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※本項は、『広報えちぜん』(越前町広報誌)第3号より連載した「えちぜん年代記」のテキストデータである。掲載にあたり、誤字脱字などは適宜修正した。

1 第1回~第20回

第1回(2005.4) 高木久史

持統天皇6年(692)9月21日 「越前」、記録にあらわる!!

 ご存じの通り、越前町という名前は、昔この地方が越前国と呼ばれていたことからきています。では越前という名前自体はいつごろまでさかのぼることができるのでしょうか?

「白蛾」とともに登場

 次の史料が、越前に関する最古の記録です。

 越前国司、白蛾を献れり

 (『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条。ちなみにこのころは日にちを干支で記しました。この年・月から計算すると21日になります。また「~条」というのは、この日付の記録であることを示します)

 直訳すれば、越前国司(県知事のような役職)が白い蛾を献上した、という意味です。白い蛾とは何か?珍しい白い蛾(おめでたいしるし)という説もあれば、蚕蛾(おカイコさんが成虫したもの)と考える説もあります。実のところはよくわかっていません。

 昔の越前は広かった

 その昔、この地方は「越」と呼ばれていました。これが都から近い順に前・中・後に分けられます。つまり越前・越中・越後です。今回あげた史料のころ、この三分割が行われたようです。

 ただしこのころの越前は現在の石川県も含んでいました。その後養老2年(718)に能登が、弘仁2年(823)に加賀が独立し、いわゆる越前の範囲が固まります。

第2回(2005.5) 高木久史

明暦4年(1658)5月11日 越前焼の土取りで協定を結ぶ

 越前町の伝統工芸といえば越前焼。平安時代末期からの長い歴史を持っています。

 越前焼をつくるには当然のことながら土が必要です。その土をどこから取るかということについて村々で話し合いがもたれることがありました。そのときの協定書が残っています。

 土を取るかわりにスリバチを

 江戸時代前期、越前焼生産の中心の一つが平等村(ちなみに現在の大字の多くは江戸時代の村にほぼ相当します)。平等村の人々は越前焼の甕などをつくるため、下河原村の山野から土を取っていました。一方下河原村は同じところで柴を取ったり畠を開いたりしていました。そこで双方の取り分について明暦4年に協定が結ばれます。これにより平等村は土を取る代わりに下河原村へスリバチを毎年提供することが確認されました(『友広支己家文書』)。

 みんなで話し合い

 この協定書には平等村・下河原村の代表者だけではなく、織田村・江波村・小曽原村の人も署名しています。これは平等村・下河原村の話し合いに際して織田村・江波村・下河原村があっせん・調停をしたことを示しています。この時代は、単に当事者の村だけですましてしまうのではなく、まわりの村の意見も聞いて物事を決めることが多かったようです。今回あげた話はその典型的な例です。

第3回(2005.6) 高木久史

永正5年(1508)11月24日 干飯浦などの馬借が山内の馬借グループに入る

 陸上運送のエース・馬借

 現在の陸上運送の中心といえばトラック。かつては馬でした。鎌倉時代から戦国時代にかけて、馬借という、馬で荷物を運ぶ業者が物流の中心を担っていました。輸送運賃のほか、彼ら自身が品物を売買することによって生計をたてていました。

 河野・山内の馬借、まかりとおる

 室町時代、この地方でハバをきかせた馬借グループが二つありました。河野を中心とするグループと、山内(現在の越前市湯谷・中津原など旧河野村と接する地域)を中心とするグループです。当時武生・敦賀間を移動する場合、木ノ芽峠を越えるよりは、いったん海へ出て舟で行くほうが便利でした。そこで河野や山内が通り道として選ばれました。そのため当地から馬借になる人が現れたのです。

 戦国大名朝倉氏は、河野・山内以外の馬借が、敦賀方面から舟で運ばれた塩・木材の輸送をすることを禁止しました。塩・木材は当時最重要商品でした。この輸送を独占することにより河野・山内の馬借は多大な利益を得たでしょう。

 干飯・高佐・六呂師の馬借登場!

 その後河野・山内の二大馬借グループを脅かす新興勢力が現れます。その一つが干飯浦(現在の米ノ周辺)・高佐・六呂師の馬借でした。彼らがなぜ力をつけたのかはよくわかりません。

 最終的には、永正5年、干飯浦周辺の馬借は山内馬借のグループに入り、同じく塩・木材の輸送を独占することになります(南越前町『西野家文書』)。

第4回(2005.7) 高木久史

文永7年(1270)7月20日 大谷寺での相撲を禁止する

 相撲いまむかし

 もともと相撲とは、力くらべや格闘をすることを広く指すことばでした。奈良時代になると各地から腕自慢が朝廷に集められ、「相撲」という名で競技会が行われるようになります。その中でルールや作法が形成されていきます。ちなみに「倒せば勝ち」「出せば勝ち」という現在のようなルールが固まるのは江戸時代初めごろのようです。

 地方での相撲の最古級の記録

 もともと朝廷で行われていた相撲が、各地の寺社の祭礼などでも行われるようになります。京都以外の地方の寺社での相撲についての最古級の史料が、実は越前町に伝わっています。鎌倉時代も半ば、文永7年のものです。

 「大谷寺で7月14日の夜に相撲が行われている。しかしこれは仏事でも神事でもない。人々が集まり、ややもすればケンカが始まる。刀傷沙汰、ひいては死人が出るもとである。今後は禁止する。」(『越知神社文書』)

 ケンカのもとだから、ダメ!

 …どうも、荒っぽい話のようです。宗教行事ではなく、人々が集まってくるということは、いわば純粋にスポーツとして行われ、それが娯楽として観戦されていることを意味します。しかしそれが死人がでるもととは…。勝負に熱が入りすぎて力士が刀を抜いてしまうのでしょうか、見ている方までもやらかしてしまうのでしょうか。

 旧暦7月半ばということは現在の8月の半ばから下旬です。収穫前の大発散イベントだったのかも? なにとぞ、おだやかにおだやかに。

第5回(2005.8) 高木久史

天正4年(1576)正月 劔神社が柴田勝家へ刀狩の免除を願う

 刀狩のルーツは越前だった!

 天正4年、信長が越前の支配を柴田勝家へ任していたころの話。あるとき勝家のもとへ劔神社が陳情に来ました。その陳情書が劔神社に残っています。

 「うちは税を免除されている所なので、『刀さらえ』も免除してください。」

 刀をさらえる、つまり刀狩がどうもこのころ越前で行われていたようです。

 しかし、ちょっと待った。刀狩といえば秀吉だったような? 教科書などにも、天正16年(1588)に秀吉が刀狩を行った、とあります。

 それよりも10年以上前、信長の時代にすでに刀狩が行われていました。実はこの古文書、刀狩についての日本で最古の記録なのです。

 なぜに刀狩?

 江戸時代の文学作品にも勝家による刀狩の話があります。これによると勝家は没収した武器を農具や九頭竜川の舟橋の鎖に作りかえたといいます。秀吉が、大仏殿の釘などを作る名目で刀狩を行ったのと、なにかしら似ています。

 実際のところはどうなのでしょうか。劔神社の主張は「うちは税が免除されているので刀狩も勘弁してほしい」というものでした。つまり刀の提出が納税と同じようなものととらえられています。このことから、反乱防止のための武器没収というよりは、武器そのものを得ることを目的にしていたと考えるむきもあります。もしかしたら、信長も武器不足に悩んでいたのかも?

第6回(2005.9) 高木久史

康正2年(1456)5月30日 現越前町内の村々が幕府へ銭を納める

 内裏建設のため、銭を納めよ!

 康正2年4月、内裏(天皇の住居)の建設のため銭を納めるよう、室町幕府は各地へ命令しました。このときの納入者と納入額の一覧があります(「康正二年造内裏段銭并国役引付」『群書類従』)。

 このとき現在の越前町内の集落からも銭が納められます。幕府がその銭を受取ったのが5月30日でした。

 1反あたり50文。高い?安い?

 では具体的にどの集落が納めたかというと…?(以下、記載順)

開発村(岩開の一部) 963文

岩永村(岩開の一部) 650文

粟生野村(青野)   175文

加志津村(樫津)   1400文

内郡村        3000文

 納める額は、課税対象の土地1反ごとに50文と決められていました(当時は1反≒1200㎡)。ということは、この数で割るとそれぞれの村の課税対象にされた土地の面積を求めることができます(Let's try !)

 さて1反あたり50文といいましたが、これはどれぐらいの負担なのでしょうか?このころの銭1文は現在の価値で100円程度にあたります。50文で5千円。つまり1反あたり5千円程度を納める計算になります。

 実はこの税、臨時のものです。となるとこれと別に通常の年貢も納めなければなりません。いかがでしょう。けっこうきつい? それとも案外楽?

第7回(2005.10) 高木久史

天正12年(1584)7月6日 厨・茂原で検地帳がつくられる

 秀吉の時代の越前の支配者って、誰?

 信長の時代の越前の支配者といえば柴田勝家。江戸幕府ができたときは結城秀康。その間の秀吉の時代は?…あまり知られていないのではないでしょうか。

 天正11年(1583)、秀吉は勝家を攻め滅ぼします。その後、もともと信長の家来で秀吉や勝家の同僚だった、丹羽長秀に越前の支配を任せます。同13年(1585)に長秀が死去した後はこれまたコロコロと支配者が替わります。秀吉の時代の越前のイメージがはっきりしないのはこのためかもしれません。

 のべつまくなし米で計算

 長秀が越前を支配した期間は短かったのですが、重要な政策を行っています。天正12年の検地=土地調査です。町内では栗屋(厨)浦・毛原(茂原)浦の分の帳面が残っています(青木家文書)。

 これを見ますと、田畑・屋敷・山の価値を米の量で計算しています。田畑はともかく、屋敷・山で米はつくらないのですが…。実はここがミソ。田であろうがなかろうがその価値を米で計算するのは、すでに信長の時代に始まっていました。この方法は秀吉の太閤検地でも採用されます。今回とりあげた検地の記録は、信長の検地と太閤検地との中間点にあたるものとして注目されています。

 それはそうと、この帳面には漁業については記されていません。浦の土地の価値を計算するときに、漁獲量は考えなかったのでしょうか?

第8回(2005.11) 高木久史

大永4年(1524)3月 越知山の無断伐採で争論になる

 山は資源の宝庫

 越前町は山の町でもあります。かつて人々は山の資源を最大限活用して生活をしていました。建築のための材木、燃料となるタキギ、果実・山菜・動物などの食糧など、山はまさに資源の宝庫でした。

 とはいえ無限にあるわけではありません。とくに戦国時代には、いくさにともなう材木需要の高まりや田畑の開発にともなう大伐採など、さまざまな理由で山の開発が進みました。山の資源が、底をつきかけます。

近隣の人々が越知山の木を切る

 そのため普通の山だけでは足りず、越知山ではご神木までもが勝手に伐採される事態におちいります。困った大谷寺は大永四年、大谷寺は朝倉氏へ「どうにかしてほしい」と訴え出ます。そのときの陳情書に次のようなことが記されています(『越知神社文書』)。

 「尼ヶ谷(現 福井市)の人々が越知山の神木を勝手に伐採している。朝倉氏へ納めるコスキ(木製の雪かきスコップ)やマナ板をつくるためだという。年貢を納めるためにご神木を切るとはどういうことか。」

 「老原(現 越前町笈松・入尾)の人々も木を切りすぎている。みかねてナタを奪い取った。」

 「小河(現 越前町小川)の人々は別山で栗の木を伐採している。倉の板・柱などにして売っているようだ。」、等々。

 とはいえ近隣の人々も生活がかかっています。年貢を納めるためや、板材を売って現金収入を得るためなど、苦労の様子をうかがい知ることができます。資源の問題は今も昔もなかなか難しいようです。

第9回(2005.12) 高木久史

天正4年(1576)9月27・28日 劔神社の領地の村々が田畠山林の年貢額を申告する

 どれだけ年貢がとれるのか?

 天正3年(1575)、織田信長により越前一向一揆殲滅作戦が行われました。そのため越前の国土は荒れはてます。信長から越前の支配を任された柴田勝家は建て直しをはかります。そのためにはまず、越前国内でどれだけ税-年貢がとれるかを把握する必要がありました。

 そこで翌4年、国内の村ごとに、これまで納めていた年貢額を申告させました。これを指出といいます。当町内に関するものでは、当時劔神社の領地だった山中村(現 上山中・下山中)、上野村(現 織田のうち上野)、堤ぬしや村(現 織田のうち堤)、下河原村、江並村(現 江波)、樫津村、加谷村(現 蚊谷寺・広野)・平等村の田・畑・山林の年貢額を記したものが提出されました(劔神社文書)。

 江戸時代的な納税方法のハシリ

 村が指出を提出することは、そこに書かれた額の年貢の納入を約束する意味もありました。つまり単なる納税額の申告書ではなく、納税の誓約書という意味も持っていたのです。この方式は信長・勝家の独創ではなく、実は朝倉氏の時代からやっていたようです。

 また注目すべきが、村単位で年貢額を合算し、文書の末に各村の「惣代」が署名していることです。これは村単位で年貢額を把握し、村の代表者が年貢のとりまとめの責任を持つという、江戸時代的な方法がとられていることを示します(「惣代」は江戸時代では庄屋にあたります)。つまり戦国時代にすでに江戸時代的な納税システムができあがっていたということをこの古文書は示しているのです。

第10回(2006.1) 高木久史

天正2年(1574)5月下旬 織田城主・朝倉景綱が敦賀へ逃亡する

一向一揆vs.朝倉景綱

 天正元年(1573)、朝倉氏本家・義景は没し、信長は越前を占領します。義景以外の朝倉一族は許され、越前国内に領地が与えられました。その内の一人・景綱は織田に領地が与えられます。

 翌2年正月、越前で一向一揆が起こります。同年4月、朝倉景綱は一向一揆に対抗すべく、現在の織田・下山中・上山中・平等の境にある山城(一般に織田城または山中城と呼ばれます)に食糧を運び入れ、守りを固めます。その後一揆との間に激戦が繰り広げられます。城のあったところには現在も人の頭ぐらいの大きさの石が転がっています。城側が上から投げつけたのでしょうか。

 秀吉、救援するも…!?

 一方信長は一向一揆鎮圧のため羽柴秀吉らを敦賀へ派遣します。同年5月下旬、秀吉は景綱救援のため、食糧を積んだ10隻ほどの船を立石浦(敦賀半島の北端)から織田城のふもとの浦(大樟・道口・厨あたりでしょうか)へ派遣します。

 これで城側も少しは楽になるかと思いきや、あろうことか景綱は5~600人いた守備兵たちを城に置き去りにし、秀吉が派遣した船に妻子を連れて乗り込み、そのまま敦賀へ逃げていってしまいました。取り残された兵たちの心中やいかに。

 同年6月5日、城側は降伏し、城は一揆へ明け渡されます。守備隊の命はなんとか助けられました(「立石区有文書」、『朝倉始末記』)。信長が一揆を滅ぼすのは翌3年(1575)に持ち越されます。

第11回(2006.2) 高木久史

嘉慶元年(1387)6月7日 天王宮での幸若舞?の奉納につき定める

 幸若舞、越前で始まる

 幸若舞は、室町時代から戦国時代にかけて流行した芸能です。越前町西田中周辺は幸若舞の発祥の地として知られています。

 伝えによると、幸若舞の創始者・桃井直詮(幼名幸若丸)は、南北朝時代の有力武将・桃井氏の血筋といいます。直詮は桃井氏が没落したのち15世紀初めごろ法泉寺村(現 宝泉寺)に生まれ、のちに西田中あたりに領地を得て本拠地としました。その後将軍・足利義政や織田信長が幸若舞をいたく好み、保護しました。

 幸若舞がどういうものか一言で言えば、説話や軍記物語をもとにした語りにあわせた舞です(信長が好んだ「敦盛」は有名ですね)。基本的には2人で演じます。前後移動または8の字移動で回り、細かい所作はなく、小道具もなく、単調な節回しでの語りが続くのが特徴です。

 最初の記録?は神社で奉納

 幸若舞に関する現存最古の記録と思われるものが、嘉慶元年のものです(「進士家文書」)。これは、天王宮(現 天王区八坂神社)の祭礼にあたり、獅子舞・神楽・田楽を奉納するとともに、「幸若」なる者が「舞」を奉納することを定めるものです。

 実はこの「舞」は別の種類の「舞」かもしれず、いわゆる幸若舞を指すのかどうかはよくわかりません。しかし室町時代の初めに当地に幸若なる者がおり、「舞」を祭礼で行っていたことを示す点で、とても重要な史料です。

第12回(2006.3) 高木久史

天正8年(1580)10月18日 越知山からの板運びが大雪で遅れることを劔神社が報告する

戦国の世でも大雪

 昨年末からの大雪で当町でも生活に様々な影響が出ました。戦国の世でも大雪でいろいろとトラブルが起こりました。

 信長の時代。天正8年(1580)、北庄(現在の福井市)の城下町はおりしも建築ラッシュ。信長は建材の確保のため、越知山の木の板を運ぶ人夫を出すよう、劔神社へ命じました。一方劔神社は「そういう負担は以前から免除されております」と拒否しました。

 しかし劔神社の主張は認められませんでした。同年10月5日、まず京間(1間=6尺5寸≒約197cm)20間分の板を北庄へ運ぶよう命じられます。しかし天気は荒れ模様。そこで劔神社は「納入が延びます」と9日付けで返信します。

 しかしさらに命令が来ます。「新たに300間分の板を用意せよ。」…。はむかうわけにもいきません。同18日、劔神社は返信します。「ご命令確かに承りました。ただこのたびの雪のため板を取り寄せることが困難です。雪が消えましたら可能な限り集めて納めます。」(「劔神社文書」)

 早かった降り始め

 請願の必死さもさることながら、注目すべきが、天候不順・積雪を伝えるこれら手紙が10月9日・18日付けであることです。これらは旧暦なので、現在の暦だと11月下旬から12月上旬になります。いまの感覚でいくとかなり早い積雪です。しかも板を運べないほどとは…。

第13回(2006.4) 高木久史

正元元年(1259)5月5日 山干飯を荘園にすることを禁止する

 宮崎地区の西部までが「山干飯」

 天王川上流の盆地、旧白山村(現 越前市)を中心とした地域を、今でも山干飯と呼ぶことがあります。山干飯という地域は、江戸時代の記録によると、増谷・熊谷・古屋・小曽原あたりまでを含んでいたようです。

 また越前地区にはかれい崎(干飯崎)の地名があります。米ノ浦はかつて干飯浦と呼ばれていました。これらもまた山干飯という地名と関係があるのかもしれません。

 鎌倉時代は山干飯「保」

 山干飯という地名が記録上初めて登場するのが正元元年(1259)のことです。当時の越前国の事実上の支配者である公家・四条隆親が、「山干飯保」に荘園をつくることを禁止しました(『経俊卿記』)。保とは、国(この場合越前国)の管理地を意味します。国の管理地である山干飯保に荘園をつくられると、自分のところに入ってくる税が減るため、四条隆親はそれを防ごうとしたのでしょう。

 室町時代の山干飯

 時は下って室町時代。寛正6年(1465)の記録によると、山干飯は、東大寺の中にある尊勝院というお寺の領地になっていたようです(『親元日記』)。つまり鎌倉時代には荘園をつくることを禁止されていたのに、結局荘園のようなものになってしまったようです。ただ残念なことに、現在の調査研究では、その経緯は解明されていません。

第14回(2006.5) 高木久史

室町時代? 越前海岸沿いに「宿」がつくられる

 宿浦の名前の由来やいかに?

 海岸沿いにある宿(宿浦)という地名ですが、記録を見ますと遅くとも秀吉の時代、恐らく室町時代にはこの地名がついていたようです。しかしなぜ? 現在のように宿泊施設があったのでしょうか?

 室町幕府が設定した最重要交通路

 ある研究者が、室町時代までさかのぼる「宿」地名を日本地図で調べました。すると大きく四つのグループに分けられることがわかりました。①京都~山陽、②京都~滋賀南部~三重、③京都~滋賀~岐阜・愛知( 現在の新幹線に近い)、そして④京都~北陸です。…あにはからんや、京都から各地方への主要交通路沿いに「宿」が連なっていることがわかったのです。

 その後の研究により、室町幕府が主要交通路沿いに「宿」なる宿泊・輸送拠点を整備し、守護(県知事のような役職)など武士たちが自分の領地と将軍のいる京都との往復に使ったと考えられます。室町幕府がつくった公営のターミナルといったところでしょうか。

 ちなみに当町のほか越前では九頭竜川河口に「宿」(旧三国町)があります。先にあげた四つのルートのうち北陸ルート以外の宿は原則として陸路沿いなのですが、北陸ルートの宿は(当町の宿を含めて)多くが海沿いにあります。つまり北陸ルートでは海路沿いにも宿がつくられたと考えられるのです。室町時代の越前海岸沿いの海路は、現在私達が考える以上に活発な行き来があったようです。

第15回(2006.6) 高木久史

天正5年(1577)2月24日 信長の検地の結果が天谷へ伝えられる

 越前国全体で検地が行われる

 天正5年、信長は、越前国全体で検地=土地調査を行い、村ごとの課税基準額を決めました。天谷の分の検地結果の報告書(一筆ごとの一覧)が残っています(野村家文書)。この検地は信長が一国全体で検地を行った最初の例として知られています。

 石高制のルーツは越前町?

 以前、天正12年(1584)に厨・茂原などで行われた検地で、米をつくらない土地も含めて課税基準額を米で計算した、というお話をしました(第7回)。田であろうがなかろうが土地の課税基準額を米で計算するのは、今回とりあげた天正5年の検地までさかのぼることができます。

 信長はこの検地結果をもとに家臣らへ与える領地を決めました。この検地により田畑・屋敷等を問わず米建てで課税基準額を決め、その結果をもとに家臣らへ領地を与えるという方法は、江戸時代の方法(いわゆる石高制)と同じです。この方法がとられた日本最初の例が今回とりあげた信長の越前検地であり、石高制はこのとき成立したといわれています。

 検地を含め秀吉・家康の政策のほとんどが、すでに信長の時代に出そろっていたことが近年の研究で明らかになりました。そしてこのことは、現在、越前町に伝わる古文書を研究することでわかったのです。

第16回(2006.7) 高木久史

暦応2年(1339)7月 南朝軍が織田・田中を攻め落とす

 北朝軍、織田を経て足羽郡へ退却

 南北朝の内乱の中での越前での出来事といえば、藤島(現 福井市)の戦いでの新田義貞の戦死などが有名です。実は当町でも戦いが行われたことが『太平記』に記されています。

 建武4年(1337)3月、南朝の最大の拠点の一つ、敦賀の金ヶ崎城が落城します。新田義貞ら南朝軍は杣山城へ退却します。北朝軍は府中(現 越前市)を拠点に南朝軍を攻撃します。

 暦応元年(1338)、南朝軍が反攻に転じます。北朝軍は府中を放棄し、大虫(現 越前市)・織田を経由して足羽山(現 福井市)の方面へ退却しました。

 脇屋義助、織田・田中を攻略

 同年、新田義貞が藤島で戦死すると、その弟・脇屋義助が越前の南朝軍の中心となって戦争を続行します。

 暦応2年7月、義助は府中から出陣し、「織田・田中(現 越前町田中)・荒神峰(現福井市笹谷町)」など17ヶ所の城を落としました。逆にいうと、このときまでこれらの城が北朝軍に属していたことがわかります。

 その後は北朝軍が優勢になります。府中が再び北朝軍の手に落ち、暦応4年(1341)、杣山城・鷹巣城(現 福井市)が陥落すると、越前での戦いはおさまり、北朝軍による支配が固まります。

第17回(2006.8) 高木久史

天正10年(1582)5月19日 信長が安土で幸若氏の舞を鑑賞する

 信長は本物の幸若舞を見たか?

 越前町織田は織田信長の先祖の出身地です。また越前町西田中周辺は幸若舞の本家本元・幸若氏(もと桃井氏)の本拠地です。

 信長が幸若舞を好んだことは有名です。では幸若氏自身の舞を信長は見たことがあるのでしょうか? 信長が幸若舞を見た記録は実はいくつかあります。今回はその一つをご紹介しましょう。

 安土の宴会で家康と

 天正10年5月19日、盟友・徳川家康の長年の労をねぎらうべく、信長は家康を安土へ招き、接待しました。この日、安土の摠見寺で幸若八郎九郎大夫に舞をまわせ、ともに鑑賞しました(『信長公記』)。曲目は「大職冠」「田歌」。出来は上出来、信長大満足。

 続けて丹波(京都府中部)の梅若大夫に能をさせます。…残念ながら、いたく不出来だったようで、信長は激怒します。

 これでは収拾がつきません。信長の家臣らは幸若がいる楽屋へ行き、もう一番舞ってもらえないかと頼み込みます。幸若は「和田酒盛」を舞います。これまた上出来。信長の機嫌がいっぺんになおります。幸若は信長の前へ召し出され、金10枚(1枚=10両)が与えられます。

 後日談。幸若にだけ褒美を与えたとなると、「信長は実はケチなだけなんじゃないか」と世間で噂されかねません。そこで梅若大夫へも金10枚が与えられました。めでたしめでたし(?)

第18回(2006.9) 高木久史

建武5年(1338)8月25日 宮成保を園城寺へ引き渡すよう足利尊氏が命令する

 陶の谷あたり、中世では「宮成保」

 円満・上野・野・大谷・宇須尾・寺・蝉口あたり、いわゆる陶の谷(末の谷)一帯は、中世では宮成保と呼ばれていました。その名は南北朝時代には確認することができます。

 園城寺の領地に

 足利尊氏が将軍になったころの話。宮成保が園城寺(三井寺とも。滋賀県大津市)へ寄付されることになりました。しかし、実際の引き渡しがいつまでたっても行われないため、「なんとかしてください」と園城寺は尊氏へ願い出ました。そこで建武5年、尊氏は越前守護・斯波高経へ、引き渡しを実施するよう命じました。

 その後引き渡しは行われたのでしょうか? 貞和3年(1347)、園城寺の建設・修理費用を出すところとして園城寺が実際に支配している土地一覧の中に宮成保の名が記されています。先の陳情のあと、いつの時点かは確認できませんが、とにかく引き渡しは行われたようです。

 またその後文和元年(1352)、尊氏の子・義詮は園城寺へ対し、宮成保の支配の権利を改めて認めました(『園城寺文書』)。

第19回(2006.10) 高木久史

嘉元4年(1306)8月21日 糸生郷地頭・千秋氏が大谷寺へ土地を寄付する

 熱田神宮の宮司から幕府御家人へ

 当町の糸生地区と旧殿下村(現 福井市)など越知山周辺一帯は、中世では糸生郷と呼ばれていました。糸生郷の地頭(現地支配者)に鎌倉将軍から任命されたのが、千秋氏でした。

 千秋氏は尾張国(現 愛知県)の熱田神宮の宮司の一族で、鎌倉幕府の御家人となりました。源頼朝の母はこの家の出身です。つまり千秋氏は将軍家の外戚にあたります。鎌倉幕府は京都に六波羅探題という出先機関を置きます。千秋氏はそこの評定衆という、エリート官僚に任じられます。

 千秋氏は単に京都で活動するのみならず、越前の各地に領地を与えられました。西暦1200年ごろ(幕府が成立してすぐ)には糸生郷の地頭になっていたようです。しかし詳しい経緯はよくわかっていません。

 鯖江の土地を寄付

 千秋氏と糸生郷とのかかわりを示す古い記録の一つが、嘉元4年の文書です。亡き父母の供養などのため、宇治江村(現 鯖江市上氏家町・下氏家町あたり)の土地を大谷寺へ寄付することが記されています(「越知神社文書」)。

 その後室町時代になっても千秋氏は御家人としての身分を失わず、奉公衆(将軍の直属軍)として幕府に仕えます。

第20回(2006.11) 高木久史

応永34年(1427)2月29日 飛鳥井雅縁が天王の八坂神社を参拝する

 飛鳥井家の領地、田中郷=田中荘

 乙坂・栃川・天王・田中・市あたりから旧清水町在田~真栗あたりにかけての天王川北・西岸一帯に、田中郷(田中荘)という荘園がありました。その最初の記録が建武4年(1337)のものです。この年、足利尊氏は京極秀綱という武士へ、いくさの褒美として「田中庄」を与えました(「佐々木文書」)。

 その後は公家・飛烏井家の領地として記録に登場します。飛鳥井家は、和歌・蹴鞠の師範を代々家業としてつとめました。足利義満の時代に活躍した飛鳥井家当主・雅縁は歌道のおおもとをつくった人物として有名です。

 八坂神社で和歌をよむ

 その飛鳥井雅縁が応永34年(1427)2月、田中郷の「天皇の宮」=天王宮=現在の八坂神社(天王)を参拝しました。雅縁は「宿願」と記しています。よほど楽しみにしていたようです。

 雅縁は当地に数日滞在し、八坂神社で神楽を奉納し、また僧にお経を読ませました(「宋雅道すがら之記」)。神楽はともかく、神社でお経? お察しの方もいらっしゃるかと思いますが、この時代は神仏習合といって、神道と仏教とをまぜこぜにした信仰が行われていました。そのため神社でもお経が読まれたのです。

 このとき雅縁が詠んだ歌を一つご紹介しましょう(原文のままです)。

 鶯のすたちそめにし故郷に

 かへりあふみの春そうれしき

 先祖由来の地へやってきたうれしさを素直に表現しています。

2 第21回~第40回

第21回(2006.12) 高木久史

天正2年(1574)2月14日 越前一向一揆に織田・厨からも参加する

 朝倉氏のもとの家臣が内輪モメ

 天正元年(1573)、信長は越前を占領した後、朝倉氏のかつての家臣に越前の支配を任せます。その中の最有力者・前波長俊と富田長繁とが対立します。

 翌2年(1574)正月、富田は一向一揆と結び、前波を攻め滅ぼします。また富田は、丹生郡の支配を信長から任されていたこれまたかつての朝倉家臣・魚住景固父子をハメます。「朝飯をご馳走しよう」といって自分の館へ招き、殺害しました。

 一向一揆大荒れ

 これに一向一揆が反発します。一揆は加賀から援軍を呼び、富田を攻めます。二月上旬、援軍が到着し、富田の家臣がいた片山真光寺(旧清水町)・北庄を攻め落とします。このときの一揆の軍勢に丹生郡からも参加者がありました。

 ついで同月14日、一揆は富田の本拠・府中を包囲します。そのうち鯖江・大虫(現越前市)に陣をしいて西から攻めた一揆勢は「八社庄(社荘?-現 福井市)・織田庄・栗屋(現 厨)」などから集まった人々でした。その数、3万5千騎とも(誇張?)。富田はこれを一度は撃退します。しかし同月18日、長泉寺(現 鯖江市)近辺の戦いで戦死します(『朝倉始末記』)。

 翌3年(1575)、信長は再び越前を攻め、一向一揆を鎮圧します。柴田勝家による支配が始まります。

第22回(2007.1) 高木久史

建暦2年(1212)9月 干飯浦・玉河浦から気比神宮へ納められた海産物の記録がつくられる

 気比神宮と干飯浦・玉河浦

 鎌倉時代もはじめの建暦2年、敦賀の気比神宮が、自分のところへ納められる年貢や雑税の一覧をつくりました(「気比宮社伝旧記』)。これは、源平合戦をはじめとする戦乱などにより、領地がいろいろとややこしくなっていた状況を踏まえ、気比神宮へ納められる年貢などの出所・数量などを整理するため作られたものです。

 これを見ると、越前から越後・佐渡にいたる日本海沿岸各地から気比神宮へ様々な産品が納められたことがわかります。この中に干飯浦(米ノ周辺)・玉河浦(玉川)からのものが記されています。これによると、月ごとに納める品目・量が決められていました。

 それでは中味を見てみましょう

 正月 苔         5合

 3月 若和布       5合

 5月 和布       70帖

    丸塩      130果

    (丸く焼固めた塩)

 6月 四十五櫃(内容不詳)5合

 8月 甘鮨桶       5口

 10月 大鮨桶       2口

 このころの「鮨」は、現在でいういわゆるスシではなく、ナレズシです。

 ちなみに当時、気比神宮の宮司らは京都に住んでいました。ということは、京都でこれらハマの美味を食したのでしょうか?

第23回(2007.2) 高木久史

建保6年(1215)10月 越前の国衙が織田荘の成立を通達する

 織田荘、成立!

