第1章 日本海文化と越前町
(1)ふくいの地域性・歴史性
日本海文化を考えるうえで、潟湖と潟港の存在は欠かせない。潟湖は日本海沿岸に多く、太平洋沿岸に少ない。日本海沿岸を襲う強烈な季節風と継続的な荒波が良好な潟湖をつくりあげた。また、海から船を守ることもその役割としてあった。潟湖は海から安全に船の入ることのできる地形で、潟港は歴史上、交易・交流の拠点として最適であった。
代表的な潟湖には、十三湖・八郎湖・福島潟・鳥屋野潟・十二町潟・放生津潟・邑知潟・河北潟・加賀三湖・三国潟・敦賀潟・三方五湖などがある。とくに北陸は海上交通の発達したところで、潟湖同士の密なネットワークが古くから形成されていた。その完成形態が北前船の航路といえるが、積雪の多い北陸は陸路より潟から潟へ、つまり港から港をつなぐ移動手段が主体であった。
こうした地理的な環境がコシ世界の東西に長い地域性を形成したのである。
潟湖をつくりあげたのには対馬海流の影響がある。黒潮から分岐した対馬海流は、18,000年前に起こった汎世界的な温暖化現象による一大海進にともない、日本海に9,500年前ごろ一時的に流入したが、本格的な流入は8,000年前になってからだという。
その流れは対馬海峡を通って日本海に入り、本州沿岸をぬって津軽海峡まで北上する。海流としては黒潮本流と比べものにならないほど小さなもので、黒潮のようにはっきりとした流帯でもなく、流量も極めて小さい。しかし、季節風による吹送流は顕著で、対馬海流に乗った漂流物は日本海沿岸に漂着しやすい。
南からの漂着物で知られるのが、熱帯起源のココヤシである。その漂着は江戸時代の書物にも取りあげられるほどで、古い事例には長崎県壱岐市の原の辻遺跡のココヤシ製の笛(弥生時代)がある。いまも状況は同じで、多くの種類の果実や種子が熱帯域から日本列島へ漂着している。越前海岸や美浜の海岸でも漂着の事例を聞いている。
また、対馬海流が巻き込み流れ入る越前海岸や若狭湾周辺では、ときおり大型船が流れ着くことがある。大正時代には南越前町の河野沖に流れ着いた関東号があり、近年ではロシアタンカーのナホトカ号重油流出事故が記憶に新しい。考古遺物では伝・福井県坂井市出土の三翼鏃・三角鏃や、福井市の当山美濃峠古墳出土の中国銭貨などがあげられる。なお、越前町では茂原に流れ着いた仏像があり、越前海岸に群生するニホンズイセンも対馬海流に乗って渡来したものかもしれない。
こうした地理的環境のもと、豪雪地帯という要素が加わり、北陸における独自の文化が形成されたと考えられる。対馬海流を通じて大陸から継続して数多くの遺物(モノ)がもたらされ、その渡来したひとびと(ヒト)がもたらした最新の技術(ワザ)を受容し、豪雪という環境でじっくりと長年のあいだ煮詰めながら発達させてきた歴史を前提に据える必要があるだろう。
(2)海から引き揚がった土器
日本海に面した福井県では、これまで漁撈活動にともない、海中より数多くの土器や陶磁器が発見されることがある。とくに、福井県三国港沖合の玄達瀬では弥生土器や土師器、古代の須恵器などが引き揚げられており、20点以上の資料が確認された。
玄達瀬は越前岬から北西約30kmの沖合に位置し、長さ18km・幅6km、水深約10~30mの浅瀬である。古くから良好な漁場として知られ、潮流の速い海難事故の頻発地点でもあった。越前町の漁師が玄達瀬で引き揚げた弥生土器は、弥生時代中期中葉のもので、日本海最古級の資料となる。
京都府経ヶ岬沖合の浦島礁付近でも、過去に海中より土器や陶磁器が引き揚げられた。浦島礁は福井県南端の内浦湾から沖合約20kmに位置し、海深約100~200mをはかる。水深約100mの地点では、底引き網中に弥生土器・土師器などが数多く混入し、まさにひとつの遺跡といえる。浦島礁より発見された弥生時代中期中葉の土器も、日本海最古級の資料といえる。
現代に比べて、天候の影響を強く受ける古代において航海は危険が大きい。そこで航海にあたり、海神を祀り海中に食物や器物を捧げる行為があった。その行為かどうか分からないが、海揚がりの弥生土器を観察すると、土器の内面や肩部に焦げた有機物の付着や、煮炊きした痕跡が認められる。あばたのようなものはアワであり、土器で煮込んだあと海中に注ぐときに付着した痕跡が残る。こうした痕跡は海神に対する供献行為とも考えられよう。
(3)朝鮮半島との交流
古くから日本では、日本海を通じた中国大陸や朝鮮半島との交流が活発におこなわれた。とくに、古墳時代の渡来文化には5つの波があり、福井県内の渡来系遺物の時期をみると、おおむね4世紀末~5世紀前葉、5世紀後半~6世紀前葉の2波あることが分かる。
第1の波を示す遺物に、越前町の番城谷山5号墳出土の陶質土器大甕がある。肩部に乳頭状突起をもつ4世紀末ごろの珍しいもので、朝鮮半島南部との交流を考えるうえで貴重な資料である。ほかにも福井市中角遺跡や福井市和田防町遺跡では、朝鮮系の技法を有する韓式系土器や、付近に渡来人が居住した可能性をもつ資料なども出土している。
第2の波を示す遺物に、陶質土器がある。とくに日本海に面した丹生山地に多く、越前町の劔神社隣接地からは有蓋高杯の蓋・杯身、福井市の当山美濃峠古墳からは有蓋高杯の杯身や中国銭貨などが確認されている。陶器は朝鮮半島南部地域で焼かれたもので、ほかの遺物についても新羅・百済・加耶などを通じてもたらされたと考えられる。
さて、『日本書紀』垂仁天皇2年条別伝に、崇神天皇の御世に、意富加羅(おほから)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が船に乗って越国笥飯(けひ)の浦(敦賀市)に着いたと記される。彼は額に角の生えた人物で、任那の蘇那曷叱智(そなかしち)と同一人物とされる、いわゆる日本に最初にやって来た渡来人として出てくる。このような朝鮮半島からの渡来譚は記紀に多く見える。
また、地元の伝承としては、百済国王の娘が流れてきて、越前町の米ノ浦に上陸した自在女(じざいめ)の伝承がある。越前市千合谷町の解雷ヶ清水(けらがしょうず)は、自在女が杖で岩を突いたことに由来する。いずれも日本海沿岸地域と朝鮮半島との密な交流を示す資料といえるだろう。
(4)番城谷山古墳群の発掘調査成果
番城谷山古墳群は、越前町の天王・宝泉寺区に所在し、標高155mとかなり高い場所に位置している。越前町の文化財悉皆調査事業で、平成22~26年度の5年間試掘調査を実施し、4・5号墳の様相が明らかとなっている。
5号墳は24か所の調査区を設定した結果、張出部長7.5m・円丘部直径37.5m、墳長45mの造出部付円墳で、5世紀前半に造営されたことが判明した。墳丘裾部では陶質土器の大甕が出土し、朝鮮半島南部の新羅あたりのものと考えられている。
また、大甕の周辺では20点ほどの初期須恵器が出土した。北陸最古級の須恵器で、大阪府の陶邑産のほかに系統不明なものも含まれていた。丹生郡で独自に製作された可能性も考えられる。
