元どおりになった伍作は、あるだけの力をふりしぼって力くらべをしました。そして伍作は勝ちました。武生の男も立派な人で伍作さんを大変ほめて帰ったとのことです。

※本文は、ふるさとづくり運動実行委員会『朝日のむかし話』1980年 より引用・一部改変したものである。

(8)天王坂の地蔵さん

 むかし、東の在所に喜右ヱ門さんという、めっぽう後生ねがいのおじいさんがいました。おじいさんは若い時から、日本国中の名高いお寺やお宮さん、それに高い山などを修業にまわって歩きました。
 ある年、仲よしの友達に、
「おい!うららの百姓の田植えもすんだのじゃで、気候もよいし、肩休めに越中の立山さんへ修業にのぼろうかいの」
「それはいいのー」
と友達2、3人で話はきまりました。
 いよいよ用意もできたので、うちのもんにもひまをもろうて、何日もかかって立山さんに着きました。そしてあっちの谷、こっちの峰と泊まり歩き修業しました。ほいたら岩と岩との間からきれいな温泉が湧きいでていて入浴できる格好の所に出あいました。
「何日もお湯へはいらないので一ぺんつかわせてもらおー。ああいい気持ちじゃ、地獄で仏とはこの事じゃ、何日の疲れも一ぺんに取れてしまう。越中では立山、加賀では白山、する河の富士山日本一だよ」唄もでました。
「長湯していい気持ちになった、そろそろ上がろうかいの。」
友達は上がりかけました。喜右ヱ門さんも上がろうとしましたがどうしても湯つぼから上がれません。友達が手を引き腰をおし上げてもとうていだめです。
 とうとうあきらめて、喜右ヱ門さんが、
「うらはこの世でおかした罪が深いのでこの始末。ここで終わります。みんな世話になったのー。どうか在所へ帰ったら在所のもんにも、うちのもんにも喜右ヱ門は立山さんの湯つぼの中で終わったと。そしてうらの着物のそでを片方ちぎってうちのもんに渡して下さい。それから罪ほろぼしに西の方角のところへ3体の地蔵さんを建ててまつって下さるよう、みんなに頼んで下さい。たのみます。さようなら、さようなら」
 友達はつらい別れをして在所にもどり、喜右ヱ門さんの言葉を伝えました。
 今ある天王坂の地蔵さん、横山と武生にある同形同体の地蔵様がこの方だとのことです。

※本文は、ふるさとづくり運動実行委員会『朝日のむかし話』1980年 より引用・一部改変したものである。

(9)二日堂と朝日の地名の由来

 (旧暦2月2日(現3月2日)に行われて来た祭事)
 むかしむかしその昔、朝日は具谷村(ぐだにむら)と称していたころ、毎年のようにこの地区に悪魔が現れて、田畑を荒らし農作物はほとんど穫れない状態が続き村人をこまらせた。そこで村人は毎年毎年生れて2才になる幼な子を悪魔に捧げることで、難をのがれることが出来ると信じて、それを行っていた。
 そんなある時、泰澄大師様が、この地方にお見えになり、事情をお聞きになり非常に立腹(りっぷく)されて、退治することを誓われた。間もなく悪魔の洞窟をさがし当て、それから毎日毎日洞窟の入口に通ってお経をあげ、21日目にようやく退治され村人を安堵(あんど)させた、その日が2月2日であった。
 ちょうどその時、洞窟の周辺に生い繁っていた楠木のある1本から光明を放しているのが発見され、これを立木のままで身丈1丈の聖観音像(しょうかんのんぞう)を彫刻し、お性入れのお経を上げると白毫(はくごう)から光明を放した。この明りが朝日が照らすがごとく近在まで輝いたので、この地を朝日村と名付け改称された。今から1200年以上前のことです。
 あまりのうれしさに村人は観音様の前で酒盛りをして喜び祝ったといわれます。その後このことが祭事として最近まで続いていました。宮当番が酒・さかな・モチそして萩棒(1尺5寸)100本を観音様の祭壇に飾り、時の住職さんがお経を上げながら、お参りしている村人に対して後向きの姿勢で萩棒を投げると、御堂に集まった村人はそれを拾って床をたたいて悪魔退治のしぐさをしながらお酒を飲み、踊りながら祭事を祝った。この時たたいた萩棒は4つに割れるとその年はまゆが豊作になるといい伝えられ、それぞれが家の神棚に飾ったともいわれています。近年では省略されて一部の人がお参りし、お酒をいただく程度にとどまっています。

※本文は、ふるさとづくり運動実行委員会『朝日のむかし話』1980年 より引用・一部改変したものである。

2 宮崎地区の昔話

(1)岩本観音

 江波の岩本という所に、高さ14m、はば47mほどの 大きな岩のかべがあります。その東がわに 高さ79cm、はば27cmぐらいの観音様が 11体並んでいます。その観音様は かたい岩を うまくけずって みごとに作られています。
 それは、げんろく11年(1698)8月7日に死んだ 江波に住む 木下茂平(もへい)という人が 作ったと言われています。昔、米や作物がとれず 何人もの人たちが がしした時、ここを通った おぼうさんが、これをあわれに思い 死んだ人たちをここへ まいそうし 観音様を 作ったとも言われています。

※本文は、宮崎村『こどものむかしばなし』1989年 より引用・一部改変したものである。

(2)神ふじ

 むかし上江波にひとつの仁王堂があった。境内に小さいふじの木があったが、ずんずん伸びて大きくなったころ、洪水があって仁王堂は流されてしまった。村人は心配したが、どうしても探すことができなかった。これは上戸の下の方の、金谷まで流れて行ったのを、金谷の人が拾って祭ったそうである。一方ふじの木はますます茂って、村人から神とも尊ばれ、これをきると木から血が出るとばかり言われるようになって、今は神ふじと呼んでいるという。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(3)蛇が谷(じゃがたに) 3話