 鎌倉時代も初めの建保6年10月、七条院(後烏羽天皇の生母)の荘園として織田荘を成立させることを、越前国衙(現在でいう県庁)が現地へ伝えました(妙法院文書)。「織田荘」の現存最古の記録です。織田荘の範囲は、織田地区・宮崎地区・越前地区のほとんどと、朝日地区の西部を含むものだったと考えられています。

 荘園のイメージも変わりました

 昔の教科書では、平安時代に荘園ができる過程は次のように説明しています。すなわち、土地を開発した地方の豪族は、(越前国・若狭国などの)国による没収や課税から逃れるため、その土地を中央の公家や寺社へ寄進して不輸不入の特権(国からの介入の拒否権)を得て、その後も事実上豪族が支配を続ける、というものです。

 しかし近年はこの説に疑問がもたれています。いわく、平安時代に入り国家から天皇や貴族への土地などの給付がうまくいかなくなり、代わりに荘園をつくっていった、と考えられています。つまり中央の貴族層の要求で事が進み、いわば国家的な制度として荘園ができていくというイメージです。

 織田荘の場合も同様だったようです。七条院は当時越前の国衙に影響力を持っており、越前に利権を確保すべく、先に述べた範囲を自分の土地にしようとしたものと考えられます。

 (本稿は『越前町織田史』を基にしています。詳しくは本書をご覧ください)

第24回(2007.3) 高木久史

永禄10年(1567)11月 末野宮成保の土地を立神氏が買い集める

 有力武士が同じ一族から土地を買う

 戦国時代も終わりごろの永禄10年、立神吉藤が、一族の立神新介・立神兵庫助から、末野宮成保(現 陶の谷とその一帯)と山干飯千合谷村(現 越前市千合谷町)などの土地合計30段300歩(当時は1段=360歩。計算すると約3万7,000㎡)を購入しました。そのときの一覧が残っています(山本家文書)。

 立神氏って、どんな-族?

 江戸時代の伝えによると、立神氏は室町時代に現在の寺・上野に一族・家臣の館を構えていたといいます(越前国城蹟考)。嘉吉元年(1441)、立髪(立神)兵庫頭が寺村(現 寺)に洞源寺を建立・寄進しました(洞源寺は信長の時代に現 越前市中央1丁目へ移転します。またもと洞源寺があったところが洞月院となり現在に至ります)。また元亀3年(1572)、日野川の白鬼女渡(鯖江・越前市境)に舟橋をかけるための舟を供出するよう、朝倉氏が今泉浦(現 南越前町)へ命じました。今泉浦は朝倉氏へその負担の一部免除を願います。このとき立神重珎が今泉浦と朝倉氏側の担当者との仲介を行いました(西野家文書)。越前町域だけでなく旧河野村あたりまでも影響力を持ち、また朝倉氏の家臣団へも顔が利く存在だったようです。

 信長が越前を占領した天正元年(1573)、立神清右衛門は本願寺へ文書を送り、好みを通じます。にもかかわらず翌2年(1574)、一向一揆によって討たれ、その家は略奪・放火をうけたとの記録があります(山本家文書)。

第25回(2007.4) 高木久史

正和3年(1314)2月29日 大谷寺小白山の行事で行われる猿楽への報酬が定められる

 猿楽って何?

 能といえば、世界無形遺産にも認定されている舞台芸術です。そのもととなったものの一つが、猿楽です。猿楽は、平安から鎌倉にかけて成立した、物まね・パントマイムを中心にしたショート演劇です。現在の能はかなりゆったりしていますが、当時の猿楽はかなりテンポが早いものでした。

 越前の猿楽、最初の記録

 越前で能・猿楽といえば、能面を生産している池田町が有名ですが、実は越前町は越前における猿楽の最古の記録が残っていることで知られています。それが正和三年のものです。大谷寺小白山の行事で上演した猿楽に対し「小飯一前」が与えられました(『越知神社文書』)。ちなみに中世に現 越前町内で猿楽が上演された記録はほかにもあります。例えば、享徳3年(1454)には劔神社で行われました(『劔神社文書』)。

 中世の猿楽の記録は寺社に関するものが中心です。といいますのも、もともと猿楽は神仏に奉納するものであり(いまでも獅子舞を神前で奉納することがありますが、そのようなもの)、のちに見物人を対象に行われるようになります。また、能というとかしこまった感じがしますが、当時の猿楽は酒を呑んでドンチャンやりながら鑑賞していたようです。現在とだいぶ違う感じですね。

第26回(2007.05) 高木久史

文明2年(1470)5月16日 梅浦・小樟・大樟から三方郡常神社へ寄付を行う

 水上交通が発達した時代

 現在、輸送・交通手段の中心といえば自動車、すなわち陸上交通というイメージがあります。しかし道路網が現在ほど発達していない時代では、想像以上に水上交通が活発に使われていました。とくに越前海岸は地形上、道路をつくりにくいため、古来から水上交通が逆に発達したことが古文書などから明らかになっています。

 棟札に越前海岸の浦の名前

 水上交通を介した地域間交流の存在を示す面白い事例があります。常神社(旧三方町)に伝わる、室町時代後半の文明2年に奉納された棟札です。この年社殿の修理が行われ、修理終了にあたり寄付を行った人々の名前と寄付額を記した棟札が奉納されました。その中に「越前海見浦(海浦=梅浦)七郎五郎兵衛」「小苦抜(小樟)衛門」「小苦抜掃部」「大苦抜(大樟)孫三郎」の名前があります。ちなみにそれぞれ銭100文を寄付しています(『若狭漁村史料』)。

 三方というと現在の私達にはあまりなじみがないかもしれませんが、恐らく当時は水運・漁業などを通じてかなり緊密な交流があったのでしょう。ちなみにこの棟札には小浜から寄付があったことも記録されています。越前海岸と若狭の浦々とは、私達が思う以上に近い存在だったようです。

第27回(2007.06) 高木久史

元亀2年(1571)5月26日 「瓦屋之源珎」の土地の指出をするよう平楽村へ通達する

 劔神社へ年貢を納めさせるために…

 元亀2年、戦国大名朝倉氏は劔神社の領地である「平楽村」(平等村)の人々に対し次のような通達を出しました。いわく、「瓦屋之源珎」らが持っている土地について指出(面積・年貢量などの前例の申告)を行わせ、その分の年貢を劔神社へ納めるよう命令しました(劔神社文書)。これは劔神社へ年貢が確実に納められるよう朝倉氏が取りはからったものと考えられています。

 瓦職人? それとも?

 注目すべきは「瓦屋之源珎」という人名です。「瓦屋」というのは、源珎が瓦職人だったことを示すのでしょうか? それとも単なる屋号?

 確かに、平等は室町時代後期以降、越前焼の窯の操業が集中しました。昨年の町教育委員会の調査により、1600年代半ばに赤瓦を焼いていた窯が平等で見つかりました(新聞等で大々的に報道されましたのでご存じの方も多いでしょう)。

 ただ残念ながら、「瓦屋之源珎」がいた1500年代半ばに瓦を生産していた窯は現在のところ確認されていません。「瓦屋」の名前が屋号でなく職業であれば、今回とりあげた古文書は、越前焼の瓦生産が1500年代にはすでに始まっていたかもしれないことを示す、非常に重要な史料となります。

第28回(2007.07) 高木久史

宝徳元年(1449)8月10日 江並村のある土地の権利を妙法院門跡が劔神社へ認める

 妙法院門跡からの文書

 宝徳元年、「織田庄」内の「江並村」(現 江波)にある田の一部の権利を劔神社に対して認める旨を記した、妙法院門跡が出した文書が残っています(劔神社文書)。

 妙法院門跡は、京都にある寺院です(京都国立博物館の東向かいにあります)。ここの住職はしばしば天台座主(延暦寺のトップ。すなわち天台宗のトップ)にも選ばれました。非常に地位の高い寺です。妙法院門跡は鎌倉時代以来、当町にあった荘園・織田荘を支配していました(詳しくは『越前町織田史」をご覧ください)。

 集落を「~村」と呼ぶようになる

 室町時代になると、ある集落を指して「~村」と呼ぶことが多くなります。今回とりあげた古文書に登場する「江並村」は、当町内における「~村」という表記をする最も古い記録の一つです。

 戦国時代や江戸時代に入ると、村は自治組織としての性格を持つようになります。そして現在の区などにつながっていきます。今回とりあげた文書でいう「村」は、まだ自治組織としての性格はもっていない、居住者の集まりを単に示すものと考えられています。今回とりあげた文書は、「村」という組織ができあがっていくまでの歴史を語る、重要な古文書です。

第29回(2007.08) 高木久史

天正13年(1585)9月3日 大谷寺が茶園を寄進される

 屋敷とともに茶園を寄進

 天正13年、柴田勝家が北庄で自害し、丹羽長秀に越前の支配が移った年のこと。上田甚右衛門尉なる者が、越知山大谷寺へ屋敷地を寄進しました。そのときの記録の中に、「壱反 茶ゑん」とあります。茶園1反も寄進されたことがわかります(越知神社文書)。

 越前で茶が栽培される

 日本で嗜好品として茶が普及するのは、鎌倉時代初期に禅僧・栄西が宋から種をもたらしたことがきっかけでした。その後寺院や武士に喫茶の習慣が広まります。とくに寺院では仏事に用いられました。

 たしかに大谷寺の仏事でも茶が使われていました。文明10年(1478)にまとめられた年中行事の記録に、10月14日の泰澄大師講で茶湯が供えられていたことが記されています(越知神社文書)。今回とりあげた古文書は、大谷寺自身が茶園を持ち、仏事で使う茶を栽培していたことを示すといえるでしょう。

 同じ越前町内でも寺社によって茶の調達方法に違いがありました。劔神社の享禄元年(1528)の支出一覧を見ると、法会を行う夜に飲むための茶の費用として、合計400文を計上しています(劔神社文書)。どうも劔神社では、茶は買うものだったようです。

 ちなみに戦国時代の越前で茶園をもっていた寺院として、大谷寺のほかには、洞雲寺(大野市)が確認されています(洞雲寺文書)。

第30回(2007.09) 高木久史

貞治5年~6年(1366~67) 斯波義将らが厨城に籠城する

 斯波高経・義将父子追放

 延文3年(1358)、足利尊氏が没します。その後幕府の有力者同士で主導権争いが起こります。その末、康安元年(1361)、足利一族で越前を地盤の一つとしていた斯波義将が将軍足利義詮の執事となります。

 義将は幕府財政の建て直しのため、武士に対して増税しようとします。そのため反発を買います。貞治5年、反義将派の守護らが、将軍義詮に訴え出て、高経(義将の父)追討を命じさせます。高経・義将父子は都を離れ越前へ退きます。これを貞治政変といいます。

 高経の死、義将赦免

 高経は杣山城に、義将と弟・義種らは厨城に籠もり、幕府軍の攻撃に備えます。幕府軍7000騎余りが囲みますが、なかなか手を出せません(太平記)。一説には、幕府軍はあまり本気で攻め落とすつもりがなかったともいいます。

 そんな中、貞治6年7月13日、籠城のさなかの高経が病死します。これを頃合いと見た義将は、京都へ赴き、将軍義詮へ許しを乞います。義詮は義将を許しますが、越前守護の地位は与えませんでした。その後義将が越前守護の地位を回復するのは康暦2年(1380)のことでした。

第31回(2007.10) 高木久史

天正元年(1573)8月 織田信長が劔神社が持つ土地・山林の権利を保証する

 信長、越前占領

 天正元年4月、将軍足利義昭は信長に対抗すべく挙兵します。朝倉義景もこれに応じます。しかし義昭は敗れて追放され、義景は浅井長政を助けるため近江へ出陣するものの、8月13日、刀根坂(越前・近江国境)の戦いで信長に大敗し、越前へ退却します。信長はそのまま一乗谷まで兵を進め、徹底的に破壊しました。8月20日、朝倉義景は大野で自刃し、戦国大名としての朝倉氏は滅亡します。他の朝倉一族や家臣たちは信長に降伏します。

 先例通りの権利・義務

 信長の政権と当地へ宛てて出した最初の文書が、同年8月付けのものです。明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益が連名で署名しています。「織田大明神」=劔神社が持つ領地・山林の権利を先例通り保証するという内容です(福井県文書館蔵山内家文書)。劔神社としては一安心といったところでしょうか。

 しかしこれで越前に平和が訪れたわけではありませんでした。かつての朝倉の家臣たちの内輪もめなどが複雑にからまり、翌2年(1574)に一向一揆が蜂起し、越前は再び戦場になります。信長が再び越前を占領するのはさらに翌3年(1575)のことでした。以後約8年間、柴田勝家の越前支配が行われます。

第32回(2007.11) 高木久史

寛元3年(1245)4月17日 妙法院公性が八田別所を譲渡する

 八田別所が開発される

 八田・八田新保・舟場あたりは中世には八田別所と呼ばれていました。

 記録によると八田別所は平泉寺の僧・良覚(平安末期~鎌倉初期?)により開発されました。良覚は八田別所を三宮(日吉大社(大津市)の中の社の一つ)へ寄進しました。

 その後妙法院門跡(延暦寺のトップの一つ)へ改めて寄進されます。日吉大社は延暦寺の創立以来、延暦寺を護る神社とされ、また神仏習合が行われ、中世には実質的に延暦寺の支配下にありました。その関係で八田別所も三宮から妙法院へと管理が移ったのでしょう。ただしその時期はよくわかりません。

 八田別所が相続される

 八田別所に関する確実な記録で最古のものが寛元3年の古文書です。妙法院の僧・公性がまた別の僧・太政法印へ譲った領地の一覧の中に「越前国八田別所」とあります。少なくともこれ以前には妙法院の領地になっていたことがわかります。

 また建武4年(1337)ごろの古文書に「織田庄内八田別所」と記録されています。このころまでに八田別所は織田荘の一部となっていたことがわかります。織田荘も実は妙法院門跡の領地であり、そのこともあってひとまとめにされたのでしょう(妙法院文書)。

第33回(2007.12) 高木久史

長禄2年(1458)11月25日 足利義政が糸生郷を北野天満宮へ寄進する

 北野天満宮と足利将軍家とのつながり

 北野天満宮は京都市上京区にあります。10世紀中ごろに創建されたと伝えられています。主祭神は悲劇の宰相・菅原道真(845~903)。天神さんと一般に呼ばれ親しまれている、福井ではおなじみの神様です。学問・受験の神としても信仰されています。

 足利家は尊氏以来、北野天満宮を篤く信仰していました。そのこともあり、代々の将軍は北野天満宮に対したびたび領地の寄進を行いました。そのこともあり、15世紀後半には日本全国のうち24か国に80カ所という大量の領地を持つに至りました。

 越前の荘園を寄進する

 越前の荘園も北野天満宮の領地として寄進されました。明らかなところでは、初代将軍・足利尊氏が徳光保(文殊山北麓、福井市徳光町とその一帯)の一部を、三代将軍・義満が河南下郷(福井市旧西藤島地区一帯)の一部ならびに社荘(福井市旧社地区一帯)の一部を寄進しました。そして八代将軍・義政が長禄2年に糸生郷の一部を寄進しました。ここはもともと奉公衆(将軍に直属する武士)・千秋範安の領地だったものでした(北野神社文書)。

第34回(2008.01) 高木久史

天正20年(1592)2月9日 越前「ハマ」、最古の記録?

 ハマ出身、箔屋久三郎

 ご存じの通り、当町をはじめこの地域では一般に、海岸部のことをハマと呼びます。

 ハマのことをハマと記したおそらく最古の記録が、秀吉の時代のものです。秀吉の朝鮮出兵が始まる天正20年、京都で住民調査が行われました。このとき作られた文書の中に、次の一節があります。

 「はくや 久三郎 越前ハまから、十一年さきに国を出申候」

 彼の名は久三郎。「はくや」=箔屋=金箔職人です(屋号ではないようです)。この調査から11年前、つまり天正9年(1581)ごろ、越前のハマから京都へきました。また久三郎が高倉通天守町(現在の地下鉄烏丸御池の近く)に家を持っており、これを柴売りへ貸していたことも記されています。ただし久三郎に関する記録はこれだけです。年齢、生い立ち、その後の生涯は全くわかりません。

 久三郎が越前を出てから経験した11年間の間に、本能寺の変、賎ヶ岳の戦い、秀吉の関白就任、太閤検地と刀狩、そして天下統一がありました。まさに激変期を生き抜いた人物といえるでしょう。

 偶然の発見

 実はこの古文書が発見されたのは最近のことです。京都の大中院というお寺にある、桃山文化を代表する画家・海北友松の手になるふすま絵を修理したときに、その下張りの中から出てきました。こうした偶然があってこそ、私たちは先人たちと出会うことができるのです。

第35回(2008.02) 高木久史

長禄3年(1459)11月24日 飛鳥井雅親が幸若の舞を見る

 飛鳥井家と幸若舞の故地、田中郷

 田中・西田中・天王から甑谷など旧清水町南部へ至る天王川西岸一帯はかつて田中郷という荘園でした。和歌・蹴鞠を家業とした公家・飛鳥井家の領地であり、また幸若舞(曲舞という芸能の一流派)を継承した幸若家が室町時代以来本拠としていたことでも知られています。

 京都の飛鳥井邸で上演

 では飛鳥井家の人々が幸若舞を見たことはあるのでしょうか? 記録があります。長禄3年、当時の飛鳥井家当主・雅親が京都の自宅に「妙舞」(=曲舞)を招き、舞わせました(碧山日禄)。このときの舞は別の記録によると「幸若舞」とあります(嘉吉記・応仁別記)。つまり飛鳥井雅親が見た舞は幸若舞だったと推測することができます。ちなみにこのときは飛鳥井家だけでなく、身分を問わず人々が群集し鑑賞したことも記録されています。結構飛鳥井家はオープンだったのでしょうか。

 曲舞好きの家系?

 ちなみにこれ以前にも飛鳥井家の人々が曲舞を鑑賞した記録があります。応永16年(1409)、飛烏井雅縁・雅清父子(雅親の祖父・父)が加賀出身の二人舞の曲舞を鑑賞しました(教言卿記)。代々曲舞好きなのでしょうか。幸若に限らずいろいろな曲舞を鑑賞しているようです。

第36回(2008.03) 高木久史

天正10年(1582)5月8日 信長から劔神社への最後の文書が出される

 意気揚々

 天正10年5月8日付けで、信長は次のような手紙を劔神社へ送りました。

 「この度の出陣で武田氏を滅ぼしました。また関東全域も支配下に入りました。安土へ戻ったところ、そちらからのお祝いの品々が届いていました。うれしく思います。」

 この年3月初め、信長は長年の宿敵・武田勝頼を攻め滅ぼしました。また関東最大の戦国大名・北条氏は信長へプレゼント攻勢をかけるなど、下手に出てきていました。手紙にある「関東全域も支配下」という言い方に、信長の自信のほどがうかがえます。

 4月下旬に信長は安土へ凱旋します。この手紙が出されたのはそのすぐ後でした。

 関白か、将軍か、はたまた…?

 5月上旬、朝廷は信長へ使者を派遣します。「関白か、太政大臣か、征夷大将軍になりませんか?」

 どれをとっても、名実ともに天下人になることを意味します。千載一遇のチャンス。対して信長の返事は? 太政大臣を求めたとも、返答しなかったともいわれますが、定説はありません。

 そして、本能寺へ

 中国地方の毛利氏攻略の準備のため5月末日、信長は京都・本能寺に入ります。6月1日、公家たちが本能寺を表敬訪問します。このとき信長は先の申し出に返答したのか、否か?

 翌2日、信長は最後の朝を迎えます。

第37回(2008.04) 村上雅紀

1180年頃 小曽原にて越前焼の生産がはじまる

 須恵器生産の終焉

 最近の研究によると、越前国では10世紀の初めに「須恵器」の生産を中止しています。須恵器は、古墳時代に朝鮮半島から伝来した陶器であり、おもに食品の調理や保管、盛りつけなどに使われてきました。須恵器の生産が終焉をむかえて後、越前国では300年近くにわたって陶器を作らなくなります。

 中世陶器の利用

 平安時代後期の越前国の人々は、甕・壺・擂鉢などの日常品を、はるばる尾張国(愛知県)や加賀国(石川県)から購入していました。これらの陶器は、水・油などを保管する容器や、肉・魚をすりつぶす調理具として利用されていました。また、当時の人々は、甕や壺を「骨壺」として墓に葬ったり、「経典」を未来に残すために地中に埋めたりもしています。このように、陶器は人々の生活や信仰と密接に関わる重要な道具でした。

 越前焼の成立

 1180年頃、現在の越前町小曽原で越前焼の生産が始められます。これにより、越前国の人々ははるばる他国より購入せずとも、陶器を手に入れることが可能となりました。実際に、福井県内の遺跡からは、この時期を境に、他国で作られた陶器がほとんど出土しなくなります。

 越前焼は、愛知県の常滑窯の技術を導入して始められたといわれています。1975年に発掘調査が行われた「上長佐窯跡群」(宮崎地区小曽原)からは、それまで愛知県でしか確認されていなかった「三筋壺」と呼ばれる骨壺が発見されました。現在、上長佐窯跡群は「越前町指定史跡」として保存されています。

第38回(2008.05) 堀大介

大化元年(695) 泰澄の夢の中に、西方に住む高僧が現れる

 泰澄の本師

 『泰澄和尚伝記』によると、泰澄には、越知峰(越知山のこと)の方面に「本師」(師となる方)がいたように書かれています。持統天皇の大化元年、泰澄は14歳(11歳説もあり)のとき、八弁の蓮華の上に座る夢を見ました。横に高僧がいて、「私はあなたの本師です。西の方に住んでいます。…」と語りかけます。泰澄は、この夢がもとで越知山に興味をいだきます。

 泰澄の修行の地、丹生

 その年の冬から、泰澄は、毎日のように越知山に通い、修行にあけくれます。『伝記』では、それ以降、「本師」は登場しません。夢の中の存在とはいえ、「本師」がいたお寺が、丹生のどこかにあったと考えています。それは、泰澄が一人で修行し、仏教を学んだとは考えにくいからです。残念ながら、丹生の地には、7世紀末の宗教施設の考古学的な痕跡は確認されていません。

 劔御子寺と泰澄

 ただ、劔神社の境内には、今でも古い時代(7世紀末頃か)の礎石や塔の心礎(柱の石)が残っています。そうなると、梵鐘[国宝]の銘文に残る劔御子寺が、7世紀末から8世紀に、現在の場所に確定したことになります。しかも、劔神社は座ヶ岳の山頂にあったという伝承があるため、山岳信仰との関わりも考えられます。泰澄が修行した時期に近いことから、「本師」は、現在の劔神社周辺にいたとは考えられないでしょうか。

第39回(2008.06) 小辻陽子

昭和39年(1964)10月に織田で焼かれた彫刻

 公園や道端で気軽に見られる彫刻は、長期間雨風に耐えるように金属でできています。そのため、彫刻といえば金属製(例えばブロンズ)と思い浮かぶことが多いでしょう。

 ところが実際には、石やセメント、石膏、木など様々なものが彫刻の材料として使われています。その中に、陶器でできた彫刻があります。

 福井県出身の彫刻家、雨田光平の彫刻作品の中には、陶製の人物像やレリーフがあります。

 これらの中には昭和30年代に織田地区にあった瓦工場や越前焼窯元で、焼かれたものがあります。その一つに福井県出身の首相をモデルにした「岡田啓介像」があります。この像の裏側には、「昭和39年10月 岡田啓介像雨田光平作」と制作日のデータが彫ってあります。さらに像の内側をのぞくと「織田」と読むことができる印が押してあります。

第40回(2008.07) 村上雅紀

天明5年(1785) 丹山、生まれる

 「丹山」と聞くと、何を思い浮かべるでしょう。山の名前でしょうか、それとも地酒の名前でしょうか? 試しにインターネットで検索すると、酒造会社のホームページがヒットします。

 実は、「丹山」とは江戸時代に活躍したお坊さんのペンネームです。本名を「上野順藝」といい、下糸生区浄勝寺で生まれました。彼は、真宗大谷派の僧侶としてお経の研究をしたことで有名ですが、和歌や漢詩・俳句などの文芸活動も熱心に行いました。「丹山」という名は、生まれ育った丹生の山々からつけたとされ、郷土への深い愛情を感じることができます。

 深励との出会い

 丹山は、幼い頃より英才として知られ、4歳の時には1869字よりなる『阿弥陀経』を暗誦したと伝えられます。寛成3年(1791)、金津永臨寺の住職である香月院深励の弟子となり、本格的に仏教の修行を始めました。深励は、江戸時代後期を代表する仏教学者で、師のもと丹山は一流の教育を受けることとなります。深励の学派は、お経を正確に読むことで知られ、几帳面な丹山の性格はこの頃に培われたと考えられます。

 京都へ

 文化2年(1805)、丹山はさらなる勉強のため、京都へと遊学します。そして、この地で当代一流の文化人たちと交流することになりました。

3 第41回~第60回

第41回(2008.08) 村上雅紀

文化12年(1815) 頼山陽、丹山に『不如帰亭記』を贈る

 21歳になった丹山は、大谷大学の前身である高倉学寮に入寮し、仏典研究をすすめました。そのかたわら、頼山陽のもとで漢学(中国の思想・学問)を学びました。

 頼山陽に師事する

 頼山陽が京都に開いた私塾には多くの門下生が集まり、丹山もそのひとりでした。

 頼山陽は、『日本外史』の作者として有名であり、尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた思想家です。彼の主著である『日本外史』はベストセラーとなり、多くの若者に支持されました。また、彼は書の達人としても知られ、現在でも高い評価を受けています。

 丹山のほか、門下生のなかには、天保の大飢饉に苦しんだ民衆を救うため武装蜂起を行った大塩平八郎の名前も見えます。

 頼山陽との交流

 丹山と頼山陽との交流を示す資料のひとつが、『不如帰亭記』です。これは、頼山陽が、丹山の書斎である「不如帰亭」の様子を漢文で表したもので、現在、写本が浄勝寺に伝わっています。また、丹山の父親である順慧の古希を祝して、頼山陽は漢詩を詠んでいます。

 このように、丹山は頼山陽に漢学を学ぶとともに、彼を介して、多くの思想家・芸術家と親交を深めました。

第42回(2008.09) 村上雅紀

文政9年(1826) 丹山、『黄檗版一切経』の校訂を始める

 丹山は多くの業績を残しましたが、なかでも『黄檗版一切経』の校訂(間違い直し)は仏教史上に輝く偉業といえます。

 「一切経」とは?

 もともと、経典はお釈迦さまの教えを文字にしたもので、インドでつくられました。仏教が中央アジアを経て、中国・朝鮮・日本へと伝わるにつれ、新しい経典もつくられ、現在では6000以上の資料が残されています。「一切経」は、そのうち中国語(漢文)に翻訳された経典を中心に集めて編纂したもので、いわば「経典の集大成」といえます。

 江戸時代以前、「一切経」を持つことができたのは、一部の大寺院に限られていました。なぜなら、いずれの一切経も中国や朝鮮など外国でつくられ、非常に高価なものだったからです。しかし、江戸時代になり、黄檗宗によって『黄檗版一切経』がまとめられ、版木によって大量に印刷されると、多くの寺院に一切経が収蔵されるようになりました。

 一切経の校訂

 『黄檗版一切経』が広く伝わるにつれ、これまで以上に仏教の研究が進みます。しかし、一方で、『黄檗版一切経』には多くの間違いがあることが分かってきました。「このままでは、誤った教えが広まってしまう。」丹山の父である順慧は、このように考え、丹山に経典の間違いを正すよう指示します。そして、文明9年、丹山は『黄檗版一切経』の校訂作業を始めます。

第43回(2008.10) 村上雅紀

天保7年(1836) 丹山、『黄檗版一切経』の校訂を終える

 文政9年(1826)、丹山は息子である順尊・賢護、伊勢の大憃、近江の香巖を助手に、京都建仁寺で『黄檗版一切経』の校訂を開始します。これは、建仁寺の『高麗版大蔵経』を手本に、経典の一言一句を比較し、『黄檗版一切経』の誤りを正す作業です。丹山は細心の注意をはらって作業にあたり、3回にわたって校訂を行いました。

 そして、天保7年(1836)、校訂作業が完了します。まさに、11年の歳月を費やした大事業でした。

 丹山の遷化

 翌年、京都建仁寺は火災に遭い、『高麗版大蔵経』が焼失してしまいます。事態を重くみた東本願寺は、丹山が校訂した『黄檗版一切経』も失われてしまうことをおそれ、さらに一式の一切経を複製して本山に納めることを命じます。そこで、丹山はふたたび校訂作業に取りかかりました。

 しかし、弘化4年(1847)、丹山は亡くなってしまいます。丹山の意志は長男である順尊に受け継がれ、安政3年(1856)、順尊は東本願寺に『黄檗版一切経』を納めました。

 現在、校訂『黄檗版一切経』は、越前町下糸生浄勝寺と京都東本願寺にそれぞれ伝わっています。浄勝寺本は、境内に建立された「一切経蔵」に安置され、昭和59年(1984)、福井県指定文化財となりました。

第44回(2008.11) 小辻陽子

越前焼は何と呼ばれていたのか?

 越前焼といえば、日本六古窯の一つとして知られています。しかし「越前焼」という名前は、いつ頃から使われていたのでしょうか。他の六古窯の名前は、だいたい江戸時代頃から、現在のものが使われ始めたと言われています。ところが同じ時代、越前焼は「織田瓶」という名前で古文書に登場していることがわかっています。その後の時代になると、焼物が作られている地区の名前などが、それぞれつけられています。

 昭和22年(1947)「越前の古窯」が発表される

 そんな越前焼を統一するきっかけとなったのが、陶磁器研究家の小山富士夫が発表した「越前の古窯」です。その中で小山氏は、平等の古窯を調査した結果、瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前に匹敵する貴重な遺跡であることをのべています。

 この発表がきっかけとなり、各地区名で呼ばれていた焼物の名前は越前焼に統一され、日本六古窯という言葉が使われるようになりました。昭和40年(1965)には、県窯業開発振興協議会総会で、福井県内でつくられた焼物の名前を「越前焼」と統一することに決まりました。

第45回(2008.12) 村上雅紀

12世紀半ば 江波に経塚が造られる

 経塚とは

 経塚は、石や土によって低い塚を築き、内部に経典を納めた遺跡です。一般に、経典を青銅・鉄製などの容器(経筒)に入れ、周辺には魔除けのための鏡・お金・刀を並べます。

 日本では、平安時代末から鎌倉時代にかけて数多くの経塚が造られました。その目的は、経典を未来に伝えるといった宗教的なものですが、時代が下るにつれ、五穀豊穣・村内安全・追善供養など、より人々の生活に近いものへと変わっていきます。

 これまでに発見された経塚のうち、もっとも古いものは、寛弘4年(1007)に藤原道長が奈良県金峯山に造った遺跡です。

 江波経塚

 江波経塚は、宮崎地区江波字大門の日吉神社背後の山に位置します。昭和56年(1981)、『宮崎村誌』の編纂にともない発掘調査がおこなわれ、6基の経塚とともに珠洲焼・常滑焼・越前焼・須恵器などの甕や鉢が出土しました。これらの焼き物は、経筒を保護する「外容器」に使用されたものと考えられます。

 江波経塚は、12世紀中葉~13世紀にかけて数度にわたり造られました。まさにその時期は、貴族の世から武士の時代へと移る過渡期にあたり、世の中が大きな変化に直面していました。おそらく、江波村の人々は、自分たちの先祖を供養し、子孫の繁栄を願うために経塚を造ったものと考えられます。そのような当時の人々達の篤い信仰心が伝わってきます。

第46回(2009.01) 堀大介

1世紀初頭 厨1号洞穴の利用はじまる!

 福井県の日本海沿岸、越前町には約20の洞穴群が知られています。そのうち厨にある厨1号洞穴には、弥生時代後期(1世紀)から古墳時代後期(6世紀)にかけて、当時の人々が儀礼や墓地などさまざまな用途に利用していた跡が残っています。

 洞穴は高さ3m、幅3.5m、奥行き約17m。海水の浸食によって長い年月をかけて形成された海蝕洞穴です。洞穴に人の足跡が発見され、遺跡であることが分かったのは1932年。その後、本格的な発掘調査が1967年から3回にわたって実施され、管玉や土器、青銅製のやじり、ウニ・貝類などの破片や灰、人骨などが次々と見つかっています。

 なかでも、洞穴の左壁あたりで発見された人骨の頭部は、40歳前後の男性と分かっています。また、洞穴の中央部で発見された遺体の肋骨のあいだに、ペンダント風の珍しい滑石製品、深緑色に輝く管玉が発見されています。性別・年齢は不明ですが、持ち物から女性でしょうか。

 入口近くには火を焚いた場所があり、掻き出された大量の灰の中に、ウニの刺殻や貝片が混じっていました。ウニの加工場とも考えられますが、何か別の意図があったのでしょうか。古墳時代には、洞穴が死後の世界とつながっているという思想がありました。死者が黄泉の国の人となるための儀礼をおこなった跡かもしれません。

 厨1号洞穴は、1997年6月、町指定文化財に登録されています。

第47回(2009.02) 小辻陽子

大正10年(1921) 越前焼専門店開店!?