墳丘の外面は全面、葺石でおおわれ、墳頂部と墳丘裾部には円筒埴輪が樹立されていた。葺石と埴輪を両方もつ古墳は丹南唯一のもので、その格式の高さから被葬者は越前で影響力を有する政治権力者であったと考えられる。また当初、前方部と考えていた方墳は陪塚的な位置づけと考えられる。
いっぽう、4号墳は2か所の調査区を設定した結果、5号墳のあとに造営された古墳で、同じく埴輪・葺石をもつ古墳である。5号墳の埴輪片が墳丘盛土に含まれていたことから、5世紀前半でも中ごろに近い時期に比定できる。
こうした埴輪・葺石をもつ古墳が、2代にわたり造営されたことは、この朝日地区が丹南地域あるいは越前全体に影響力を及ぼした人物を輩出した地域であったことがわかる。
第2章 梵鐘と剣御子神宮寺
(1)剣御子寺の国宝 梵鐘
奈良時代の梵鐘としては小型で、鐘身の高さに比べて口径が大きい。小型ながら口径に対して身丈の低い堂々とした風趣がある。鋳造は荒く、作技は放胆であり、形姿・作行に奈良時代の特色があらわれる。笠形の圏線や、未発達の駒の爪などは古式の様式をそなえている。
上部は欠損のため、火焔宝珠はない。竜頭は笠形を噛み、簡単ながらも力強い。笠形は中央に向かってしだいに高くなり、2条の鈕を同心円状に廻らして内外2区にわける。湯口は長方形で、笠上の周辺近くの2か所に、竜頭と直交するような形で配する。
上帯・下帯はともに素朴である。上帯の下端と池の間の下方には、鋳張りが認められる。鐘身を機械的に2分割し、その上に笠形部を重ねて全体を3分割する鋳型分割と考えられ、奈良時代・平安時代前~中期に通有のものといえる。
乳の間は4面ある。乳は簡素な形で各区に3段5列に並列している。撞座は手彫りで、蓮華形につくる。片方が10弁、もう片方が11弁である。湯口は笠形圏線の外側にある。竜頭の長軸と直交方向をなす長方形の突起が2か所に残る。
撞座の位置は41.2%である。竜頭との関係は、竜頭の長軸線と2個の撞座を結ぶ直線に交わる位置に据える。駒の爪は単に3条の鈕を廻らすが、口撞縁の1条はやや太くつくられる。
銘文は草の間の第一区に、「剣御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」と3行16文字を陽刻で鋳出される。神護景雲4年は西暦770年である。飛鳥・奈良時代の銘文をもつものは4例と貴重であることから、明治35年4月に国宝に指定された。これは旧・国宝となるが、戦後の昭和31年には再審査がおこなわれ、その年の6月28日にふたたび国宝に指定された。
越前町が誇る福井県丹南地区唯一の国宝である。総高109.9㎝、口径73.9㎝。重さ529㎏。
(2)日本最古級の神宮寺
梵鐘に記された「剣御子寺鐘/神護景雲四/年九月十一日」の銘文から、劔神社境内に剣御子寺という神宮寺が奈良時代後期、西暦770年に存在していたことが分かる。逆に、剣御子寺という寺院名から、劔神社がかつて剣御子神社という社名であったことを教えてくれる。現在の祭神は忍熊(おしくま)皇子であるが、それが剣御子神として飛鳥時代末から奈良時代初期に祀られ、その霊を慰撫する役割として神宮寺が創建された可能性も指摘されている。『続日本紀』や『延喜式神名帳』には「剣神社」、ほかの史料には「剣御子神」・「剣御子」とあるので、正史に収録するさいに「御子」を削除したものとみられる。
劔神社の神宮寺は770年の時点でその存在を確実視できるが、さらに遡る可能性が高い。拝殿前の池のほとりにある礎石は、舎利孔をもつなど古い様相がみられる。また、周辺では奈良時代初期(710年代)に瓦を焼いた窯が操業している。礎石の存在から、その供給先は境内であったと考えられる。かりに境内に寺院が創建され、しかも奈良時代初期まで遡るとなると、剣御子寺は気比神宮寺(敦賀)や若狭比古神願寺(小浜)とならぶ全国最古級の神宮寺となる。ほかにも北陸道域には全国的にみても古い神宮寺が数多くみられる。それは渡来系氏族も多く、大陸文化に開明的であったからとも考えられている。神仏習合の源流が越前・若狭にあることを物語る。
中世になり、剣御子寺は織田寺と名称を変え、天台宗、次いで真言宗寺院となった。劔神社には、この頃に制作された多くの文化財が伝わっている。
(3)初期神宮寺と神仏習合
福井県は神仏習合が進んだ地で、古い神宮寺の創建譚があることで知られる。一般的に神社の境内に建てられた寺院が神宮寺であるので、その存在が神仏習合の証ともいえる。神仏習合とは神も仏も同じものとして、神祇信仰と仏教を調和させようとする考えである。
日本では奈良時代から神と仏は一心同体と考えられ、神仏の融合調和がはかられた。神宮寺の造営は、このような新しい宗教思想を体現したものである。奈良時代ごろから全国に神仏習合思想が波及し、平安時代には種々の神と仏とを結びつける本地垂迹が説かれ、神社にも仏像を安置するようになった。神は、本地である仏が垂迹神(迹を垂れた身)として降臨したものと考えられ、仏が神社をお護りするという意味で、神社境内に神宮寺や本地堂が建立された。
初期神宮寺のうち最古級とされるのが、越前国の気比神宮寺と若狭国の若狭比古神願寺である。両寺の縁起に共通するのは、神が苦悩して仏に救いを求める、いわゆる神身離脱の内容である。神が仏に帰依するのは奇妙に思えるが、「多度神官寺伽藍縁起并資財帳」などにも見え、8世紀成立の神宮寺縁起に共通し、初期の神仏習合に見られる現象である。両寺の事例は710年代後半にあたり、ほかの地域神に先駆け、8世紀前半の段階で仏教と神祇信仰との接触がおこなわれた点で注目できる。
しかも、両寺は若狭湾沿岸の比較的近い距離に鎮座し、気比神宮は越前一宮、若狭比古神社は若狭一宮と、国を代表する地域神を祀る。仏教文化が発達し先進地域であったはずの畿内では同じような状況は認められず、神仏習合の成立には別の論理が働いたことが予想できる。北陸では、日本海を通じて中国大陸・朝鮮半島と交流を行い、独自の文化を醸成するとともに、ほかの地域と比較して中央の意向を受け入れるに極めて寛容な文化的土壌が存在したとみられ、中央と相互に影響し合う存在であったことが背景にあると考えられる。
第3章 泰澄和尚と神仏習合
(1)泰澄和尚と神仏習合
泰澄和尚は、越前を中心に活躍した奈良時代の山林修行者で、越知山や白山を開き、越の大徳(だいとこ)と称された。『泰澄和尚伝記』にはその生涯が具体的に記される。
伝記によると、泰澄は越前国麻生津(福井市三十八社町)に、三神安角(みかみのやすずみ)の二男として生まれる。14歳(11歳説あり)のとき越知山にのぼって十一面観音を念じて修行を積み、717年の白山登頂のさい白山妙理大菩薩を感得した。702年、文武天皇から鎮護国家の法師に任じられた。722年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師の号を賜った。また、737年に流行した天然痘を収束させた功により、大和尚位を賜ったとも伝えられる。758年(77歳)のとき大谷寺に戻り、767年(86歳)に亡くなる。