 村の西に蛇が谷という所がある。むかしこの谷にて当村の百姓で親右衛門という者が、うわばみを切り殺した。そのほうびとして田を80アールほど領主の稲井田弥三兵衛から与えられた。親右衛門の八代の孫久太夫という者がいる。
 蛇が谷は八田の北谷の小さい山の中腹にある。むかしここの池のほとりに一匹の大じゃが住んでいて、毎年里へ出てはひとりずつさらって行った。そこで八田の百姓親右衛門は、たいへん怒って、左右をかまでこしらえたわくの中にはいって、大蛇を退治しようと山へ出かけた。
 少し行くと小川の小さい魚に交わってへびが遊んでいた。口ひげで魚でないことを知って、草刈りがまで頭を打ったら、へびは驚いて蛇が谷に逃げ帰って池の中にはいった。このへびが大蛇であった。親右衛門はわくの中にはいって池の中に入ると、大じゃは必死になって巻きついたが、かまのためにずたずたに切られて死んだ。
 稲井田弥三兵衛はその勇気をほめて、青田八反歩を与えてその功労に報いた。親右衛門の子孫は今も生存している。
 むかし八田の西にそびえている蛇が岳の絶頂みそろが池に大蛇が住んでいた。時々百姓に害するので、地頭の清水出羽守が、義侠心の厚い親右衛門という青年に、退治するよう命じた。彼はすぐに武生の宮川平右衛門というかじ屋に、左右両かまを打たせ、これをもって大蛇が退治に出かけた。
 すると池の中から美しいおと姫が、お盆に黄金をもって現われて、命ごいをした。「そんなものはいらぬ。本身を現わせ。」と呼ばると、ただちに恐ろしい大蛇に変り、親右衛門を一のみにしようと、赤い大きな口を開けた。勇敢な彼は、かまを両手に大蛇の口をめがけてつき、切りまくって、ついに退治することができた。このとき河内川は、大蛇の血のためまっ赤になって流れたという。
 親右衛門はその功によって、同地方の豪族稲井田弥三兵衛から、青田八反歩を贈って賞された。その後大蛇の亡念は、幾代もたたったそうである。この山の大蛇を退治してからののち、安政3年(1856)ころ松原九右衛門という信心家が、四国西国八十八か所を巡り、その砂を持ち帰って、この山上を清め、小宇を建てて、弘法大師八十八体の仏像をまつった。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(4)城山(じょうざん)

 広野と 樫津の さかいの 山を城山とよんでいます。
 宮崎中学校の 校歌の 「城山の風―」の、城山は ここの山のことです。
 この山には、昔 北条時宗という ぶしょうが お城を 造ったと 言われています。
 そしてふもとの 田んぼの 地名を 時宗と よんでいたそうです。
 城山には、石でかこんだ ひとつの ほこらがあります。この神様を、しんこうする人は ぜったいに火事に あわないと 言われています。
 広野の 定兼(さだかね)の人たちはみんな この神様を しんこうしています。
 だから 定兼には 昔から火事が おこったことは ないと言われています。
 城山の じょう主が ある年 病気に なりました。
 いろいろな、所で、ちりょうを、しましたが、ぜんぜん、こうかが、ありませんでした。
 あるうらないしに、みてもらいました。
 すると、この病気は12年いじょうたった ひえの実を、せんじて飲むと、たちどころになおるといいました。
 ちょうどそのとき、城山のふもとに 住んでいる 大西定右ヱ門(さだうえもん) という人の、家の屋根は、ふきかえてから、20年以上 たっていることがわかりました。
 雪のふる 1月15日でしたが 屋根を まくって ひえをさがしました。
 やっと ひえを 見つけて さっそく せんじておとの様に 飲んでもらいました。
 飲んだところ、たちまち おとの様の 病気がなおりました。
 お城の 人たちは 大よろこびです。
 この事が あってからは、大西定右ヱ門 という人の 住む 定兼という所では、毎年1月15日の あずきがゆの 中へ ひえの実を たとえ 3つぶでも入れるということです。

※本文は、宮崎村『こどものむかしばなし』1989年 より引用・一部改変したものである。

(5)千足杉

 樫津から陶ノ谷へ行く とちゅうの道の真中に 大きな杉の木があります。この杉を千本杉 または千足杉と言います。実はこの杉の木の中には 観音様がおられて、この木にきずをつけると たたりがあるといわれています。
 ここには 次のような話が 伝わっています。昔、ある人がこの杉の木に ふとしたことから きずをつけてしまいました。すると、この木から4、5てきの血が出たので、その人は びっくりしてしまいました。その出た血は すぐに止まりましたが、そのきずをつけた人は 重い病気にかかって 苦しみながら死んでしまったということです。

※本文は、宮崎村『こどものむかしばなし』1989年 より引用・一部改変したものである。

(6)稚子の松

 小曽原から古屋に通じる道路に沿うて、稚子桜という名の地籍がある。そこにおもしろい枝ぶりの老松が一本と桜の木が一本、あたりの平凡な景色にも似合わず、いかにも由緒ありげに立っている。その根元には、赤い小さな稲荷が一宇と古い五輪塔が立っている。
 南北両朝の争いがたけなわになり、足利高経のよっていた厨城も落ちたとき、乳母が高経の幼君を背負って、命からがらここまで落ち延びてきたものの、敵の追撃がきびしくなったので、今はこれまでと、みずから幼君を刺し、返す刀で自分も果ててしまった。里人たちは、これをいたくあわれんで、墓石を建て、松と桜を植えて、ふたりの霊を弔った。
 くだんの松は、気高くおい育ってきたが、ある年、小曽原の光照寺の住職が、この松の奇態をみて、すっかり気に入り、巨費を投じて、自分の庭に移植してしまった。ところがその翌日から、夜な夜なうしみつ時(午前2時)になると、きらびやかにいでたった武者一騎が、右の松の根元に現われ、「稚児の松を返せ。」と呼ばるので、さすがの住職も、すっかりおじけづいて、またもとのところへ植え返した。それからは不思議な声もやんでしまった。
 その後年ふるについて、そのあたり一円は、昼なお暗い森林となり、きつねやたぬきが出て、村人を悩ますので、有志が相談して、稲荷明神を祭ったところ、ようやくきつねたぬきのいたずらがやんでしまった。今はこのあたりが、田畑に整理されている。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(7)二本杉