 今では越前焼を販売している店、ギャラリーなどがいくつもありますが、「越前焼」という名称がまだなかった時代、越前焼を専門に販売する店が、福井駅前で営業していたことがありました。

 店の名前は「織田焼本店」です。

 この店は当時の越前焼の支援者達が協力して大正10年の4月に開店しました。場所は、福井駅前の片町通りにあったといわれています。店で扱っていた越前焼は、劔神社近くで窯を開いていた織田焼鈴木彦左衛門窯のものでした。

 店舗はもうありませんが、同じく大正10年、犬飼毅の秘書に書いてもらったという看板は、今でも大切に保管されています。

 織田文化歴史館では企画展示室で鈴木窯の色絵陶器を展示していますが、その中にはもしかしたら織田焼本店で販売されていたものがあるかもしれません。

第48回(2009.03) 堀大介

1万2千年前 最古の人類あらわれる!

 町で最古の人類の痕跡が、織田地区織田の釜ヶ渕遺跡で見つかっています。それは、旧石器時代後期の石器です。いまから約1万2千年前に、じっさいに使用されていたものです。

 釜ヶ渕遺跡は、小高くなだらかな丘陵の斜面に位置しています。ところどころに崖面が露出して、階段状となる箇所があります。旧石器時代の人々は、こういった場所に好んで住んでいました。おそらく、階段状の隙間から湧水が得られること、洪水などの自然災害をうけにくいことが考えられます。

 石器を観察すると、長径6.4センチ、短径4.8センチの三角形をしています。重さは23グラムと非常に軽いものです。一部欠けていますが、サイドスクレイパー(削器)という道具です。皮の裏側に付いた脂肪をかき取る皮なめし用です。

 長年の風化によって、石器は暗い灰色をしています。石材はガラス質安山岩というガラスに近い素材です。石材の産地は、永平寺町浄法寺山、もしくは勝山市報恩寺山ともいわれています。当時の人々の交流の広さがうかがえます。ただ、町内にもガラス質安山岩に似た、輝石安山岩の岩脈が発見されています。そうなると、町内で産出した石を使っていた可能性も考えられます。これらの解明は、今後の研究で明らかになってくると思います。

 釜ヶ渕遺跡の石器は、織田文化歴史館で展示されています。

第49回(2009.04) 村上雅紀

元亨3年(1323) 大谷寺石造九重塔が造立される

 九重塔

 越知山大谷寺大長院の境内には、石で造られた九重塔がたたずんでいます。この塔は、足羽山麓から切り出された笏谷石を使って、鎌倉時代末期に建てられました。

 塔の高さは4mを超え、基壇に「元亨第三 癸亥 三月四日 願主金資 行現 大工平末光」という銘文が遺されています。金資・行現という人物の願いによって、大工の平末光が造ったことがわかります。現代の感覚でみると、「大工」という肩書きに違和感を覚えるかもしれませんが、この時代は建築などにたずさわる職人を総称して大工と呼んでいました。

 

 越前の大工 平末光

 これまで、大阪市にある燈籠の銘に「平末光」の名前が出てくることから、大谷寺九重塔は近畿地方の大工が制作したものとされてきました。しかし、近年、町の調査によって平末光は越前の大工であることが分かっています。

 本塔は、天平神護3年(767)に大谷寺で亡くなったと伝えられる泰澄大師の御廟所とされ、現在も信仰の対象となっています。昭和32年(1957)、国の重要文化財に指定されました。まさに、福井県を代表する石造塔といえます。

第50回(2009.05) 小辻陽子

陶器と磁器、何が違う?

 現在の焼物には陶器と磁器があります。この2つの違いは何でしょうか。製品の厚さ、硬さなどに違いはありますが、根本的に材料が違います。陶器は粘土、磁器は陶石という石を材料にしています。

 この陶石、じつは宮崎地区でも採れたことがあり、これを使って磁器生産に挑戦した窯がありました。

 明治30年(1897)、磁器専門の葵園、はじまる

 織田地区平等の吉田長兵衞は、町内で採れる陶石を使用した新しい焼物の窯を開きました。それが「葵園」です。

 吉田は、先進地である瀬戸へ採れた陶石を送り、その質を調べるなど磁器の研究をすすめ、生産を開始しました。製品の中には、明治24年(1891)、当時の皇太子殿下に献上した花器があります。後に、吉田は同型のものを町内の神社に奉納しており、それは現在も残されています。

 また吉田は、越前焼の職人を育てるべく「福井県陶磁器徒弟養成所」を開きました。残念ながら、葵園は長く続きませんでしたが、徒弟養成所はその後、経営主体を変えながら続いていき、養成所を卒業した職人達は、町内外の様々な窯元で活躍しました。

第51回(2009.06) 堀大介

神護景雲4年(770)9月11日 光仁天皇が劔御子寺に梵鐘を寄進する

 劔神社には、国宝の梵鐘が所蔵されています。鐘には鋳造の浮き字となった銘があります。

 「劔御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」

 三行にわたる16の文字が確認できます。

 社伝によると、光仁天皇が藤原雄田麻呂(のちの百川)に命じて、劔御子寺に梵鐘を寄進したとされています。しかし、奈良時代の正史、『続日本紀』には、記述が出てこないこともあり、本当の理由は謎となっています。

 ただ、その一ヶ月ほど前。神護景雲4年8月に、称徳天皇が亡くなり、権力を独占した道鏡が失脚しています。その後に、白壁王が皇太子にたてられます。62歳の白壁王は、その年の10月1日に即位して光仁天皇となり、宝亀という年号に変えます。

 光仁天皇は、天智天皇(大化の改新で有名な中大兄皇子のこと)の孫にあたります。称徳天皇が亡くなることで、天智の弟、天武天皇(大海人皇子のこと)の系統は途絶えます。光仁自身は、自分がそれまでの系統(天武の系統)と異なることを意識していました。ちなみに、光仁の息子が有名な桓武天皇です。桓武といえば、794年に平安京に遷都した、いまの京都の原型を造った天皇です。

 光仁、桓武は天智天皇の系統をひき、継体天皇から続く正当な継承者だと認識しています。継体天皇といえば、福井出身で、実質初代の天皇とされる人物です。孫には推古天皇、曾孫には聖徳太子と続きます。

 継体、天智への傾倒。光仁・桓武と続く新しい皇統が、平安京の遷都に導き、気比神、劔御子神を含めた北陸の神々を重視した理由かもしれません。推測の域はでませんが、光仁天皇による梵鐘の寄進は、年代を細かく紐解けば、劔御子神が道鏡失脚に尽力した際の産物かもしれません。

第52回(2009.07) 村上雅紀

鎌倉時代、八相涅槃図がつくられる

 八相涅槃図とは

 日本では、鎌倉時代に「涅槃図」と呼ばれる絵画が数多くつくられました。そのひとつが現在も劔神社に伝わっています。涅槃図は、お釈迦さまの亡くなった場面を描いた絵のことをいい、とくに劔神社の涅槃図には、釈迦の伝記にまつわる8つのシーンが左右両端に書き添えられていることから、「八相涅槃図」というのです。

 この書き添えられた8つの場面には、①託胎、②降誕、③試芸、④三時殿・四門出遊、⑤出家、⑥吉祥献草、⑦降魔、⑧初転法輪という名前がつけられています。お釈迦さまが誕生し、青年時代を過ごし、家族を捨て出家・修行し、悟りを開き、初めて説法を行ったという内容です。

 涅槃講式

 劔神社の八相涅槃図は、「涅槃講式断簡」と呼ばれる巻物と一緒に伝わってきました。この巻物は室町時代につくられたもので、涅槃会(釈迦の命日に行う法会)に関する作法や順序について説明したマニュアルです。おそらく、2月15日に行われる涅槃会に際して、涅槃図を本堂にかかげ、涅槃講式にしたがって法会が営まれたものと考えられます。

 このように、劔神社には八相涅槃図と涅槃講式断簡が伝わっており、歴史的に重要なものなので、国の重要文化財に指定されています。

 現在、八相涅槃図・涅槃講式断簡はともに奈良国立博物館に寄託され、年間のうち数日にかぎり展示されています。そのため、実見することは難しいのですが、幸いにも織田文化歴史館では同寸代の写真パネルと解説版を展示しています。

第53回(2009.08) 小辻陽子

 織田にあった陶磁器徒弟養成所は、優秀な職人たちをおくりだしました。一体どんな学校だったのでしょうか。

 

 明治35年(1902) 福井県陶磁器徒弟養成所作られる

 養成所の生徒たちは、ロクロや型を使った成形はもちろん、釉薬や色絵陶器のためのデザイン画まで学びました。さらに生徒には食費も支給されました。

 徒弟養成所の入所条件は、年齢は14歳から18歳までの尋常小学校卒業、あるいは同等以上の学力を持っている男子で、定員は10名だったそうです。福井県陶芸館に所蔵されている資料によると、織田・平等・江波・小曽原から生徒が集まっています。卒業後、彼等は、すでにここで紹介した「織田焼本店」の鈴木窯や芦原焼、県外では京焼などで活躍しました。

 徒弟養成所はこの後、明治41年(1908)には「織田村陶磁器徒弟養成所」、明治43年(1910)には「丹生郡陶磁器徒弟養成所」と経営者を変えながら約10年間続いたそうです。

 織田文化歴史館では、この徒弟養成所で使われていた徒弟養成所印(陶器でできています!)や生徒たちが卒業後に働いた窯の作品が展示されています。皆様、ぜひご来館ください。

第54回(2009.09) 堀大介

琵琶奏者・蝉丸、蝉口でついに果てる

 「これやこのゆくも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」

 小倉百人一首におさめられた蝉丸の有名な歌です。

 これがまあ、行く人帰る人がすれ違い別れて、また、知る人知らぬ人であろうと行き会う人の往来豊かな逢坂の関なのだなぁ、といった内容です。人の別れと新たな出会いを歌ったものでしょう。

 蝉丸は平安時代の歌人で、盲目の琵琶の名手とされています。坊主めくり(百人一首を使った遊び)のときに、見覚えがあるかもしれません。

 『今昔物語』では、宇多天皇の皇子・敦実親王に仕えた雑色(雑役や走使いをした者)と言われています。また、謡曲『蝉丸』では、醍醐天皇の第4皇子とも伝えられています。いずれにしても謎の多い人物で、出生なども定かではありません。

 実は、蝉丸の伝説が宮崎地区に伝わっています。

 盲目の蝉丸は、わが身の不遇を嘆きながら、逢坂の関(京都府と滋賀県の境目の逢坂山にあった古代の関所)を拠点に、琵琶を片手に諸国を流浪します。その旅程で当町の蝉口あたりに立ち寄り、一軒の農家に滞在します。

 彼の奏でる美しい琵琶の音色は、静かな村の野や山に鳴り響きます。村人たちは、いつまでもこの音色を聞きたいと願い、蝉丸に村にいてほしいと頼みました。

 どのくらいの期間、蝉丸が住んでいたかは定かでありませんが、蝉口という地名は、蝉丸のいたことと関係するのでしょう。舟場には蝉丸の池もあります。

 やがて蝉丸は病気になります。そして村人に「私が死んだら七尾七谷の真中に埋めて欲しい」と遺言して死んでしまいます。

 現在、野の集落に3基の石造塔が並んで立っています。その中の1基が、蝉丸の墓と伝えられています。

 なぜ、蝉丸の伝説や墓が当町に残っているのでしょうか。

 蝉丸といえば音曲の神。芸能の神さまと慕われています。越前町の芸能といえば、幸若舞が有名です。西田中は、織田信長などの戦国武将が愛した幸若舞の発祥の地なのです。また佐々生には、歴代の幸若家の墓もあります。

 幸若舞の発祥地、越前町。そして芸能の神、蝉丸。このふたつが存在することは、はたして偶然なのでしょうか。

 幸若家が蝉丸を芸能の神として崇め奉ったのでは?

 蝉丸ゆかりの地であるが故に幸若舞が生まれた?

 想像がふくらみます。

第55回(2009.10) 村上雅紀

13世紀中頃~末 西山窯跡群で越前焼が生産される

 

 西山窯跡群の調査

 織田地区の劔神社から西へ1kmほど離れた丘陵斜面に、西山窯跡群と呼ばれる越前焼の窯跡があります。西山窯跡群では、平成8年、福井県教育庁埋蔵文化財調査センターによって発掘調査が実施されており、鎌倉時代後期における越前焼生産の様相をいまに伝えてくれます。

 調査では、数基の窯跡とともに失敗品や灰を捨てる灰原が見つかっており、コンテナ930箱分にのぼる越前焼が出土しました。その多くは甕・壺・すり鉢の「基本三種」と呼ばれる日用品ですが、陶製の硯・面・水注・錘・経筒外容器などの、珍しい種類の越前焼も発見されています。

 

 鎌倉時代の越前焼

 西山窯跡群から出土した特殊品をみると、硯、水注(硯に水を差す道具)、経筒外容器(写経した経典を納める容器)、面(儀式で利用か)など、いずれも仏教に関連する道具が多いことに気づきます。鎌倉時代には日用品のほか、宗教的な場面でも焼物が使われていました。

 しかし、つづく室町時代になると、仏教と関連の深い道具は姿を消します。代わって、茶道や華道の発達に対応した茶器や花器が出現するようになります。

 このように、越前焼が造られた背景を考えることによって、当時の人々の嗜好を知ることができます。

第56回(2009.11) 小辻陽子

茶の湯と越前焼

 お茶を飲む習慣は平安時代に中国から日本に伝わったといわれますが、現在の茶道の元は、鎌倉時代に栄西という臨済宗のお坊さんが禅宗と一緒に中国から伝えました。しかも当時、抹茶は薬だったそうです。鎌倉時代の歴史を記した『吾妻鏡』には、鎌倉幕府の三代将軍実朝が二日酔いらしき病に悩んでいた際に、栄西が薬として茶を進呈したという話まで残っています。

 日本に伝わった茶道は、室町時代から安土桃山時代に武家に浸透し、さらに江戸時代には町民へと広まっていきます。その間に信楽・備前焼などの焼物の産地では製品が水差など茶道具に転用され、さらに茶道具自体が作られるようになりました。

 それでは越前焼では、どうだったのでしょうか。

 残念ながら他の産地で焼物が茶道具に転用されていく中、越前焼ではそのような動きはあまりなかったようで、茶道に使用されたと思われる製品は少ないそうです。文化歴史館で保管している越前焼の中には、1点だけ水差に転用されたと思われる江戸時代の火桶があります。

 近現代になると、越前焼でも茶道具は作られるようになりました。北野七左衛門窯で焼かれた木葉天目が現在、文化歴史館で展示中です。黒い茶碗の中に焼きつけられた、黄金色の葉をぜひ見に来てください。

第57回(2009.12) 堀大介

17世紀中頃の越前赤瓦の窯跡、平等で発見される

 越前赤瓦の最古の窯跡が、2007年に平等で発見され、新聞紙上を大変にぎわしました。それまで赤瓦は、福井城や金沢城の発掘調査で大量に見つかっていましたが、その生産地までは特定されていませんでした。越前赤瓦は、謎の瓦だったのです。

 越前赤瓦とは、鉄分を多く含む土の薄めたものを塗り、独自の方法で焼き上げたものです。いわば、越前焼の陶器の瓦です。赤瓦は、江戸時代後期には県内各地で製造されるようになり、優れた耐水性や耐寒性から、幕末に東北地方や北海道など日本海沿岸地域を席巻したとされています。

 その窯の名は上鍵谷窯跡と言います。窯跡は4か所で見つかり、大きさは幅4~5m、長さ15~20m前後。緩斜地を利用し、斜面に直交されるような形で確認されました。赤瓦は、城や寺院などの本瓦葺きに使われる軒丸瓦、軒平瓦、平瓦などで、福井城跡の出土瓦とまったく同じものでした。

 越前赤瓦は、いぶし瓦や石洲瓦とともに、江戸時代後期から明治時代の三大瓦に数えられていました。上鍵谷窯跡の発見によって、赤瓦の発祥地が判明しました。これは、福井県の窯業のルーツを探るうえで貴重な発見といえるでしょう。

第58回(2010.01) 村上雅紀

16世紀後葉~17世紀前葉 越前焼の生産が隆盛をむかえる(前編)

 越前焼の生産がもっとも繁栄したのはいつでしょうか? 実は、織田信長・豊臣秀吉などが活躍した戦国時代から、江戸時代にかけての時期です。

 この時代、平等村(織田地区)で生産された越前焼は、越前海岸で船積みされ、全国各地に運ばれて行きました。近年の発掘調査では、北は北海道、西は島根県までの日本海沿岸地域のいたるところから、越前焼が発見されています。

 また、戦国大名・朝倉氏の居館である一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)の出土品のうち、約30パーセントを占めるほど、越前焼は大量に使用されていました。

 

 隆盛の背景

 なぜ、この時期、越前焼は隆盛を誇ったのでしょうか?

 その一つの原因が、ライバルの不在でした。鎌倉時代から室町時代にかけて、日本海一帯には珠洲焼が広く流通していました。珠洲焼は、石川県能登半島で生産された中世須恵器で、器形が美しく華美な焼物です。しかし、珠洲焼は須恵器であるため、すぐに割れてしまうという弱点があります。

 15世紀になると、人々はより実用的な商品を求めるようになりました。それにともない、保水性(水が漏れない)に優れた越前焼のニーズが高まり、珠洲焼の生産量は減少していきます。結果、珠洲焼は越前焼との生産競合に敗れ、生産が終焉を迎えました。

 16世紀には、日本海沿岸地域に、越前焼の生産を脅かすような窯業産地は出現しませんでした。ライバルがいなくなった越前焼は市場を独占し、大量生産を成し遂げ、隆盛をほこるのです。

第59回(2010.02) 小辻陽子

節分の起源

 2月の年中行事といえば節分。豆まきが有名です。「節分」は本来、季節の分け目、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指しています。現在のように、立春の前日である2月3日を特に「節分」と指すようになったのは江戸時代頃からだそうです。

 では節分の日に豆をまくのはなぜでしょうか。

 節分の豆まきは、平安時代に中国から伝わり、宮中で行われた追儺と呼ばれる鬼払いの行事が起源といわれています。当時は大晦日の夜にこの儀式を行って門から鬼を追い出し、けがれを祓って新年を迎えていました。立春は暦の上では一年のはじまりに当たるという考えがありますので、その前日の豆まきを行う節分は、大晦日ということになります。また豆には邪気を払う力があるという、穀霊信仰に基づいた言い伝えがあります。

 この行事が宮中から寺社へ、更に一般に広がって現在の形になったといわれています。豆をまいてけがれを払う行事ですが、地域によって鬼を祓う文句、まく豆の種など様々なバリエーションがあります。町内各地区の町史をみても「鬼は外、福は内」だけでは終わらず、豆をまく大人の後を子ども達が「そうじゃそうじゃ」などとはやしたてながらついて歩くところもあったそうです。神社や寺の行事として豆まきがあったという記録も残っています。(劔神社では、現在も年男年女が豆をまく神事を行っています。)

 みなさんの家や地域ではどんな節分行事が伝えられていますか?

第60回(2010.03) 堀大介

5世紀中ごろの政治権力者の墓、番城谷山5号墳の発見

 今年のはじめ、町所在の大型古墳について大きく報じられました。大型古墳は1990年以来、20年ぶりの大発見。県内の考古学者の間では、もうこれ以上、大型古墳の発見はないと考えられていました。それが未発見のまま、町内の山中に眠っていたのです。

 古墳は番城谷山5号墳。天王区・宝泉寺区にまたがる標高155mの尾根上にありました。古墳の形は前方後円墳。全長は55m。円形部分の直径は38m、南東側に長さ約17mの前方部があり、西には造出部(儀式をする舞台)も備えています。

 これまで古墳は中世の山城と考えられており、具体的な調査はされていませんでした。それが昨年5月、町教育委員会の文化財調査により確認されたのです。

 調査の際には埴輪が発見されました。素焼きの筒型のもので円筒埴輪と言います。埴輪の突起などの形から、5世紀中ごろに造られたことが分かりました。

 古墳の周囲には15~30cmの川原石が散乱していました。古墳の表面を覆う葺石です。天王川から約140mの標高差を運んできたと考えられます。葺石の数は計算上、約11万個。かなりの労働力だったことがうかがえます。
 こうした埴輪と葺石をもつ古墳は、丹南地区初の発見となります。しかも、5世紀中ごろの古墳の中では県内最大級。同時期の前方後円墳には、永平寺町の泰遠寺山古墳(全長62m)や鳥越山古墳(同54m)などがありますが、これらに匹敵する大きさです。

 さらに、番城谷山5号墳は高所に造られたことに特徴があります。高所で川原石や埴輪をもつ古墳は、北陸最大級の六呂瀬山1号墳(坂井市)や手繰ケ城山古墳(永平寺町)など、いずれも首長級であることから、番城谷山の人物は古代の越の国の盟主的な政治権力者に匹敵する人物だった可能性が高いでしょう。

4 第61回~第80回

第61回(2010.04) 村上雅紀

16世紀後葉~17世紀前葉 越前焼の生産が隆盛をむかえる(中編)

 以前(第58回)、越前焼の生産がもっとも繁栄したのは戦国時代から江戸時代にかけての時期で、ライバルであった珠洲焼の生産が終焉をむかえ、越前焼が市場を独占することができた背景についてお話ししました。

 今回は、少し視点を変えて、なぜこの時期に越前焼が大量に消費されるようになったのか、考えていきたいと思います。

 

 城下町建設の進展

 戦国時代になると、全国で城下町の建設が始まります。城下町は、城としての防衛機能と、生活の場としての商業機能をあわせもった、新しい形態の都市です。この城下町の建設を進めたのが、戦国大名・織田信長でした。

 信長は、武士を城下に集住させ、市街に楽市楽座を設けて商業の発展に力を注ぎました。続いて、豊臣秀吉は大阪城を、徳川家康は江戸城を中心に城下町建設を進めています。福井県内では、朝倉氏が一乗谷に居を構えました。

 このように、戦国時代から江戸時代にかけて、全国で城下町の整備がすすみ、新しい都市が出現します。都市には、周辺の地域から多くの人々が流入し、人口が増大しました。例えば、織田信長の居城である安土城(滋賀県)には、2000人の武士と7000人の商人が住んでいたといわれます。

 

 高まる需要

 急速に都市に人口が集中したことにより、需要と供給のバランスが崩れ、物資が不足するようになります。とくに、人々が普段の生活で使うすり鉢などの日用品への需要が高まり、窯業生産にも大きな影響を与えました。この状況に対応すべく、越前窯ではさまざまな技術革新を果たし、製品の大量生産を可能にしました。一方、周辺の生産地では、技術革新をうまく果たすことができず、その結果、越前焼は日本海沿岸一帯にかけて、広く流通することとなりました。

第62回(2010.05) 小辻陽子

かたちのない文化財

 文化財ときくと、発掘品や昔の建築物、絵画などの美術品を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし文化財の中には、形のないものがあります。昔から伝わっている歌や踊り、演劇、技術などです。それらは無形文化財と呼ばれています。(中でも重要無形文化財に指定された技術等を持っていると認定された人は、人間国宝と通称されていますね!)

 越前町にも無形文化財はあります。県の指定文化財にもなっている織田地区の明神ばやし、宮崎地区の八田獅子舞などです。各地区の町史をひも解くと、他にも演劇などがあったことがわかります。

 ところで織田地区に記念館のある雨田光平も、国から認められた無形文化財の保持者です。光平が学んだ箏曲京極流は昭和48年(1973)3月、国から選択無形文化財の指定を受けました。選択無形文化財とは、重要無形文化財以外の無形文化財の中から、記録、保存、公開について公費で補助をできると国から選ばれたものです。

 光平が使っていたといわれている記念館所蔵の琴が、4月から開催されている福井県立歴史博物館の春の企画展「祈りの音 遊びの音」に出品されています。

第63回(2010.06) 堀大介

海から引き揚げられた古代の土器

 町在住のある人が、越前岬の北西55kmの地点、玄達瀬付近の海底から、7世紀頃の土器を引き揚げられました。話を聞くと、カレイの底引き網漁に出漁中に、水深640mで網にかかったとのことです。

 土器は完全な形をしており、県内でも珍しいものです。表面には煤が付着しており、煮炊きに使用されていました。内面には汗疹のような小さな粒々が、べっとりと付着していました。粒は直径1mm前後の大きさ。石灰化して結晶になっていましたが、鑑定の結果、アワの可能性が高いことがわかっています。1400年以上も海水にさらされていたにもかかわらず、植物の痕跡が残っていたことに驚かされます。

 しかも、土器は半分だけ風化が進んでいました。おそらく水没後、半分が砂に埋まり、半分が海水にさらされていたのでしょう。

 なぜ、海から土器が出土するのか、謎が深まります。船の上では煮炊きができないため、普段使用していた土器を船に積み込んで沖合に出たのでしょうか。

 玄達瀬といえば、急流の対馬海流の通り道であることと、浅瀬による波状効果から、船にとっては難所となります。船が難破したのか、それとも船の横揺れによって土器が甲板から転落したのでしょうか。

 また、玄達瀬は良好な漁場としても知られています。実際に、坂井市西谷遺跡の竪穴住居跡からは、古墳時代の鉄製の釣針が出土しているため、当時の人々が漁撈活動をしていたことがわかっています。それこそ魚を採るため、玄達瀬まで足を運んでいたのかもしれません。

 しかし、これらの説は推測の域をでません。ただ、これまで玄達瀬では、多くの越前焼が引き揚げられています。三国港を起点とした北前船の航路上に位置することから、継続的な船の往来による所産だと考えられます。

 また、航路上に位置する越前海岸の沖合においても、土器が引き揚げられることがあります。これらの点と点を結びあわせれば、古代からの海上交通の歴史が考古学的に明らかになってくることでしょう。

第64回(2010.07) 村上雅紀

16世紀後葉~17世紀前葉 越前焼の生産が隆盛をむかえる(後編)

 戦国時代から江戸時代にかけて、越前焼は日本列島の三分の一を超えるほどの範囲に広く流通しました。この時期、日本海側には越前窯に匹敵する規模の産地はなく、各地で城下町が建設されることにより都市に人口が集中し、多くの需要がうまれました。

 これらの需要に応えて大量生産を可能とするため、越前窯では様々な技術革新を行っていきます。

 

 越前窯の技術革新

 平等地区にある岳ノ谷窯跡群の発掘調査によって、戦国時代の越前窯の様子が明らかとなっています。そこでは、全長約25m、最大幅約5.5mという非常に大きな窯が造られ、鎌倉時代のものと比べると8倍近くの容積をほこります。この窯では、1回で中甕60個、壺60個、すり鉢1200個を焼成することができ、少ない燃料で多くの製品を作れるよう意識されています。

 大量生産を可能とするには、窯自体の強度を上げ、何度も窯を使用できる工夫が必要です。江戸時代の古文書によると、「岩倉村之山」(岩倉区)から切り出した「口石」と呼ばれる耐火性のある軽石を窯に用いることにより、窯の耐久性を高めていたことが分かっています。この技術により、窯は約50回も焼成することが可能となりました。

 また、窯の構造だけではなく、製作者である工房組織も編成されました。鎌倉時代には一家族ほどの規模によって窯場が経営されていましたが、戦国時代になると複数の工房によって共同経営がなされており、現在でいう企業体のような形をとっていました。

 このような越前焼生産を支えたのは、劔神社や敦賀の商人たちであったと考えられていますが、多説あり、いずれも確証を得るにはいたりません。今後の調査・研究によって、明らかにしていきたいと思います。

第65回(2010.08) 小辻陽子

パスポートの歴史

 夏休みも本番になりました。この機会に旅行に出かける予定の人もいるでしょう。中には思い切って海外旅行! と計画している人もいるでしょう。ところで海外旅行といえば、パスポートが必需品です。このパスポートは、いつ頃からあるのでしょうか。

 現在残っている一番古いパスポートは、江戸時代末期にあたる慶應2年(1866)のものです。このパスポートは現在のような手帳型ではなく、1枚の大きな紙に必要なことを書きつづった、賞状のような形でした。現在のような手帳型のパスポートに変更されたのは、大正15年(1926)になってからです。

 さて、現在雨田光平記念館では、旅行をテーマにした館蔵品展を開催しています。ここで昭和29年(1954)、ヨーロッパに演奏旅行に出かけた光平が使用したパスポートが展示されています。このパスポートは現在と同じ手帳型ですが、本人確認欄に生年月日の他、身長や特徴など現在は書かれていない項目が記載されています。また、現在の一般的なパスポートには必ず書いてあることが書かれていません。さてそれは何でしょうか? 気になる方は、雨田光平記念館でご確認ください。ご来館をお待ちしています。

(答え 性別)

第66回(2010.09) 村上雅紀

織田文化歴史館企画展覧会のみどころ(1)

 今秋、織田文化歴史館では企画展覧会「神仏習合の源流をさぐる-氣比神宮と劔神社-」を開催し、越前一宮・氣比神宮と二宮・劔神社に関する資料を展示します。両社は国内最古級の神宮寺が存在したことで知られ、神仏習合の成立に大きな役割を果たしたと考えられます。今回のえちぜん年代記では、企画展覧会の見どころについてご紹介します。

 

 神仏習合とは

 神仏習合は、古代日本で始まった新しい仏教思想です。それまで、日本では、朝鮮半島から伝来した仏(仏教)を「外国の神」としてとらえ、日本に古くから存在する神々(神祇信仰)と同じような存在として祀ってきました。

 しかし、奈良時代ごろ、仏の方が神々より優れ、仏の力を借りてこそ、神々は人々を救うことができると信じられるようになります。そして、神社の境内に寺院が造られていきました。これが、神宮寺の成立です。結果、神々と仏の距離は縮まり、神々が仏に取り込まれていきます。この現象を、神仏習合とよびます。

 

 木造十一面女神坐像

 企画展覧会では、八坂神社所蔵の木造十一面女神坐像を展示します。本像は鎌倉時代に造られ、頭部に十一面観音、体部に女神が表現されています。ひとつの彫刻に仏像と神像の要素が混じっており、非常に珍しい坐像です。

 白山信仰によると、白山の神は白山妙理大権現とされ、十一面観音が変化した姿と考えられてきました。木造十一面女神坐像は、まさに白山妙理大権現を表現したもので、神と仏が融合する神仏習合の様子を示しています。ぜひ、一度ご覧ください。

第67回(2010.10) 村上雅紀

織田文化歴史館企画展覧会のみどころ(2)

 今回のえちぜん年代記でも、織田文化歴史館で開催する企画展覧会「神仏習合の源流をさぐる-氣比神宮と劔神社-」の見どころについてご紹介します。

 日本書紀

 養老4年(720)、舎人親王らによって『日本書紀』が編纂されました。『日本書紀』は、神代から持統天皇の在位までに起こった出来事を、漢文で時代ごとに記した歴史書です。今回の展覧会で取り上げる氣比神宮に関する記事もいくつか見ることができます。

 巻第六「垂仁天皇」段には、敦賀の名前の由来となる伝承が掲載されています。また、巻三十「持統天皇」6年(692)9月26日条には、敦賀の浦上浜で捕えた白蛾を天皇に献上したことにより、氣比神に封20戸が加増されたことが記されています。

 

 続日本紀

 延暦16年(797)、菅野真道・藤原継縄らによって『続日本紀』が編纂されました。『続日本紀』は、文武元年(697)から延暦10年(791)までに起こった出来事を、漢文で時代ごとに記した歴史書です。この資料では、氣比神宮および劔神社に関する記事を見ることができます。

 氣比神宮に関しては、宝亀7年(776)に宮司がおかれ従八位の官位に任命されたことが記されています。また劔神社に関しては、宝亀2年に(771)従四位下勲六等と食封20戸・田2町が与えられたことが記録されています。

 『日本書紀』や『続日本紀』をみると、8世紀頃、氣比神宮や劔神社の地位が次第に上昇していったことがわかります。この時期、両社では神宮寺が成立しており、北陸道を重視する朝廷の政策と神宮寺の成立には、大きなつながりがあると考えられます。

 展覧会では、氣比神宮に所蔵される『日本書紀』・『続日本紀』(いずれも江戸時代の版本)を展示しています。ぜひ、ご来館ください。

第68回(2010.11) 堀大介

県内最古級の神宮寺、劔神社境内地の発掘調査

 今年の7月、越前町教育委員会が織田地区の劔神社で発掘調査を実施しました。境内地の発掘は現存する神社としては県内はじめてのことです。

 劔神社には「劔御子寺鐘 神護景雲四年(770)九月十一日」の銘が入った国宝の梵鐘があります。少なくとも同年には、劔神社や劔御子寺が神仏習合の形で存在していました。しかも、文献などから劔御子寺は県内で氣比神宮寺(敦賀)、若狭彦神宮寺(小浜)に次ぐ3番目に古いとされていました。

