1 越前町の古墳群
(1)越前町における古墳群の概要
越前町内における古墳の分布は越前地区厨、織田地区中、朝日地区東部(栃川・天王・宝泉寺・内郡・朝日・岩開・佐々生)の大きく3つに分かれる。町内にはこれまで7基の前方後円(後)墳が確認されており、織田地区の中に1基、朝日地区の東部地域に6基の内訳となる。越前地区の厨には瓢箪塚・馬塚・万寿塚などの古墳らしき遺構が確認されているが、今のところ前方後円墳の報告例はない。しかし、現地踏査が不十分であり、古墳の総数や規模など不明な部分が多いため、今後の分布調査の成果が期待される。それでは主要な古墳群を以下に紹介する。
厨古墳群 越前町厨に所在し、海岸段丘上の段丘面に立地する。万寿塚・瓢箪塚・馬塚(遺跡番号22025)の3基が知られるが、詳細は不明である。
中古墳群(遺跡番号19020) 越前町中に所在し、織田盆地北の標高140~150mを最高所とした八手状に派生した低丘陵上に立地する。織田地区唯一の古墳群である。前方後円墳1基を含む円墳・方墳など25基からなるが、再調査により30基となった。5つの尾根上にそれぞれ分かれて展開している。第Ⅰ群には丘陵の主稜線上の東端に前方後円墳1基・円墳4基・円墳?1基・方形墳6基が分布する。第Ⅱ群には第Ⅰ群の西の主稜線から南東に延びる尾根上に方形墳2基が分布する。第Ⅲ群には谷を隔てて第Ⅱ群に西接する南東にのびる細い尾根上に方形墳墓2基が分布する。第Ⅳ群には谷を隔てて第Ⅲ群に西接する南東に延びる尾根先端部に方形墳墓8基、尾根頂上に円墳1基が分布する。第Ⅴ群には、谷を隔てて第Ⅳ群に西接する南東に延びる尾根上に円墳5基が分布する。町指定史跡。
3号墳は前方後円墳で、『福井県史 資料編13 考古』のなかで織田古墳(中1号墳)として紹介された。墳長30m、後円部径20m、後円部高2~3.25m、前方部幅11m、前方部長19m、前方部高0.87~1.87mをはかる。水田面からの比高差は20mを有し、盆地から見て死角となる古墳の背後は手抜き工事がなされた。旧敦賀郡下では3番目の規模であり、前方後円墳としては最大となる。また、3号墳に隣接する4号墳は直径8.8m、高さ1.0mをはかる円墳であり、陪冢とみられる。4号墳の築造時期は未調査のため不明であるが、丘陵の先端部に立地し、近接して方墳があるので、墳丘形態を考えると、古墳前期中葉(3世紀末~4世紀前葉)に位置づけられる可能性が高い。
中古墳群の分布図
中古墳群[町指定史跡]
中3号墳
朝日杉谷古墳群(遺跡番号18066) 越前町栃川・天王に所在し、栃川と天王の境をなす尾根から円福寺後背の尾根に至るまで、3つの尾根上に展開している。北側にあたる円福寺の後背は比較的平坦な尾根で、5基程度確認される。中央の尾根には不明瞭な墳丘5基が確認される。中央尾根の墳丘の下方(東側)には整形された3段の平坦面があり、さらに下方に不整形な3段の平坦面があるが、整形された平坦面の1つには石列がともない、五輪塔の火輪も確認されることから中世以降に墳丘が改変された可能性がある。南側の尾根には、長方形の墳丘3基と不明瞭な墳丘7基が確認される。
水上古墳群(遺跡番号18061) 栃川に所在し、尾根上に立地する2基の円墳からなる。ともに石室石材がほとんど抜き取られている。
栃川岡古墳(遺跡番号18065) 栃川遺跡の調査中に確認された、古墳の痕跡である。調査時にはすでに墳丘が削平されており、墳丘の規模などは不明である。埋葬施設の底面に副葬品が確認されたのみであった。副葬品は鉄剣・鉄鏃・鉄鎌などが出土しており、古墳中期後半以降の時期(5世紀後半~6世紀)に比定できる。