 昔、忍熊皇子(おしくまおうじ)が 角鹿(つのが)の浦に 住んでおられました。
 皇子が、丹生と 角鹿の山を越えて 歩いて行くと、1人の老人が皇子に、「どうか この村をおそう 悪い鬼を 退治して くれませんか。」と 話かけてきたのです。皇子は村人たちのために 鬼退治を することにしました。村人たちは 喜こび、皇子のために ごちそうを作り 食べていただきました。
 ごちそうを 食べ終わった 皇子は、使った 杉のはしを 山の尾に さし建てました。
 すると そのはしから たちまち芽が出、みるみる 二本の大きな杉の木に なったそうです。これが二本杉で、八幡谷(はちまんだに)の 杉の木が その木だそうです。

※本文は、宮崎村『こどものむかしばなし』1989年 より引用・一部改変したものである。

(8)舟場の池 3話

 舟場村の東に池がある。むかし天皇が召された舟が水底に沈んでいる。3~4mほどの舟のはしが少し見えているという。
 舟場村の200mほど西に古池がある。継体天皇が北陸を開かれたとき乗っておられたくすの木の丸木船の木片が、今なお水底にある。
 大彦の命の北伐のとき、敦賀から舟に乗り、ここに着岸された。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

3 越前地区の昔話

(1)海から上がったおいびっさん

 昔、昔、今から千年あまりも前のお話です。その頃の梅浦は、大変交通の便が悪く、家も少なくて、あちらこちらにぽつんぽつんとある程度でした。村の人々は、ほとんどが海に漁に出て魚を取ってきては、2里も離れた織田まで背中にかついで売りに行き、帰りには魚を売ったお金でお米を買ってきて、細々と暮らしていました。
 ある日、漁師達が海に漁に出ました。その日は全く漁がなくて、一匹の魚も取れずに夕方になってしまいました。漁師達は、もうやめて家に帰ろうと言い出しました。でも、もう一度だけやろうと言う人がいたので、もう1回だけやることにしました。陸に網を引っぱろうとすると、何やらずしりと手ごたえがあり、さては魚がかかったものと、漁師達の網、を引く手に力がこもりました。
 さて、いよいよ網があがってみると、かかっていたのは魚ではなく、木のかたまりでした。漁師たちは腹を立てて、その木のかたまりをけっとばそうとしました。その時、ある漁師が、
 「まて、これは普通の木ではないぞ。」
と、言って、その木をひっくり返してみて驚きました。なんとその木のかたまりは、七福神のえびすさんの形をしていて、笑顔がそれは優しいものでした。漁師たちは思わず、
「ありがたや、ありがたや。」
と、拝んでしまいました。
 みんなで相談した結果、明けの日、村人たちがみんなでかついで、織田の神社におまつりしました。それからというものは毎日大漁続きで、村人達は、そのえびすさんを「おいびっさん」と呼び、
「おいびっさんのおかげだ。」
と言って魚を売りに織田に行くたびに御参りしました。
「まて。」
と声をかけたのは、現在の梅浦の善船さんの御先祖様で、いろいろとおいびっさんのお世話をした人は、桝田さんの御先祖様だったそうです。人々は、あの時けっとばしていたらどのような罰があたっていたかと考えると、善船さんにたいへん感謝をしたそうです。
 そのおいびっさんは、現在も織田の劔神社におまつりしてあり、神社の祝い事やお祭りなどがある時は、善船さんと桝田さんの代々の子孫がお仕えしてきたそうです。そして善船さんと桝田さんが行かなければ、おいびっさんの笑顔が変わるそうです。
 このおいびっすさんの笑顔を見るだけで、人々は苦しいことも忘れて一生懸命働くので、それはそれは御利益のあるおいびっさんだそうです。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(2)かがみ岩

 梅浦のふかい山の中に、白谷という岩だらけの山があります。
 むかし、むかし、白谷の山の奥には、顔がうつるひらべったい大きな大きな岩があったそうです。その岩のことを人々は、かがみ岩とよぶようになりました。いつの間にか、そのかがみ岩の近くに山ぞくが住むようになりました。そして、かがみ岩を利用してすがたをうつしていました。
 その山ぞくは、ときどき村に下りてきては、物をとるなどして村をあらすので、村の人々は、大そう苦しみました。
 白谷の山のふもとに、かすがの森とよばれる森がありました。森の中には大きなとさの木があり、その木に大きなあながありました。森には、神様が住んでおられました。白谷の山ぞくがおそってくることがあるので、ときには、とさの木のあなに身をかくしていたこともあるそうです。
 村人があまり困っているので、神様は白谷のかがみ岩にじゅもんをとなえて、山ぞくが顔をうつすと死んでしまうようにしてしまったのです。山ぞくは、そんなこととはつゆ知らず、顔をうつして死んでしまい、全めつしてしまいました。そして、神様は、かがみ岩のじゅもんをときました。村人たちは、大へんよろこびました。
 かすがの森のことを刀も使わずに山ぞくを退治したので、きらずが森とよぶようになりました。今でもきらずが森のあった場所には、かずが神社のせきひがあり、白谷のかがみ岩は、今でも残っていて、のぞき込むとぼんやり顔がうつります。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(3)死人谷

 厨の城山は、大城山と小城山のとなり合う2つの峰からなっています。大城(おおじょう)、小城(こじょう)ともいいます。その北側にある深い谷が死人谷(しびとだん)です。谷底を別司川の上流が流れています。谷の斜面は急で絶壁にちかいものです。深さは300mぐらいあるでしょうか。それは深い谷です。
 650年ほど前城山をめぐって30数年の間に6回ほど激しい戦いがくりかえされました。攻める方も、守る方もたくさんの戦死者を出しました。おおぜいの戦死者で、その始末ができないので、城の北がわの深い谷へ死体を落としたとつたえられています。それで、だれ言うともなく「死人谷」というようになったそうです。
 この谷から昔は時々さびた刀などが見つかったそうです。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(4)城山の愛染明王