 今回の発掘調査は、劔御子寺の成立時期を考古学的に明らかにすることが目的でした。

 発掘調査は、拝殿と社務所の間の2カ所で行いました。第1調査区は十字状に幅1m、南北に長さ7m、東西に長さ9.7m。第2調査区は縦1.6m、横1mの長方形の形で発掘しました。面積は計17.6㎡でした。わずかな面積にもかかわらず、約800点の遺物が出土しました。なかでも、須恵器が7点出土し、うち1点が700年代末の時期でした。この遺物は梵鐘の年号に近い年代のものとなります。今回の調査によって、劔御子寺は県内最古級の神宮寺であることが考古学的に裏付けられました。

 また、境内を東西に仕切る落ち込み状の遺構やその北側に沿う水路の遺構が発見されました。遺構は「劔神社古絵図」(室町時代)に描かれた神宮寺と神社とを仕切る区画溝だとわかりました。古絵図では水路の北側に神社施設、南側に仏閣が描かれています。落ち込みや水路の発見は、中世における神仏習合の在り方を知る上で重要だといえるでしょう。

 さらに、落ち込み状の遺構や水路が江戸末から明治初めにかけて一気に埋められたことも判明しました。江戸末に行われた拝殿建設などの境内整備か、明治初めの神仏分離令やそれに伴う廃仏毀釈運動によるものか、今後の研究によって明らかになることでしょう。

第69回(2010.12) 小辻陽子

織田でつくられた土人形

 さて、今年も最後の月がやってきました。新年を迎える準備で忙しくなりますね。ニュースでは、すでに来年の干支の縁起物製作が始まっていることが伝えられましたが、以前町内で製作されている様子が紹介されたことがあるそうです。昭和22年(1947)の福井新聞で「丹生郡織田村の某人形屋さん」「織田人形製作所」として紹介されたのは、「織田土人形」の瀬戸三兵衛です。

 現在は絶えてしまいましたが、福井県内では明治期頃まで土人形を製作しているところが何カ所かありました。その人形のほとんどが、近県である京都の伏見人形の系統につらなるものです。これは、京都に酒づくりなどの出かせぎに行った人が、技術を身につけて帰ってきたためといわれています。

 しかし「織田土人形」だけは、博多人形の系統に属しています。職人は瀬戸一人、焼成のための窯も他の越前焼の窯元に借りることが多かったそうです。

 「織田土人形」の縁起物、1月から雨田光平記念館で展示します。

第70回(2011.01) 村上雅紀

応永年間(1394~1428)、幸若舞の始祖、桃井直詮が生まれる

 室町時代から江戸時代にかけて、全国で曲舞といわれる芸能が流行した。曲舞は拍子(リズム)に合わせて長い物語を舞いながら語っていくものであり、鼓を用い、二人で演じる。

 15世紀になると、各地で声聞師と呼ばれる歌い手が活動し、越前・若狭・加賀・山城・近江・河内・摂津・美濃・三河・江戸などに存在していたことが明らかとなっている。このような曲舞のうち、もっとも大きな勢力を誇ったのが、幸若舞である。

 

 幸若舞の誕生

 幸若舞は、桃井直詮によって創始された。直詮は幼名を幸若丸といい、越中国守護の桃井直常の孫として、丹生郡法泉寺村(越前町宝泉寺)に生まれた。幼いときから比叡山に登り学問を学び、容貌・音声ともにすぐれ、名声を得たと伝えられる。

 ついには、後花園天皇の御前で舞を披露し絶賛され、以後、幸若舞は猿楽など他の芸能とは別格に位置付けられた。後に、直詮は越前に所領を得て、西田中村・法泉寺村(越前町西田中・宝泉寺)に居住した。

 嘉慶元年(1387)の「天王社御幸供奉日記写」に「幸若が舞を三番行った」との記事がみえ、幸若舞と天王社(八坂神社)の深い関係がうかがえる。この史料は、幸若舞に関するもっとも古い記録であるが、桃井直詮が誕生する以前のものであり、年代に疑問がもたれる。

 また、西園寺家の日記である『管見記』によると、嘉吉2年(1442)に「幸若の二人が舞い、非常に感激した」と、京都の貴族の間で幸若舞が評判になっていたことがわかる。

 このように、桃井直詮によって創始された幸若舞は都で大流行した。戦国時代になると、武士たちが幸若舞を愛好し、手厚い保護を与えていたことが知られている。戦国大名と幸若舞の関係については、次の機会にお話したい。

第71回(2011.02) 堀大介

越前水仙の謎

 水仙は日本列島に自生せず、外国から持ち込まれた植物だと言われています。入ってきた時代に関しては諸説があります。遣唐使が薬草として導入をしたという説、球根が海流に運ばれて漂着して海岸で自生を始めたとする説、室町時代の禅僧が持ち込んだ説などです。

 なかでも、越前海岸には平安時代末に海から流れ着いた娘の化身という伝説があります。水仙の漂着説を裏付ける最も古い記録といえるでしょう。

 それでは、日本の歴史上に水仙があらわれるのは、いつでしょうか。

 最古の記録は平安時代末期で、摂政・九条良経(1169~1206)が描いた色紙だとされています。越前海岸の伝説が平安時代末であることを考えると、年代的に近い時期となります。遅くとも、平安時代末から鎌倉時代には、日本で水仙が生えていたのでしょう。

 その後、15世紀には各種文献で見受けられるようになります。

 東麓破衲の漢和辞書『下学集』(1444年成立)の草木門には、漢名「水仙華」、和名「雪中華」と出てきます。梅を兄、山礬(沈丁花のことか)を弟とするという漢詩も引用しています。また、一条兼良の『尺素往来』(1480年頃成立)では春の花に分類されています。

 京都相国寺の公用日記『蔭涼軒日録』の文正元年(1466)正月の篠には、足利将軍に水仙を献上したと出てきます。特に、越前国府(現 越前市)の妙法寺から相国寺を経て献上されたとの記録は、越前における水仙栽培の存在を示す史料といえるでしょう。

 江戸時代になると、松平文庫『越前国福井領産物・越前国之内御預知産物』において、越前国の産物として水仙が出てきます。これは水仙栽培の確実な史料となります。

 こうした記録は断片的ではありますが、産業としての水仙栽培や、越前水仙の歴史を知るうえで貴重な史料といえるでしょう。

第72回(2011.03) 小辻陽子

雛祭りのはじまり

 3月の年中行事といえば、桃の節句、雛祭りがあります。

 この雛祭りは、いつごろからあるのでしょうか。現在の雛祭りは、平安時代頃にあったといわれる3つの行事が一つになったものと言われています。一つは貴族の子どもの遊び。そして、紙でつくった人形を形代として厄をうつし、川に流してそれを祓う流し雛。(流し雛は現在でも風習として残っている地域がありますね)最後に、中国から伝わった3月の最初の巳の日に厄祓いをする風習です。

 その後、江戸時代になると、女の子の「人形遊び」と結びついて全国的に広まっていき、飾られるようになります。もちろん、飾られた人形は飾りものであると同時に、その子の一生の災厄を身代わりに受けてくれるというものでもありました。

 私たちの厄を肩代わりして守ってくれる雛人形。機会があれば、どんな顔をしているのかじっくり見てみてください。(つくられた時期、地域によっていろいろな顔をしています)

第73回(2011.04) 村上雅紀

戦国大名が愛した幸若舞(1)

 戦国時代の英傑である織田信長(1534~82)が、幸若舞を愛好していたことは有名です。幸若舞のなかでも、信長はとくに『敦盛』を好みました。

 永禄3年(1560)5月19日、今川義元との桶狭間合戦に向かう信長は、『敦盛』を自ら舞った後、出陣したと伝えられます。信長の生涯については、彼の家臣であった太田牛一(1527~?)が著した『信長公記』に詳しく述べられています。

 「信長は『敦盛』の舞を舞った。『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか』と歌い舞って、『ホラ貝を吹け、武具をよこせ』と言い、甲を着け、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣した。」(中川太古著『現代語訳 信長公記《新訂版》上より引用』)

 

 幸若舞『敦盛』

 『敦盛』は、源平による一ノ谷合戦で、源氏の武将・熊谷直実が平家の武将・平敦盛の首をうつという悲劇の物語です。以下、概略をみていきます。

 熊谷直実は、さしたる武功もなく無念に思いあせっているところ、沖にむかって逃げおちる一騎の若武者を見つけました。直実は生け捕って手柄にしようと考え、若武者・敦盛と戦い組み伏せます。そして、兜を押し上げて顔をのぞき込むと、まだ14~15歳の若者であることを知り、我が子と同じ年頃ということから、敦盛の命を助けようと考えます。しかし、味方の武将が裏切りと騒ぎ出したため、やむなく敦盛の首を討ち取ってしまいました。その後、直実は敦盛の屍を平家方に送り届けるも、世の無常を感じて高野山に登って出家し、敦盛の菩提を弔いました。

 この『敦盛』は人生の無常観を主題とした作品であり、信長の死生観と合致したものと評価されます。このような理由から、信長は『敦盛』を愛したのでしょう。

第74回(2011.05) 堀大介

泰澄和尚の実在証明となるか―越知山山頂採集の須恵器―

 今年の3月、泰澄和尚の実在に迫る発見が、新聞・テレビなどで大きく報じられました。

 越前町の越知山(標高612m)の山頂付近において、須恵器という古代の焼物が採集され、その作られた年代が奈良時代だと判明したのです。

 須恵器は横5.6×縦8.5cm、厚さ0.7~1.1cmの破片。甕の頸部から肩部にかけての部位です。あな窯で高温焼成したため、外面には薄緑色の自然釉が付いています。

 小さな破片ですが、越前町の佐々生窯跡・樫津窯跡(8世紀中頃に操業)の須恵器に類似品があります。全体的な色合いや自然釉の具合が非常によく似ています。研究の結果、須恵器は8世紀中頃につくられたことがわかりました。

 越知山山頂付近で須恵器が採集されたことは、大変意義深いことです。

 8世紀中頃といえば、泰澄和尚が天平宝字2年(758)に、白山から越知山に帰って来る時期です。奈良の都では、聖武天皇の国分寺造立の詔(741年)や大仏造立の詔(743年)が発せられた頃になります。

 泰澄和尚が開いた伝承をもつ山の頂上に、奈良・平安時代の遺物が発見されることはありました。例えば、文殊山は8世紀後半、白山は9世紀中頃、吉野ヶ岳は9世紀の須恵器などです。しかし、これまで越知山では古代の遺物が発見されず、実態がよくわかっていませんでした。その意味で、山頂で須恵器が出土したことは、泰澄の実在性や越知山山岳信仰を解明するうえで大きな一歩になります。

 たった一点ですが、誰かが奈良時代に越知山に登り、痕跡を残したことは間違いありません。当時、山は神聖な地という認識があったことを考えると、山頂にいた人物は、山林修験者である可能性が高いでしょう。しかも、甕は据え置いて使うものです。山頂付近に修験者が寝泊まりする宿坊のような建物が存在したことも考えられると思います。

第75回(2011.06) 小辻陽子

夏越の祓と茅の輪くぐり

 6月になりました。みなさんの住んでいる地域の神社の中には、茅を使った大きな輪が作られているところもあるのではないでしょうか。この茅の輪は、厄払いの行事である大祓のうち、6月に行われる「夏越の祓」で使われます。

 大祓は701年に制定された大宝律令で宮中行事に定められました。元々は年に2回、6月と12月に行われていました。当時の「名越の祓」では、大内裏に役人である貴族達が集まって大祓の詞を読み上げ、人々の罪や穢れをはらったそうです。この行事は一時中断しますが、江戸時代頃に再開され次第に一般にも広まっていきます。

 現在では祝詞奏上の他、紙でつくられた形代に穢れを移して祓ったり、茅で作られた大きな輪をくぐる「茅の輪くぐり」が行われたりしています。

 なぜ茅で作られた輪をくぐると穢れが払われるのでしょうか。これは『備後風土記』に登場する「蘇民将来」の話が元になっています。

 道に迷った旅人を貧しいながらももてなした蘇民将来は、実は神であった旅人より疫病から身を守るお守りとして茅で作られた輪を授けられ、災厄をさけました。それ以来、茅の輪は穢れである病を退けるシンボルとなっています。

 夏越の祓に対する当時の人々の思いは、平安時代に編まれた『拾遺和歌集』の中にも登場します。

 水無月の なごしの祓する人は 千歳の命 のぶといふなり (よみ人しらず)

 (夏越の祓いをした人は、寿命が千年のびるという)

第76回(2011.07) 村上雅紀

織田一族のルーツをさぐる(1)

 戦国大名・織田信長(1534~82)をはじめとする織田一族のルーツは現在の越前町織田地区にあり、「織田」という名字は当地の地名からとったと伝えられています。信長自身も織田を先祖の出身地と認識しており、天正3年(1575)に柴田勝家が劔神社―織田寺に発給した古文書には、「劔神社は殿様(信長)の氏神である」という表現がみえます。

 織田一族の系譜に関する確実な史料のうち、最古のものは室町時代にさかのぼります。明徳4年(1393)、藤原信昌・将広父子が劔神社へ奉納した文書には、劔神社―織田寺再興のため力を尽くすことが誓約されており、この父子が信長ら織田氏の先祖にあたると考えられています。そして、古文書の中には信昌の祖父として「道意」の名がみえ、彼が確実な史料に記録された、もっとも時代をさかのぼることができる織田氏の祖先となります

 

 尾張への移住

 伝えによれば、織田一族の先祖は、この織田の地で劔神社の神官をしていたとも、織田荘の荘官(荘園の管理者)をしていたともされ、14世紀末ごろに、越前守護・斯波義将の家臣に取り立てられました。そして、義将の子である義重が越前守護と尾張守護を兼任するにあたり、将広も尾張へ移住し、織田の名字を名のり始めたといわれています。

 尾張の織田氏は、応永年間(1394~1428)の史料に数名の名が見出され、一族の多くをともなって越前から尾張へと移住したことがうかがえます。応永10年(1403)以降、尾張守護代として織田常松という人物の名がみえ、将広と常松の花押(サイン)が非常によく似ていることから、ふたりは同一人物ではないかと考えられています。常松は正長元年(1428)から永享3年(1431)の間に亡くなっており、もし常松が将広本人であるならば、越前を出て30年ほどを尾張で過ごしたことになります。

第77回(2011.08) 村上雅紀

織田一族のルーツをさぐる(2)

 前回、織田信長(1534~82)をはじめとする織田一族のルーツは現在の越前町織田地区にあり、「織田」という名字は当地の地名からとったという話をしました。今回は、織田一族のルーツについてさらに掘り下げ、平氏説・藤原説・忌部説をご紹介します。

 

 平氏説

 織田一族は平氏の末裔であるという平氏説は、信長自身が積極的に広めたと考えられています。それによると、平清盛(1118~81)の孫、平資盛(1158?~1185)の遺児が織田庄に移住し、親真と名乗ったようで、この親真こそが織田一族の祖であるとされています。この説は、平氏である織田信長こそが、室町将軍家(源氏)を打倒するにふさわしいという源平交替思想によるものです。

 藤原説

 天文18年(1549)、信長が熱田八カ村中に下した制札に「藤原信長」と署名しています。また、尾張守護代の歴代の織田氏も発給文書に「藤原」と記していることから、信長自身がみずからを藤原氏と認識していたことがわかります。

 忌部説

 当説は、当地に伝わる系図により、劔神社の神官である忌部氏のもとへ平基度の娘が嫁ぎ、親真が生まれたとするものです。親真は比叡山に登って出家し、覚盛と名乗ったようです。系図によると、親真の墓地は越前町道口に所在し、現在も二基の五輪塔が存在します。しかし、最近の教育委員会の調査により、親真の墓は織田地区内にある可能性もうかがえ、今後の調査が期待されます。

 これらは、どの説も説得力があり、一概に否定することはできません。ただし、忌部説は当地のみに伝わる説であり、劔神社神官の忌部氏が尾張に移住して織田氏となったとする、非常に魅力的なものなのです。

第78回(2011.09) 堀大介

県内最古級の神宮寺、劔神社境内地の第二次発掘調査

 今年の7月後半から8月初め、越前町教育委員会が織田地区の劔神社で発掘調査を実施しました。昨年度に引き続き、2回目の調査となります。

 劔神社は、「劔御子寺鐘 神護景雲四年(770)九月十一日」の銘が入った国宝の梵鐘が示すように、神社に付属する寺院(神宮寺)が存在していました。文献などから劔御子寺は県内で気比神宮寺、若狭彦神宮寺に次ぐ3番目に古いとされています。

 今回の発掘調査も、劔御子寺の成立時期を考古学的に明らかにすることを目的としました。

 発掘調査は社務所南側の2カ所で行いました。昨年度は「劔神社古絵図」(室町時代)に描かれた神宮寺と神社を仕切る区画溝を発見しました。その成果にしたがい、今回の調査では神宮寺エリアを調査対象としました。

 第1調査区は幅1.5m、長さ6mを参道に沿って設定しました。第2調査区は幅1m、長さ3mを参道に直交する形で設定しました。面積は計12㎡です。わずかな面積にもかかわらず、数千点の遺物が出土しました。

 古絵図によると、ふたつの調査区は神宮寺の中枢部にあたります。掘り進めると、地面から2.3m下の深いところで、1300年前の層が検出されました。社務所の南は、昔は谷地形になっていたようです。しかも、最も深い地点で、奈良時代の寺院の参道跡が確認されました。

 また、出土品の中には大量の平安時代の土器とともに、羽口5点と大量の鉄滓が含まれていました。これは古代の劔神社が鍛冶を行っていた証拠となります。

 さらに、平安時代後期から末にかけて大規模な境内改変を行った痕跡が確認できました。劔神社縁起によると、劔神社は平安後期に平清盛によって焼かれ、息子の重盛が再興しています。その時に境内の低い箇所に土を入れて整地した可能性が高いのです。

 今回の調査では奈良時代の瓦は発見されませんでしたが、古代劔御子寺の様相が徐々に明らかになってきました。

第79回(2011.10) 小辻陽子

神様の長旅

 10月になりました。この月は旧暦では「神無月」とも呼ばれ、この時期、全国の神様は自分の社を出て、出雲に集まっているという伝承があります。(一年のことを話し合っているとも、縁結びの話をしているともいいます)

 町内の神社でも神様を出雲に送り出す神送りの神事、次の月には長旅から帰ってきた神様をお迎えする「はばきぬぎ神事」を行った神社があったそうです。「はばき」とは、昔の旅人が長旅の間、足を守るために足のすねに巻いた編んだわらなどのことです。(後に布製になって「脚絆」と呼ばれるようになります。テレビの時代劇などでよく見られますね)これを脱ぐことで、無事に長旅を終え帰ってきたということになります。

 また、前日から若者が宮にこもって神様を守り、夜明けにかがり火をたいて神様を送り出し、翌月1日の朝、またかがり火をたいて神様を迎えたところもあるそうです。

 ところで御祭神が旅に出ている間、その神社はどうなっているのでしょうか。実は留守をまかされている神様がいるという風にも考えられてもいます。この留守番神は恵比寿様といわれ、留守をまもっている恵比寿様のために恵比寿講を行う地方もあります。

第80回(2011.11) 村上雅紀

織田有楽斎の生涯

 現在、織田文化歴史館では、企画展覧会「織田一族と戦国時代の茶道」を開催しています。展覧会では、織田信長をはじめとする織田一族と越前町とのつながりに注目し、織田有楽斎家に伝わる資料を展示しています。

 今回は、この織田有楽斎について紹介します。

 織田有楽斎(1547~1621)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将・茶人です。本名を長益といい、織田信秀の11子で信長の弟にあたります。のちに剃髪して「有楽斎如庵」と号したことから、一般に有楽斎と呼ばれています。

 有楽斎は、本能寺の変(1582)後、豊臣秀吉に仕えて摂津国島下郡味舌に知行を与えられ、侍従に任ぜられました。慶長5年(1600)、上杉征伐の徳川家康に従って東下し、ついで関ヶ原に転進して石田三成の軍と戦い武功をたてました。この功績が認められ、新しく大和山辺郡(奈良県)に所領を得ます。

 元和元年(1615)、大阪夏の陣が始まる前に大阪城を退去し、所領のうち戒重1万石を四男・長政に、柳本1万石を五男・尚長に分与し、京都で隠居します。そして、茶事を嗜んで余生を送り、元和7年(1621)に京都東山で亡くなりました。享年75歳でした。

 有楽斎は若い頃から茶道に志し、千利休から台子の作法の伝授を受け、有楽流と呼ばれる一派を開きます。その実力は、利休なきあと茶の宗匠と称せられるほどでした。晩年、建仁寺に正伝院を再興し、茶室を設けて如庵と名づけます。現在、如庵は愛知県犬山市に移築され、国宝に指定されています。また、東京都千代田区有楽町の地名は、かつて徳川家康より与えられた有楽斎の邸に由来するといわれています。

5 第81回~第100回

第81回(2011.12) 堀大介

織田氏の始祖、親真の謎(1)

 越前町教育委員会は今年の5月初旬に、法楽寺(織田地区)所蔵の石造物群(墓石などのこと)の調査を実施しました。石造物群は昭和36年頃、工事の際に丘陵斜面から多くの越前焼とともに出土したことで知られていました。

 そのなかに、正應3年(1290)の年号の書かれた五輪塔の一部が含まれていました。もともとは昭和62年、町内の郷土史家によって発見されたもので、当時の専門家が拓本を取ったところ、「親真」と刻まれていることから、織田氏系図に登場する「親真」ではないかということで話題となりました。系図にある親真の亡くなった年代(1260年)と食い違いがあることから、親真をとむらう供養塔として建てられたのではないかと推測されました。

 ただ、石造物というのは後の時代に造られることがあるため、そのままの年号を信じることはできないことがあります。今回の調査は石塔の真偽に焦点を置きました。

 結論から言いますと、この石造物は鎌倉後期に造られた本物である可能性が高くなりました。

 まず、石塔が良質な笏谷石でつくられている点があげられます。16世紀以降、風化しやすい白っぽい笏谷石が多いため、石材の点では鎌倉・南北朝期的といえます。

 また、側面には「喪親尊(尊の異体字だが、これまで真と読まれていた)阿聖霊/正應三年庚刀二/月十九日未尅」と3行19字が刻まれていましたが、銘文の配置などが鎌倉・南北朝期に一般的な銘文の配置であることもわかりました。

 これが本物となると、誰の墓だったかが問題となります。1行目の銘文が切り方によって解釈が異なるからです。阿と聖で切れば、亡き親である尊(真)阿の聖霊となり、解釈が異なります。

 しかし、銘文をよく見ると、阿の上下に隙間があります。これは阿を介して別々の用語であることを示しています。じっさい、鎌倉時代に阿聖霊と書かれた銘文の事例があります。阿は接頭語との解釈が成り立ちます。

 つまり、1290年2月19日の午後2時頃に亡くなったと解釈できます。

 さらに、名前が、俗名なのか、戒名なのかも問題となります。じっさい、墓石に俗名が刻まれることがあるので、本名だった可能性が高いでしょう。一見して親真と読めることを考えると、織田氏系図に出てくる親真との関係が気になるところです。それは別の機会にご紹介します。

第82回(2012.01) 小辻陽子

年中行事の起源

 1月には正月など年中行事がありますが、注連飾りや書き初めなどを持ちよって焼く左義長が全国的に行われています。

 この左義長は、旧成人の日(1月15日)前後に行われており、成人の日が変更になってからはそれにあわせて変更した地域もあるそうです。福井県内でも、ほとんどのところで1月中に行われますが、越前町内をはじめ一部の地域では今でも旧暦にあわせて2月に行われるところがあります。

 

 左義長はいつからはじまったのか?

 左義長の起源は色々と伝わっていますが、平安時代の宮中行事にまでさかのぼるといわれています。

 小正月(旧暦1月15日)に、「毬杖」というボールを打ち合う遊びに使われた木製の杖を、青竹を束ねた上に結び付け、さらに扇子や短冊をむすびつけて焼き、吉凶を占ったことが左義長のはじまりではないか、といわれています。鎌倉時代に書かれた『徒然草』にも「さぎちゃう」という火祭りらしい行事が登場しますので、その時代にはすでに行われていたことがわかります。

 このように歴史は古く、左義長で書き初めを燃やすと字がうまくなる、餅を焼いて食べると健康になるなど様々な言い伝えがある行事ですが、近年、火災や環境に対する配慮などで中止になってしまったところもあります。近くで行われることがあれば、参加してみてはいかがでしょうか。

第83回(2012.02) 村上雅紀

戦国時代、朝倉景綱が織田の地を治める

 戦国時代、織田の地は越前国内の支配上の要所とされ、朝倉義景は一族の朝倉兵庫介景綱を配置し、統治していました。元亀元年(1570)、織田信長が敦賀に侵攻すると、景綱は織田城から出陣し、信長軍を撃退します。元亀4年(1573)、再度の信長の侵攻に対し、自軍が劣勢と知った景綱は主君である義景を裏切り、信長に従います。そこで、景綱は再び織田の地を安堵されました。

 天正2年(1574)、一向一揆の勢力が強くなり、信長の勢力が越前から締め出されると、景綱は一揆の勢力に与します。しかし、景綱は再び信長方に寝返り、織田城(現在の越前町上山中)に500~600人の兵とともに立てこもり、一揆勢3,000人と対峙しました。『朝倉始末記』によると、織田城に迫る一揆勢に対して、景綱軍は石や飛礫によって反撃し、一揆勢の「死する其の血、滝のごとく」と、描写されています。

 1カ月ほど持ちこたえた後、織田城は落城し、景綱は城兵を残したまま、妻子を連れて敦賀に落ち延びました。この時に、敦賀から救出の船を出したのが羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と言われています。その後、景綱の消息は、定かではありません。

 現在、織田城は遺跡としてその姿を残しています。越前町上山中の標高297.1mの山頂周辺には、東西約670m、南北約360mの規模にわたり、南北の主郭のほか、腰郭・小郭・堀切、14条の竪堀などが確認され、往時の様子を偲ぶことができます。

第84回(2012.03) 堀大介

織田氏の始祖、親真の謎(2)

 今回は、いま何かと新聞紙上やインターネット・ブログなどで話題になっている親真について取り上げましょう。

 親真は織田氏の系図に登場する人物で、織田氏の始祖とされる人物です。信長の17代前(史料によっては13代前)になります。

 親真の生年は不詳ですが、平氏滅亡前にあたる寿永2~3年(1183~1184)あたりでしょうか。一般には、平安時代末期から鎌倉時代中期の人物として知られています。

 別名は「親実」。忌部(斎部)親真、平親真、織田親真、津田親真とも称されています。

 一般に流布する織田氏の系図(『続群書類従』、『寛政重修諸家譜』など)によりますと、親真は通称、三郎。官位は権大夫。平資盛(平清盛の孫で、平重盛の子)とその愛妾(三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪)の間に生まれた子とされています。

 寿永4年(1185)の平氏滅亡に際して、平資盛の愛妾と幼子(親真のこと)は、近江蒲生郡津田庄(現在の近江八幡市)に隠れました。愛妾は、津田の土豪の妻となり、親真は津田姓を名乗ります。のちに、親真は織田の劔神社神官の養子となり、神職につきました。その後、親真は剃髪して覚盛を号したといいます。

 いっぽう、越前町織田に伝わる系図によりますと、親真の出自に明らかな違いが認められます。

 母は平基度(伊勢平氏)の娘で、神祇権大祐・忌部(斎部)親澄に嫁いで、親真を生んだとあります。親真は貞永2年(1233)織田明神の神主となり、正嘉2年(1258)に比叡山に登り、覚盛と称しました。その2年後、正元2年(1260)2月18日に亡くなります。具体的な死亡年月日に言及している点が特徴です。

 興味深いのは「平氏にあらず、忌部神主の正系(正統)なり」とあることです。

 つまり、母が平氏の娘というだけで、平氏からの流れを否定し、あくまで忌部氏の直系だと強調しています。

 さて、主流の織田氏の系図と、織田に伝わる別の系統の系図、どちらが真実なのでしょうか。昨年調査された正應三年銘の石塔が、その謎を解く手がかりとなるかもしれません。

第85回(2012.04) 小辻陽子

町内にたずねる平家伝説〈織田地区編〉

 ドラマ序盤、福井県が舞台になった大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』が終了し、新しく『平清盛』が始まりました。ドラマの舞台は遠く兵庫、広島と移っていきましたが、町内にも平氏にかかわる昔話や言い伝えが各地区にたくさん残っています。

 劔神社に残っている古文書には、応保元年(1161)、歌道の秘伝書をめぐって平清盛とあらそったために劔神社が焼かれたことが書かれています。(神社はその後、清盛の息子である重盛によって再建されたといいます)

 平家の落武者伝説も各地区に残っています。織田地区に残っている話は、笹川に住んでいたおばあさんが機転を利かせて追手から平家の落武者を助けた話と、平家の武将である斎藤実盛の伝説で、実盛が討ち取られる原因になった稲の切り株を恨みに思い、稲の害虫(うんか)に生まれ変わった話です。この実盛の伝説は全国的に伝わっている話で、稲が不作である原因とされ、そこから虫送りという行事へ繋がっていくことが多くみられます。『織田のむかし話』ではおもしろいことにこの伝説が、きゅうり棚に逃げ込んだ実盛の一族の話になっています。畑の持ち主の騒ぎで討ち取られたために、その後その家でつくるきゅうりは苦くて食べられなくなった。家人につられて村中が騒いだために、実盛の恨みで害虫が発生し米がとれなかったという話になっています。

 織田地区下山中にある稲荷神社境内には、この祟りを鎮めるため建てられたという実盛と一族の武将二人をまつる実盛之社が今も残っています。

第86回(2012.05) 村上雅紀

戦国大名が愛した幸若舞(2)

 前回(1)、織田信長(1534-82)が、幸若舞を愛好していたことを紹介しました。今回は、戦国時代の覇者・徳川家康(1542-1616)と幸若舞のつながりについてお話します。

 

 徳川家康と幸若舞

 天正9年(1581)、徳川家康は武田軍と対峙し、高天神城(静岡県)を包囲します。立て籠もる武田軍は兵糧も尽き、落城は目前に迫っていました。そんな時、武田軍は徳川軍の陣中に幸若太夫がいることを知り、最後に幸若舞を見てこの世の思い出にしたいと考えました。そこで、武田軍は「幸若太夫の舞を一曲所望承りたい。」と家康に手紙を送ります。

 かねてより幸若舞を愛好していた家康はこの申し出に感動し、幸若大夫に舞を舞うように命じました。太夫は城際近くまで進み、『高館』の曲を演じます。城兵たちは塀際に身を乗り出し、涙を流しながら演奏を聴き、舞が終わると、城中より武者一騎が歩み出て大夫に贈り物を届けました。翌日、武田軍は城から討って出て潔く戦い、一人残らず討ち死にしました。この時、徳川軍が討ち取った首の数は688であったと伝えられます。

 

 幸若舞『高館』

 高天神城の戦いで幸若太夫が舞ったとされる『高舘』は、次のような物語です。

 文治5年(1189)、源頼朝の命を受けた追討軍が、奥州衣川(岩手県)に拠る源義経に迫り、高館では義経によって主従別れの酒宴が開かれていました。そこに、熊野から鈴木重家が訪れます。重家は主君に殉じる決意が固く、義経に具足を申し請い、合戦に臨みます。夜が明けて、義経の忠臣は大軍を前に怯むことなく一騎当千の奮戦をし、壮絶な討ち死にをしました。武蔵坊弁慶も瀕死の重傷を負い、義経と別れの盃を交わし、衣川で立ったまま絶命(立往生)したことはよく知られています。

 戦国時代、多くの武将たちが『高館』にみる義経軍の忠義心と勇敢さに共感し、みずからの人生を重ね合わせていたのでしょう。

第87回(2012.06) 堀大介

劔神社と平重盛の関係を探る(1)

 現在、NHK大河ドラマ『平清盛』が放送されていますが、松山ケンイチ演じる平清盛の嫡男として平重盛は登場します。保元・平治の乱では、若き武将として清盛を助け、相次いで戦功を上げ、父の立身にともない累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世します。

 勤皇思想が広まった江戸時代には、後白河法皇をかばって清盛を諌め、そのため命をすり減らしたという伝承から、万里小路藤房、楠木正成とともに「日本三忠臣」として高く評価されていました。

 実は、平重盛と劔神社は大変ゆかりが深いのです。劔神社の縁起によると、劔神社は平清盛に焼かれ、息子の重盛によって再興されたとあります。詳しく見ると、「当社神領は平相国清盛廃亡する(中略)清盛嫡子重盛明神之霊徳を恐て廃亡之堂閣悉く再興し」とあります。

 ただ、縁起はのちの時代に書写されることがありますので、そのまま歴史事実とするには慎重を要します。しかし現在、劔神社の境内には小松建勲神社が存在し、平重盛公(小松殿と称されていた)と織田信長公が祀られています。劔神社と平重盛の関係、それは単なる伝承なのでしょうか。