泰澄は各地で仏教の布教活動をおこない、その足跡は全国20府県におよぶ。泰澄開基とされる寺社・温泉などが全国に分布し、西は長崎県から東は山形県までの日本海沿岸に集中し、南は近畿・東海を含めると全国約800か所を確認できる。これだけの伝承を有する泰澄だが、奈良時代の正史に登場しないことから実在性を疑う声はある。しかし、近年の調査・研究では、泰澄伝承をもつ山々や関連する寺院などから考古学的な痕跡が発見され、その実在にせまる資料が積み上げられてきている。
越前町では、泰澄が修行したとされる越知山(標高612m)から、8世紀中ごろの須恵器の甕が採集された。また、越前町小川の白瀧洞穴でも須恵器が採集された。いずれも越知山における山林修行者の活動を推測できる資料である。くわえて、泰澄が越知山へ戻った8世紀中ごろ、丹生山地では佐々生窯跡などの須恵器窯跡で、鉄鉢・瓦塔などの仏具が盛んに焼成される。泰澄の存在が背景にあったかは分からないが、丹生郡が越前のなかで信仰の中心地であったことは確かである。
なお、泰澄の生誕地の近くに位置する福井市の今市岩畑遺跡からは「大徳」と書かれた墨書土器が出土した。大徳は仏・菩薩・高僧のことを指し、奈良時代に活動した仏教者の存在をうかがえる興味深い資料といえる。
(2)泰澄和尚と大谷寺遺跡
泰澄和尚が修行し、亡くなられたとされる地が越前町の大谷寺にある。現在は別当寺、越知山大谷寺が存在する。『泰澄和尚伝記』によると、泰澄は758年に白山から下山して越知山の大谷仙崛に蟄居し、767年3月18日に結跏趺坐して大日如来の定印を結び、入定遷化した。
現在、大谷寺境内には元亨3年(1323)の銘をもつ石造九重塔が建ち、泰澄の廟所とされる。また寺の北東500mの谷間には、直径18mの円形を呈する塚状遺構があり、頂部に観応3年(1352)銘の石造宝塔が建つ。塚状遺構の周囲にはいくつかの平坦面が取り囲み、高僧などの墳墓、もしくは寺域の境界を示した記念物とも考えられる。
越知山大谷寺の背後には、西の越知山(標高612m)とは別に、地元で元越知山(標高200m)と呼ぶ丘陵がある。山上には校庭くらいの広い平坦面が展開し、9~10世紀の須恵器が露出していた。平成14~17年の発掘調査では、大型・小型の基壇状遺構が検出され、詳細な測量調査によって門跡・基壇跡・溝跡などを確認した。出土遺物の年代から、泰澄入定約60年後に建てられた山林寺院跡だと判明した。
出土遺物には須恵器が多く、9世紀中ごろから10世紀前葉に比定できる。転用硯や灯心油痕をもつ器、黒墨の付着する筆ならしをした器は、知識写経など僧による継続的な寺院活動の痕跡を示すものである。また、墨書土器も多く、判読可能なものは「神」・「泰」・「大」・「□國」・「大谷」・「東」・「公我女」・「嶋家」・「山内」・「戌」などである。特殊品として緑釉陶器の香炉・灰釉陶器の浄瓶などや六器がある。密教の導入・影響とともに密教壇供がつくられ、山頂の山林寺院で密教修法が執りおこなわれていたのだろう。
なお、小型基壇の付近からは「神」墨書土器が出土しており、神祀りをおこなった社的な建物跡の存在が推測できる。泰澄は「神融」の禅師号を賜ったとあり、その名のとおり神仏習合の祖とされた。また、『泰澄和尚伝記』は大谷寺の僧・神興聖人が天徳元年(957)に筆記したとあり、「神」墨書の年代とも近いことから、神興の存在にせまる遺物かもしれない。
いずれにせよ、泰澄の入定地で平安時代前期に神祀りをおこなっていたとすれば、泰澄と神仏習合を考えるうえで貴重な資料となることは間違いない。
第4章 劔神社の信仰
(1)劔神社の歴史/神体山信仰
劔神社の古伝によれば、第7代の孝霊天皇の御代、伊部郷の住民が座ヶ岳(標高310m)の峰に素戔嗚大神の神霊を祀ったと伝えられる。その後、第11代の垂仁天皇の御代に、伊部臣という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が鳥取川上宮で作らせたという御剣を素盞嗚尊の御霊代(御神体)として奉斎し、「剣の大神」と称えて崇めたと伝えられている。
また、劔神社は、仲哀天皇第2皇子の忍熊(おしくま)皇子が、座ヶ岳の剣大明神を現在の地に遷し祀ったことにちなむ。座ヶ岳は劔神社の元宮という位置づけで、両者には深い関係がある。嘉暦3年(1328)書写とされる『剣大明神縁起』では天利劔尊(あまのとつるぎのみこと)(忍熊皇子)とあり、古くから忍熊皇子を祀っていた。現在の祭神は素盞嗚大神・氣比大神・忍熊皇子である。
劔神社は織田盆地のほぼ中央に位置し、座ヶ岳はその北方に位置する。座ヶ岳は三角錐を呈した姿形のきれいな、いわゆる神体山であり、現在の本殿は座ヶ岳の方向をむけて建てられている。つまり、現在の里宮である本殿は、元宮である座ヶ岳と深い関係にあることがうかがえる。しかも座ヶ岳と劔神社を結んだ延長上に、敦賀市の越前一宮・氣比神宮が鎮座する。つまり、座ヶ岳を基点に両社が一直線に並ぶことになる。
氣比神宮と劔神社は初期神宮寺の創建の点で注目できるが、ほかにも多くの関係性が指摘できる。劔神社所蔵の「劔神社古絵図」では、剣神の鎮座する御本社の横に、ほぼ同規模の建物として気比社が描かれる。また、気比の御子神のなかに剣神が存在する。秋季例大祭や御幸(おわたり)大祭では、気比神と剣神の神輿がともに神幸する。蒙古襲来撃退を祝う戦勝パレードともいわれる御幸大祭は、両社の武神たる性格を示している。
このように古くから気比神と剣神には深い関係がうかがえ、劔神社の歴史解明には敦賀を含めた広い視点からみていく必要があるだろう。
(2)森の思想
劔神社境内の西側は一段高い段丘で、平坦面が展開する。その面積は広大で、現在でも約22,000㎡をはかる。杉による神林であり、地元では「おはやし」と呼ばれ親しまれる。その北側に越前町織田文化歴史館が建つが、かつての神林の一部であったという。
劔神社所蔵の「劔神社古絵図」(室町時代)には、すでに鬱蒼とした杜が描かれているので、おそくとも室町時代にはこの一帯が神林であったことは間違いない。越前町教育委員会は劔神社境内の発掘調査を実施し、計18か所のトレンチを入れた。
各トレンチの堆積状況を見ると、表土から地山まで一様に黒色系土が詰まり、深さ60~70㎝ほどで地山に至った。地山から掘り込まれた古代・中世の遺構はなく、表土層に近世以降の遺物が混じる程度で、遺物はほとんど出土しなかった。ただし、第5次調査第2トレンチと第6次調査第1トレンチでは、地山を掘り込んだ土坑が検出され、遺構内からは弥生時代中期前葉に比定できる弥生土器が出土した。
これらの土器が廃棄されたあとは、地表に至るまで黒色系の土層が一様に堆積していた。弥生時代の土坑が埋没して以降、現代まで人為的な痕跡がいっさい認められず、おそらく約2,000年近くのあいだ杜であった可能性が高い。