 厨の城山のふもとには、厨浦・道口浦・茂原浦、それに山の東には熊谷村と平等村があります。海に面した3つの浦は塩をつくり、2つの村は陶器をつくり暮らしをたてていました。塩は海水を煮つめてつくり、陶器は粘土でかたちをつくり焼いてつくります。そのためたくさんの薪木(たきぎ)がいります。その薪木は城山から切り出したのです。とくに、塩をつくる人が大ぜいいた厨と焼ものの盛んな平等とは、むかしからなんども山境のことで争いをしました。
「あの城山は平等のもんじゃ。」
と平等村の百姓たちがいうと、
「なに言うてるんじゃ、ありゃ厨のもんじゃ」
と厨浦の漁師は大声でどなりかえす始末です。
「おめえらの村にゃていう証拠はどこにあるんけ。あるんならゆうてみ。」
と漁師は百姓ににじりよりました。
「証拠はちゃんとあるわいの。証拠もないことをうららはいわんでの。」
と百姓は答えました。
「はよゆえや。いわれんのじゃろ。」
と漁師はどなりかえしました。
「証拠はな、愛染さんは平等の方をむいてござるじゃろが。城山は平等のもんじゃから愛染さんは平等の方へむいてなさるんじゃ。じゃから厨の城山は平等のもんじゃ。」とこたえました。
 このやりとりを聞いていたお役人は、
「厨の城山はと平等のもんがいうからには、城山はまさしく厨のものである。もし、平等の城山というのなら城山は平等のものと考えるがのう。」
といって、城山は厨のものであるとの、さばきをつけました。もっと古い文書では、厨城山は越前の殿様のもので、茂原・厨・道口・平等・熊谷の村々へ貸すから借り賃を支払うことと書いてあります。
 城山の頂きに愛染明王(あいぜんみょうおう)の尊像をおまつりした人は、城山の城を構えた島津忠綱だろうと言われてきました。
 越前の国の地形をみると城山の砦を攻める者は織田や小曽原の方から来ると考えたのです。それで東の方からくる敵をにらんで城山を守護していただくように愛染明王を東の方へ向けて安置したものだと思われます。
 この戦い最後の攻防戦となった貞治5年(1366)の戦いは厨浦が焼き払われたことによって落城したので、それは西方からの攻撃に対する備えがなかったからだそうです。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(5)水仙の花

 寿永2年(今から750年ぐらい前)、木曽義仲の軍は平家を討つために、越前海岸で山本五郎左衛門を味方に加えて、京に攻め上ることにしました。
 この五郎左衛門には、一郎太と次郎太の2人の息子がいましたが、いよいよ京に出陣という時に、なぜか一郎太だけを軍に加えて、出陣していきました。戦いは連戦連勝でしたが、木曽義仲は、いとこの源義経の軍に攻められて、みな戦死したそうです。もちろん一郎太も戦死してしまいました。
 それから月日は夢のように流れ、村人も五郎左衛門や一郎太のことなどすっかり忘れてしまったある日、次郎太がいつものように海をながめていますと、太刀上の浜を波の花が岩場一面を埋めつくしている中に、一人の娘を見つけました。次郎太は、自分のあぶないことも忘れて、その娘を助け、手厚う看病してやりました。名前も仙と付けました。
 仙はたいへん美しく、しかも優しい娘でしたので、村では評判となり、平和な日が続きました。秋祭りがやってきました。笛や太この音が村々に鳴りひびき、にぎやかな夜のことです。突然、あの死んだはずの一郎太が、ぼろぼろの着物を身にまとい、体はやせ細り目だけはギラギラとして、片足だけのみじめな姿で帰ってきました。村人たちは、あの立派な一郎太とはとても信じられませんでしたが、それはまぎれもなく一郎太だったのです。次郎太は、なつかしい兄が帰ってきてくれたことを心から喜び、ごちそうを用意して心からもてなしました。
 一郎太と次郎太は、昔のように仲の良い兄弟にもどりましたが、2人はいつしか心の優しい美しい娘仙に心をひかれるようになりました。そして、兄弟の間には少しずつ心のみぞが出来てきて、いがみ合うことが多くなってきました。
 空がどんよりとくもり、粉雪が止めどもなくふりしきるある寒い日、ほんのささいなことから2人のこころにくすぶっていたものが、ついに爆発して大げんかになってしまいました。2人は刀を持って外へ飛び出しました。はげしく雪のふり続ける中、逃げる次郎太を松葉づえをつきながら兄の一郎太が追いかけていきます。2人は、波打ちぎわの大きな岩の所でとうとう切り合いをはじめました。刀と刀が火花を散らしもみ合っていると、突然ピカッと光りゴォーッと大音きょうがしたかと思うと、22人は荒れ狂う海にまっさかさまに落ち、姿が見えなくなってしまいました。
 心配して2人のあとを追ってきて、その有様の一部始終をみていた仙は、そのあまりにむざんな争いに気を失ってしまいました。いつの間にか雪もやみ、雲の間から銀色の星がまたたく頃、仙はやっと目を覚ましました。仙は「あれほど仲の良かった2人が、こんなみにくい争いを起こしたのは、自分がいたからです。私の命にかえても、2人をお守りください。」と、一心になみだを流して星に祈りました。銀世界の浜から起き上がった仙は、岩角にすがりながら大岩に登り両手を合わせておがみ、波しぶきをたてて、うずまく海の中に身を投げました。
 あらしのおさまった次の日の立てかみの浜に、白い6枚の花びらをつけたかわいい花が一輪流れ着きました。名も知らぬ花を拾い上げ村人たちは、その花をじっと見つめていると仙の美しい姿がこの花に宿っているように思え、仙の化身だろうと話し合い、海の見える山はだに植えてやりました。
 それからは、毎年仙が身を投げた寒い頃になると、うら山にはあたり一面にあの花が咲きみだれるようになり、村人たちは、その花を水仙と呼ぶようになりました。
 はげしい日本海の風を受けながら、冬になるとちいさな花をつけ、やさしい香りがする水仙は、一郎太・次郎太をしたい続ける仙の姿をしのばせているようです。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(6)玉川観音の言い伝え