 小松社の歴史を遡ってみましょう。享禄元年(1528)、「五百文 小松殿にて油之代源とう田」(『劔神社文書』「劔大明神寺社領納米銭注文」)として小松社が出てきます。これが最古の記録です。ただ、劔神社にはそれより百年ほど遡った「古絵図」が残されており、神輿堂と気比社の間に「末社」とあります。位置関係から、小松社の可能性が高いです。いずれにしても、室町時代には小松社は存在し、平重盛を祀っていたことが分かります。

 また、平成23年度の劔神社境内の発掘調査では、大規模な境内改変の痕跡が確認されました。平氏が活躍していた時期に、劔神社境内の低い箇所に土を入れて大規模に整地した可能性が考えられます。重盛公の再興の時期に近い遺物もあります。こうした発掘の成果を考え合わせると、縁起の記述も真実味を帯びてくることでしょう。

 別の機会に、劔神社と織田信長、織田親真と平重盛との関係について考えます。

第88回(2012.07) 小辻陽子

町内にたずねる平家伝説〈宮崎地区編〉

 平家に仕えた武将 斎籐実盛は、自分が討ち取られる原因となった稲を怨んで死後ウンカに生まれ変わり、稲を枯らしたという伝説で有名ですが、実は越前国で生まれたと言われている人物です。県内には、実盛一族の子孫であると伝えられている家がたくさんあります。

 『宮崎村誌』によると宮崎地区八田にある月山寺は、現在の福岡県にあたる筑後高良山第57世座主の亮恩僧正によって再建されました。亮恩僧正は八田の斎藤氏に生まれた人で、郷里の寺が荒れているのを案じ、私財を投じて月山寺を再建したといわれています。月山寺には亮恩僧正の寿像(存命中につくられた肖像彫刻)が残されていますが、この寿像の裏書には彼の功績の他に、斉藤実盛の子孫であることが書かれているそうです。

 また月山寺の再建と同じ頃にあたる、弘化5年(1848)に亮恩僧正が寄付したという銘が刻まれた石燈籠が、宮崎地区には残っているそうです。

第89回(2012.08) 村上雅紀

戦国大名が愛した幸若舞(3)

 以前に、織田信長(1534-82)・徳川家康(1542-1616)が幸若舞を愛好していたことを紹介しました。今回は、越前の大名である朝倉孝景(1493-1548)と幸若舞のつながりについてお話します。

 

 朝倉孝景と幸若舞

 天文3年(1534)、朝倉孝景は甲斐の武田信玄を撃退するため、美濃との国境まで出陣しました。孝景は、陣中で幸若太夫に『大織冠』を舞わせ、自らを作中の万戸将軍にみたてます。舞がすすみ、「海漫海漫としては…」と歌うところにさしかかった時、幸若太夫はとっさに機転を利かし、「海漫」を「うみまん」と詠み替えました。「かいまん」と歌えば、甲斐国主・武田氏が優勢に聞こえ、不吉だからです。

 孝景は幸若太夫の見事な機転を大いに喜び、朝倉軍の士気は急上昇します。この様子をみた武田軍は、戦うことなく兵を引いて甲斐へ帰国してしまいました。後日、朝倉孝景は幸若太夫に対し、礼状とともに太刀を送ったといいます。

 

 幸若舞『大織冠』

 『大織冠』は、藤原鎌足(614-669)と契った海女が竜宮から宝珠を取り戻すという物語です。

 藤原鎌足の次女は美人の誉高く、唐の高宗(在位 649-683)の后となりました。ある時、高宗は貴重な宝珠を日本へ贈るため、海路にて使節を派遣します。これを聞きつけた竜王は宝珠を奪い取ろうと阿修羅軍をさし向けるも、宝珠の護衛役である万古将軍の奮闘により敗走しました。しかし、竜女を使った竜王の計略によって、宝珠は奪われてしまいました。

 藤原鎌足は宝珠を取り返そうと讃岐国(香川県)房崎浦に下り、海女と契りを結んで、竜宮に行って宝珠を奪い取ってくるように頼みます。死を覚悟した海女は、子を鎌足に託して竜宮に赴き珠を取り返すが、襲われて絶命してしまいます。宝珠は海女の遺体から無事に戻り、興福寺金堂の釈迦如来の眉間に嵌めこまれたといいます。

第90回(2012.09) 堀 大介

劔神社と平重盛の関係を探る(2)

 信長を生んだ織田氏の祖先は誰で、織田氏とはどんな氏族なのだろうか。それを探る手掛かりをあたえてくれる史料といえば、一般的には系図の類です。

 織田氏の系図は、いろいろと伝わっています。代表的なものとしては、『続群書類従』「織田系図」です。奥書によると、尾張法華寺所蔵のものを大和戒重の藩主織田長清が元禄9年(1696)に書写させたものです。その他、全国に散った織田一族にも織田氏の系図が伝わっています。

 これらの系図に共通するのは、織田氏の祖先を平資盛(平重盛の二男、清盛の孫)にしていることです。細部は異なるものの、次のような経緯が語られています。

 「資盛は平氏の一族とともに壇ノ浦に沈んだが、それに先立って身重の寵妾を隠す。その女性は資盛の子を生む。それが親真。平氏滅亡後、親真は母に抱かれて近江津田郷に逃れる。母はその地の豪族と再婚し、親真は連れ子として育てられる。ある時、越前織田荘の神職の者が津田を訪れ、親真を養子にもらい受けた。親真は越前に移り、のちに神職を継いでそこに永住した」

 系図では親真の17代目が信長で、織田氏は平氏の流れを汲みます。ただ、系図の扱いについては、慎重を要します。それは系図という史料の性質を考える必要があるからです。

 戦国武将の家系を遡って記した系図は、一部の名門を除いて江戸時代に作成されたと言われています。それらにはよく知られた氏族か人物が祖先として繋げられ、織田氏も同様なことが考えられます。信長の輝かしい業績にふさわしい祖先を持ってくることを意識しますから、どうしても高貴な氏族と結び付けることになります。

 とはいうものの、織田氏の場合は他の新興の家といくらか経緯が異なっています。それは、信長在世中から織田氏は平氏の流れという認識が世間にはありました。

 信長が将軍義昭を追放した2か月後、天正元年(1573)九月、岐阜を訪れた兎庵という老僧は、旅の記録『美濃路紀行』の中で次のように記しています。

「天が下信長公になびかぬ草木もなき有さまは、先代にもそのためしていまだきかざりし事なり。その本系をたづぬれば、小松のおとど(平重盛)第二の後胤(子孫)なれば、暑往寒来ことはりにて、今四百年のあと立かへり、平氏の再び栄ゆべき世にやとおぼえて(略)」

 源氏の足利氏が衰えて、平重盛の二男の資盛の子孫である信長が全盛を迎え、源氏から平氏の世になったというのです。

第91回(2012.10) 小辻陽子

町内にたずねる平家伝説〈越前地区編〉

 町内に残っている伝説には斎藤実盛をはじめとする平家の落武者伝説が多いですが、越前地区の昔話にも玉川観音の洞窟に落武者たちがかくまわれた話や、血ヶ平へ移り住んだ傅殿次郎左衛門の話があります。

 全国的にみるとこのような落武者伝説には、その際に持ち出された軍資金を再起の時のために埋めたという伝説がセットになっていることが多く見られます。

 越前地区の町史には、平氏ではありませんが埋蔵金の伝説が取り上げられています。源義朝の叔父の家来が、厨城山が落城する際に軍資金を持ち出して笹山に埋めた。幕末、笹山に薪をとりに行った人が途中で小判を拾ったが、作業中に落してしまい持ち帰えることができなかったと締めくくられています。

 他に高佐の谷の奥に、白椿を目印にして軍資金を埋めたという話もあります。小判などの宝物を埋めた目印として白椿を植えた、またはその根元に埋めた、という伝説は、実は日本各地でみられ、宝を埋めたといわれるのも落武者、海賊の残党など様々な人たちが伝えられています。おもしろいことにどの伝説でも、狩りや薪ひろいなどで山に入った場合は見つけることのできる白椿が、根元に埋まっている宝物を目当てに再び山に入ると2度と見つからず、宝物は手に入らないのです。

第92回(2012.11) 村上雅紀

戦国大名が愛した幸若舞(4)

 これまで、織田信長(1534-82)・徳川家康(1542-1616)・朝倉孝景(1493-1548)が幸若舞を愛好したことを紹介しました。今回は、豊臣秀吉・毛利元就と幸若舞のつながりについてお話します。

 

 豊臣秀吉と幸若舞

 豊臣秀吉(1537-98)は、能楽とともに幸若舞を愛好したことで知られており、幸若一族の中でも、とくに幸若八郎九郎の音曲を「一かいもある梅の古木、所々に花さき、言葉たえなる風情なり」と褒めています。ある時、幸若小八郎安信が秀吉の鷹狩に随行し、狼藉者を手捕りにしました。この功により、安信は秀吉から「八島合戦」(源平による屋島の戦い)を描いた屏風を賜りました。これは、幸若舞の創始者である桃井直詮が、越前白山神社で『八島軍』の音節を完成させたとの故事にちなんだものです。

 また、秀吉は幸若小八郎吉信に自分自身の別所長治攻めを内容とする『三木』や、明智光秀討ちを内容とする『本能寺』などの演目を作らせたことでも知られています。

 

 毛利元就と幸若舞

 中国地方の覇者・毛利元就(1497-1571)も幸若舞の愛好者でした。元就が出雲で尼子義久を破った後、吉田郡山城(現 広島県安芸高田市)に帰陣し、幸若舞を鑑賞した記録が残されています。永禄10年(1567)には、幸若太夫が越前から安芸へ下り、20日ほど逗留しました。これにともない、元就は毛利家累代のゆかり深い寺院である満願寺に舞台を作らせ、幸若舞を二度にわたって鑑賞しました。

 毛利家と幸若舞とのかかわりは深く、慶長17年(1612)、毛利輝元は家臣を越前国へ派遣し、幸若舞を修行させました。この時に伝わった幸若舞の教本が現在も山口県に伝わっています。

第93回(2012.12) 堀大介

劔神社と平重盛の関係を探る(3)

 今回は3回シリーズの最後です。

 織田信長は天下を身近なものにしてから、平氏を名乗り始めたということを2のときに触れました。それまで漠然と平氏を名乗った信長でしたが、足利義昭を追放後の天正元年(1573)9月には、平重盛の子孫という具体的な名前が出てきます。

 それでは、平氏のなかでも、なぜ重盛だったのでしょうか。その謎について考えてみましょう。

 まず、劔神社と信長の関係を『劔神社文書』から追います。天正元年(1573)8月に朝倉氏を滅亡させ越前を平定した信長は、10月に劔神社に対して手厚い保護を加えるなど特別の待遇を命じています。その後、柴田勝家は劔神社・織田寺の門前に対して税の負担を免除する文書を出しますが、そこに「当社の儀は殿様御氏神」とあります。こうした文書から信長が劔神社を氏神として崇敬するなど、深いつながりがあったことがわかります。

 次に、平重盛と劔神社はゆかりが深かったことについて1のときに触れました。振り返ると、劔神社は平清盛に焼かれたものの、息子の重盛によって再興されたこと、室町時代には重盛を祀る小松社が存在したことなどを紹介しました。

 これらをあわせて考えますと、ひとつの推測が成り立ちます。それは、信長が越前侵攻をきっかけに、劔神社と平重盛の関係を知り、数ある平氏のなかでも重盛を選んだというものです。

 もう一度、年代的に整理しますと、信長の越前侵攻による朝倉氏の滅亡が1573年8月、平重盛の子孫話の流布が9月、信長による劔神社への安堵状発給が10月です。

 つまり、越前侵攻前の信長は、それまで自分の祖先が織田から出たという認識はあったと思われますが、越前侵攻の際に何らかの形で劔神社と接点をもち、平氏のなかでも劔神社と関係のある重盛という人物の名前をあげたとは考えられないでしょうか。

 真実はわかりませんが、いろいろと想像がふくらみます。

第94回(2013.01) 堀大介

織田氏の源流は近江八幡市の津田か?

 今回は越前町文化財保護委員の県外研修会で、滋賀県近江八幡市を訪問しました。近江八幡市を研修先に選んだ理由は、織田氏の始祖とされる織田親真と関係がある地だからです。

 織田氏の系図によると、寿永4年(1185)の平氏滅亡に際して、平資盛は近江蒲生郡津田庄(現在の近江八幡市)に愛妾と幼子(のちの親真)を隠します。愛妾は津田の土豪の妻となります。いっぽう親真はのちに織田の劔神社神官の養子となり神職につきます。こうした逸話から織田氏の祖先が津田に由来するというわけです。

 近年、近江八幡市では地元の歴史研究会が劔神社などを訪れ、親真に関する調査・研究を行っています。また親真の顕彰碑を建て、まちづくりに活かしています。

 それ以降も、織田と津田の関係を示す史料があります。近江八幡市の長命寺(西国三三箇所の第三一番札所)に安置された仏像のなかから「願主者前本願越前之国織田之九郎左衛門尉息女春庭慈芳上人」と書かれた16世紀の願文が出ています。慈芳は織田出身の尼僧で、長命寺を再興したとされています。

 つまり、平安時代末頃と室町時代、時代を超えて脈々と織田と津田は関係があったことになります。

 その他に春庭慈芳の居所である穀屋寺、西方寺内の春庭慈芳墓、西本願寺八幡別院を訪れるなど有意義な研修となりました。

第95回(2013.02) 小辻陽子

町内にたずねる平家伝説〈朝日地区編〉

 町内に残っている伝説には、越前地区の血ヶ平区へ移り住んだ傅殿次郎左衛門のように具体的に名前が登場する話もありますが、朝日地区の昔話では青野区に館を築いたといわれる平家軍の侍大将、大窪鎌太という人物が登場します。

 大窪鎌太は倶利伽羅峠の戦いで、平家軍が木曽義仲軍に追われる途中で武士の身分を捨て、現在の青野区にあたる場所に館「鎌田屋敷」を築いて住んでいたといわれています。鎌田屋敷に仕えていた人々や子孫の昔話もいくつか残っています。

 鎌田屋敷に仕えていた武士たちは次第に勢力を強め、隣の織田庄と手を組み、織田をこえて梅浦へ攻め込みました。ところがこの隙に味方のはずの織田から裏切りがおき、屋敷は手薄のところを攻められ焼かれてしまったと伝えられています。

 屋敷が焼けおちる際、そこに残っていた奥方は大切にしていた鐘をかぶり、屋敷の裏の淵に身を沈めたといいます。それ以来、奥方が身を投げた淵を「鐘ヶ淵」と呼ぶようになったそうです。

 『朝日町誌』によると、青野区の山中には鎌田屋敷跡と伝えられている土塁や堀の跡が残っています。

第96回(2013.03) 村上雅紀

日本における仏教伝来

 日本に仏教が伝来したのは6世紀ごろとされます。『日本書紀』によると522年に司馬達等が草堂を結んだ記事がみえ、当初は渡来系氏族が私的に仏教を信仰していたことがわかります。

 その後、朝鮮半島の百済より日本へ仏教が正式に伝わりました(仏教公伝)。この時期については、538年説と552年説の二説が知られています。前者は、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』や『上宮聖徳法王帝説』などの史料に拠るもので、信憑性が高いといわれています。一方、後者は『日本書紀』に拠る説で、後世の創作と評価されています。これらのことから、6世紀には仏教が公伝されてはいたが、正確な年代は不明と考えられています。当時、仏教は中国を中心とした東アジア世界で熱心に信仰されていました。日本でも国際社会に対応するため、最先端の宗教思想として仏教を導入したと考えられます。

 福井県の仏教関連記事

 越前・若狭における最古の仏教関連記事は、642年のものです。この年、百済大寺造営のために近江・越前の人夫を徴収する詔が出されたことが『日本書紀』にみえます。百済大寺は「高市大寺」・「大官大寺」と名称を変え、現在は「大安寺」と呼ばれ奈良県にあります。日本で初めての国立寺院として整備された経緯が『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』にみられ、642年に天皇の命により、国立寺院である百済大寺造営のため、越前からも人夫が駆り出されたことがわかります。

 仏教伝来以後、越前・若狭において仏教がどのように信仰され、普及していったかは明らかになっていません。現在、最古の史料とされる『日本書紀』の記事も畿内の寺院造営や運営にかかるもので、福井県独自の動向は不明といえるでしょう。今後、考古学的な調査・研究により詳細が判明するものと期待されます。

第97回(2013.04) 堀大介

縄文時代の玦状耳飾り

 その昔、状耳飾りという縄文時代前期(約6,000年前)のイヤリングが、佐々生上川去遺跡で発見されました。長さ4.2cm、幅3.1cm(推定4.65cm)、厚み0.65cm。形は環状をなし偏平で下に切れ目があり、そこから耳たぶに通して垂下させるものです。中国の古い文献に出てくる「」という佩玉(腰に下げる飾り)の一種に似ているので、その名がつけられました。

 状耳飾りは、南は鹿児島から北は北海道までの縄文遺跡から発見され、特に北陸・東北の日本海側の出土例が多いです。最古の例は北海道の浦幌町共栄B遺跡のもので、縄文早期中葉にさかのぼります。状耳飾りには中国の長江下流域の江南起源説があります。それは浙江省河姆渡遺跡から6,600~7,000年前の状耳飾りが出土したからです。それらが日本海を渡り初期の製作地に富山湾一帯が選ばれたとされています。日本海をとりまく共通の文化圏という観点からの問題提起です。

 これに対して反論もあります。中国の遼寧省西部の査海遺跡出土の状耳飾りを紹介し、江南起源説を批判しました。理化学的な年代測定により7,000~7,600年前といわれ、河姆渡遺跡より古く位置づけられるからです。そのため明確な起源地の想定は難しく、北陸の日本海沿岸への始めての伝播説にも疑問を投げかけています。

 近年、あわら市の桑野遺跡でも縄文早期末の状耳飾りが出土しました。全国最多出土で大きく報道されました。これらは査海遺跡の形態的・時期的に近いことから、中国東北部を通じた北ルートからやってきた可能性を示しています。

 日本海を通じた中国江南からの南ルートか、中国北東部からの北ルートなのか、意見が分かれるところです。いっぽう、状耳飾りについては、日本列島内での自生説も根強くあります。はたして佐々生上川去遺跡の状耳飾りの起源は、どこにあるのでしょうか。今後の研究で明らかになることでしょう。

第98回(2013.05) 堀大介

海を渡った朝鮮半島の土器1

 劔神社付近のあるお宅で、井戸の掘削中に須恵器系の青みがかった硬質の土器が2点出土しました。有蓋高杯という器で、1が蓋、2が高杯の部分です。県内および国内出土の一般的な須恵器と比べて異質で、形態的特徴と全体的な雰囲気から「陶質土器」と考えられます。陶質土器とは朝鮮半島で製作されたもので、越前焼の源流ともなる焼物です。

 その形態的な特徴から朝鮮半島南部の洛東江下流東側、現在の釜山から慶州を含む新羅ないし新羅の影響下にある地域で焼かれたとされています。

 とくに1の蓋は慶州の月城路古墳群2号墳出土の蓋に似ていることから5世紀後葉~末、2の身は同4号墳出土の高杯に似ていることから、6世紀初頭~前葉に位置づけられます。しかも上と下がかみ合いません。つまりふたつの土器は製作時期が異なり、同じ高杯のセットにならないのです。井戸掘削時という不時発見の状況から、付近に同時期の遺物がまだ存在していた可能性が高いです。

 なぜ陶質土器が、劔神社付近でまとまって出土したのでしょうか。ひとつの仮説を立ててみます。

 まず土器の発見場所が神社付近にあたることから、5、6世紀にはその一帯がいわゆる神地で、カミ祀りをおこなっていた可能性です。劔神社については奈良時代の梵鐘があり、「劔御子寺鐘神護景雲四年(770)九月十一日」の銘文が知られます。これは劔御子神社(劔神社のこと)が奈良時代後期に鎮座したことの証です。しかも付近の小粕窯跡で発見された8世紀前葉の瓦の存在を考えますと、劔御子神社もその時期に鎮座していたことになるでしょう。

 陶質土器が西暦500年前後、劔御子神社は遅くとも西暦700年頃に鎮座していたことになりますと、時期幅は200年しかありません。神地が5、6世紀に存在していて、カミ祀りをおこなっていたとすれば、陶質土器はそこで使用された道具とも考えられるでしょう。

 それでは、その祭祀を誰がおこなったのでしょうか。秦氏などの渡来系氏族が関与していた可能性が高いです。のちの史料にはなりますが、敦賀郡伊部郷には秦氏の存在が確認されています。また小粕窯跡の瓦は湖東式と言い、滋賀県湖東に居住した秦氏ゆかりのものです。つまり、劔神社付近には渡来系氏族の居住が指摘できるわけです。5世紀後葉といえば、全国的に多くの渡来系氏族の存在が確認されています。そういった点から考えますと、ふたつの陶質土器は神社の存在だけでなく、渡来系氏族が関与したことの可能性を考えるうえで、貴重な資料といえるでしょう。

 現在、ふたつの陶質土器は織田文化歴史館で常設展示されています。

第99回(2013.06) 堀大介

漂着ヤシの実から越前水仙のルーツを探る

 越前海岸に、ときおりヤシの実が流れ着くことがあります。南の島で海に投げ出されたヤシの実が沖に押し流され、黒潮に乗って日本海に達し、越前海岸に打ち上げられたことになります。

 ヤシの実といえば、「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ……」という島崎藤村の詠んだ『椰子の実』の歌詞が有名で、民俗学者の柳田國男が愛知県の伊良湖岬でヤシの実を拾ったことをもとに生まれたとされています。

 その歌を地でいくヤシの実が昭和50年、島根県出雲市の港で見つかりました。墨で書かれた文字から、昭和20年7月にマニラ近郊で戦死した出雲出身の陸軍軍属が、その1年前に海に流したヤシの実だとわかりました。31年間漂流して故郷にたどり着いたことから、奇跡のヤシの実として反響を呼びました。その後、彼の妻の手に渡り靖国神社に奉納され、現在は東京の遊就館に展示されています。

 実際の発掘品でもヤシの実があります。長崎県壱岐島発見のものは、実の殻を利用し笛にしていました。また日本海沿岸の遺跡では、ヤシの実の笛に似た土笛が見つかっています。古代中国の陶塤という楽器にそのルーツがあると言います。土笛は中空の土製品で、上部に吹口、表に4つの孔が開いています。包み込むように持ち、孔を指で開閉して演奏しました。日本海沿岸に面した越前町でも、今後発見される可能性は高いでしょう。

 さて、町内では朝鮮半島の土器が発見されています。こうした考古資料だけでなく、越前海岸には水仙の漂着譚が伝えられています。

 平安時代の末、山本五郎左衛門が長男の一郎太とともに、源平の戦いに加わりました。留守のあいだ次男の二郎太が、越前海岸で娘(仙)を助け上げ、二人はしだいに親しくなりました。秋のある日、戦いで傷ついた一郎太が帰ってきました。一郎太は日ごとに娘に心を奪われていきます。そしてついに兄弟は娘をめぐり決闘します。苦しんだ娘は海に身を投げます。次の日、刀上の浜に美しい花が流れ着きました。村人たちは、この花は娘の化身に違いないと、丘の上に植えていつくしみました。それから、冬になるとその花は一面に咲き乱れ、水仙と呼ぶようになりました。

 水仙は地中海の原産で、持ち込まれた植物です。入ってきた時代に関しては諸説があり、遣唐使が球根を薬草として導入した説、球根が海流で運ばれ海岸で自生を始めた説、室町時代の禅僧が持ち込んだ説などがあります。

 仙という娘が海に飛び込み、水仙に身を変え海岸に打ち上げられたとの話は、水仙が海流に乗って越前海岸に流れ着いたことを示す、ひとつの漂流譚と言えるのではないでしょか。

第100回(2013.07) 堀大介

米ノに流れ着いた百済王女、自在女

 今回は朝鮮半島にいた王女が越前町の米ノに流れ着いた伝承を取りあげます。『白山村誌』にもとづいて見てみましょう。

 神武天皇の御代、百済国の歎喜王の娘である自在女という美しい王女がいました。彼女が18歳になると、諸郡の王が妃に迎えようと競って申し込みました。ついに彼女をめぐって戦さとなり、多くの人々が亡くなりました。自在女は自分が原因で起きたことだと理解し、出家して仏の道に入りました。

 その後、東の方に有縁の地があるというので、船に乗って海を渡り、米ノ浦に上陸しました。ここで干飯を炊いたので、干飯崎(干飯浦)と言ったそうです。干飯とは乾飯で、旅行などに持っていた干した飯のことです。

 それから自在女は馬に乗って山を越え、山干飯(旧白山村)に進みました。途中の越前市千合谷町に解雷ケ清水という場所がありますが、自在女が静座し神仏を念じ、杖で岩を突くと水が湧き出たという言い伝えがあります。現在も不動明王を祭る堂があり、その脇からは清浄な水が湧き出て、天王川の源泉となっています。

 これらの話は伝承なので、事実はどうか分かりません。ただ古来、越前海岸に大陸や半島から流れ着く素地があったことは確かです。『日本書紀』垂仁天皇二年の条別伝には、朝鮮半島からやって来た王子が越前に上陸した話が出てきます。

 崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が船に乗って越国笥飯の浦(敦賀市)に着きました。その人物は意富加羅の王子、都怒我阿羅斯等(別名、干斯岐阿利叱知干岐)と言い、穴門(山口県)に来着し、日本海を回って出雲を経てやって来ました。なお本文に出てくる任那の蘇那曷叱智は同一の人物とされています。任那という国は韓国史に出てきませんが、意富加羅を含めた朝鮮半島南部の大加耶という連合国の一部と考えられます。

 この話は渡来人が来航した最初の記録でもあります。額に角があったので、この地を角鹿としたとありますが、ひとに角は生えていません。おそらく角に見える冠帽を着用していたのでしょう。

 都怒我阿羅斯等の来歴は、朝鮮半島から始まり日本海を渡って福井に上陸する東進のルートです。神功皇后の新羅征伐のさいには逆ルートを取っています。こうした朝鮮半島からのルートだけでなく、敦賀を出航して朝鮮半島に渡るルートも確立していたのでしょう。近年、越前町では朝鮮半島系の土器が出土しています。こうした資料は日本海を介した交流を裏付けるものといえるでしょう。

6 第101回~第120回

第101回(2013.08) 堀大介

網に掛かった神さま仏さま

 福井県越前町の沖合では土器だけでなく、さまざまなものが海からあがることがあります。町内にまつわる伝承を探すと、神さまや仏さまの像が網に掛かったという話があります。ここでは、ふたつを取り上げます。

 まずは、越前町の玉川観音の話を『越前町のむかし話』にもとづいて紹介します。

 その昔、玉川のある漁師が朝早く船をこいで漁に出ました。ある所まで来て網をあげると、ぴかぴかに光る物がかかりました。それは観音さまであったので、漁師は驚きました。捨てようか持って帰ろうかとためらいましたが、家に持って帰っても始末ができないと思い、その場に捨ててしまいました。男は家に帰り、母に海での出来事を話しました。

「おっかあ、今日、海で網をあげているとな、観音さまがかかってきたんや」と男は言いました。

「海に大事な観音さまを捨てる人はいないわい」と、母は言いました。

 次の朝、男は同じところに行って網をあげると、ふたたび観音さまが引きあがってきました。

「これもなにかのご縁、村に帰って大切にしておこう」と男は思い、それを引きあげて持ち帰ることにしました。それから村びとと話し合いました。

「気味が悪いから、元の所へ置いてこい」と、あるひとが言いました。

「でも、もったいないから」と半分のひとは言ったことから、どこかに祀ることになりました。村びとは相談した結果、観音さまが引きあがった真正面の洞窟にお祀りすることになりました。それが現在の玉川観音です。

 次に、漁師の網に掛かった梅浦の蛭子さんの話を『越前町史』にもとづいて紹介します。

 その昔、漁師の網にかかって海中から蛭子像があがりました。最初は梅浦の中筋の佐野屋屋敷に祠を建てて安置しました。現在その建物はありませんが、蛭子屋敷の名称が残っていました。それがのちに梅浦の安入坊の高くそびえる岩上に祠を建立して蛭子像を安置しました。この岩は高く大きく、階段をつけて岩の頂上の蛭子堂に参拝できるようになっていました。

 江戸時代の文化年間(1804~1818年)になると、下梅浦(梅浦の北側)の漁夫も「蛭子様のお守がしたい」と上梅浦(梅浦の南側)の漁夫に申し出たため、魚見塙の島の頂上に下梅浦の蛭子堂を建立しました。つまり上梅浦と下梅浦の二か所に蛭子堂ができました。蛭子御輿という行事がありましたが、上梅浦の蛭子堂から下梅浦の蛭子堂に、蛭子さんが渡御される祭りです。

 その後、上梅浦の蛭子堂が建立してあった大岩は、新しい澗(舟揚場のこと)の造成に割って使用したため、大岩を徹去した跡地に移転しました。明治年代に入って下梅浦の蛭子堂が老朽してなくなり、上梅浦の御堂だけとなりました。国道が蛭子堂の敷地を通るようになって、下梅浦の蛭子堂の跡地に再建されました。それが現在の蛭子神社(恵比須宮)となります。

第102回(2013.09) 堀大介

海から引き揚がった土器

 越前町の漁師が沖合で土器を引き揚げるときがあります。ほとんどはその場で棄てられますが、残りのよいものは持ち帰られ、大事に保管されていることがあります。これらを調べると、町内には21点が確認できました。行方不明のものを含めると、その数はさらに増えるでしょう。その場所を聞くと、福井県三国港沖の玄達瀬付近と京都府経ヶ岬沖の浦島礁付近というふたつの名前があがります。

 玄達瀬は越前岬から北西30km沖合の日本海中にあります。周りは約200~300mと深いですが、長さ18km、幅6kmの範囲が水深10~30mまでせりあがる浅瀬になっています。その頂上の海面下約9mの地点には、テニスコートぐらいの広さがあります。

 こうした地形から複雑な潮流を呼び、魚の集まりやすい漁礁となっており、古くから海の米櫃と呼ぶくらい良好な漁場として知られていました。また潮の流れの速いことから、海難事故の頻発地点でもありました。地元の古老たちは玄達瀬に海坊主が出て、航海中の漁船に杓で海水をかけて沈めようとしたと伝えています。現在、玄達瀬は越前焼の擂鉢や甕が引き揚げられることから、玄達瀬遺跡として認識されています。

 海揚がり土器を観察すると、長期間海底にあったためか、器面の風化が激しいものがあります。なかには砂に埋まっていた部分と海に露出していた部分が明瞭に分かる土器があります。近海のものであれば貝類が付着することもあります。

 土器の年代もさまざまです。近世の越前焼などは知られていますが、意外にも弥生土器が多いです。年代は弥生時代中期で、紀元前3世紀ごろです。他に奈良時代の須恵器や明治時代の陶器もあり、日本海を通じた頻繁な交流がうかがえます。いまでもさまざまな時代のものが海底で眠っていることでしょう。

 それではなぜ、陸地から遠く難れた海底に土器が沈んでいるのでしょうか。その答えを導き出すのは困難ですが、ふたつの推測が成り立ちます。

 第1に、航海や漁の途中に船が転覆したり、船に積み込んでいたものが海中に落ちたというものです。引き揚げられた擂鉢や甕は優品が多く、本来製品となるべき品でした。三国港などで船に積み込まれ、日本海沿岸の消費地へ運ばれる途中に沈んだものと考えられます。日本海沿岸で出土する多くの越前焼がそれを証明しています。

 第2に、海神を祀り海中に食べ物やそれを入れた土器を捧げるというものです。これは証明が難しいです。古代の航海は危険をともない偶然の要素が強く、海神しだいの行為でもありました。また玄達瀬付近の弥生土器や土師器の内側を見ると、焦げたアワがついています。アワを注いだときに器の肩部に付着したのか、海底に2,000年以上さらされていても残っているのです。こうしたアワの痕跡は海神に対する供献行為とは考えられないでしょうか。

第103回(2013.10) 堀大介

海を渡った朝鮮半島の土器

 越前町天王・宝泉寺区に所在する番城谷山5号墳の墳丘裾部から、大量の須恵器質の陶器片が発掘調査で出土しました。赤みを帯びた破片と生焼けの部分が多いことから、はじめは越前焼だと考えていました。調査終了後に土器を洗浄し接合を試みると、高さ76.8cm、最大幅59.6cmの大甕に復元できました。

 甕の表面はきれいに撫でられていて、それは内面にも及んでいました。乳頭状の突起は肩部に二か所配置されていました。下半分の一部が欠損していましたが、かろうじて底は残っており、指押さえの跡としぼり痕が認められました。両方の特徴をもつ須恵器は国内での類例が少なく、朝鮮半島南部に多い特徴となります。しかも新羅で製作された可能性が高く、4世紀末ごろに比定できます。

 それでは、どのような経緯で大甕はやって来たのでしょうか。古墳に埋葬された人物が生前、海を渡り手に入れて持ち帰ったのでしょうか。それとも日本にやって来た渡来人から入手したのでしょうか。甕の中身が重要だったのかもしれません。想像はふくらむばかりです。