こうした無遺物の範囲は猿田彦神社の周辺、水木稲荷神社から宝物殿あたりまで及んでいた。しかし、第6次調査第8トレンチ・第5次調査第9・10トレンチでは、古代から中・近世までの遺物が数多く出土した。神林でも拝殿西側から川にかけての一段低くなった一帯が、祭祀で使用した土器などの廃棄場所になっていた。境内は遺物の有無に極端な差があるので、長期間捨てない場所の観念が働いていたとみられる。
織田盆地のほぼ中央に位置し、広大な平坦地をもつ境内の一等地に、まったく人の手が加えられていないことが驚きである。このことは古くから神林が神聖な場所として認識され、「入らずの杜」として保持されていたことを示している。
『万葉集』の歌には、神社と社に「モリ」とルビが振られ、「モリ」を神社とするのが3例、社とするのが11例を数える。つまり、古くから神社や社は「モリ」と呼ばれていた。『出雲国風土記』では、「ヤシロ」に「屋代」という字があてられ、神社を数ではなく「所」の数で表現している。神祭りの建物のある場所がヤシロの原義であり、近くに樹林をともなっていたことが考えられる。
こうした点も踏まえると、神林における無遺物地帯が考古学的に特定できたことは大きな成果であり、劔神社の歴史を考えるうえで重要な発見となった。
木綿(ゆう)かけて 斎(いつ)くこの神社(もり) 越えぬべく 思ほゆるかも 恋の繁きに (『万葉集』巻第7、1378)
山科の 石田の社(もり)に 幣(ぬさ)置かば けだし吾妹(わぎも)に 直(ただ)に逢はむかも (『万葉集』巻第9・173)
第5章 劔神社と織田氏
(1)越前町と織田氏
『延喜式神明帳』の越前国敦賀郡の項には「織田(ヲリタ)神社」の記載があり、「織田(おた)」という呼称は平安時代にまでさかのぼる。建保6年(1218)には織田庄が立荘されており、当地は織田と呼ばれていた。また地元に伝わる昔話によると、隣接する「糸生(いとう)」で蓮より糸を紡ぎ、この地で曼荼羅(まんだら)を織っていたために「織田(おた)」と呼ばれるようになった。織田信長公をはじめとする「織田氏」の名字は、この「織田」の地名に由来するとされる。
明徳4年(1393)、信昌・将広父子によって発給された「藤原信昌・将広置文」(『劔神社文書』)には、守護への奉公が忙しい中、父子が意志を同じくして、劔神社神宮寺の復興に尽くす旨や、劔神社と神宮寺の領田への課税を控えることなどが明記されている。藤原信昌・将広の一族は劔神社社家のひとつであったと考えられている。
資料中にみえる藤原将広は、花押の形状より、応永年間(1394~1428)に尾張守護代として活躍した織田伊勢入道常松に比定される。また、将広は越前守護・斯波義将の家臣であり、義将の子・義重が越前と尾張の守護を兼任するにあたり尾張へ移住したと考えると、故郷の地である「織田」の地名を名字とし、織田氏と名乗ったのではないだろうか。すると、将広は越前を出国し、30年間ほどを尾張で過ごしたことになる。
また、劔神社と織田氏とのつながりを示す資料として、「柴田勝家諸役免許状」(『劔神社文書』)が知られる。これは、柴田勝家が天正3年(1575)に劔神社-織田寺へ発給した古文書であり、書中に「当社之儀者殿様御氏神之儀」と認められる。劔神社を織田信長の氏神として位置づけていることから、信長自身が当地を自己の祖先の出身地として認識していたことがわかる。
(2)織田氏のルーツと平氏説
織田氏が当地を本拠とする以前の出自については諸説あり、なかでも「平氏説」に拠る系図や系譜が多い。『続群書類従(ぞくぐんしょるいじゅう)』巻第142「織田系図」、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』巻488「平氏 清盛流 織田」などの官選系図集には、織田信長の17代前の祖先として、親真(ちかざね)が登場し、織田氏の始祖に位置づけられている。
平氏説によると、織田氏のルーツは、平重盛の子資盛(すけもり)の遺児である親真が近江国津田(滋賀県近江八幡市)の郷長に母とともに養われ、のちに越前国織田社の神職の養子となり、その子孫が織田と名乗ったことに求められる。
織田信長の祖先が平氏であるという説は、天正元年(1573)の『美濃路紀行』に「小松のおとど(平重盛)第二の後胤(平資盛)なれば」とあり、また大師堂(岐阜県郡上市白鳥町石徹白)所蔵の銅製鰐口(わにぐち)に「元亀二年(1571)」・「信心大施主 平信長」の銘が認められることから、戦国時代にはすでに知られていた。しかし、当時の資料に親真の名はなく、信長が自らを平氏の末裔と自称していたことを示す明らかな資料も少ない。
織田氏の系図・系譜類に親真が登場するのは、成立年代に疑問の残るものを除くと、『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』「信長公御先祖の事」を嚆矢とする。当書は慶長16~17年(1611-12)に成立したとされ、江戸時代初頭には親真話の原型が整えられていった。
つづく『織田信長譜』(1641年成立)、『寛永諸家系図伝』(1643年成立)、『総見記(そうけんき)』(1685年成立)、『藩翰譜(はんかんふ)』(1702年成立)、『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』(1743年成立)など17世紀から18世紀にかけての史料中には親真の名が頻出し、詳細に織田氏の系譜が描かれている。
これら江戸時代に織田氏の系図・系譜が整備されていった背景として、源平交替思想に基づき、江戸幕府が織田氏を平氏の末裔に位置づけて喧伝していったことが考えられる。
(3)忌部氏説・藤原氏説など
平氏説 織田氏のルーツについて、当地には平氏説とは異なる内容をもった独自の資料が伝わり、「忌部氏説」の典拠とされる。劔神社神官・忌部(いんべ)氏の系譜を示した『忌部氏系図』や『越前織田明神社家忌部上坂系譜』、織田完之家所有の『織田氏系譜』には親真(ちかざね)の生涯が詳細に記述され、親真の母は富田二郎・平基度の娘で、神祇権大祐・忌部(斎部)親澄に嫁ぎ、親真を生んだとされる。つまり、親真の母親こそが平氏であり、親真は「平氏に非ず、忌部神主の正系」と位置づけられる。
『越前織田明神社家忌部上坂系譜』によると、その後、親真は貞永2年(1233)織田明神の神主となり、正嘉2年(1258)比叡山に登って法名を覚盛と称した。ついには正元2年(1260)2月18日に亡くなる。その墓は「城崎村厨字道口」の「五輪大塔」とされ、現在も親真の墓と伝わる石塔が越前町道口に存在する。
藤原氏説 織田信長が天文18年(1549)に熱田八カ村中へ下した制札に「藤原信長」と署名(『加藤文書』)していることから、織田氏の系譜を藤原氏に求める見解もあり、一般に「藤原氏説」と呼ばれる。信長の父信秀の主君にあたる清洲城主・織田大和守達勝も藤原を名乗り(『尾張円福寺文書』)、延徳2年(1490)の「織田雍州藤原敏定寿像賛」には「和州刺史織田敏定廼出藤氏(すなわちとうしよりいづ)」と記されることから、歴代の尾張守護代・織田氏が藤原姓を名乗っていた。しかし、これをもって織田氏が血縁的に藤原氏に属すとは考えにくく、自らの出自を高貴なものに求める意図が認められる。