 昔、玉川のある漁師が、朝早く船をこいで漁に出ました。ある所まで来て網をあげていると、ぴかぴか光る物がかかっていました。
「この光っているものは何だろう。」
と、思いながら、引きあげてみると、ぴかぴか光った観音様が上がってきました。漁師はびっくりして、捨てようか、持って帰ろうかとためらいましたが、家に持って帰っても始末が出来ないので、その場に捨ててしまいました。そして、びくびくしながら家に帰りました。
 家について、おっかあに海であった出来事を話しました。
「おっかあ、今日、海でな、網をあげているとな、観音様がな、かかってきたんにゃわいや。」そう話しても、おっかあは
「海に大事な観音様を捨てる人はいないわい。」
と、言いました。
 次の朝、漁師は、また同じ所まで行って網を上げると、また観音さまが上がってきました。その漁師はこう思いました。「これもなにかの縁、村に帰って大切にしておこう。」あわててそれを引き上げて、持って帰りました。
 それから、村の人が集まり、どうしようか話し合いました。ある人は、
「気味が悪いから、元の所へ置いてこい。」
と、言う人もいました。でも、半分の人は、もったないからどこかにまつろうということになり、相談した結果、観音様が上がった真正面のどうくつに置くことになりました。
 それが、現在の玉川観音で、今でもたくさんのお参りがあります。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(7)天狗のいたづら

 「下り松」から梅浦の方へ国道をたどると、「天狗松」と称する老松がある。毎年3月末日、梅浦の老婆ら10数人が、化粧や仮装をしてそこまで練り歩き、天狗を祭るために供養をする。 梅浦には明治末年になっても、天狗が人をばかすと信ずる人々が多かった。
 某女が「小倉」という山で薪を背負って腰をきって立とうとしたら、荷が急に重くなった。驚いて後を振り向いたら豆絞り手拭を盗人かぶりにした者が、荷の上から負われていた。娘は帰宅後、正気を失い1年程いたが死んだという。
 また或る女が山へ仕事に行ったまま帰宅しないので、村内大騒ぎになってさがした。然しようとして行方が知れず神かくしに遇ったのだろうと村人は云っていた。3年程たって数人の女達が当帰谷の崖の上の山で、仕事をしていた。崖の上から当帰谷の川を何心なく見た。当帰谷は両岸が垂直に30m程も切り立った崖で、この渓谷が50m程続いている。谷底は滑らかな一面の岩盤で、一名「長者ながし」と云われている。この「長者ながし」の中を川が流れている。ここで一人の女が洗濯していた。この姿を見た数人の女達は「お前は誰じゃ」と崖の上から声を掛けた。洗濯をしていた女は自分の名を名乗ったので、3年前に行方不明になった女だとわかり、家に連れ戻した。この人も帰宅後1ヶ年程で死んだと云う。

※本文は、越前町史編纂委員会『越前町史下巻』越前町役場 1977年、越前町民話編集員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(8)鶏の亡霊

 厨では、徳川時代にツジノナワ(ふかのはえなわ)というはえなわを業としたそうである。そのなわには、村中が鶏を飼って、その肉をえさとした。ところが毎日鶏の肉を多くつぶすので、鶏は人間をうらんで、夜明けに鳴くべき鶏が、ある日よいのうちに村中鳴きだした。漁師はさああかつきだからと、一せいに出漁した。ところが船が浜を離れようとしたら、どこともなく高いところで、「沖へ行くな、沖へ行くな。」とさかんに呼ぶ声がする。漁師たちは、いぶかしく思ったが、たいへんよいなぎだから、その声にかまわず出漁した。
 さて漁場へつき、夜の明けるのを待って、はえなわ作業にかかろうとするが、いつまで待っても夜があけない。これは変だなと、みんなが感づき、ひょっとすると、鶏を残酷にするから、鶏の亡魂がたたるのかもしれぬと思ったころは、もう遅かった。にわかに西北の大暴風がおそってきた。さあ大変と、暗黒の海を家路へと逃げで帰ったが、浜へ着くと、波見が高く寄りつかれない。村人は早鐘、早太鼓で救助に向かったが、波が高くて、とても海中に泳ぎ出られそうにもない。そこで若者の腕利きばかりが、はしごに径3分くらいの長いロープを結び、身体をしばりつけて、救助に出た。そのはしごにつかまった者や網につかまった者は、陸で引き上げたから、ようやく一命を取止めることができた。その網は今もなお命の綱として、底びき組合の船頭宿にたいせつに保存されてある。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(9)流れついた不動さん

 茂原と白浜の境には、北谷川が流れ、海辺近くの高いがけから大きな滝になって落ちています。この滝は、「入日の滝」とも「不動の滝」とも呼ばれています。滝の近くはしぶきが立ちこめ、西日を受けて、虹のように七色に輝くその見事な美しさに、ここを通りかかった西行法師がしばし見とれて「入日が滝」と名づけたと伝えられています。
 また、この滝の滝つぼのそばに不動さんが安置されていました。不動さんは背中に炎を負い激しい怒りの形相で人々の心に巣くっている悪い心をにらんでおられます。このようにみずから苦しみながら人々のこころを救ってくださる有難さに、人々は清らかな真水を注ぎ感謝の気持ちをあらわします。滝の水しぶきを常に浴びられる場所へ不動さんを安置したのも、その土地の人々の御恩報謝(ごおんほうしゃ)の気持ちからでした。それで「不動の滝」とも呼ばれていたのです。
 ところが、どうしたことかいつのまにやら不動さんがなくなりました。
「あの不動さんは、彫りがすぐれているので、諸国をまわる行者が持っていって成田の不動さんへ寄進したんだろ、もう、もどらんやろな。」
と人々は話し合っていました。
「なんとしても、あそこへもう一度不動さんにきてもらわにゃならん。」
との声もでてきたある時、海岸へ不動さんの形をした古い木が流れ寄ってきました。人々はこの寄り木を拾いあげ不動さんとして拝むことにしました。木のお不動さんなので滝つぼの近くへ安置すると水で流れる恐れがあるので小さなお堂を建てておまつりすることにしました。
 その後、石に刻んだお不動さんを寄進した人があったので、お堂の中へそのお不動さんも入れることになりました。今でも木と石で刻まれた2体のお不動さんが仲よく安置され人々に拝まれています。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