 甕の出土した状況も興味深いです。出土地周辺をほとんど掘ったにもかかわらず、甕の一部が足りませんでした。表面を観察すると、ところどころに打ち割った形跡が見受けられます。甕を粉々に破砕し、その破片を重ねて置いたのでしょう。しかも古墳の裾部には埴輪が並びますが、須恵器の破片も大量に混じっていました。復元の結果、20点以上を数えました。儀式で使用した後に片づけられたのでしょうか。

 須恵器は5世紀前半で、北陸最古級のものに位置づけられます。これまで福井県にはこの時期の須恵器窯はなく、陶邑(大阪府和泉市)をはじめ他地域から須恵器が供給されたという理解でした。

 番城谷山のものは、どの地域の須恵器とも様相が異なります。とくに高杯の脚部の接合部の幅が太いなど、あまり類例のない在地色の強い特徴となります。杯身にしても生焼けの不良品まで含んでいます。そうなると、これらの須恵器が地元のどこかで製作されたのではないかとの推測が成り立ちます。しかも焼き具合や胎土は、古代の丹生窯跡産の須恵器に酷似しています。ただ窯跡が未発見の現段階では推測の域は出ません。

 また番城谷山5号墳では大量の埴輪と葺石が検出されました。丹南地区で唯一の両方を備える古墳です。窖窯で埴輪を製作したさいに須恵器を焼成したとも考えられます。越前町は古代の須恵器や中・近世の越前焼の生産が示すように伝統的に窯業が盛んな地でした。古墳時代の須恵器の解明については、今後詳細な分布調査が必要になるでしょう。

第104回(2013.11) 堀大介

ふくいの漁撈文化を考える

 日本列島における漁業の開始は、縄文時代早期までさかのぼります。旧石器時代には考古学的な痕跡は認められませんが、縄文時代になると漁撈関係の遺物が確認されるからです。一般的に漁法には網漁法・釣漁法・刺突漁法があり、漁撈活動の活発化とともにそれぞれの漁法に適した漁具を発達させていきます。日本海に面した福井県も漁業の盛んな地域で、遺跡から漁具が発見されています。ここでは県内出土の考古資料を見てみましょう。

 まず網漁法の考古資料を取りあげます。漁具の材料は植物質で腐って残りにくいため、網漁法を知る遺物としては網にともなう錘になります。錘は漁網を水中に沈め、浮子と併用して網を水中で安定させる役割を果たしていました。石錘・土錘・陶錘・貝錘などの種類があります。

 県内では多くの遺跡で錘が発見されていますが、越前町では栃川遺跡出土の縄文時代の石錘があげられます。扁平な石の両端を打ち欠いたもので、長軸方向に紐を掛けます。縄文時代中期後葉から後期前葉ごろのもので、いまから約5,000年前になります。まとまって出土したことから、魚を捕るときの網の錘だと考えられます。

 ほかにも越前町の佐々生窯跡出土の陶錘があります。陶錘は須恵器製で、長さ5.2cm、幅1.9cmのものです。棒に粘土を巻きつけて成形し、それを引き抜いたあと両端を切り取っています。奈良時代のものです。本窯跡では坏蓋・坏身・高坏・甕・鉢などの日常雑器や瓦塔・鉄鉢などの仏具とともに、漁具もつくっていたようです。

 つぎに釣漁法の考古資料を取りあげます。代表的な遺物は釣針です。その素材は鹿の角や青銅・鉄製品であり、形も多様です。狙う魚の種類や環境の変化に応じた使い分けがなされています。越前町で釣針の出土例はありませんが、県内では坂井市に2例存在します。

 西谷遺跡の鉄製の釣針は長さ5.15cmの大きさで、針先に逆刺がつきます。ちもと(糸を結ぶ箇所のこと)の部分に木質が確認できるため、ソケット状に木を装着していたと考えられます。釣針というより魚などを取り込むさいに引っかける鉤かもしれません。一緒に出土した土器から3世紀に位置づけられます。

 最後に刺突漁法の考古資料を取りあげます。代表的な遺物がヤス・モリなどの刺突具です。福井市の饅頭山1号墳(5世紀中ごろ)の埋葬施設で出土しました。中心に直線状のものを、その外側にクランク状に湾曲するものを配置し、先端の片側に逆刺があります。古墳に埋葬された人物は海に関係した首長だったのでしょうか。

第105回(2013.12) 村上雅紀

山アテと航路図

 福井県では、縄文時代前期の鳥浜貝塚(若狭町)から丸木舟が出土しており、当時の人々が船に乗って外海まで進出したことがわかります。続く弥生時代には、船首と船尾が反り返ったゴンドラ状の船の列が銅鐸に描かれ(坂井市井向遺跡)、古墳時代になると、全国で船形の埴輪が発見されています。坂井市でも、長さ19.3cm、幅2.4cmをはかる古墳時代の船形埴輪が出土しました。次第に、船の構造が複雑化し、外洋への航海も可能となるよう技術革新が行われている様子がうかがえます。

 古くから、「山アテ」という航海技術が知られています。現代のような航海機器のない時代には、特徴的な形をした山や岬、主要な港などを目印に、目標物の位置的な関係に注目しながら沿岸部を航海していました。おそらく、越前海岸の人々は、白山や越知山などの山々を海上から見定めていたのでしょう。これまで、実際に航海者たちがどのような地形を目標に航海していたかを具体的に知ることはできませんでした。

 織田文化歴史館で開催した企画展覧会では、明治時代に描かれた「航路図」が展示されました。この資料は、坂井市三国町に伝わるもので、明治23年9月4日朝から9月12日夜までの9日間にわたり、北海道の函館港から島根県隠岐島まで航海した内容が、日本海沿岸の詳細な図とともに記録されています。

 興味深いのは、東北の恐山や岩木山・鳥海山、北陸の立山・白山、中国の大山など各地の主要な山々が記されている点です。

 また、航海者の地元である福井県周辺をみると、「三国」・「越前岬」・「敦賀港」・「小浜」と、詳細な記述があります。このような地形を目印に、古代より航海が行われていたことが推測され、当時の航海者の地理認識を知るうえで貴重な資料といえます。

第106回(2014.01) 小辻陽子

お正月のお客様とおとしだま

 12月の楽しみといえばクリスマスのケーキやプレゼントですが、1月の楽しみといえばお正月にもらえるお年玉だったという人も多いのではないでしょうか。

 クリスマスイヴの夜に煙突から入ってきて、よい子にプレゼントをくれるのはサンタクロースですが、大晦日の夜に煙出しから入ってきて、私たち一人ひとりに忘れずに年をプレゼントしてくれるのが歳徳神といわれています。(地域によっては「おしょうがつさま」や「としどんさん」などとも呼ばれています)この歳徳神が私たちにくれる新しい年、新しい一年を過ごすための力のことを「おとしだま」ともいいました。

 また、家にやってきた歳徳神をもてなすために備えた供物(餅など)を、歳徳神の力を得るためにお下がりとして皆でわけたことが、お年玉のはじまりだともいわれています。

 大晦日の夜にやってくる歳徳神は家の中に入ると、自在鉤をつるしている縄を伝いおりて囲炉裏の火棚の上に座っているといわれています。そのため、囲炉裏でゴミを燃やしてはいけない。囲炉裏端で火遊びをすると寝小便をする。失せものを書いた紙を自在鉤に結び付けておくと出てくるという言い伝えが町内に残っています。

 年が改まる境目であり、歳徳神がやってくる大晦日の夜は大切な夜でした。この夜にやってくる不思議な客と、囲炉裏に関する昔話が町内をはじめ全国的に伝わっています。

 「大歳の火」と呼ばれる昔話では、大晦日、大切な囲炉裏の火種を絶やしてしまったお嫁さんが、不審な一行から、火種を分けてもらう代わりに無理やり預かり物をさせられます。「年取り男」という昔話では、大晦日の夜、他の家々から断られた旅人を、貧しいけれど気のよい男が家に泊めてやります。男はせめてものもてなしにと暖かい囲炉裏端に旅人を休ませ、自分は冷たい土間で寝ることにしました。お正月の朝、男が目を覚ますと囲炉裏端の旅人の姿は消え、かわりに小判の山があったということです。

第107回(2014.02) 村上雅紀

浄秀寺遺跡

 今から約30年前、国道417号線の開発工事にともない、鎌坂区で遺跡が発見されました。この遺跡は、小字名より「浄秀寺遺跡」と名づけられ、越前焼瓶子と甕が1点ずつ出土しました。越前焼の内部には荼毘に臥された人骨が納められており、浄秀寺遺跡は鎌倉時代後期~室町時代前期の墓地であったと考えられます。

 

 浄秀寺(浄照寺)

 昭和46年(1971)に刊行された『織田町史』によれば、越前町鎌坂区にはかつて「浄秀寺」という寺院があり、俗に「浄照寺」と呼ばれていました。由来によると、延元3年(1338)、三崎(越前町三崎区)にあった島津氏の支城が陥落し、城主・鈴木源左衛門が討ち死にしました。その子供である浄秀は、この浄照寺で仏門に入ったといいます。

 その後、浄秀は国戸(越前町下河原区)の長光寺にあずけられ、さらに江波・樫津に移り、ついに武生に寺を建立しました。現在、越前市にある浄秀寺はまさにこの寺院で、南北朝時代頃までは越前町鎌坂区にあったとの縁起が伝わっています。

 

 浄秀寺跡地

 越前町鎌坂区には、現在でも浄秀寺跡地と伝わる場所が残されており、畑地になっています。この地には、幕末の嘉永3年(1850)に大野藩が陣屋を置き、織田ほか12村を治めました。明治4年(1871)の廃藩置県に際し、陣屋は大野県織田出張所となり、翌年には足羽県に引き継がれました。この陣屋門は、禅興寺の山門として移築されています。

 『織田町史』の記述や、寺院跡地の現況、小字名や周辺の遺跡の様子などから、鎌倉時代にこの地で寺院が造営されていたことは間違いなく、今後の調査が期待されます。

第108回(2014.03) 小辻陽子

「三月の団子は食べるか飾るか」

 みなさんはこの時期、赤や緑、黄色などの色がうずまいた、ひらたい団子をいただいたことはありませんか?(地区によっては、白くて丸い団子のところもあります)この団子は越前町内では「おみみだんご」や「おまり」、「おまる」などと呼ばれていますが、一般的には「涅槃団子」とよばれています。お釈迦様が亡くなった日である旧暦2月15日に行われる涅槃会で、参加した人々に配られます。地域によっては、だんごまきが行われているようです。

 この団子の形はお釈迦様の耳をかたどっている、体をあらわしているという説があります。団子につけられている色は、お釈迦様の遺骨(仏舎利)が5色に光輝いていた、という説話にもとづいてつけられているといわれています。この団子を食べると、お釈迦様のご加護で無病息災を得られる。蛇にかまれないともいわれています。

 ところでこの団子、福井県を一歩出ますと形ががらりとかわります。ひらべったい形でカラフルな色がうずまく団子ではなく、丸い形で一色だけで色づけされた団子が作られている県があります。さらに、その中に干支などの動物の形をした団子を混ぜて参拝者に配るところもあるそうです。

 お砂糖などをかけておいしくいただいている「おみみだんご」ですが、他の県ではこの団子は食べずに小さな巾着袋などを作ってそこに入れ、交通安全や山に入る際のお守りとして持ち歩く風習があります。

第109回(2014.04) 堀大介

古代越前と越前町の関係を探る1

 敦賀といえば現在の敦賀市あたりを指しますが、古代においては敦賀市域に加えて、越前町の西側半分(織田・越前地区、朝日・宮崎地区の一部)もその領域に含まれます。それだけ敦賀の領域が広かったと言えます。今回は古代敦賀と越前町の関係について考えてみます。

 劔神社の歴史を紐解くと、劔神は座(くら)ヶ岳に鎮座していたものが現在の地に降りたとされています。座ヶ岳とは織田盆地の北に位置する標高310メートルの山です。そのため劔神社にとって座ヶ岳は、現在でも重要な地として認識されています。

 実際に劔神社の参道に立つと、おもしろいことに気づきます。南北に走る参道に対して、階段を登ったあとの拝殿前の参道は少し左に振れます。これは拝殿と本殿の建物が座ヶ岳の方に向けて建てられたことを示しており、それだけ座ヶ岳を意識していた証になります。

 しかもそれだけではありません。座ヶ岳と劔神社を直線で結んだ22.1キロの先に、敦賀の氣比神宮の本殿があります。つまり座ヶ岳を起点に、劔神社と氣比神宮は真っ直ぐに並ぶわけです。ちなみに氣比神宮は越前一宮、劔神社は越前二宮です。つまり、越前で重要なふたつの神社が同じ敦賀の領域に鎮座するだけでなく、南北に並ぶ位置から密接な関係がうかがえます。

 しかも『延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)』という全国の主要な神社(式内社)を収録した平安前期の書物を見ると、敦賀郡の式内社の数は43座です。越前国全体の数が126座とあるので、約3分の1を占めることになります。当時の越前国は大野郡・坂井郡・足羽郡・丹生郡・今立郡・敦賀郡があり、53の郷からなっています。たった6つの郷しかない小さな敦賀郡に、越前の式内社が集中するだけでなく、一宮と二宮のふたつが鎮座しているのは驚くべきことです。

 なお気比神と劔神については、朝廷に厚遇を受けたことを示す史料があります。たとえば、気比神は地域の神としては最も古いとされる神階(朝廷から神社の祭神に奉った位)が与えられ、劔神も神として初の勲位(くんい)(勲章)を受けています。劔神社については奈良時代の梵鐘(ぼんしょう)が寄進されています。

 このように中央から遠く離れた地にもかかわらず、重視されていることは、敦賀の地が朝廷にとって大きな意味を持っていたからに他ありません。

 その謎については次回、もう少しみてみましょう。

第110回(2014.05) 村上雅紀

観応3(1352)年7月11日、円山宝塔が造立される

 大谷寺大長院より北側約500メートルの山間部谷間に、「円山(まるやま)」と呼ばれる小高い塚があります。塚の周辺は平地になっており、塚の上には石造の宝塔が建っています。この宝塔は越前町指定文化財になっており、一般に「円山宝塔」の名で知られています。

 教育委員会では、平成14年度に宝塔を含めた遺跡全体の測量及び発掘調査を実施しました。今回はその成果について、ご紹介します。

発掘調査の成果

 遺跡は丘陵裾部の谷間に立地し、元越知山山頂から旧清水町笹谷を経て福井市中心部へと至る旧道と、大谷寺区を縦断する新道が交差する地点にあたります。また、遺跡の一部が字「三昧谷」に含まれることから、調査前より遺跡は古い墓地であったと考えていました。

 遺跡は南北36.0メートル、東西34.8メートルの範囲にわたる平坦面を中心とし、その南西隅には南北15.6メートル、東西17.1メートル、高さ1.8~3.5メートルの塚が築造されています。調査の結果、深い谷であったところに土を盛って平坦に造成し、さらに塚を築造したことが分かりました。しかし、遺跡が造られた時期や、どのような性格であるかを示す資料は、ほとんど出土しませんでした。

円山宝塔

 塚の上に建つ宝塔は笏谷石(しゃくだにいし)製で、上部の一部を欠いているものの、ほぼ造立当初の姿をとどめています。残存する高さは183センチをはかり、基壇・基礎・塔身・屋根・相輪の各部位が組み合わされます。塔身には、四面に金剛界四仏を表す梵字が刻まれ、正面には阿弥陀如来が配されています。梵字周辺は花弁や蓮華などによって装飾され、越前に特有な装飾方法から「越前式月輪(えちぜんしきがちりん)」と呼ばれています。

築造時期と目的

 遺跡が造られた時期については、宝塔の基礎に「如件観応三□七月十一日敬白」とあることから、観応3(1352)年と考えられます。この時期は南北朝時代にあたり、全国で北朝と南朝が争っていました。

 遺跡の性格について、宝塔基壇下部の小さな孔(あな)に注目してみます。基壇には幅68センチ、高さ11センチの孔が設けられており、宝塔の下へ手を入れて、何かを塚の中に納めることができる構造となっています。全国の類例をみると、石塔の内部や下部に火葬骨を入れるための空間を設けるケースが多く、円山宝塔も同様のものと考えられます。つまり、円山宝塔および塚は、亡くなった方の遺骸の一部を納めるための施設であったと推測できます。これは、遺跡が位置する「三昧谷」という字名の内容とも一致します。

 また、遺跡が集落の北東端、交通の要衝に位置し、人目を引く大きな塚の上に石塔を設置していることから、何らかの象徴(シンボル)としての施設とも考えられます。すると、円山は単なる墓地ではなく、宗教的に重要な意味をもつモニュメントであったと推測できます。今後、全国的な事例のなかに位置づけることにより、円山の性格についても明らかになると思われます。

第111回(2014.06) 小辻陽子

みのりを授けるために神様は里へやってくる?

 先月までで田植えも終わり、田んぼの稲が青々としてきました。

 昔からこの稲や田で働く人々を見守っている神様がいると言われています。日本神話には穀物の神様「倉稲魂(うかのみたま)」や豊穣の女神「豊受媛神(とようけひめのかみ)」など、農耕に関わる様々な神様が登場しますが、一般の人々は「田の神」さん、と呼んで親しんできました。もちろん地域によって「農神(のうかみ)」、「作神(さくがみ)」、「つくり神」など色々な名前で呼ばれています。

 この「田の神」は神社に祭られている場合がありますが、稲作を中心におこなっている人々の間では「田の神」さんは季節によって住んでいる場所を変える神様、とも信じられています。ちょっと変わった話では、カエルやフナ、メダカなど水辺でみられる生き物はこの神様の使者である、と言い伝えられている地方があるそうです。

 農作業が始まる時期になると、「田の神」さんは人々が住んでいる里へやってきて田に宿り、稲の収穫が終わり冬になると里から去っていく。または里へやってきて一度家に入り、そこからその家の田におりると伝えられてきました。そのため里に住む人々は春がくると、「田の神」さんが喜ぶようなごちそうをつくったり舞を奉納したりして、このみのりを与えてくれる神様を歓迎しました。この「田の神」に関連する祭礼は、色々な形で全国的に残っています。

 町内では「田の神さんの日」に小豆と里芋の煮物などのごちそうを作って神様に供えた後、みなで食べたという風習が記録されています。また田の水口(みなぐち)に御幣(ごへい)を立てていたところもあったそうです。

 では無事にお米が収穫できた後、「田の神」さんがどこへ去って行くのか、秋頃にまたお話します。

第112回(2014.07) 堀 大介

古代敦賀と越前町の関係を探る2

 『日本書紀』武烈天皇即位前紀に、大臣である平群真鳥(へぐりまとり)が太子時代の武烈と大伴金村に滅ぼされるのにさいして、全国のあらゆる塩に呪いをかけ、天皇の食料とならないようにしたが、角鹿(つぬが)(敦賀のこと)の海の塩だけ呪いをかけ忘れ、天皇の食料になったとの記事があります。

 武烈は継体天皇の前代の天皇ですから、5世紀末から6世紀初頭の時代となります。当時は古墳時代の後期で、まさに継体天皇が即位したころの時期です。

 この説話の意味するところは、平群氏の勢力によって瀬戸内や東海からヤマトへ入る塩の道が杜絶(とぜつ)し、ヤマト王権が角鹿(敦賀)の塩に依存する時期があったことを意味しています。

 それでは「角鹿の塩」とは、どのようなものでしょうか。全国各地で発掘調査が行われていますが、それを示す木簡(墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板のこと)などもなく、説話上の存在とみられていました。

 ところが近年、「角鹿の塩」に関する考古資料の存在が知られています。長屋王邸跡で出土した木簡のなかに「角鹿塩」らしき記載があったのです。木簡の時期は奈良時代ですので8世紀、『日本書紀』の記載から200年ほどの隔たりがありますが、その存在が明らかになった点で貴重な発見といえるでしょう。

 また、同じ奈良県の二条大路で出土した木簡群に、松原駅(敦賀郡の駅馬)や敦賀郡の江祥里や津守郷からの調塩(税金としての塩のこと)の記載もありました。つまり奈良時代に角鹿の塩は実在し、越前国の敦賀郡から調として都に塩が献上されていたことになります。

 前回越前町の半分が敦賀郡だったとの指摘をしました。ということは敦賀産とされる角鹿の塩のなかに、越前町産のものが含まれていた可能性があります。

 町内の厨に厨海円寺遺跡という遺跡があります。過去に福井県教育庁埋蔵文化財調査センターが発掘調査を実施し、古代を中心とした遺物が出土しました。その遺物のなかに平安時代の製塩土器が含まれていました。製塩土器とは塩づくりのための土器です。

 つまり厨海円寺遺跡のあたりでは、平安時代に塩づくりを行っていたことが証明されました。時代のくだった資料にはなりますが、今後、奈良時代以前の様相がわかれば、謎とされる角鹿の塩の実態もさらに明らかになることでしょう。

第113回(2014.08) 村上雅紀

釈迦八相涅槃図とはなにか

 越前二ノ宮・劔神社には、鎌倉時代に描かれた「釈迦八相涅槃図(しゃかはっそうねはんず)」と呼ばれる絵画が伝わり、国指定重要文化財となっています。今回は、「釈迦八相涅槃図」とはどのような絵画なのかについてお話しします。

 「釈迦(しゃか)」は、古代インドや東南アジアで用いられたサンスクリットで「ゴータマ・シッダールタ」と表記されます。中国では、「瞿曇(くどん)」・「悉達多(しっだった)」もしくは「悉陀(しっだ)」とも訳されました。

 一般的には、「釈迦族出身の聖者」を意味し、仏教の開祖である「釈迦牟尼」(しゃかむに)の略称とされます。日本では親しみをこめて、「お釈迦さま」と呼んだりします。

 次に、「八相」とは、釈迦の生涯における重大な事件を8つにまとめたものです。釈迦の伝記については、数多くの物語が経典に描写されていますが、中国や日本では釈迦が悟りを開くまでの生涯をたどるものが好まれました。

 最後に、「涅槃(ねはん)」は、サンスクリットで「ニルヴァーナ」と表記され、中国では「泥洹」(ないおん)とも訳されます。もともとは「吹き消すこと」・「消滅」を意味し、転じて「煩悩から解放されて到達する自由な心境」を表します。

 涅槃は仏教における修行上の究極目標であり、釈迦は35歳の時に涅槃を得たとされます。ちなみに、釈迦が悟りを開いた時点では、いまだ肉体を備えていたため、この期間の涅槃を「有余依涅槃(うよえねはん)」といいます。そして、80歳で亡くなり身体が滅するにあたり、完全な涅槃である「無余依涅槃(むよえねはん)」に入ったとされます。そのため、涅槃は「釈迦または聖者の死」を意味するようになりました。

 このように、ひとつずつの単語を見ていくと、「釈迦八相涅槃図」とは、仏教の開祖である釈迦が亡くなり、完全に煩悩から解放された際の場面(涅槃)を描いた絵画。しかも、涅槃を中心に、周囲に仏伝の8場面を描いたものといえます。

 では、涅槃図はどのような目的で作られたのでしょうか?

 また、次の機会に涅槃図の起源についてお話ししたいと思います。

第114回(2014.09) 小辻陽子

みのりを授けた神様はどこへゆく?

 そろそろ秋の祭りの準備が始まる季節ですね。夕暮れ時になると、どこからともなくお囃子(はやし)の練習が聞こえてきます。町内各地区では9月から11月にかけて、秋祭り、刈上(かりあげ)祭り(「カリンテ」と呼ぶ地区もあるそうです)と呼ばれる祭りが行われます。五穀豊穣、つまり穀物などの農作物が豊作であったこと、それから今年も無事に農作を終えることができたことを神様に感謝するお祭りです。

 さて6月号では、農作業を見守るために村にやってくる田の神様の話をしましたが、無事に役目を終えた神様はどうなるのでしょうか。

 農業を中心に生活してきた人々の間では、役目を終えた田の神様は村を出て、山に帰ると信じられています。町内でも地区によって日が違いますが、12月に「田の神さん」または「田の神様」と呼ばれる日があります。この日、山に帰る田の神様のために、家々ではぼた餅などのごちそうを作って供えました。山に帰った神様は、今度は「山の神様」と呼ばれることになります。

 さて12月9日は「山祭り」と呼ばれる日で、天気が荒れる日であると言われています。この日に山に入るとけがをする。山の神様が仕事をしているから山に入ってはいけない、と言い伝えられています。特に林業など山に関係する仕事をしている人たちにとっては、山の神様に感謝する大切な日とされてきました。

 昔話に山祭りは、山の神様が自分の住んでいる山の木を数える日である、という話があります。この日、うっかり山に入ってしまった木こりは偶然であった山の神様に、山の木の一本として数えられ、その場で木になってしまい二度と帰ってこなかったそうです。

第115回(2014.10) 堀 大介

劔神社はもともと剣御子神社だった?

 国の正式な歴史書で初めて劔神社が登場するのは『続(しょく)日本紀』という書物で、宝亀二年(771)のことです。そこには「越前国従四位下勲六等剣神」と書かれています。劔神社所蔵の梵鐘(国宝)にある「剣御子寺神護景雲四年(770)九月十一日」の銘文があるので、越前国剣神とは越前町の劔神社を指す可能性が高いです。

 しかもその記事からわかるように、剣神には勲六等という勲位(勲章)と従四位下という高い神階(神さまの地位)が授与されたことがわかります。しかし剣御子と剣という、ふたつの名前があるのが謎です。どちらが本当の名前なのでしょうか。今回はそのことについて考えてみます。

 剣神に関して他の史料を見ると、『新抄格勅符抄』という書物には、剣御子神(765年・772年)に関する記事があります。また『日本三代実録』には「剣神」(859年)、『延喜式』神名帳には「剣神社」(927年)と出てきます。つまり剣御子(神)とあるのが765年・770年・772年の3か所、剣神とあるのが771年・859年・927年の3か所です。

 年代的な法則性はありませんが、文献の性格でくくると傾向が見えてきます。『六国史』や『延喜式』などの、いわゆる正史は「剣神」、それ以外は「剣御子(神)」とあり、なぜか正史が剣の一字のみです。結論をいえば、ともに劔神社の神さまの名前を指しますが、剣御子神から剣神に変化したと考えています。言い換えると、剣御子神が本来の神名で、正式には剣御子神社だった可能性が高いです。つまり収録時に「御子」の2字が意図的に省かれたとみています。

 その省略された理由を考えます。そもそも剣御子とは誰を指すのでしょうか。諸説ありますが、劔神社に忍熊王が祀られること、氣比神宮との関係や縁起・社伝などを重視しますと、剣御子は忍熊王を指すようです。忍熊王とは仲哀天皇の皇子で、神功皇后と応神天皇の一派と争ったことで知られ、結果敗北しましたが、それまでは正当な王位継承者でした。しかし皮肉なことに戦争に負けてしまえば、それは反逆者としての汚名をきせられてしまいます。

 同志社大学名誉教授の森浩一先生は、2011年3月の越前町歴史講演会でこの点に触れました。森氏によると、劔神社はもと剣御子神社で、いわゆる国家反逆者である忍熊王を祀っていたため、正史収録時には朝廷にとって都合が悪いので、わざと「御子」を抜いたのではないかと指摘されています。

 だから記録上ふたつの神さまの名前が混在するのでしょうか。もしその推測が正しければ、ふくいに関する古代史の謎が次々と解けていきます。次回はさらにそのことについて深めてみます。

第116回(2014.11) 村上雅紀

涅槃図とブッダ

 8月号の記事で、劔神社に伝わる「釈迦八相涅槃図(しゃかはっそうねはんず)」の意味を考えるため、「釈迦八相涅槃図」とはどのような種類の絵画なのかを説明しました。今回は、涅槃図の主題と典拠について見ていきます。

 涅槃図は、仏教の開祖であるブッダ(釈迦)が亡くなった瞬間が描かれた絵画です。仏教の世界では、宗教的に目覚めた人が死ぬことを「入滅(にゅうめつ)」といい、「滅度(めつど)」・「寂滅(じゃくめつ)」とも訳されます。ブッダが入滅した時期については諸説あり、紀元前383年頃(中村元 説)と考えるのが一般的です。

 ブッダは、インド北部を治めていたシャカ族の出身であり、カピラ(迦毘羅)城城主の浄飯王(シュッドダーナ)と摩耶夫人(マーヤ夫人)の間に生まれました。29歳の時に出家し、まず山中に入って6年間にわたり苦行生活を送りましたがその空しさを知り、ボードガヤーの菩提樹の下で静かに瞑想をこらし、ついに悟りを開いたと経典に記されます。

 その後、ブッダはインド各地を巡歴して多くの人々を教化しました。80歳の時、パーパー村において鍛冶屋の息子・純陀(チュンダ)の捧げた食事(キノコまたは豚肉)を食べ食中毒になり、クシナガラの熙連河(きれんが)のほとり、沙羅双樹の間で入滅しました。涅槃図は、まさにこの場面を描いています。

 ブッダの入滅に関する記事は、『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』という経典に詳しく掲載されています。日本語では「大いなる死」と訳され、古代インド語であるパーリ語で記されています。この経典は、主にスリランカなどの東南アジアに伝わり、かなり古い内容を保持していると考えられます。一方、日本などを含む東アジアでは、ブッダの入滅を示す漢訳経典として『遊行経』が知られています。

 これら東南アジアなどの南方に伝わった経典と、東アジアなどの東方に伝わった経典を比較すると、内容の大枠は同じものの、細かい描写の違いが多くみられます。劔神社の資料をはじめ、日本の涅槃図は『遊行経』を典拠に描かれているとされ、日本独自の様式をもっています。涅槃図には、私たち日本人の美意識や宗教観が反映されているためといえるでしょう。

第117回(2014.12) 小辻陽子

昔話にふさわしい季節

 今年最後の月に12月になりました。このコーナーでは町内に伝わる昔話をいくつか紹介してきましたが、実は昔話には語るのにふさわしい場所、時間、日というものがあると昔から考えられてきました。

 場所は家族生活の中心であった囲炉裏端(いろりばた)。そして時間は夜です。実は昼に昔話をすることは、全国的に見ても「してはいけないこと」とされています。「昼に昔話をすると、天井裏のねずみから小便をひっかけられる。その小便が目に入ると目が見えなくなる。だから昼に昔話をしてはいけない」という言い伝えが残っている地域もあります。これは語り手が、聞いている人達の話に対する期待感を高めつつ、聞くことに対する緊張感を持たせるためとも言われています。しかしやはり、昼は働く時間であると皆が考えていたのでしょう。

 さらに昔話をすることがふさわしいと推奨された日がありました。庚申(こうしん)の日の夜と、正月の前日の大晦日の夜です。庚申の日の夜は、眠ると体から三尸(さんし)の虫が抜け出て、日頃の行いを天帝(地域によっては閻魔大王)に告げに行くと言われています。人々はこれをおそれ、一晩中起きて三尸の虫が体からが抜け出すことを防がなくてはいけない、と考えていました。町内では現在は徹夜で起きていることはなくなりましたが、12月や2月に庚申講として人々が集まって会合が行われています。「大歳の火」や「年取り男」のように昔話の物語にも登場する大晦日は、次の日、正月が仕事休みの日ですから、夜更かしして話を楽しむこともできたのでしょう。

 もちろん聞き手にもちゃんと役割はあります。語り手がうまく話せるように、あいづちを打たなくてはいけません。

第118回(2015.01) 堀 大介

かつて神社はモリだった? -近年の劔神社境内の発掘調査成果から探る-

 今回は劔神社境内の発掘調査で新たな成果が得られたので、それについて紹介します。

 平成25・26年度の2年間は、境内西側の一段高い段丘にあたる、神林(「おはやし」と呼ぶ)を調査対象としました。ここは室町時代の古絵図で、鬱蒼とした森として描かれた場所です。境内で最も広い平坦地であるので、計18か所の調査区(幅2メートル・長さ2~4メートル程度)を設定しました。

 掘削を進めると、どの調査区も表土から地山まで黒色土が詰まり、深さ70センチほど堆積していました。古代・中世の遺構はなく、表面に近世以降の遺物が混じる程度でした。ただ2か所からは、弥生時代(約2300年前)の土坑(ゴミ穴)が検出されました。つまり、弥生時代から現代まで、人為的な痕跡が認められないことが分かりました。おそらく2000年近く森だったのでしょう。

 こうした無遺物の範囲は猿田彦神社の周辺、水木稲荷神社から宝物殿あたりまで及んでいました。しかし神林のなかでも、拝殿西側から川にかけての低い一帯は、祭祀などで使用した土器の捨て場になっていました。境内は遺物の有無に極端な差があるので、長期間捨てない場所の観念が働いていたとみられます。

 織田盆地のほぼ中央に位置し広大な平坦地をもつ境内の一等地に、まったく手が加えられていないことが驚きです。このことは古くから神林が神聖な地として認識され、入らずの場所として保持されてきたことを物語っています。

 『万葉集』には、「木綿(ゆう)かけて 斎(いつ)くこの神社(もり) 越えぬべく 思ほゆるかも 恋の繁きに」(巻7・1378)、「山科の 石田の社(もり)に 幣(ぬさ)置かば けだし吾妹(わぎも)に 直(ただ)に逢はむかも」(巻9・1731)などの歌があります。

 「モリ」を神社とするのが3例、社とするのが11例を数えます。つまり、古くから神社や社を「モリ」と呼んでいたたようです。ちなみに『出雲国風土記』では、「ヤシロ」に「屋代」という字があてられ、神社の数を「所」の数で表現しています。神祭りの建物のある場所がヤシロの原義であり、近くに樹林をともなっていたことが考えられます。

 こうした点も踏まえると、神林における無遺物地帯が考古学的に特定できたことは大きな成果であり、劔神社の歴史を考えるうえで重要な発見になったことは確かでしょう。

第119回(2015.02) 堀 大介

国宝の梵鐘を知る1 梵鐘には予知能力があった?