その他 織田氏を大伴・伴氏の系譜に位置づける「大伴・伴氏説」もあり、一部には信長を応天門の変で失脚した伴善男の末裔とする見解もみえる。しかし、不明な点が多く、今後の検討の余地がある。
第6章 越前焼の歴史
(1)越前焼とは
越前窯(えちぜんよう)は日本六古窯のひとつに数えられ、瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前と並び、日本列島を代表する窯業生産地である。現在の越前町織田・宮崎地区を中心とする地域では、平安時代後期(12世紀後葉)より越前焼の生産が開始され、過去に一時の断絶を経ながらも、現在まで続いている。
当地産の陶器が越前焼と呼称されるようになったのは1940年代に入ってからであり、かつては「織田焼」・「平等焼」・「熊谷焼」などの集落名を冠した名称が用いられていた。文化元年(1804)の「古今類聚越前国誌」には、「社地の土にて甕を焼く、堅牢なり是を織田甕と称す」とあり、近世越前焼は織田焼と呼ばれていた。
また明治42年(1909)の「若越小誌」では、「足利時代に熊谷より熊谷焼を出し、藩政時代には平等より織田焼として壺瓶類を製出し」とあり、室町時代の熊谷焼を母体として、江戸時代には織田焼が生産されたと考えられていた。
昭和17年(1942)、陶磁器研究家の小山富士夫(1900-75)は京都から立山に向かう途中で平等支群の調査を行い、『陶磁味』第1号に「越前の古窯」という論考を発表した。小山は越前の窯業生産を鎌倉時代まで遡るものと位置づけ、「瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前の五古窯」に匹敵する「日本陶磁史上最も貴重な遺蹟のひとつ」として高い評価を下している。
昭和23年(1948)、小山富士夫は越前焼研究家の水野九右衛門(1921-89)、おた焼窯元の北野七左衛門(1912-89)とともに語り、熊谷焼・織田焼などの名称を「越前焼」と改称した。以後、各氏の努力により、越前焼の名前が全国的に知れ渡るようになった。
(2)越前焼の成立
越前焼に関する調査研究は、そのルーツや成立年代の解明を課題に進展してきた。当初、越前でも須恵器→灰釉陶器→越前焼と、陶器生産が連綿と続くと想定された。しかし灰釉陶器窯はいまだ発見されず、また須恵器窯は10世紀前葉に閉窯していることから、越前焼をこれらの系譜上に位置づけることは難しい。
昭和35年(1960)から始まった越前窯跡の発掘調査は、越前焼のルーツに迫る重要な成果をあげた。そのひとつが、分焔柱(ぶんえんちゅう)の発見である。分焔柱は燃焼室の奥まで炎が届くための装置とされ、東海地域の瓷器(しき)系窯で広く認められる。平等支群の上大師谷窯跡の調査では、燃焼室と焼成室の境界に分焰柱が確認され、越前焼の成立に東海地域で培われた技術が大きく関与していたことをうかがわせた。
そして、昭和50年(1975)の夏、上長佐3号窯跡から越前焼三筋壺(さんきんこ)が出土した。三筋壺は、胴部に施した3本の線と頸部の線によって体部を5つに分割するもので、「空・風・火・水・地」の五輪思想を表していると考えられてきた。三筋壺は常滑窯を中心に生産されていたことから、越前焼のルーツを常滑焼に求めることとなった。
越前焼の成立年代については、三筋壺の年代観、理化学年代、表採資料の型式などから、少なくとも1190年以前には成立したものと考えられる。ただし、越前窯と同じく常滑窯の生産技術を導入して操業を開始した加賀窯の成立年代は12世紀中葉とされ、越前窯のみ成立年代が下るとは考えがたい。今後の編年研究の進展により、12世紀中葉まで成立時期が上る可能性が高い。
(3)鎌倉時代の越前焼
鎌倉時代に入ると、小曽原支群のほとんどは操業を停止し、天王川西部丘陵に位置する熊谷支群を中心に窯場が移る。この時期に使用された原材料の粘土は、製品の大きさによって使い分けられており、大甕などの大形品には可塑性に優れ成形に適した粘土を使用している。一方、壺類などの小形品には鉄分の少ないものを使用しているため、灰白色を呈する。
鎌倉時代後期(13世紀末~14世紀前葉)には、奥堂の谷東窯跡・奥堂の谷西窯跡・水上窯跡など熊谷支群一円で生産が開始される。さらに織田支群の西山窯跡、平等支群の上大師谷窯跡・大釜屋窯跡・焼山窯跡・小足谷窯跡・正信坊窯跡などへ窯が分散し、天王川西部丘陵一帯で操業が行われる。
各窯跡は数基から10数基によって構成され、窯体の規模も次第に大型化する。窯数の増加、生産量の増大などから、当該期は越前焼生産におけるひとつの画期となる。
この時期の銘文資料が知られており、暦年代比定におけるひとつの定点となっている。越前町法楽寺中世墓遺跡では、正応3年(1290)銘の五輪塔下から壺が出土した。
また、京都府由良川周辺からは、「かけん四年(1306)/八月十七日/江ちせんの/くににうの/きたのこ於り/於たの志やう/あかた/とらかたい/うのか免」と9行にわたってヘラ描銘文が施された甕が発見されている。
鎌倉時代には、蔵骨器として使用された瓶子や四耳壺、水注・水瓶・経筒など、宗教的色彩の強い器種も生産された。また、水上窯跡からは手づくね形陶器・陶錘、西山窯跡からは碗・人面形陶製品・陶硯・分銅形陶製品・陶丸などが出土しており、多様な器種が生産されていた。
(4)鎌倉時代の窯体と生産体制
鎌倉時代後期(13世紀末~14世紀前葉)の熊谷支群の水上1・2・4・5号窯跡は、全長11.5~14m、焼成室の長さ7.4~9.5m、最大幅2.6~3.0mをはかる。前期(12世紀末~13世紀前葉)の窯体と比べて規模に違いはないが、水上4号窯跡では2列のピット群と炭化した木芯が検出され、常滑窯で認められる火焰制御棒の痕跡と考えられるなど、焼成技術の進展がうかがえる。
また、水上1号窯跡の焼成室床面下部では幅20~25cm、深さ約15cmをはかる溝状遺構が検出された。九右衛門窯の再現実験の結果から、焼成後に焚口を閉塞した際の酸素流入口ではないかと指摘されている。
発掘調査の成果から、鎌倉時代後期の窯跡は2~3回の床の補修後に廃棄されていることが明らかとなった。窯体周辺の作業場や幅5~6mの廃棄場をみると、操業当初より大規模生産を計画して構築されたものではなく、短期間の小規模生産を繰り返しながら窯場を移動していったと考えられる。このような操業方法は、燃料の確保を最優先に移動を前提としたものと理解され、「刈回し」と呼ばれる。窯場の巡回は、使用する燃料の違いにもよるが、雑木で5~10年、松で30年くらいをサイクルとして行われた。
当時の生産量についても試算されており、1回の焼成にともなう生産量は大甕20~30個、甕50個、擂鉢100~200個、それに係る製品の成形には7~10日ほどを要した。また、押印(おういん)の分析より、実際の生産に携わった工人組織は5名ほどから構成されていたと考えられ、当時の窯業生産は専業度の高い家族単位の小規模経営を基礎に成立していた可能性が高い。