(10)ひょうたん塚の五輪塔

 厨の布山台地に小高い「ひょうたん塚」があります。このそばに丸い小山の形をした塚もあったそうですが、今は畑にとり入れられて、石組みだけが残っています。ひょうたん塚から南へ1kmぐらい離れた水田の中に、半分土のけずりとられた馬塚という古墳があります。馬塚といっても馬の死骸を埋めた塚でなく、人間の死骸を埋葬した塚です。ひょうたん塚や円塚は自然の地形をうまく利用してつくられたものですが、馬塚は平らなところへ、土を盛り上げてつくった本当の意味で人間の手になる塚だから「真塚」と呼ばれていたのが、いつのまにやら「馬塚」と呼ばれるようになったのです。
 さて、ひょうたん塚の上に白いコンクリートの小さい祠がたっていて、その中に、かなり古い五輪の塔があります。コンクリートの祠は昭和20年(1945)以後に建てられたもので新しく、それまで風雨にさらされていた五輪の塔は形を失うまでに風化しています。
 この五輪の塔は、島津忠綱という大将の墓だと言い伝えられています。忠綱の父は島津忠久という人で750年ほど前に、越前の国を取りしまる棟梁となりました。しかし、忠久は、そのほかにも大事な役目を持っていたので、2ばんめの子どもの忠綱が厨に住んで父の代わりをしました。越前の国内の乱暴な者どもを厳しく取り締まる役目ですから兵隊を従え、城を構え、越前平野を常に見張り、海の方から攻めてくる軍勢にも備えなければなりません。そのためには城山の頂上に砦を構えるのが最もよかったのです。ふだんは見張り当番の兵士が頂上の砦につめていました。
 大樟浦のいちばん高い山は「かおけが岳」と言い、ここにも見張番の兵士がいました。かおけが岳の下の「八が坂」には、飲料水が湧き出るので、ここも武士が守っていました。当番以外の武士たちは小樟・大樟・道口・厨などの浦々に住んでいました。これらの浦々には、城山の武士だった人々の子孫が今でもたくさんいるそうです。
 大将の島津忠綱は布山台地のひょうたん塚の北に居館を構えました。この屋敷の跡を今は「殿畠」と呼んでいます。居館の近くのふもと小高い所に布山神社を建て武運長久を祈りました。このお宮はずっと後になって上山中村に移され「春日神社」として、村人にあがめられています。
 行尊大僧正に寄進するために建てられた天竜寺も150年近くもたっているので、くずれたおれてその跡かたもありませんでした。当時の建て方は、地面に孔を掘って柱を建てるという掘立式の建物で、屋根は草葺きで早くくさり易い建物でした。
 島津忠綱は自分の館の近くに天竜寺を再興し荷葉寺(かようじ)と名づけました。荷葉とは蓮の葉ということで蓮は極楽の池に咲いているといわれる仏さまの教えのなかでは大切な植物です。荷葉寺も後には戦いの火で燃えました。しかし、その跡地は今でも「門前」とか「銅仏」「石仏」とか呼ばれています。
 当番以外の武士たちは、砦へ食糧をはこんだり、馬に乗るけいこや弓矢のけいこなどを布山の台地でしました。茂原に「馬場」という広い畠や雑木林がありますが、ここはその跡地でしょう。

※本文は、越前町民話編集委員会『越前町のむかし話』越前町教育委員会 1985年 より引用・一部改変したものである。

4 織田地区の昔話

(1)織田の地名

 平安時代にできた「延喜式神名帖」という古い本に、「織田神社」の文字が出ているが、それには「おりた」とかながつけてある。この織田神社には保食神(うけもちのかみ)(五穀の神-田の神)の他2神が祀られているが、この神が織田の産土の社であろう。そのいわれをみると、「昔このあたりに奇女がいて、人々にはたおりのわざをさずけた・・・」とあるから、これが織物の神で、田の神と合せ「おりたの神」といったのが始まりであったか。
 また、忍熊皇子が誉田別尊(後の応神天皇)の名を伊部磐倉宮(いべいわくらのみや)にいただき、「誉田(ほんだ)剱宮」というようになってから、「おた」という名に変わって来たともいわれる。
 更に神の田を敬って、「御田(おんた)」といったか、それとも後に越前絵図に出て来る「大田村(おおたむら)」が前からあったのか、いろいろ考えられている。また大明神村とよばれたこともあった。

※本文は、織田町民話編集委員会『織田のむかし話』織田町役場 1985年 より引用・一部改変したものである。

(2)織田焼

 古い織田かめは、水をはって、新しいひしゃくを入れて置くと、そのひしゃくが夜中に水かめの周囲をめぐりつつ、時を作るという。
 織田の神主が、京都の茶人に頼まれて、小かめを一つ荷の中に入れて、大津近くの宿で一泊したところ、夜中に「織田へ帰ろう。」とかめがいったという。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(3)釜が渕の雨乞い

 織田の釜が渕のため池のそばに、「釜島神社」という小さい社がある。この神社には水の神様がお祀りしてあり、雨乞いの神様としてよく知られている。昔から日照りが続いて、たんぼに水がない年には、この神社で雨乞いの神事が行われ、神様に雨が降ることを祈願したものである。
 釜が渕という所は、上野、寺家、馬場地区の灌漑用水の水源地となる大事な所で、ずっと昔からそこに水の神様を祀る神社が建てられていた。昭和14年にその場所にため池がつくられることになり、そこにあった神社は現在の場所に移された。また昔の一の渕、二の渕といわれた深い渕も、いまは湖底に沈んでしまった。
 昭和のはじめごろのある年の夏、日照りが長く続きたんぼには水がなく、土は乾ききってひび割れができて、いまにも稲が枯れようとしていた。百姓たちは今日か明日かと雨の降るのを待ったが少しも降る気配がなかった。百姓たちは困りはてて、ついに釜が渕で雨乞いをすることにした。
 8月28日から雨乞いが行われた。神社の前に百姓たちが大勢集り、竜の絵を書いた大きい旗がたてられ、神前にはお神酒やお米やいろいろの物を供え、神主さんがのりとをあげて御祈禱をすると、人々はそれに合わせて一心に雨の降るのを祈った。それから村びとたちの踊りが始まり、中には一糸もまとわず丸はだかで踊る人もあったという。このような雨乞いが1週間も続けられた。
 この熱心な祈りが神様にとどいたのか、ついに翌日には終日雨降りとなり、百姓たちの喜びはひととおりではなかった。その日は「雨祝(あまいわい)」ということで、村じゅうの者が仕事を休み神様に感謝する日をおくった。おかげで田畑の作物はたいへんよみがえった。