 月いづこ 鐘はしづみて 海の底

 元禄2年(1689)、松尾芭蕉(ばしょう)が金ヶ崎(敦賀市)で吟じた俳句です。句中に出てくる鐘は、かつて沖合に沈んだ鐘のことで、金ヶ崎の地名由来となったものです。じつは、その沈んだ鐘が、劔(つるぎ)神社所蔵の梵鐘(ぼんしょう)(国宝)とも関係があります。

 「劔大明神略縁起」には、以下のような記載があります。

 「神護景雲年中豊後国より釣鐘貳(ふた)つつり劔大明神に奉納する海上において、越前金ヶ崎に一とつりハ沈、是故に後代是処を鐘ヶ崎と云、當社釣鐘則是なり」

 神護景雲年中(767~770年)に、豊後国より釣鐘ふたつを劔大明神に奉納するさいに、ひとつが沖合で沈み、それにより金ヶ崎という地名になったとあります。

 また鐘の岬では、漁師は常に沈んでいる鐘を見ることができるが、この鐘を引き揚げようとすると、恐ろしいことが起きたので止めたという伝承まで残っています。

 沈んだ鐘の伝承は日本に数多くあります。竜宮を含めた水中や死者の宿る地中は、異世界という認識がありました。川や海に死者が葬られ、様々な供物が流されたりするので、この世とあの世の接点と考えられていたのでしょう。

 これは、鐘が異世界から現世に出現した、もしくは鐘はふたつの世界を繋ぐ能力をもつ特別な器具だったことを教えてくれます。

 それに関連した伝承が、劔神社の梵鐘にはあります。

 まず、災害の予知についてです。火事や水難が起きるときには、その方角にむかって鐘の表面が湿気を帯び、雫(しずく)が垂れ、その露滴の落ちた位置から判断して、災害などが起こる方角を占ったのだと言います。

 次に、火伏せとしての効能です。戦国時代の武将たちが、参拝のおりに鐘の銘文の箇所を拓本にとって持ち帰り、家臣に与えて火伏せの護符(ごふ)としたと言います。

 これらの伝承から、梵鐘のもつ性格が読み取れます。それは、災害の予知の点と、火伏せなど防火・防水といった、いずれも水にかかわる点です。

 予知の点では、本来人間が作ったはずの梵鐘が、その効力を宣伝するために、他界から出現したものとされ、それゆえに不思議な能力をもったことを暗示しています。いわば神仏からのメッセージを伝える道具として機能しています。

 水とかかわる点では、梵鐘のもつ水神の性格と関係します。全国に残る伝承によると、梵鐘は雨乞いに用いられます。その背景には梵鐘が龍と深い関係があるためです。龍と言えば、雨を司る神の思想があるので、雨乞いや水にかかわる内容があっても不思議ではないでしょう。

 こうした伝承ひとつとっても、劔神社の梵鐘には様々な役割があったことがうかがえます。

第120回(2015.03) 堀 大介

国宝の梵鐘を知る2 梵鐘は鯨で、音色はイ短調!

 そもそも梵鐘(ぼんしょう)とは、何なのでしょうか。

 寺院の鐘楼(しょうろう)に吊す釣鐘で、寺院内の行事のとき、合図に打ち鳴らす仏教法具です。梵語(ぼんご)brahman(ブラフマン)を音訳したもので、清浄・神聖の意味をもちます。当初は教団内の律を知らせるための合図に使用されていました。撞木(しゅもく)でたたくと、荘厳(そうごん)な音が発っせられ、人々を仏の世界へと導くとされています。

 鋳造品の鐘は大きさによって呼称が違います。大きい順から梵鐘・半鐘・喚鐘(かんしょう)と言いました。

 あと梵鐘には、洪鐘(こうしょう)・蒲牢(ほろう)・鯨鐘(げいしょう)・巨鯨(きょげい)・華鯨(かげいか)などの別称があります。鯨の名がつくことが多いです。

 鯨にたとえられるのは、その大きさにあります。なかでも蒲牢は竜の子とされますが、鯨に追われて大声で鳴くことにちなみ、懸吊部(けんちょうぶ)にかたどられるのだと言います。梵鐘には大きな音が鳴らすことを期待する意味合いが含まれています。

 さて劔神社の梵鐘は、どのような音色なのでしょうか。

 梵鐘は昭和44年の宝物殿建築にともない、人目につくことは少なくなりました。いまも宝物殿に保管されているため、梵鐘を鳴らすことはできませんし、その音色を聞くこともありません。ただ『日本の名鐘』というカセット付の本に、その音色が収録されています。

 それを以前に聞いたことがあります。録音されたものですが、からりとした甲高い音色に思わず聞き入ってしまいました。最も格式の高い、黄鐘調(おうしきちょう)だと言います。黄鐘調と言えば、吉田兼好が「徒然草」で紹介した、京都市妙心寺の梵鐘の音色が有名です。

 黄鐘調とは、12律の第8音葉を主音とする調子で、律旋(りっせん)の配列になっています。その音階がかもしだす雰囲気から、季節では夏の調子とされています。黄鐘調と言っても、ぴんと来ないかもしれません。わかりやすく言えば、西洋音楽のイ短調(A minor)の自然短音階とほぼ同じです。

 イ短調の曲と言えば、ロックではX-JAPANの「Rusty Nail」、演歌では石川さゆりの「津軽海峡冬景色」、Jポップではポルノグラフィティの「アポロ」、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」などがあります。

 織田盆地に梵鐘の音色が鳴り響いていたことを思うと、1,300年近くの歴史の重みが感じられます。音色を想像しながら手を合わせると、どこかからりと晴れたように空のように心地がよくなります。

7 第121回~第140回

第121回(2015.04) 堀 大介

国宝の梵鐘の謎を探る3 劔神社のふたつの梵鐘

 日本に奈良時代以前の梵鐘(ぼんしょう)は16口ほど確認されていますが、銘文をもつものは4つしかありません。劔神社の梵鐘は年代的に3番目の古さですが、1250年近く同じ地で守り続けられたことが分かる点では全国唯一のものになります。今回は梵鐘の歴史を知るという意味で、その来歴を追ってみます。

 梵鐘が出てくる最古の史料は、劔神社所蔵の『劔神社古絵図』で、15世紀頃に栄華を極めた社寺の様子を知ることができます。仁王門を通過した右手に「鐘つき堂」とあり、その中に梵鐘が描かれています。

 それ以前と言えば平清盛の焼き討ち、息子重盛の再興など盛衰はありました。とくに信長の時代、天正2年(1574)の一向一揆で社殿は焼かれたあと、なかなか復興が進まなかったと言います。本社と気比社がひとつの建物として仮に建設されたこともありました。それから復興がはかられましたが、慶長3年(1598)の太閤検地(たいこうけんち)にからむ騒動でふたたび焼失し、翌年に西の宮を移築して社殿として使用したことも記録に残っています。

 江戸時代には徐々に復興が進み、ふたたび鐘楼(しょうろう)の記載が登場します。延享(えんきょう)3年(1746)には、本社・護摩堂とともに「鐘楼堂」が併記されます。また、江戸後期の『越前国古今名蹟考』「織田境内図」では鐘楼が描かれ、古鐘(こしょう)と記されています。奈良時代の梵鐘と考えられますが、劔神社にはもうひとつ別の梵鐘も存在していました。

 宝暦13年(1763)、古鐘の鋳造千年を記念して新鐘がつくられます。「宝暦の鐘」です。1816年の境内図の梵鐘が新鐘であったとすれば、古鐘は神庫に大事に保管されたとも考えられます。

 そのあたりは不明な点が多いです。明治31年の『劔神社境内図』には境内北東に鐘楼が描かれています。古鐘なのか新鐘なのか特定は難しいです。ただ、明治35年に古鐘が国宝に指定されたため、代わりに宝暦の鐘を撞くようになったとも言います。

 宝暦の鐘に関しては逸話があります。昭和18年、太平洋戦争が激しくなり、当時の政府は金属不足から全国で金属回収をおこないました。そのときに劔神社は国の命令で宝暦の鐘を献上したため、現在は残っていません。

 梵鐘の来歴を追いましたが、歴史の盛衰のうねりにあって、現在も梵鐘の姿を見ることができるのは奇跡としか言いようがありません。それは、歴代の神社関係者をはじめ、地域の宝として皆が大事に守ってきたことを意味しています。

第122回(2015.05) 堀 大介

国宝の梵鐘の謎を探る4 銘文をもつ3つの梵鐘

 奈良時代以前の梵鐘(ぼんしょう)は全国16口が知られることは、前回に触れました。なかでも、紀年銘をもつものは4例しかなく、飛鳥時代の1口、奈良時代の3口になります。今回は古い順から3つを紹介しましょう。

 その前に、梵鐘の渡来に関する文献を探ると、『日本書紀』に記事が出てきます。欽明天皇23年(562)、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が高句麗から日本に持ち帰ったとありますが、現存する梵鐘でこの時代のものは発見されていません。

 まず、ひとつ目が京都市妙心寺所蔵の梵鐘で、飛鳥時代のものです。口径87㎝、総高151.3㎝。鐘の内面には、「戊戌年四月十三日壬寅収 糟屋評造舂米連廣國(かすやのこおりのみやつこつきしねのむらじひろくに)鋳鐘」と鋳出されています。

 戊戌(つちのえいぬ)年は文武天皇2年(698)で、筑前糟屋評は現在の福岡県福岡市東区付近にあたります。日本製の梵鐘のなかで、製作年代だけでなく、製作地や製作者の明らかなものとして貴重です。また、雅楽の黄鐘調(おうじきちょう)に合うことから、「黄鐘調の鐘」として知られています。吉田兼好の『徒然草』に述べられています。

 紀年銘の2つ目が奈良市興福寺所蔵の梵鐘で、奈良時代のものです。興福寺の子院、観禅院(かんぜんいん)に伝来したものです。口径89.2㎝、総高149㎝。撞座(つきざ)の位置が高く、龍頭(りゅうず)と撞座が平行に取り付けられるなど、奈良時代の特徴が認められます。梵鐘には神亀4年(727)の年号や銅と錫との比率が刻まれています。梵鐘の基準作で2番目に古いです。

 3つ目が劔神社所蔵の梵鐘です。口径73.9㎝、総高109.9㎝。草の間の第一区に銘文が鋳出されています。「剣御子寺鐘(つるぎみこでらのかね)/神護景雲四/年九月十一日」。横11㎝×縦14㎝の枠の中に、陽刻で3行16文字が刻まれています。一文字は、大体横3㎝×縦2.5~3㎝角におさまります。

 神護景雲4年は770年。奈良時代の後期で、銘文をもつものでは3番目に古いものです。奈良・京都などの寺院に存在するのであればそれもうなずけますが、都から離れた越前国です。特に織田は北陸道からも離れた丹生山地で、しかも小盆地になります。こうした地に存在することが異例で、古代敦賀郡に越前国の式内社の約3分の1が集中することも考えると、越の重要性を示す証といえます。逆に解すれば、越前国の一地域神とその神宮寺に、律令政府が重視する何かがあったことも指摘できるでしょう。

第123回(2015.06) 堀 大介

八田蛇ヶ池と雨乞いの仏事

 4月25日、越前町八田(はった)と越前市の境にある小嶽(こだけ)に行き、雨乞いの仏事に参加してきました。

 小嶽の由来は、背後にある鬼ヶ岳(標高523m)の小型版ということで、そのように呼ばれています。本当に鬼ヶ岳と形が似ています。

 地元の人との話では、八田の名の由来話になりました。もともと八田は「八奈岐田」(やなぎた)といい、八奈岐田が縮まって、八田になったとのことです。ナギといえば、蛇。草薙(くさなぎ)剣のナギは、「蛇の剣」だという説があります。ちなみに草薙剣は、八岐大蛇(やまたのおろち)の尾っぽから出てきた剣で、現在は愛知県の熱田神宮の神体となっていることで知られています。

 ナギが蛇のことを指すのであれば、ヤナギとは八匹の蛇を指し、山頂にある蛇ヶ池の伝承と関係することも考えられます。実際『古事記』では、「古志之八俣遠呂知(こしのやまたのおろち)」とあり、コシというのが、越(こし)国のことを指すという説があります。

 つまり、越は蛇や龍神の国で、越とは福井県から山形県くらいまでの範囲の、蛇のような細長い国です。水が豊富にあり、蛇や龍の象徴化された国と考えられます。

 そういう意味で、八田には山頂に蛇ヶ池という蛇にまつわる池があり、しかも雨乞いの仏事をおこなっているのは興味深いです。

 さて、八田の道路沿いに看板があり、蛇ヶ池の伝説が書かれています。それによると、山頂に1匹の蛇が棲んでいたと言います。大蛇は度々百姓に害を与えるため、村では娘を捧げて、怒りを鎮めていました。あるとき、地頭の命を受けた勇敢な男が、鎌を両手に山に登り、見事に大蛇を退治したと言います。

 山頂には弘法大師堂があります。お堂は退治した大蛇の亡念を鎮めるために建てられたと言われています。お堂からは、お経が聞こえてきました。観音経と般若心経などをあげるとのことで、霊を和ませるための読経(どきょう)なのでしょう。

 少しくだったところに蛇ヶ池と八大龍王の祠があります。その近くに山の一部を削った建物跡もありました。建物跡はふたつ並び、鬼ヶ岳の方に向いています。鬼ヶ岳には、かつて式内社の大虫神社が鎮座していたとされるので、もしかしたら小嶽には、かつて小虫(おむし)神社が鎮座していたのかもしれません。

 のちほど地図で確認したところ、鬼ヶ岳(大虫神社)、小嶽(小虫神社)、蛇谷山(八坂神社・雨夜神社)は一直線に並んでおり、古くから雨乞いと関係していた可能性が高いでしょう。

第124回(2015.07) 堀 大介

三床山には磐座がいっぱい!

 今回は三床山の信仰史について紹介します。

 三床山は鯖江市西部と越前町東部の境にある標高280mの山です。古くから要害の地であったことから、山頂付近には堀切や曲輪など山城跡が展開しています。その重要性から近年、鯖江市と越前町の史跡に指定されました。山頂からの眺めはよく、ハイキングコースの整備もあり、多くの方が登山されるようになりました。

 さて、三床山は、御床山とか御床ヶ嶽とも表記されます。いずれも「床」がつきます。「床」を調べると「とこ」・「ゆか」とあり、「寝どこ」の意味になります。つまり、神の休まれている御山。奈良県桜井市の三輪山に代表されるような、山自体が神とされる神奈備山(かんなびやま)で、形の綺麗な山に神が宿る、いわゆる神体山と考えられます。

 三床山は山城跡として知られていますが、越前町側では山に対する信仰の側面があります。

 まずひとつに、山頂にかつて佐々牟志(ささむし)神社が鎮座していました。佐々牟志は『延喜式』神明帳に収録された神社です。現在は山から降りた、北側の尾根の先端に鎮座しています。

 ふたつに、三床山の至るところに、磐座(いわくら)があります。磐座は磐倉・岩倉とも表記され、岩に対する信仰のことです。太古にあって神々は山や海の彼方からやってきて、人々が祀りをおこなう神聖な神籬(ひもろぎ)に降臨されたと考えられていました。

 神籬とは、神社や神棚以外の場所でカミ祀りをする場合、臨時的に神をお迎えするための依り代のことです。そのため一般的に磐座というのも、神事において神を岩に降臨させる場として位置づけられています。

 実際に三床山の山中を歩くと、実に多くの大岩が見られます。なかでも三床山の西側の麓から山腹にかけての谷あいに多く、少なくとも20近くの大岩が露出していました。そこから上に向かって崖をかけかけ登ると、山頂付近でも大岩がゴロゴロと見られます。

 発掘調査をおこなっているわけではないので、本当に磐座祭祀がおこなわれていたかは分かりません。しかし、山中のある場所に石垣が築かれており、明らかに小さな社が建っていた場所を見つけました。

 また、麓には広い平坦面が展開しています。かつて要光寺があったとされています。佐々牟志神社の南に隣接するように平坦面が展開するので、三床山の山自体あるいは神社に付属する寺院(神宮寺)とも考えられます。神宮寺については別の機会にお話しします。

第125回(2015.08) 堀 大介

八坂神社の獅子渡御(ししとぎょ)神事

 先月の7月5日に行われた、天王の八坂神社の「獅子渡御神事」に参加してきたので、今回はそのことについてご紹介します。

 獅子渡御は七日祇園と言い、祇園祭の7日前の7月7日に行われます。現在はその近くの日曜日に合わせて行われているとのことです。

 氏子全区を猿田彦大神の面が先頭となり、獅子頭が続きます。「オーシヤ、ハーナヤ」の子どもたちのかけ声と、太鼓の囃し方とともに渡御するものです。室町時代から連綿と続いてきた霊験あらたかな神事といえます。

 なぜ、こうした行事が行われるようになったのでしょうか。

 昔から七郷用水で潤す集落が八坂神社の社領でもあり、これを巡察して神による用水の公平分配を期したのだという説がありました。

 しかし現在は、6月ごろが稲の生育期と疫病流行の季節なので、氏子内の水田と集落を巡幸して、害虫防除祈願、区民の厄病封じ、悪霊退散を祈願する神事であったと考えられています。

 ある時期までは「お獅子様道」と称して、沖田の中や旧道を通ることもありました。また、白い紙でできた獅子頭の頭髪を病弱の人が奪い取り、飲み込むなどの風習があったと言います。今でも頭髪の白い紙を取る人は、いらっしゃるそうです。

 これは病気や虫の被害などの災いから守っていただこうという、人々の願いがあったからなのでしょう。

 さて、虫といえば、三床山北側に佐々牟志神社という、「むし」のつく神社が鎮座しています。

 その由来は諸説ありますが、佐々は「ささくれ」・「ささ蟹」・「ささやか」などの用語からすれば、小さいの意味で、ササムシとは「小さい虫」とも解釈できます。

 そうなると、佐々牟志神社は、稲虫(うんか)や蛾などの小虫を祀る神社とも考えられます。越前市には、大虫神社がありますので、虫を祀ることで古代の人々は、その被害を逃れようとしたのかもしれません。

 かつて佐々牟志神社本殿は、現在と反対の南向きで建てられていました。本殿の先には何があるのか調べてみると、遠くに八坂神社本殿が鎮座していました。かつての佐々牟志神社は、八坂神社の方を向いていたということは、両社は何か関係があったのかもしれません。

第126回(2015.09) 堀 大介

八坂神社と牛頭(ごず)天王

 八坂神社といえば、京都の祇園祭が全国的に知られていますが、越前町の八坂神社でも毎年7月14日に祇園祭が行われています。今回は、八坂神社の話をします。

 越前町の八坂神社の社伝によると、今から約1700年前、神功皇后が三韓を征して戻られたとき、蛇谷山に祇園牛頭天王(素戔嗚尊(すさのをのみこと))を祀ったことが始まりです。

 牛頭天王とは、中国の道教の強い影響を受けて成立した陰陽道(おんみょうどう)の主神ともいえる神です。鎌倉時代初期までに成立した『色葉字類抄』によると、別名を武塔(むとう)神と言い、東王父と西王母の間に生まれた王子であり、沙羅(さら)龍王の娘の薩迦陀(さつかだ)を妻としたと言います。

 また、『釈日本紀』(鎌倉時代中期に成立)引用の『備後国風土記』逸文によれば、以下のように出てきます。

 北海の神の武塔天神は、南の海神の女(つまり龍王の娘)に求婚に出かけ、その旅の途中、ある兄弟の家に宿を求めました。ところが、裕福な弟は宿を貸そうとせず、貧乏な兄の蘇民将来(そみんしょうらい)が歓待しました。そこで、帰り道に兄弟の家に寄った武塔神は、宿を拒んだ弟の家を疫病で全滅させたと言います。

 このとき、武塔神は兄の蘇民将来に対して、「弟の家には、誰かおまえの子孫がいるか」とたずねました。すると蘇民将来は、「娘が弟の妻になっている」と答えます。そのため武塔神は「娘の腰に、茅(ち)の輪を付けさせろ。それ以外は、弟の一族を根絶やしにする」と宣言します。

 そして武塔神は、自分の根拠地が速須佐能雄(はやすさのお)神だと名乗り、蘇民将来に対して、「おまえの子孫は蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができる」と告げました。速須佐能雄神とは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)のことです。

 これが蘇民将来の話です。全国の多くの神社では、夏越(なごし)の祓いのとき「茅(ち)の輪くぐり」が行われますが、その由来ともなっています。

 これまでの研究では、『備前国風土記』逸文が、他の風土記よりその成立が下ることから、牛頭天王と素戔嗚尊が同じ存在(同体)だと認識されたのは、鎌倉時代以降と考えられてきました。しかし近年、京都府の長岡京跡から「蘇民将来之子孫者」という木札が出土しました。どうも9世紀初頭に、牛頭天王信仰が近畿で流行していたようです。

 こうした出土遺物などから、古い段階から牛頭天王と素戔嗚尊が同体(同じ神のこと)とされた可能性が高いです。これも、牛頭天王と素戔嗚尊が合体する、神仏習合の一形態といえます。

第127回(2015.10) 堀 大介

かつて八坂神社は神宮と呼ばれていた

 『朝日町誌』資料編2に収録された、越前町の八坂神社文書の「応神天王御宝前御造営記」を見ると、「蛇谷山応神宮(じゃだにやまおうじんぐう)」とあって由緒などが綴られています。これは、慶長19年(1614)に成立したとされるもので、明治31年に欠損を補記しています。

 ここで注目するのは、蛇谷山・宝来山・愛宕山の応神宮三社で、応神という天皇の名のつく宮が記されています。つまり八坂神社は、かつて応神宮と呼称されていたことが分かります。

 また、文化12年(1815)に書かれた『越前国名蹟考』には、「牛頭天王社」「応神宮牛頭天王ト認」などとあります。つまり、八坂神社は応神天皇と関係し、その天皇霊を祀っていた可能性が指摘できます。応神天皇霊といえば、大分県宇佐市の宇佐宮に祀られた八幡神が知られています。全国の八幡宮の総社です。

 八坂神社に応神を祀っているとすれば、八幡とすればいいのに、全国の神社を調べても、天皇の名前をそのまま宮の名としている神社は、ほとんどないようです。そうなると、わざわざ応神宮としたのには、なにか特別な意味があったのでしょうか。

 しかも、応神と付くのは神社だけではありません。応神寺という寺院まで出てきます。応神寺は応神宮の神宮寺だと分かります。

 応神寺の末寺として、弘蔵坊・金剛院・円蔵坊・宝威房・宝撞院・円禅坊・大勝院の「応神寺七坊」があります。くわえて福蓮寺・実相寺・天仁寺・宝泉寺・宝蔵寺・光顯寺・福萬寺が建立されたことで、14の末寺になったといいます。

 八坂神社所蔵の「八坂神社古図」を見ると、応神宮の周辺に応神寺関係の寺や坊が数多く描かれています。室町時代の境内図とされているので、少なくとも中世に応神寺は存在していました。こうしてみると、応神と付された神社と神宮寺が併存したことを示しています。

 それでは、いつどのような経緯で応神天皇が祀られたのでしょうか。

 ひとつ考えられるのは天王社とあるのが応神天皇の「天皇」を指すというより、むしろ牛頭天王が祀られたことで「天王」とした可能性がある点です。しかし、それでは応神の付く意味が分かりません。

 一方で飛鳥時代末から奈良時代にかけて、全国の主要な神社に天皇霊・皇族霊が祀られたとの研究者の指摘があります。敦賀市の氣比神宮に仲哀天皇が祀られる一連の流れで、八坂神社に応神天皇が祀られ、応神宮と呼称されたとも考えられますが、あまり根拠はありません。

 ただ、応神天皇の五世孫である継体天皇ゆかりの越前国です。全国に祇園会が勧請される以前に、応神天皇霊を祀った応神宮が鎮座していたとしても、なんら不思議ではないでしょう。

第128回(2015.11) 堀 大介

あたまは仏さま、からだは神さま、八坂神社の十一面女神坐像

 越前町天王の八坂神社宝物館には、木造 阿弥陀如来坐像・木造 釈迦如来坐像・木造 菩薩形坐像など国の重要文化財をはじめ、多くの仏像がおさめられています。今回はそのひとつ、県指定文化財の木造 十一面女神坐像について取り上げます。

 こちらは神仏習合を示す像として、出版社の仏像特集の図書や雑誌、神仏習合に関する企画展覧会のさいには、全国から貸出依頼の多い像でもあります。

 理由は、その不思議な像容にあります。神をかたちどった神像は数多くありますが、頭部は十一面観音菩薩、体部は神像という神仏習合の姿に彫り出された点で珍しいのです。本像は檜(ひのき)材の一木造で、高さは62.8㎝、膝張43.2㎝をはかるものです。

 詳しく見ると、頭体の軀幹部は一木より彫り出し、膝材は横一材を、頭上の仏菩薩面は別材で彫り出し、それぞれ矧(はぎ)付けています。薄鑿(うすのみ)を用いて感情的な刀法を避け、かたちを美しく整えながら静かで平明な彫出がなされています。十一面観音菩薩の図像にしたがった頭部に、体部は右袵(うじん)の衣をまとっています。

 臂(ひじ)には、古代の神像によくみられる袖くくりと、襞(ひだ)をとった鰭(ひれ)を肩にかける女神の姿に彫出されています。飾りのある背子(からぎぬ)という衣、大袖や鰭袖(はたそで)の衣、天衣などの衣は仏教の天部像の表現を取り入れています。つまり、像の全体に神仏習合の様相が見て取れるのです。

 本像は平安時代後期の特色をもつと言いますが、面貌をはじめ着衣の表出は鎌倉時代の先駆的な彫出とみられ、写実性の追求もなされているので、鎌倉時代の制作と考えられています。

 これまで本像自体は注目されていましたが、像のもつ歴史的な背景については究明できていません。聞けば、もとは御塔神社のご神体であったと言います。その来歴については不明な点が多く、女性を表現した像容から白山神とも考えられています。

 白山神といえば、日本神話の国生み神話などに登場するイザナミの女神です。『泰澄和尚伝記』によると、泰澄を白山に導いた貴女は、イザナミであったと記されています。それから泰澄は白山山頂の翠ヶ池にやって来ます。

 そこでイザナミは泰澄の目の前で、九頭竜王から十一面観音菩薩に変化します。つまり、神が実は仏だったという内容になっています。これが泰澄が神仏習合の祖たるゆえんです。

 こうした視点で、十一面女神坐像を考えると、頭部が十一面観音、それ以外が女神を表出しているその像容は、まさに泰澄による十一面観音の感得シーンを一体化したものといえるでしょう。

第129回(2015.12) 堀 大介

もともと雨夜神社は、どこに鎮座したのか

 前回、八坂神社の木造十一面女神坐像について取り上げました。現在、八坂神社には泰澄の痕跡は認められませんが、泰澄がイザナミの女神に誘われて、白山の山頂で十一面観音菩薩を感得した、そのことが像に反映された可能性を指摘しました。

 十一面観音が現れる前に登場するのが九頭竜王ですが、竜王なので、やはり水神としての性格がうかがえます。9つある頭部は、そのあと変化する十一面観音菩薩の面数を意識してのことか、白山を発した幾重にもわかれる川の、放射状の広がりというイメージが近いでしょうか。九頭竜信仰は全国に点在するが、九頭竜神が釈迦誕生との関係から発すれば、仏教的な意味合いともとらえられます。

 水神との関係で浮上するのが、『延喜式』神名帳(10世紀前葉)に収録された丹生郡の雨夜(あまよ)神社です。この鎮座地については諸説ありますが、八坂神社本殿西に鎮座する雨夜神社もその候補のひとつです。文献に収録されたころの認識ではありますが、祇園社(八坂神社)は出てきません。これだけ広大な平野をもち、弥生時代以来、連綿と墳丘墓をつくり、前方後円墳を継続して造営する地でありますので、式内社がひとつもない地域とは考えにくいです。

 実際、越前町天王の山辺には「北雨夜田」「南雨夜田」「下雨夜田」の字(あざ)が残っています。つまり、雨夜神社はもともと地主神として鎮座し、そこへ平安時代のある時期に牛頭天王が勧請された可能性が考えられます。

 その歴史を調べると、雨夜神社は何回か移動しているようで、八坂神社本殿西に移動する以前は、南西610mほどの尾根先端、天王川を見下ろす絶景の地に鎮座していました。そこには小規模な平坦面があり、その中央に雨夜神社跡の碑が建てられていました。現在は道路建設にともない、その跡地は消滅しています。

 そこが本来の鎮座地だったのでしょうか。八坂神社付近の分布調査をしていたとき、「雨夜」の字付近の山べたにいくつかの平坦面を発見し、平安時代の須恵器など遺物を採集できたので、このあたりが比定地だったとも考えられます。

 何より、そこから見える白山が見事です。木造 十一面女神坐像が末社のご神体だったことは前回紹介しました。八坂神社の諸仏像群は隠されていた歴史がありますので、もしかすると雨夜神社に祀られていた十一面女神坐像も、神仏ふたつを思わせる不思議な像容から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のとき末社のなかに隠されたことも考えられます。

 いずれにせよ今後、さらに雨夜神のことを探っていくと、水神と十一面観音信仰、泰澄と白山との関係が見えてくるかもしれません。

第130回(2016.01) 村上雅紀

幸若舞 最古の記事

 幸若舞(こうわかまい)は、中世芸能である曲舞(くせまい)の一種で、16世紀に日本全国で隆盛を誇りました。戦国時代には、数多くの大名から愛顧され、江戸時代には幕府の式楽(しきがく)となるなど、中世後期の日本文化や日本人の精神に大きな影響を与えたといわれています。

 これまで、数回にわたり、幸若舞の始祖・桃井直詮(もものいなおあき)や、織田信長・徳川家康・朝倉孝景・豊臣秀吉・毛利元就などの戦国大名と幸若舞に関するエピソードを紹介してきました。今回は、文献資料にみえる幸若舞について、みていきましょう。

 実は、幸若舞に関する最古の資料は、越前町内に伝わっています。嘉慶元年(1387)6月7日の「天王社御幸供奉日記写」には、

 「十六日之白昼より舞三番、是は幸若役」

とみえます。この文書は、天王社(八坂神社)の6月の祭礼において供奉(ぐぶ)すべき郷民の役割を定めたもので、獅子と八乙女・田楽につづいて、幸若舞が演じられことが記されています。

 日本の芸能は、もともと村々における神祭りの場で発達してきたといわれています。縄文・弥生時代には、超自然的存在との交流をはかるシャーマニズムの形をとり、古墳時代の歌舞から神楽(かぐら)が誕生したとされます。そして、平安時代には猿楽や田楽の名が文献にみえます。

 幸若舞の母胎となる曲舞は、平安時代の白拍子(しらびょうし)の系譜をひき、鎌倉時代に成立しました。室町時代になって隆盛した幸若舞も、「天王社御幸供奉日記写」をみるかぎり、当初は祭礼で奉納される芸能であったことがわかります。

 この「天王社御幸供奉日記写」の記事は、非常に重要なことを伝えてくれます。それは、幸若舞を創始したとされる桃井直詮の生誕年よりも、古い時期の文書だということです。つまり、桃井直詮が産まれた頃には、すでに幸若舞が現在の越前町内で舞われていました。おそらく、桃井直詮は地元の芸能である舞と、比叡山で学んだ仏教声楽である声明(しょうみょう)などを融合することにより、幸若舞を芸術にまで昇華したのではないでしょうか。

第131回(2016.02) 小辻陽子

昔話は日本中をめぐる?