すると、当時の越前焼生産は領主的規制の枠外におかれた家内的副業の一環であったと位置づけられる。また、農作業の合間に窯業生産が行われるという意味で、「農閑副業」・「季節専業」などとも呼ばれている。
(5)室町時代の越前焼
室町時代に入っても窯跡の規模は拡大をつづけ、生産量も上昇する。瓶子・壺Aなどの特殊器種の生産が終わり、かわって甕が蔵骨器に転用されるようになる。また壺の分化が進み、長胴大型壺・短胴型壺・片口壺・片口小壼などが出現する。前代までの宗教的な色彩を帯びた器種は姿を消し、室町時代前期(14世紀)に様相が一変する。
当該期には1点の銘文資料が知られており、福井県大野市周辺から「元亨三年(1323)九月廿九日」銘を有する甕が出土した。甕は口径51.7cm、器高60.1cm、底径23.4cmをはかり、口縁端部はやや肥厚して外上方へと伸び、下端は垂れ下がる。頸部は穏やかに立ち上がり、肩部と胴部の間に境界線をもつ。
室町時代中期後半代(15世紀後半)になると次第に窯数が減少し、熊谷支群では上ヶ平窯跡を経て奥釜井谷窯跡にいたり、生産は終焉へと向かう。平等支群では大釜屋窯跡において操業が継続される。当該期は室町時代後期(16世紀)における大量生産への準備段階であり、消費地での出土量の増大や流通圏の拡大などから、生産量は上昇していくものと考えられる。
そして、室町時代後期には平等支群の大釜屋窯跡に窯が一極集中し、他の窯跡の操業が停止する。大釜屋窯跡では42基の窯跡が確認されており、それぞれ5基前後から構成される12のユニットに分類される。窯体は大型化し、様々な技術革新によって極限まで生産効率を高め大量生産を可能にした。
この時期、壺や鉢の分化が進み、新たな器種も出現した。一乗谷朝倉氏遺跡出土品の検討から、少なくとも甕3類、壺5類8種、鉢8類9種の器種が確認されている。また、わずかながら火桶・徳利・薬研・茶入れなどの生活や喫茶に関連する器種も出土しており、近世的な様相に近づく。
(6)室町時代後期の窯体と技術革新
室町時代前・中期(14~15世紀)における窯体構造は不明であるが、1986~88年に実施された平等支群の大釜屋窯跡群岳ノ谷窯跡の調査によって、室町時代後期(16世紀)の窯体構造が明らかとなっている。岳ノ谷1号窯跡は全長24m、焼成室の長さ21m以上、最大幅5.5mをはかる。鎌倉時代後期(13世紀末~14世紀前葉)の水上1号窯跡と比較すると、長さ・幅・高さともに約2倍、容積では約8倍の規模をほこる。
岳ノ谷窯跡では熱効率の追求が図られており、規模の増大・床面の急傾斜以外に、熱が地中に拡散するのを防ぐために、床面下部に焼台や窯壁を断熱材として貼付している。熱効率の点から水上窯と比較してみると、燃焼室の面積約1.9倍に対し焼成室の面積約3.9倍となる。
また、強い熱を受ける焼成室や分焰柱には、窯体の強度・耐久性を高めるために耐熱性の高い軽石の切石を用いている。使用された軽石は、元禄16年(1703)の「村々大差出帳 樫津組(『田中甚助家文書』)」にみえる、「岩倉村之山」より産出した「口石」に比定される。このような工夫により窯体の耐久性を高め、製品の搬出に際して天井部や側壁を壊すことなく出入りすることを可能にし、焼成ごとに補修・再築する手間を減らすといった省力化をはかった。
さらに、窯体の損傷が激しく新たな築窯が必要な時は、同じ位置上で窯をかさ上げすることにより窯体を更新している。1号窯は5回の更新で2.3m、2号窯は8回の更新で4.2mも床面の高さが上昇しており、築窯段階当初から数回のかさ上げが可能なように床面が低い位置に設定されている。かさ上げにともなう掘削量は新たな窯を構築するのに比べて約2分の1ですみ、ここでも省力化が図られている。
このように、室町時代後期には、一乗谷朝倉氏遺跡をはじめとする中世都市の大量消費を支えるだけの供給を可能とするため、窯体においても様々な技術革新がはかられた。
(7)室町時代後期の生産体制
岳ノ谷1号窯跡では5回、2号窯では8回も床を更新しており、当該期の1基の窯は約50基(窯数)×平均5回(操業回数)=250基の窯に相当する。室町時代後期(16世紀)になると、窯体の耐久性の飛躍的な上昇や、同一か所での複数回にわたる築窯を見通した設計プランの採用などの技術的な進展により、鎌倉時代後期(12世紀末~13世紀前葉)の刈回しからの脱却が可能になったと考えられ、生産は平等支群に一極集中した。
室町時代後期~江戸時代前期(16~17世紀)まで操業していた上松尾区では、数基の窯体・作業場・廃棄場を一単位とする「ユニット」と呼ばれる単位空間が設定され、6km×3kmの狭い範囲に12単位ほどが集約的に分布している。
また、出土資料の押印・ヘラ記号の分析を通じて工人組織の復元が行われており、ヘラ記号に表象されるひとつの工房に、押印に表象される2~3名の職人が所属していた。同一の職人は複数の工房で同時に成形に携わっていたと推測され、職人と工房との関係はかなり緩やかなものとみられる。焼成にともなう窯場では、複数の工房による共同操業が行われていた。
天正5年(1577)の「劔大明神領分平等村田畠居屋敷指出状」(『劔神社文書』)には、出土品に施されたヘラ記号と類似する百姓の略押がみえ、「名主的百姓ないし独立自営農」である平等村の「上層農民」の多くが窯業生産に関与していたことが指摘されている。
室町時代後期の生産量をみると、岳ノ谷1号窯跡では、一度に中甕・壺各60個あまり(大甕ならば14個と合詰製品)、擂鉢1,200個以上が焼成されていたことが試算されている。鎌倉時代後期の奥堂の谷1号窯跡と比較すると、単純に擂鉢の生産量は6~12倍となる。岳ノ谷1号窯跡で50回以上の窯焚きがあったとすると、1基における生産量は甕・壺約6,500個以上、擂鉢6万個以上にのぼる。
(8)劔大明神領分平等村田畠居屋敷指出状
天正5年(1577)9月8日付「劔大明神領分平等村田畠居屋敷指出状」(つるぎだいみょうじんりょうぶんたいらむらでんぱたきょやしきさしだしじょう)は、田畠居屋敷について平等村から「寺社御役者」へ提出した指出状である。指出とは、大名が実際に検地せず、領内の家臣に知行地の面積・作人・年貢量などを申告させたもので、戦国時代の検地はほとんどこの方法によった。文書の冒頭には村高と境界の位置が示され、府中三人衆が使者を派遣して縄打を行い、それを踏まえて指出を提出していること、また年貢の確実な納入を誓約することが記されている。
続いて、「平等村住人等」として24名の百姓が名を連ね、略押を書く。実は、この略押と類似した記号が、戦国期の越前焼に付された「へら記号」と類似することが指摘されており、平等村の百姓がこの時期の越前焼生産に関わったことがわかる。その点から、「劔大明神領分平等村田畠居屋敷指出状」は陶器生産に従事した者の名をうかがうことのできる、全国でも希有な資料とされる。