※本文は、織田町民話編集委員会『織田のむかし話』織田町役場 1985年 より引用・一部改変したものである。

(4)薬水

 織田明神の護摩堂から西200mばかりのところに、方1.2mほどの清水がある。文化6年(1809)正月7日百姓与兵衛のせがれの15~6歳の童子に夢のお告げがあった。胎毒、頭のできものがなおり、そのほか百病がよくなるといい、同年の5月から、浴室を構えた。方々から入湯に来る人が多く、またこの水をよそにくんで行って、痛いところにつけても、効験があるという。温泉ではなくて、冷泉である。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(5)慈覚大師と織田

 比叡山2代目の主、慈覚大師には、智証と慈恵のふたりの弟子があって、互いにその考えを言いあらそったので、智証には三井寺を、慈恵には比叡山をつがせた。慈覚大師はこのあらそいを止めようと思い、滋賀の湖の中に4町四方の護摩壇を作って、7日間の修業をした。すると不動明王が水中から2童子をつれてあらわれたので、2人は大いにおそれいり、あらそいをやめて信仰を深くした。慈覚大師は湖に出現した3体の尊像をまねて彫刻した。すると湖から出現した尊像が空へ飛び去った。ところがその跡を追うように彫刻像も飛び去り、2体は粟田部へ、本尊は織田の剱神宮寺の社殿をあけて入った。天子はこのことをお聞きになられ、慈覚大師に剱神宮寺をまもるように命じられた。大師はここに仏殿・神殿・講堂など多くの堂塔を建てた。そして前に唐から持ち帰り、比叡山に置いた釈迦入滅の涅槃図をこちらへ移そうとしたが、比叡山はどうしてもよこさないので、朝日山、白山、越知山の3山にこもられ、三国伝来の涅槃図を作ってくださるようお祈りした。すると、天女が現われて、たて糸に蚕の糸、横糸に剱神社の阿弥陀池に生えている蓮の糸を使って布を織り、そしてその布にえがいたりっぱな絵図をいただくことかできた。この蓮糸の出たところを「糸生(いとう)」といい、織ったところを「織田(おた)」というと。

※本文は、織田町民話編集委員会『織田のむかし話』織田町役場 1985年 より引用・一部改変したものである。

(6)泰澄大師と織田

 泰澄大師は今から約1800年の昔、麻生津三十八社の三神氏の二男として生れた。大師のお母さんが、ある日白山の方から白い玉が飛んで来て、ふところへ入った夢をみて大師をみごもったという。大師が5、6歳になった頃から、しきりに土をこねて仏像を作り、花をささげておがんだり、熱心に本を読んだりして、他の子供たちとはかわっていたという。11歳の頃、旅の僧が三神家にとまり、大師の尊い姿を見て驚き、
「この子は後にきっとえらい僧になる。」
と両親に告げたという。
 14歳の時、夢に観世音が現れて「西の越知山を霊場として開くよう・・・。」にすすめら
れ、この開山を固く心にちかって、毎日このけわしい山によじ登り、道をつけては進んで
行った。
 その頃、越知山は茗荷の源佐門旨定(みなもとさもんむねさだ)(後の佐々木三助)のものであったが、大師の徳を慕ってこの山を寄進し、いろいろ開山のお手つだいをした。大師は大へん喜んで手のひらに墨をぬり、紙に手形をおして、肝煎佐門と書いて渡したという。
 大師は茗荷の滝にごへいを立てて、滝の水で身を清め、開山の成就を祈ったそうで、今もこの滝の岩にごへいを立てたという穴が2つのこっていて、この滝を人びとは「幣が滝」と呼んでいる。
 越知山を開いた後、あちこちの山を開き、多くの寺や宮のもとを作り、産業をすすめるなど大いに世のためにつくした。笈松の称名寺、中村の浄源寺、上野の西楽寺、三崎の善金寺など、みな大師がそのもとを開いた寺であるという。また多くの仏像をつくり各地の寺に祀るなど、大師の徳はいよいよ高くなって、人々から「越の大徳」といわれるようになった。
 そんな頃、大師はまた天女の夢の告げによって、平泉寺から白山に登りこの山を開いた。それは大師が36歳の時であったという。
 また元正天皇がご病気のとき、召し出されてご平癒をお祈りし、「神融禅師(じんゆうぜんじ)」の名をいただいた。天平3年に日本国中に「ほうそう」の病がはやったとき、お祈りをしてこれをしずめられたので、聖武天皇から「泰澄(たいちょう)」の名をたまわった。
 大師が77歳の時、平泉寺から越知山へ帰り、やがてふもとの大谷寺に住まれることとなった。ある日大谷寺前の蓮池に咲いた美しい花を、仏に手向けるために折ったところ、白い糸が出て来たので、この糸で織物ができないかと考え、近くの村人に織ってもらったら、大へんりっぱな絹ができたという。この糸の出た所を「糸生(いとう)」といい、織ったところを「織田(おた)」というと。
 こうして多くの人々をすくい、大きなしごとをなしとげて深く敬われた大師も、ついに大谷寺の釈迦堂谷で坐禅の姿のままなくなられた。時に大師は86歳であった。

※本文は、織田町民話編集委員会『織田のむかし話』織田町役場 1985年 より引用・一部改変したものである。

(7)幣が滝 2話

 幣が滝というのは、泰澄大師が越知山をひらかれる最初、かの滝の頭に幣を立て、山の成就を祈られたところである。ご幣を建てた穴が今も石についている。
 幣が滝は、15mばかりもおちる滝で、泰澄大師が岩に幣を立てたくし跡という穴が2つある。