 少し前になりますが、「まんが日本昔ぱなし」という番組が放送されていたのを覚えていらっしゃるでしょうか。題名のとおり全国の昔話が、毎回2話ずつアニメになって放送されていました。よく見ていると話が始まる際、題名の他に「○○県の昔話」|という注記が入っていました。しかし今思い返してみると、福井県内、越前町内に伝わっている昔話に似ている話があることに気づかされます。これはなぜでしょうか。

 これには昔話がどういう風に生まれて伝わってきたか、という点に深い関係があります。昔話は我々の日常生活の中で生まれ、我々が口伝えで伝承してきた説話の一つです。昔話は「家族の中の大人(もしくは年長の若者)が、夜、子ども達に語る」という形をとることが多いのですが、かつてはこの他に、もう一つの形がありました。常にそばにいる語り手以外の人々、行商人や芸人など、全国を移動して商売を行っている人々によって語られる昔話です。これらの人々は代々伝わっている話や立ち寄った場所で聞いた話を、一夜の宿を提供してくれた家でお礼として披露したり、芸の題材として語ったりしました。

 各地区の町史にのっている昔話では、次の話が全国的に伝播している話です。きつねのお産に医者が呼ばれる織田地区の昔話「上戸のきつね」。人間が人間以外のもの(猿や蛇など)と婚姻を結ぶ「異類婚姻譚(いるいこんいんたん)」に分類される宮崎地区の「三番娘の知恵」、織田地区の「大蛇と娘」。家を出された継子(ままこ)が苦難の末に幸せを掴む越前地区の「おぎんこぎん」。

 これらの中で「上戸のきつね」は時代の変化をみることができる昔話です。まずこの話は2つの話で構成されています。物語全体の導入部分として狐が人を騙す存在であるということを示す魚屋が騙される話、そのあとに医者がある屋敷のお産に呼ばれる話が本編として始まるという構成になっています。

 現在、出産の際に医者にかかることは当たり前ですが、かつては出産経験豊富な老婆がお産に呼ばれていました。その後それが職業化し、産婆と呼ばれる女性が登場したといわれています。この話は狐の話という形を借りて、当時のお産の状況の変化が書かれているのです。狐のお産話は、北は北海道、南は鹿児島まで各地に伝わっており、話によってお産に呼ばれるのは産婆であったり老婆であったり医師であったりします。その土地、時代にどんな人がお産に関わってきたのか知ることができます。

 伝わっている中で一番古い話は、江戸時代に安芸浅野藩(広島県)の儒学者、平賀白山によって書かれた随筆『蕉斎筆記(しょうさいひっき)』におさめられています。この話では医者がお産で呼ばれますが、お産は失敗して母狐は死亡、医者は野原に取り残されます。しかしお産の礼金は、狐がよその家からだまし取ったものですが本物で、その後医者はますます繁盛するという結末で終わります。

第132回(2016.03) 小辻陽子

昔話は世界中をめぐる!

 さて前回は日本国内を移動する人々によって、昔話もまた伝わっていくという話をしましたが、もちろん、海の向こうの国からやってきたといわれる昔話があります。織田地区の「子育て幽霊」と越前地区の「サルとタコの話」は仏教の伝来とともに伝わったともいわれている昔話です。「子育て幽霊」は『仏説旃陀越国王経(ぶっせつせんだこくおうきょう)』に登場する「墓場でうまれた子」という話がもとになったといわれています。

 日本に伝わる話では、毎晩若い女が飴を買いにやってくるところから始まります。夜にしか買いに来ない若い女を不思議に思った飴屋は、女の後をこっそりつけていきます。すると女の姿は墓場でふっと消え、赤ん坊の泣き声がかすかにきこえます。これまた不思議に思った飴屋が泣き声をたどると、真新しい墓の中からきこえてきます。あわてて飴屋が墓を掘り返すと、死んだ母親に抱かれている赤ん坊を発見して昔話は終わります。地域によっては飴を買いに来る女は毎晩代金として一文銭をおいていき、7日目に「もうお金がないのでこれで飴を売ってほしい」と着物の片袖をおいて行ったりします。女が支払った一文銭は、死者を埋葬する際に持たせる三途の川の渡し賃、六文銭だったことがわかります。

 『仏説旃陀越国王経』では、旃陀越国の王の夫人の一人が妊娠しますが、他の夫人の嫉妬でうその告げ口をされ、夫である王に殺されてしまいます。その墓の中で、死んだ夫人から生まれた子どもが動物に育てられ、やがて蝉降と出会って出家し立派な僧侶になったというところまで語られています。

 「サルとタコの話」は竜宮に住む乙姫の病気を治すため、タコがサルの生き胆を手に入れようとする話ですが、古代インド説話集『パンタチャントラ』ではイルカが妻の頼みでサルの心臓をほしがり、『ジャートラ』ではワニの妻がサルの心臓を食べたいといい、どちらも手に入れようとして失敗する話です。

 日本では平安時代末期に成立した説話集『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』、鎌倉時代に成立した仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』、江戸時代に曲亭馬琴(きょくていばきん)が日本の古い伝承や風俗について書いた随筆集『燕石雑志(えんせきざっし)』などにこの話が登場します。どの話も亀、クラゲ、タコなど海に住んでいる生き物が、様々な理由でサルの生き胆を手に入れるために海に誘い出そうとし、知恵比べでまけて失敗します。

 越前地区に残る話はそこで終わっていますが、これらの書物に登場する話では続きがあります。失敗の罰として、亀は甲羅にひびが入り、それまで骨のあったクラゲとタコは骨なしになります。現在私達がよく知っている姿が、実は罰を与えられた結果の姿であるという興味深い締めくくりで話は終わっています。

第133回(2016.04) 村上雅紀

室町時代の幸若舞

 幸若舞に関する初出記事は、嘉慶元年(1387)6月7日の「天王社御幸供奉日記写」で、そこには天王社(八坂神社)の6月の祭礼において幸若舞が演じられたことが記されています。幸若舞も、当初は祭礼で奉納される芸能でした。

 15世紀に入ると、幸若舞に関する記事が続出します。京都の貴族・西園寺家歴代の日記『管見記(かんけんき)』には、嘉吉2年(1442)5月24日条に、

  「幸若大夫先日の礼として来る」

とあります。5月8日条をみると、当主の西園寺公名(1410~68)が幸若舞を見て「音曲舞姿尤も感激あり」と感想を記しており、西園寺家で幸若舞が上演され、後日に幸若大夫がそのお礼に来たことが分かります。『管見記』では幸若舞を「二人舞」と表記し、まだ「幸若舞」という呼び名は通用していません。

 また、幸若舞に関する記事が『康富記(やすとみき)』宝徳2年(1450)2月18日条にもみえます。『康富記』は、室町時代の外記(げき)であった中原康富の日記です。「外記」は律令制における官職のひとつで、少納言の下にあって詔勅((しょうちょく)天皇の発する公式文書)・上奏文((じょうそうぶん)天皇に意見・事情などを申し上げること)の起草や朝議((ちょうぎ)朝廷の行う儀式)の記録などをつかさどり、除目((じもく)官を任ずる儀式)や叙位((じょい)位階を授けること)などの儀式を執行する機関です。そこには、

  「越前田中香若大夫室町殿へ参り、久世舞を舞う」

とあり、香若(幸若)大夫が越前国丹生郡田中の出身であること、室町邸で久世舞(曲舞)を演じて好評を得ていたさまがうかがえます。この記事では、幸若大夫の舞を「曲舞」と表しており、やはり「幸若舞」という表記はみられません。

 今回、取り上げた記事をみると、15世紀になると幸若舞が京都で盛んに上演され、貴族などから愛好されていたことが分かります。

第134回(2016.05) 小辻陽子

私達の家はどんな家? その1

 私達が普段、新聞や雑誌で目にする「民家」とは、いわゆる一般の人々の住居のことをさします。しかし建築学・民俗学では、「民家」とは伝統的な様式で造られた農家や漁家、町家のことをさします。「民家」には建築された時代の生活状況や、地域の気候などの特色が反映されています。その上、その家の住人の生業などと深く結びついた要素が見られ、その地域で暮らす人々の生活を知る上で、重要な要素の一つです。

 民家は目的に合わせて大きくわけると、農家(または漁家)と町屋の2つに分かれます。

 農家(または漁家)は、建っている各地域に適応したさまざまな形態をしていて、地方色があります。この2つの共通点としては、屋内に作業空間を兼ねた土間(土を叩いて固めた床)、囲炉裏を中心とした居住空間があります。町家は、道路に面して間口が狭く奥行きが長い細長い長方形の敷地に建っています。町内でも見られますが、福井県の民家ではウダツを備えているものも見られます。

 ウダツとは、現在は日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾のことをいいます。元々はウダチといわれていたものが、なまってウダツになったという説もあります。ウダツは切妻屋根の隣家との間についた小さい防火壁のことで、1階屋根と2階屋根の間に張り出すように設けられているものが多く見られます。ウダツの本来の役目は、町屋が隣りあって連続して建てられている場所で、火事の際に隣へ燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものでした。それが江戸時代中頃から、装飾的な役目へ移り変わっていったと言われています。

 このウダツを家に設置することを「ウダツをあげる」といいますが、かなりの出費が必要なため、設置できる家は裕福な家に限られていました。そのため、「生活がよくならない」などの状態を表す慣用句「うだつがあがらない」の語源になっているとも言われています。

 昭和40年代に福井県教育委員会が実施した調査では、福井県の民家はその建築特徴と間取りから大きく分けて2つに分けられると言われています。木ノ芽峠を境目に、嶺南地方に見られる若狭型民家と、嶺北地方の越前型民家です。

第135回(2016.06) 小辻陽子

私達の家はどんな家? その2

 福井県の民家は木ノ芽峠を境に、嶺南地方の若狭型民家と嶺北地方の越前型民家に分かれるところまでが前回のお話でした。今回は嶺南地方の民家がどのような造りになっていたのか。農家型民家を中心にお話しします。

 嶺南に分布する若狭型民家は、玄関口の設置位置と部屋の間取りから、さらにⅠ~Ⅲ型に分類されます。

 屋根から建物の方向をみる場合、一番高いところを「棟(むね)」、棟に対して平行方向を「平(ひら)」、棟に対して直角に接する方向を「妻(つま)」と呼びます。Ⅰ型は棟に面して平行の部分に玄関が設置されるため、「平入り」と呼ばれる造りをしています。建物の中は、入り口から入ってすぐに土間、その奥に住居部分と大きく2つにわかれます。前面の土間の部分は三つ分けられ、中央に玄関、左右に農作業などに使用する馬を飼うための場所である「ウマヤ」や炊事場である「ダイドコロ」をとります。その奥の住居部分は「ザシキ」と呼ばれます。主に敦賀市から小浜市東部にかけてみられた民家です。

 Ⅱ型は玄関が棟に対して対面の部分、妻にありますので「妻入り」と呼ばれる造りになります。建物の中は、まず棟にそって左右2つに大きくにわけられます。片方は、入り口から入るとまず玄関にあたる「ドマ」と呼ばれる部分、そしてダイドコロ、寝室である「ネマ」へと進み、もう片方は前面からウマヤ、ザシキとなります。

 Ⅲ型は玄関口が妻入り、平入りどちらも見られます。玄関とダイドコロが一緒になったドマの奥に、座敷と寝室が一部屋ずつ見られます。このような間取りをとる民家は、建物の規模としては小さいものが多いです。Ⅱ型とⅢ型は小浜市西部から若狭にかけて見られた民家です。

第136回(2016.07) 小辻陽子

私達の家はどんな家? その3

 前回は嶺南地方の若狭型民家について話しましたので、今回は嶺北地方の越前型民家のお話です。

 私達が住んでいる嶺北の越前型民家は、建築様式と間取りからⅠ~Ⅳ型に分かれます。ただしⅠ型は部屋の増築方法で、棟に沿って奥に部屋を増やすⅠ型と、大規模なツノヤをつくるⅠ’型にさらにわかれます。越前Ⅰ・Ⅰ’型に分類される民家は、越前市・越前町・南条町などでみられます。「ニワ」「ドマ」と呼ばれる土間から家屋内に入り、囲炉裏が設置された居住空間である「オイエ」の向こう側に座敷を2~4部屋持ちます。この座敷は「ナカノマ」、「ネマ」、「ブツマ」などと呼ばれ、家の規模によって数が異なります。

 Ⅱ型は土間であるニワに玄関を持ち、囲炉裏が設置された「オウエ」があるところまではⅠ型と同じですが、この2つを区別せずニワ・オイエ・ドマなどと呼ぶところが多くみられます。オイエの奥の間取りは家の規模によって違いますが、やはり2~4部屋の座敷を持ちます。Ⅱ型は大野盆地、福井平野など広範囲にわたって見られ、越前町でも見ることができます。

 Ⅲ型は全面にニワと呼ばれる土間、その向こうに広いオイエを持ちます。奥には座敷がありますが、家の規模によってやはり座敷の数は増減します。Ⅳ型は奥越、岐阜県との境でよく見られる民家です。玄関はやはり土間に設置され、そこにつながるウマヤを持ちます。土間の一角にはダイドコロを持つニワと呼ばれる居住空間をもちます。座敷はたいてい2部屋あり、片方は穀物倉庫を連想する「イナグラ(稲蔵)」という名前で呼ばれることが多いです。

 部屋の間取りの呼称を見直しますと、座敷には「オキュウソク」「ジョウダン」「ブツマ」「シキダイノマ」など僧侶や仏事を連想させる呼称で呼ばれる部屋が多く見られます。座敷数が少ない家であっても、必ず1部屋は仏壇をおく部屋に割り当てていたり、仏事を連想させる呼称が付いていたりしています。ここから日常生活への仏教の浸透を読み取ることができ、またこれが福井県の民家の大きな特徴でもあります。

第137回(2016.08) 村上雅紀

石塔の起源と変遷

 当町では、国指定重要文化財「石造九重塔」(大谷寺)をはじめ、町指定文化財「宝篋印塔」(高橋)・「石造 多宝塔」(小倉)・「蝉丸の墓」(野)・「旧龍生寺幸若関係墓所」(佐々生)・「栃川尼公墓所」(栃川)など、多くの石塔が指定文化財となっています。これら石塔は塔の一種で、日本では墓石や供養塔として造立されてきました。

 そもそも、「塔」とはどのようなものでしょうか? 塔の起源をたどると、インドの「ストゥーパ」にたどり着きます。『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』という経典には、「ブッダの死後、舎利の分配をめぐって人々の間が険悪な空気に包まれる。ドーナの仲介により、舎利は八等分され各国へ持ち帰られて、建立した塔に納められた。」とあり、塔はブッダの遺骨(仏舎利(ぶっしゃり))を納め祀るための施設であったことがわかります。現在でも、インドにはサーンチー仏塔など紀元前に建立されたストゥーパが残されています。

 インドで生まれた塔は、仏教とともに中央アジアを経て、中国へ伝えられます。もともと、中国では木造楼閣(ろうかく)建築が発達していました。この技術と、インドのストゥーパ建築技術が融合し、仏像を安置するための仏殿と、仏舎利を安置するための塔が一体化した建物が造られるようになります。しかし、後の時代になり、仏舎利に対する信仰が高まるにつれ、仏殿を分離した中国独自の塔の類型が出現します。中国に残る最古の塔は、北魏(ほくぎ)の時代、520年頃に建立された嵩嶽寺塔で、15層からなる見事なものです。

 飛鳥時代、日本へ仏教が伝来します。当時の寺院の伽藍配置をみると、中心に塔を建立することが一般的でした。これは、信仰の対象が日本でも仏舎利にあったことを示します。初期の塔は、地下の心礎(しんそ)中に舎利を安置し、その上を楼閣風の建物で覆ったもので、中国風の塔といえます。しかし、時代が下るにつれ、塔は寺院伽藍の脇へ配置され、地下に舎利を奉安する施設も造られなくなります。仏舎利の重要性が低減し、本尊(仏像)を重視するようになったのです。

 そして、奈良時代にいたり、塔の役割が変化してきます。次回は、奈良時代以降の事例をもとに、石塔の出現と展開について見ていきましょう。

第138回(2016.09) 村上雅紀

木造塔から石塔へ

 前回に続いて、日本へ伝わった塔がどのように変遷し、墓標となったのかをみていきましょう。もともと、ブッダの遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を納めるための施設であった塔の役割は、時代を経て変わっていきます。すでに奈良時代には、行基(668~749)の伝記を記した「大僧正舎利瓶記(だいそうじょうしゃりびんき)」の名が示すとおり、高僧の遺骨を舎利と同等に扱い、塔へ遺骨を埋納するようになりました。信仰の対象が、ブッダだけでなく、徳の高い僧侶にも拡大されたのです。

 7世紀以降、日本では主に木造塔を寺院伽藍として建立していましたが、石造塔も造られていました。滋賀県東近江市にある石塔寺三重塔は、現存最古の石塔とされます。しかし、古代の石塔はきわめて少なく、西日本に分布するにすぎません。

 平安時代末期になると、貴族を中心に信仰されていた浄土思想が武家にも浸透します。それを受けて、多宝塔・宝塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)・無縫塔(むほうとう)・板碑(いたび)など、各地でさまざまな形態の石塔が造立されるようになります。特に、五輪塔(ごりんとう)は密教系の舎利容器として盛んに造られました。この頃の石塔は高僧の墓所であるという伝承が多く、「塔=墓」の意識が定着していたことが分かります。

 鎌倉時代初期に製作された「餓鬼草子(がきぞうし)」は、当時の墓地の様子を示す格好の資料です。これをみると、貴族など身分の高いものは盛土塚に埋葬され、塚の上部に木製卒塔婆(そとば)が立っています。石製五輪塔も描写され、墓標が木製から石製へと移り変わっていく様子がうかがえます。これ以後、石塔が墓標の主流となります。

 越前町内に残る石塔の多くは、墓標として利用されています。しかし、元亨3年(1323)に造立された国指定重要文化財「石造九重塔」(大谷寺)は、泰澄大師の廟所として信仰されています。また、弘治3年(1557)の「石造多宝塔」(小倉)は、順慶の3回忌に供養塔として建てられたものです。このように、町内でもとくに古い石塔は、供養塔や記念碑として造られたのです。

第139回(2016.11) 堀 大介

史料にみる泰澄(たいちょう)の名と出身

 来年2017年は、泰澄が養老(ようろう)元年(717)に白山を開いて1300年という記念の年にあたります。今年から来年にかけて泰澄について考えてみます。

 泰澄は白山を開く前に越知山で修行し、晩年に亡くなったとされていますが、これらの事績を記したものが『泰澄和尚伝記』(以下、『伝記』とする)という書物です。一般的な泰澄のイメージはこの伝記によるところが大きいですが、それ以外の史料でも出てきます。今回は、名前や出身などに絞って見てみます。

 伝記で泰澄といえば越前国の出身ですが、平安時代中期、11世紀後半頃に成立した比叡山横川(ひえいざんよかわ)の鎮源撰(ちんげんせん)の『法華験記(ほっけげんき)』では越後国古志(こし)郡の人とあり、沙弥神融(しゃみじんゆう)といの名で出てきて、俗に古志の小大徳(こだいとく)とあります。沙弥とは年少の男性出家修行者で、小僧のことです。沙弥が具足戒を受け、比丘となって初めて、僧伽の一員として認められます。

 この内容は12世紀の『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』にも収録されています。

 一方、少し時代のくだった12世紀初頭頃、大江匡房(おおえまさふさ)の『本朝神仙伝』には賀州の人だとあります。賀州とは加賀国のことです。ここでは、はっきりと泰澄とあり、世に越の小大徳と記されています。

 また、同じような時期に書かれた『本朝続文粋(ほんちょうぞくもんずい)』「白山上人縁起」には、養老年中、一聖僧あり、これが泰澄大師だと記されています。養老年中とは奈良時代の年号で、西暦717~724年にあたります。伝記によると、泰澄が白山を開いたのが717年なので、12世紀には泰澄が奈良時代前半の人物として認識されていたことがうかがえます。

 さらに12世紀中ごろに成立としたとされる『白山之記(しらやまのき)』という書物にも泰澄大師と記されているので、この頃から大師という尊称が語られていたようです。

 鎌倉時代になり、13世紀前半に成立した説話『続古事談(ぞくこじだん)』には、越の小大徳、泰澄法師とあり、また金鎮法師という別名も記されています。ここでも越後の古志郡の人とあり、先の『法華験記』と以後の史料とが混じったような形となっています。

 こうして平安時代から鎌倉時代にかけての史料を見てみると、泰澄といえば越前国麻生津生まれ、越知山を行場としたと伝記にはありますが、神融や金鎮という別名があり、その出身も越後や加賀などと語られていたことが分かります。これが泰澄複数説の根拠ともなっています。

第140回(2016.12) 村上雅紀

泰澄の伝記1 『元亨釈書』

 泰澄に関する伝記として、鎌倉時代末期に成立した『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)巻15の「越知山泰澄」が広く知られています。『元亨釈書』は、臨済宗の僧・虎関師錬(こかんしれん)(1278~1346)が著した日本初の仏教通史で、全30巻から構成されます。徳治3年(1308)、師錬が鎌倉の建長寺を訪れた際、住持(じゅうじ)である一山一寧(いっさんいちねい)(1247~1317)より、日本の名僧の事績について尋ねられました。しかし、師錬は満足に応えることができずに恥をかき、『元亨釈書』の執筆を決意したとされます。

 『元亨釈書』は元亨2年(1322)に朝廷に上程されたことから、書名に「元亨」という年号が冠されています。全国の著名な僧侶の事績が収録されており、泰澄は越知山の僧として登場します。伝記を編纂した過程について、次のように奥書に見えます。

  賛に曰く。予の此の書を修するや、広く諸記を索む。澄師の事を得るもの多し。其の間、恠誕(かいたん)寡(すく)なからず。弊朽(へいきゅう)せる一軸あり。後に題して云く、天徳二年、浄蔵の門人神興、口授を受けて伝を作ると。蔵公の霊応博究なり。思うに、神興の聞く所、妄ならじ。今の撰纂はこれを興の伝に采れり

 泰澄伝を執筆するにあたり、虎関師錬は各地に伝わっていた数々の資料を収集しました。誤った内容のものも多く、どれが真実を伝えるものか苦慮した師錬の姿を想像できます。その中に「弊朽せる一軸」がありました。かなり、傷んだ巻物だったのでしょう。天徳2年(958)、天台宗の高僧・浄蔵(891~964)が口授した内容を、門人である神興が記したものとされています。これをもとに、師錬は泰澄の伝記を書き上げました。

 『元亨釈書』の「越知山泰澄」には、泰澄の誕生、幼少期、越知山での修行、臥行者・浄定行者との出会い、元正天皇の治療、天然痘の治癒、白山での妙理大菩薩感得、行基との出会い、晩年と遷化(せんげ)などについての記載が見えます。多くの記事は、金沢文庫本『泰澄和尚伝記』の内容と一致しますが、新潟県国上山(くがみやま)や奈良県葛城山(かつらぎさん)を舞台とした伝承など、独自のものを採録しています。また、白山開山についての詳細を巻18「白山明神」で記していることも、『元亨釈書』の特徴となっています。

 全体を通じて、泰澄伝の記述は客観的で、師錬の考えと伝記の箇所は明確に区別されています。おそらく、現在の文献学者のように、原典資料を正確に引用したと考えられます。そのため、『元亨釈書』の「越知山泰澄」は、泰澄研究における基礎資料のひとつと評価されています。

8 第141回~第144回

第141回(2017.01) 村上雅紀

泰澄の伝記2 金沢文庫本『泰澄和尚伝記』

 戦前まで、泰澄に関する伝記として知られていたのは、前回に紹介した『元亨釈書』でした。1953年、勝山市白山神社の宮司であった平泉澄 氏が、自社に伝わる『泰澄和尚伝記(たいちょうかしょうでんき)』を翻刻・出版すると、この『泰澄和尚伝記』こそが『元亨釈書』奥書にみえる「弊朽(へいきゅう)なる一軸」であると考えられるようになります。『元亨釈書』よりも古い内容をもった泰澄の伝記が、写本として伝わっていると評価されたのです。

 現在のところ、『泰澄和尚伝記』のオリジナルは発見されていません。いくつかの写本が全国にあり、勝山市白山神社所蔵のものは「平泉寺本」と呼ばれています。これら写本の中で、書写年代がもっとも古い資料は、神奈川県横浜市金沢区にある称名寺の所蔵品です。この本は、鎌倉時代中期の北条実時がつくった金沢文庫に伝わった資料で、「金沢文庫本」として知られています。

 金沢文庫本『泰澄和尚伝記』は、正中2年(1325)に称名寺第2世長老の劔阿(けんな)(1261-1338)が書写・校正したものです。奥書には、次のように、泰澄の伝記に関する重要な事項が書かれています。

  然るに、今、天徳元年丁巳、三月二十四日、風土の旧記を勘へ、門跡の首老、浄蔵貴所の面授の言談に依りて、門徒の小僧、神興等、粗ら操行を記し、以て後代の亀鏡に備へをはんぬ。浄蔵貴所は徳行、群を抽き、修験名高し、善相公の八男、玄昭律師の入室なり。又安然写瓶の門人、大恵悉曇の弟子なり。言談皆口実なり。誰か信ぜらんや

 ここには、天徳元年(957)に天台宗の高僧である浄蔵(じょうぞう)の言葉を、大谷寺の僧・神興が記したとあります。つまり、『泰澄和尚伝記』のオリジナルは、10世紀中葉に成立したと書かれているのです。

 この金沢文庫本『泰澄和尚伝記』をめぐり、多くの研究者が独自の考えを発表してきました。それらは、泰澄の実在性にまで及ぶものです。次回は、金沢文庫本『泰澄和尚伝記』にまつわる問題について紹介しましょう。

第142回(2017.02) 村上雅紀

泰澄の伝記3 金沢文庫本『泰澄和尚伝記』をめぐる諸問題

 戦後、勝山市白山神社の宮司・平泉澄氏によって、『泰澄和尚伝記(たいちょうかしょうでんき)』が広く紹介されました。平泉氏は、『泰澄和尚伝記』の現存最古の写本である金沢文庫本について、「金沢文庫は泰澄に何らの利害関係もないため、この写本は潤色されていないものとされる」(平泉1953)と述べています。つまり、平安時代中期に書かれた内容がそのまま現在まで伝わっていると、考えたのです。

 この平泉氏の見解について、後世の研究者たちは厳しく批判しました。その多くは、『泰澄和尚伝記』の記述に後世の潤色が多分に認められるため、「「泰澄和尚伝」の成立を13世紀中葉頃と想定する」(浅香1984)、「作為的意図により、天徳元年(957)3月24日の日付けを記入するに至ったものであろう」(重松1985)など、天徳元年に成立した史料とは考えられないとするものです。

 中には、「『続日本紀』一巻が座右にあれば口授者は泰澄の伝記にこういった細工が容易にできる」(下出1962)、「「泰澄和尚伝」の祖本と主張される、いわゆる「天徳本」の存在は疑わしく、口授者を浄蔵(じょうぞう)とするのも仮託にすぎない」(浅香1984)と、『泰澄和尚伝記』を後世に作られた偽書とする見解も見えます。ついには、泰澄は存在しなかったと主張する研究者もいます。

 たしかに、金沢文庫本『泰澄和尚伝記』の内容を検討すると、明らかに後世に加色された部分が多くあります。その点で、平安時代中期に浄蔵が語った内容がそのまま金沢文庫本に保持されているとは考えにくいのが実状です。しかし、だからと言って、『泰澄和尚伝記』に書かれた内容の全てが事実と異なるものと考えて良いのでしょうか。立命館大学の本郷真紹氏は、「後世の潤色は否定できないものの、奈良時代の段階で伝の基礎となった何らかの事実は存在した」(本郷1993)と指摘しています。わずかながらも、泰澄に関する事実が語られているのではないかと、考えています。では、『泰澄和尚伝記』の内容のうち、どの部分が奈良時代にまでさかのぼるのでしょうか。

 今年の秋、織田文化歴史館では、泰澄や白山信仰をテーマとする企画展覧会を開催する予定です。その展示の中で、『泰澄和尚伝記』をめぐる諸問題について、私たちの見解を示したいと考えています。

引用・参考文献

 浅香年木「『泰澄和尚伝』試考」『古代文化』第36巻第5号 1984年

 重松明久「『泰澄和尚伝記』の成立」『歴史への視点―真宗史・佛教史・地域史―』桂書房 1985年

 下出積與「泰澄和尚伝説考」『日本古代史論集』上巻 坂本太郎博士還暦記念会 1962年

 平泉澄「泰澄和尚伝記考」『泰澄和尚伝記』私家版 1953年

 本郷真紹「第7章 若越の文学と仏教 第3節 泰澄と白山信仰」『福井県史』通史編1 原始・古代 福井県 1993年

第143回(2017.03) 村上雅紀

西尾藩領と天王陣屋

 江戸時代、天王村(現在の越前町天王区)は福井藩領・幸若領・天王社領となっていましたが、貞享3年(1686)福井藩領が幕府領に、明和元年(1764)幕府領と幸若領が三河国西尾藩領になるなど、領主が目まぐるしく変わりました。以降、天王村は西尾藩領と天王社領となります。当地に西尾藩領が成立したのは、出羽国(山形県)の藩主松平乗佑が大坂城代に任命され、領地を西尾藩へ転ぜられたのにともない、知行の不足分として、越前国丹生郡下41ヵ村・坂井郡下18ヵ村・南条郡下13ヵ村を領有することになったためです。現在の越前町のうち、天王・宝泉寺・内郡・上川去・田中・栃川・八田・江波の各村に西尾藩領が置かれました。

 越前国内に西尾藩領の陣屋(役所)を設置するにあたり、各村から様々な要望があり、陳情合戦が行われたと古文書に見えます。明和元年(1764)9月14日、江戸から越前へ戻った天王村の内藤武左衛門は、すぐに大工・畳屋・左官などの職人を雇い入れ、仮陣屋の準備を行いました。その期間、家族や使用人は土蔵や長屋に住んだといいます。そして、9月20日、大代官・目付・手代・地方役・与力・同心など20名が赴任し、仮陣屋での執務が始まります。わずか1週間ほどのことでした。

 明和2年(1765)8月2日、天王村に陣屋が置かれることが決まり、陣屋敷地1,312坪のほとんどを内藤武左衛門が提供しました。陣屋建設は9月4日に着工し、11月20日に竣工するなど、かなり急いだものであったことが分かります。12月5日には仮陣屋から陣屋へ移転し、執務が再開されました。その間の1年4ヵ月は、内藤武左衛門家が仮陣屋として使用されていたのです。武左衛門の尽力なくして、陣屋は完成しなかったといえます。

 明治元年(1868)陣屋建物の老朽化が進み、建替の必要に迫られると、再び各村の間で激しい陳情合戦がおこりました。ついに、明治4年(1871)下野田村(鯖江)に出張所ができ、107年間にわたって続いた陣屋の役目も幕を迎えます。

 現在、陣屋跡地に「陣屋の里」が建ち、陣屋の模型などの資料を展示しています。また敷地内には「西尾・朝日友好の碑」も見え、江戸時代の治世を通じて育まれた交流が現在も続いています。

第144回(2017.04) 小辻陽子

生活の中に歴史は残る

 新年度になりました。新しい生活が始まった方もいらっしゃるでしょう。

私たちの生活の中にも季節の変わり目に、地区単位で行われる大きなものから家族単位で行われる小さなものまで様々な行事があります。

 最近あった行事ですと3月3日、「桃の節句」で知られている上巳(じょうし)です。他に七草粥を食べる習慣のある1月7日の人日(じんじつ)、「こどもの日」である5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)、9月9日の重陽(ちょうよう)とあわせて「五節句」(ごせっく)と呼ばれています。端午や七夕のように、聞いただけでぴんとくる行事もあれば、重陽のように一般的ではなくなってしまったものもあります。

 節句は中国、唐の時代の暦では季節の変わり目にあたり、その暦が日本に伝わってからは、宮中でその日邪気を祓うための儀式が行われていました。それが後に民間に広まり、現在の私たちの生活の中に残っています。

 町内に残っている行事で、暦に従っているものでは、梅浦区の「二百十日(にひゃくとおか)の風祭り」があります。ここでいわれる「二百十日」とは、立春から数えて二百十日目にあたる9月1日は強い風が吹く、転じて台風が来やすいという言い伝えに基づいています。町内では梅浦区だけで確認されましたが、この強い風から農作物を守るため、農家が中心となって風鎮めの祭りを行っていることが全国的にみられます。

 この他、堤区、市場区や下・上山中区などで実施されている「おこもり」とも通称される行事も旧暦が元になっています。この行事にはさらに、出雲大社での神議り(かむはかり)に参加するために全国から神々が集まるという伝説が関わっています。

 また地域に残る伝承が元になっている行事もあります。栃川区の「火進上(ひしんじょう)行事」、別名「たいまつ」と呼ばれる行事は、栃川区に砦を築いていた南朝方の武将の霊を弔う為に、村人が松明を捧げたことが始まりと言われています。

 このように普段何となく参加している行事を調べると、意外な起源や歴史が出てきます。皆様も、生活の中の行事を調べてみませんか?

 えちぜん年代記は今回で終了いたします。長い間、ご愛読ありがとうございました。

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