御神領分平等村田畠居屋敷御指出之事
合弐百八拾八石七斗五升者、 東ハがけを境、北ハ野畠をさかい、南はいきとおり口ざかい
右御神領分、府中ノ御三人ヨリ御上使衆之縄打之上
を以御指出仕候、於此内壱粒壱銭隠申に付而ハ、いか様にも
御成敗なさるへく候、其時一言之子細申間敷候、
仍御指出之状如件、
天正五年九月八日 平等村住人等
前兵衛(略押) 三田村(略押)
おや衛門尉(略押) 門衛門(略押)
小東(略押) 道音衛門(略押)
常げん(略押) かと左衛門(略押)
おく西(略押) 梅の木(略押)
善教(略押) 小なわて 左衛門太郎(略押)
松之助(略押) さわ 左衛門太郎
同兵衛二郎(略押) 藤為(略押)
おや 三郎二郎(略押) 道そ(略押)
中西兵衛(略押) 堂の前(略押)
新や 新三郎(略押) おもや(略押)
善教 藤兵衛(略押) さかや助五郎(略押)
寺社御役者中 まいる
第7章 近世~現代の越前焼
(1)江戸時代の越前焼と越前赤瓦
江戸時代に入っても越前焼は平等村周辺で集中的に生産されていた。当該期の遺跡として、大釜屋窯跡・上鍵谷窯跡・上平等窯跡・北釜屋窯跡・平等北窯跡・口西平窯跡・平西窯跡・平等剣神社窯跡などが知られており、その一部では発掘調査が実施されている。しかし、いまだ窯体の構造や生産体制など不明な点が多く、今後の調査研究が期待される。
室町時代後期に認められた器種分化は近世になっても進み、茶壺・蛸壺・徳利・火鉢・おろし皿・水盤などが出現した。また、この時期に新しく越前赤瓦の生産が始まる。これまで、赤瓦は福井城跡や金沢城跡といった消費地から盛んに出土するものの、生産地は不明であった。平成18年、越前町教育委員会が実施した越前窯跡の分布調査によって上鍵谷(かみかぎたに)窯跡が発見され、平瓦・丸瓦・軒平瓦(のきひらがわら)・軒丸瓦(のきまるがわら)・熨斗瓦(のしがわら)などの瓦類とあわせて、擂鉢(すりばち)・甕・壺の破片を採集した。
上鍵谷窯跡の赤瓦は、鉄分を多く含む土壌を水に溶かした釉薬(ゆうやく)を塗るなど、独自の方法で焼成されている。これにより、低い温度でも製品の焼成が可能となり燃料の節約につながるとともに、従来のいぶし瓦に比べて耐寒性に優れることとなった。少なくとも17世紀中葉には生産が開始されており、18世紀には福井城下や武生・松岡などの地域でも赤瓦が造られた。同じ頃、薄手の桟瓦(さんがわら)も開発され、加賀・能登・越中・出羽など日本海沿岸各地に流通している。
現在、北海道函館市にある五稜郭(ごりょうかく)跡内の箱館(はこだて)奉行所の屋根には約3万8千枚の赤瓦が葺かれており、遠く北海道まで越前焼の影響が及んでいたことが分かる。
(2)葵園と福井県陶磁器徒弟養成所
吉田長兵衞(よしだちょうべえ)(1860-1931)は、地元に豊富にある磁器の原材料から「白い焼きもの」を製作することを目指し、明治24年(1891)に左近長治郎とともに瀬戸・常滑などの先進地域の視察を行った。明治30年(1897)、旧織田町平等に登り窯を築き、「葵園」と名付けている。しかし、明治38年(1905)、八田陶石・城ヶ谷陶石・熊谷陶石の分析を瀬戸市陶磁器試験所へ依頼したが、磁器・釉薬の原料として不適当なものと評されてしまい、大正のはじめ頃廃業となった。
このような状況の中、吉田長兵衞は県下23陶磁器業者の販路拡張と増益を目的に、明治33年(1900)に福井県陶磁器製造組合を創設している。そして、明治35年(1902)、福井県陶磁器製造組合の規約に盛り込んだ徒弟養成規定をもとに福井県陶磁器徒弟養成所を作った。福井県陶磁器徒弟養成所では14歳から18歳までの男子生徒10名を募集し、5か年にわたって修業させ、盃・小皿・急須などのロクロ形成・型成形・陶画・釉薬・原料試験の科目を学ばせた。学生には月2円の食費が支給され、年間経費750円を奨励会資金・郡費補助金・区費補助金などで賄っている。福井県陶磁器徒弟養成所は、明治41年(1908)織田村陶磁器徒弟養成所、同43年(1910)丹生郡陶磁器徒弟養成所と名称を変更しており、養成所経営の困難さがうかがえる。福井県陶磁器徒弟養成所で学んだ優秀な人材は各地へ羽ばたき、織田焼鈴木窯・芦原焼・京焼などで活躍した。
(3)小曽原焼・日渉園・織田焼・織田土人形
小曽原(おぞわら)焼 明治2年(1869)頃、宮崎村小曽原の山内修蔵が開窯し、鉢・壺・瓶など小型製品や土管を製作していた。2代目の伊右衛門は操業を続けていく上で跡継ぎとなる職人育成の必要性を感じ、明治27年(1894)に「私立小曽原焼徒弟学校」を設立した。また、新しい技術を習得するため、京都から職人を招いている。
明治30年(1897)、色絵陶器制作のための「合資会社日渉園」の設立に参加した伊右衛門は、明治40年(1907)に日渉園が解散した後も個人で窯業を続け、「小曽原焼」と称した。大正2年(1913)、廃業。山内家の屋敷跡地には、昭和12年(1937)に造立された「頌徳(しょうとく)碑」が現在も残っている。
日渉園(にっしょうえん) 明治30年(1897)、九谷焼や粟田部焼風の色絵陶器制作を目的に、宮崎村小曽原に「日渉園」が設立された。日渉園は地元資産家10人が出資した合資会社で、山内窯が技術的な面で中心になっている。花瓶・茶器・酒器などを生産していたが、明治40年(1907)に定款に基づき解散した。
昭和21年(1946)、同じく小曽原の木原文右衛門が日渉園再興をめざして開窯した。当初は「日渉園」としていたが、翌年には窯名を「ふくい焼」へと変更する。学校や会社などの記念品や、茶器を中心に生産していたが、昭和24年(1949)に廃業した。
織田焼(おたやき) 鈴木彦左衛門(すすきひこざえもん)窯 大正6年(1917)、鈴木彦左衛門(本名:三日太郎(みかたろう) 1871-1957)は、河合寛次郎に学んだ長男の久(ひさし)(1898-1926)、京都の橋本龍岳に学んだ三男の玉治(1907-1985)とともに、織田村寺家(じけ)に鈴木彦左衛門窯を開窯し、色絵陶器を生産した。ここでは、徒弟養成所出身の山崎一三や山内仁蔵、九谷焼絵付師篠野安行・末川泉山などの職人を招いている。また、杉本剛の尽力により福井市内に販売店「織田焼本店」を開き、展覧会を開催するなど活動を行っていたが、不況や販路の弱さから昭和13年(1938)頃に廃業となった。
織田土人形(つちにんぎょう) 瀬戸三兵衛(1908-1980)は、戦災を逃れて昭和22年(1947)に福岡県博多から宮崎村樫津へ移り住み、「陶工園」に勤めた。その後、織田町織田へ移る。故郷で博多人形の人形師を生業としていたが、戦時中は製作を中断しており、越前焼窯元の北野七左衛門の勧めで再び人形製作を始めた。当初仕事場のなかった瀬戸は、北野の窯場や鈴木彦左衛門の絵付け用の錦窯を借りている。