※本文は、杉原丈夫編『越前若狭の伝説』松見文庫 1972年 より引用・一部改変したものである。

(8)身代わり地蔵

 昔、上野の地蔵堂の前は、矢倉、下河原、江波と東の方へ通じる道と、土谷野(つちやの)、平等と西の方へ通じる道の分かれるところにあり、交通の要所であった。
 そこには、えのきの大木が雲つくばかり高くそびえていて、おとなが3人で両手を広げて、やっとかかえられるぐらいの太い木であった。この木の根もとには、昔から大きい石の地蔵さまが置かれていた。この地蔵さまは、人々を苦しみから救ってくださる仏さまとして、あちこちの村の信者がたくさんお参りに来た。
 そのころ、織田の市場というところは、市がひらかれたところで、お盆やお祭や市のひらかれる日になると、浜からは魚や塩などを運んで来る人、近くの村からは木綿織(もめんおり)やござや笠などを持ってくる人、地元からは米や野菜などを持ちよる人などが集まって、物の売り買いや物々交換が行われて、たいへんにぎわったところである。
 市がひらかれるといろいろな人が集まってきて、中には「ばくち」や「ほうびき」などのかけごとをする人もあった。ある年のお盆の市がひらかれたとき、この市場の元じめである大五郎という親分が、罪人ということで府中(武生)の奉行所へ引き立てられるというさわぎが起こった。
 ことのおこりは、六助というばくちうちの男が、ばくちに負けた腹いせに、周りの者にあたり散らしたり乱暴したりするので、だれもこれをおさえるものがおらずみんなが困っていた。大五郎は親分であるから、しかたなくこれをとりおさえてしかりつけた。するとこんどは大五郎にくってかかり、刃物までもってとびかかってきた。この時、だれかが投げた割木棒(わるきぼう)が飛んできて、六助の向こうずねをポカリと打った。不意をうたれて六助は痛くて飛びあがり、片足で門口へ飛び出たところを、みんなの者が総がかりで大通へ追い出した。六助は暗い道の向こうの方へ走っていったが、その時足を踏みはずして高いがけからごろごろと転がり、大川へ落ちて死んでしまったということである。
 ところがこの六助の死を、大五郎がだまし討ちにして殺したのだといって、六助の身内の者が奉行所へ訴え出たのである。奉行所では罪人を出せと織田の庄屋へ命令してきた。大五郎には何の罪もないわけであるが、奉行所の命令とあらば、行かなければならなかった。
 奉行所へ行く日が来た。大五郎はその朝は神さまと仏さまに参ってお別れを告げ、また家族や親類のものにも別れを告げて出かけた。村役人は府中の奉行所までついて行くことになった。一同は上野の村はずれの地蔵さまの前まで歩いて来たとき、大五郎は何とはなしに引き止められるような気持がした。それで地蔵さまの前に手を合わせ、
「南無地蔵大菩薩、大五郎に罪がないことを明らかにしてください。どうか命を助けてください」
と、一心に祈った。
 そして重い足どりながらも、山道や野道を通り府中の奉行所に着いた。奉行所にはいると、大五郎は役人たちに引き立てられ白州(しらす)へ座らされた。しばらくすると巳の刻(今の午前10時頃)の太鼓が、ドーンドーン、…と鳴りだした。一段高いところに3人の役人が現れた。いよいよ取り調べが始まるのである。
「その方はなぜ六助を殺し、その上、銭まで取るような悪事をはたらいたか、許しがたいやつだが、ひととおり訳を聞こう」
と、厳しい役人のことばである。大五郎は、
「恐れ入りますが、それはおおちがいでございます。しばらく手前の申すことをお聞きください」
といって事の次第をくわしく話した。しかし大五郎の言い分は聞き入れられず、ついに罰せられることになった。
 役人は、はじめに刀のみねを静かに大五郎の首すじにピタリとつけた。ひやりとした冷たいものを首につけられて、大五郎は「もうこれまで…」と気を失ってしまった。
 しばらくして気がついてみると、役人の声、「おい、大五郎、もうお前には用事がなくなったぞ、もう帰れよ」
といって縄をといてくれた。あまりにもとつぜんのことで、大五郎はどうして罪が許されたのか不思議でならなかった。が何よりも命が助かった嬉しさで
「は、はあー」
と、砂の上にひれ伏して役人を拝んだ。
 お礼のことばもそこそこに、3里半の道も足どり軽く、喜び勇んで家路を急いだ。
 夕方近くに上野の村はずれに着いたので、お地蔵さまの前に立ち寄ってみたところ、大五郎はびっくりした。ここを朝出かける時は無事であった地蔵さまの首が下に落ちているではないか。
「まあ、これはもったいなや、お地蔵さまが身がわりになって、この大五郎を助けてくださったのだ。ありがたいこっちゃ、ありがたいこっちゃ」
大五郎は地蔵さまの前にひれ伏し、あふれる涙をおさえながらお礼を申したという。
 それから大五郎は、地蔵さまをだいじにし、毎日お参りをして花や線香を絶やさなかったという。
 この話が人々の間に伝えられ、「身がわり地蔵」または「延命地蔵(えんめいじぞう)」とよばれるようになり、ますます信者が多くなった。後の時代になってお堂が建てられて、この地蔵さまはその中にまつられるようになった。

※本文は、織田町民話編集委員会『織田のむかし話』織田町役場 1985年 より引用・一部改変したものである。

(9)明神様の獅子頭

 昔、大王丸の或る人が、福井へボテ商いに行って帰りが遅くなって日が暮れたので、途中でとある神社の中に入ってとまることにした。
 夜中にあまりさわがしいので、そっと奥をのぞくと、2つの大きな獅子頭がけんかをしている。それがだんだんひどくなって、たがいに食いつきあって大げんかになってきた。この人は見るに見かねて中へはいり、両方をわけてけんかをやめさせ、
「いっしょにいるものは、仲よくせねばならん。」
と、こんこんと言い聞かせた。
 しかし今夜だけけんかをやめても、またけんかをするといけないから、獅子頭1つを織田へ持ち帰った。そしてこの獅子頭をどうしようかと考えたすえ、明神様に納めることにした。そして仲間をつくり明神様に獅子舞を奉納するようになった。

※本文は、織田町民話編集委員会『織田のむかし話』織田町役場 1985年 より引用・一部改変したものである。