瀬戸は、「尉(じょう)と姥」や「恵比寿大黒」・「干支」など伝統的なものや、子守りや晴れ着姿の女の子などといった幅広い題材で土人形を作った。その作品は「織田土人形」と呼ばれ、劔神社や観光地で販売された。また、瀬戸は絵付けの腕を見込まれ、寺院の像の修復やだいずりの装飾を依頼されたという。
(4)おた焼と北野七左衛門窯
北野七左衛門(1912-1989)は17歳頃に鈴木彦左衛門窯に出入りして陶芸を学び、昭和10年(1935)織田村に「八劔(はっけん)窯」を開窯した。当初は絵付けを中心としていたが、昭和12年(1937)に登窯を築窯し、翌年から本格的に作陶を始める。戦時中は、陶芸家の塚原芥山(つかはらかいざん)(1907-1945)が七左衛門のもとに身を寄せ、作陶を行っている。
昭和23年(1948)、窯は「北窯洞(ほくようどう)」と改称した。北野七左衛門の窯には、町内の窯元や弟子入りを希望する若者はもちろん、彫刻家の雨田光平や池田片銕、俳人の牧田雨煙樹、染色家の山田外夫など、多様な分野の作家も集った。後に朝日町佐々生へ移住した陶芸家の木村盛和も、知人に連れられ七左衛門の窯を訪れている。昭和44年(1969)の登窯の火入れには、たいら窯の八代目藤田重良右衛門や左近製陶所の左近甚太夫が参加している。
福井県内の作家の研鑽の場として、昭和19年(1944)に彫刻や日本画・書道など様々な分野の作家が参加した南越文化交友会、昭和36年(1961)には福井県工芸作家協会が発足すると、北野七左衛門も参加した。昭和39年(1964)には、他の作家と合同で織田焼陶芸展(福井市役所)を開催した。
七左衛門は、戦後から開催された福井県総合美術展覧会工芸部門で福井市長賞(昭和25年度第3回)、福井県知事賞(昭和27年度第5回)を受賞し、翌年から無鑑査作家となった。また、審査員も努めている。昭和43年(1968)、国体開会式に天皇・皇后両陛下がご来県の際は、天覧に供する作品と両陛下が使用する茶器の制作を依頼された。昭和47年(1972)、これまでの成果を評価されて労働大臣賞を受賞、昭和59年(1984)には勲六等瑞宝章を授与された。
七左衛門の作風は土身を活かした手びねりのものが多いが、初期の頃から一緒に窯を支え、ロクロびきの第一人者といわれた森崎長太郎(1912-1980)は、緻密な細工を施した装飾性の高い器を得意とした。森崎は青年期、九谷で修行を積みロクロ技術を身につけた。昭和35年頃から越前焼の需要が高まり大量注文が入るようになると、そのロクロ技術をいかし活躍した。また窯に集まっていた若者達にもロクロ引きを教え、昭和52年(1977)優秀技能者として知事表彰を受けている。
芥川賞作家の津村節子(1928-)は故郷である福井県を舞台にした小説「ふるさと五部作」の一作目「炎の舞い」で、越前焼をテーマにとりあげている。小説中では、故郷を飛び出した女性が様々な経験を経て再び故郷へ戻り、陶芸家を目指す女性の姿がかかれている。主人公萩野琴代に大きな影響を与える祖父の陶芸家、庄右衛門は七左衛門をモデルにしている。また、作品中には津村が取材した当時の窯の関係者や出会った町の人々、建設中であった旧織田町公民館(現在取り壊し済み)などが登場する。
(5)たいら窯・左近製陶所
たいら窯 江戸時代中期頃、平等村の藤田家が「たいら窯」を開窯した。昭和初期、経営不振によって多くの窯元が廃業する中でたいら窯は操業を継続し、大甕や灰甕のほか、蛸壺・酒器・花器などを生産している。
藤田家の当主は代々重良右衛門を名乗り、昭和12年(1937)、8代目重良右衛門(じゅうろううえもん)(1922-2008)は7代目に師事して「越前輪積み技法」を伝授された。その技術の高さは特に評価され、昭和43年(1968)国体開催時にご来県の天皇・皇后両陛下ご使用の茶器や花生を制作、昭和47年(1972)、陶芸村開村にあたり高松宮殿下御夫妻の前で実演披露している。この技法は「陶芸越前大がめ捻(ね)じたて成形技法」として昭和61年(1986)に福井県無形文化財に指定され、重良右衛門も保持者として認定を受けた。昭和51年(1976)に福井県伝統的工芸優秀継承者表彰、昭和59年(1984)に労働大臣卓越技能賞を受賞し、昭和60年(1985)に黄綬褒章、平成6年(1994)には勲六等単光旭日章を受章した。
また、8代目重良右衛門は、いけばな草月流初代家元の勅使河原蒼風(てしがわらそうふう)(1900-1979)より花器の制作を依頼されるなど、越前焼の芸術性を高めた。その技術は9代目藤田重良右衛門(1954-2011)をはじめ、多くの弟子たちに引き継がれた。
左近製陶所 昭和25年(1950)、左近勇吉・左近甚太夫(さこんじんだゆう)(1925-1995)・左近斧之助の3名が共同して左近製陶所を設立した。昭和30年(1955)、勇吉が経営から退き、父斧之助に師事した精右衛門(せいうえもん)(本名:強(つよし) 1924-2015)が参加する。昭和34年(1959)に斧之助が死去すると、甚太夫・精右衛門の2人は協力して操業を続け、蛸壺・大甕・灰甕などを生産した。後には、伝統的な技法を背景に、現代の生活に合わせた花器や食器なども作っている。
左近甚太夫・精右衛門は「ねじたてロクロ技法」の後継者として鎌倉時代以来の技術を伝え、それぞれ伝統工芸士に認定された。窯の名称は後に「左近窯」に変更し、平成7年(1995)に甚太夫が逝去すると精右衛門は独力で操業し、個展を開催、日本伝統工芸士会作品展に入賞するなど、精力的に活動を行った。平成20年(2008)、左近窯は閉窯した。
(6)小倉見窯 木村盛和
木村盛和(きむらもりかず)(1912-2015)は、清水焼の産地、京都五条坂の陶工の家に生まれた。京都市立第2工業学校を卒業後、国立陶磁器試験所に入所し、釉薬と素地の研究に着手する。また、京都市美術展覧会の美術工芸部で入選し、陶芸家としての一歩を踏み出した。昭和21年(1946)独立し、天目釉(鉄釉)の研究をはじめる。後に人間国宝となる清水卯一(ういち)、日展評議員を務める谷口良三と「緑陶会」を結成し、6代清水六兵衛が会長を務めた「京都陶芸家クラブ」に参加するなど、精力的に活動を行っている。昭和30年代からは「日本工芸会」の設立に参加し、天目釉の名手として「日本伝統工芸展」で次々と作品を発表した。昭和39年(1964)、第11回日本伝統工芸展では、出品作「天目釉変り皿」が優秀賞「NHK会長賞」を受賞し、京都国立近代美術館に買い上げられている。
木村盛和はさらなる作陶に適した環境を求め、昭和51年(1976)、夫人の生まれ故郷である福井県に移住を決めた。越前町玉川の旅館を佐々生に移築して住居とし、「小倉見(おぐらみ)窯」を開窯。以降は所属団体を離れ、個展を中心に作品を発表していく。同時に、若手陶芸家の指導も行い、福井県の工芸美術の向上するため伝統工芸の職人の集団「福井県工芸懇話会」を結成し、作品発表の場を提供していった。これらの功績が認められ、昭和61年(1986)に福井県文化賞、平成5年(1993)には勲四等瑞宝章を授与された。