番城谷山古墳群(遺跡番号18103) 越前町天王・宝泉寺に所在し、標高150~160mの丘陵上に立地する。7基からなり、円墳4基、方墳3基である。円墳2基と方墳1基は発掘調査を実施しており、円墳の4号墳は直径18mの円墳である。円墳の5号墳は墳長45mをはかり、直径37.5mの円墳に長さ7.5mの造出部が付属する。ともに葺石と埴輪をもつのが特徴であり、築造時期は古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できる。あとで詳しく述べる。
天王古墳群(遺跡番号18029) 越前町天王に所在し、西側の丘陵上に展開する。八坂神社西の天王坂より北側に11基、南側に3基が確認される。天王坂北側のものは、さらに山頂部と東側に伸びる尾根上に立地が分かれる。山頂部には長方形の墳丘2基、不明瞭な墳丘5基が確認される。東側尾根上には不明瞭な墳丘4基が確認される。天王坂南側は円墳・方墳・造出部付円墳が各1基確認される。
天王前山古墳群(遺跡番号18105) 天王・宝泉寺地区の西側の丘陵上に展開する。八坂神社西の天王坂よりの北側には11基、南側に3基、天王川付近に突き出す尾根上には2基の古墳が確認される。天王坂北側のものは山頂部と東側に伸びる尾根上に立地が分かれる。山頂部には長方形の墳丘2基、不明瞭な墳丘5基が確認される。東側尾根上には不明瞭な墳丘4基が確認される。天王坂南側は円墳・方墳・造出部付円墳が各1基確認される。天王川付近の2基は、ともに周溝をもつ円墳である。
横山古墳(遺跡番号18030) 越前町横山に所在し、天王川河岸段丘下に立地する。明治42年(1909)に水田拡張のため破壊したものを復旧した古墳である。現在の墳丘は直径約6m、高約3mをはかる歪な円形であるが、一部原形を保つ箇所もあるとされる。埋葬施設として横穴石室をもち、石室内からは鎧・刀剣・土器などが出土したというが、その所在は不明である。
朝日山古墳群(遺跡番号18087) 越前町朝日・内郡に所在し、標高50~70mの丹生ヶ丘と朝日山の丘陵上に立地する。あとで詳しく紹介する。
46号墳は昭和57年(1982)5月、朝日観音堂の改築にともなう八幡神社の移転改装がおこなわれることとなり、朝日町教育委員会が発掘調査を実施した。46号墳は中世に墓として著しく改変を受けており、本来の姿を留めるのは墳丘北辺および北側周溝のみで、埋葬施設は様相不明である。古墳にともなう遺物はないため、時期は特定できない。
郡栄塚古墳(遺跡番号18085)(町指定史跡) 越前町内郡に所在し、天王川によって形成された自然堤防上に立地する。平野部に造営された町内唯一の前方後円墳である。日吉神社の境内にあり、墳丘は神社や用水などにより削平されるが、墳丘北西側に前方部の痕跡が残存する。前方部長は不明であるが、墳丘長33m以上の帆立貝形とみられる。段築・葺石・埴輪などは確認されていない。築造時期は古墳中期前葉(5世紀前葉)と考えられている。
日吉神社
郡栄塚古墳
郡栄塚古墳
八幡山古墳群(遺跡番号18092) 越前町岩開に所在し、八幡神社後背の丘陵上に立地する。疑わしいものも含め、6基の円墳が所在する。直径10~15m、高さは1.5m~2.5m程度のものである。石材の露出はない。付近には2基の古墳がある。ひとつは岩開光明寺古墳(遺跡番号18093)で、光明寺と大隆寺の間に位置する尾根の先端部に立地する。直径約25m、高さ4m前後の円墳である。遺物などは採集されず、埋葬施設も確認できない。もうひとつは丸山古墳(遺跡番号18046)で、大隆寺の西側に位置する尾根の頂部付近に立地する。名称とは裏腹に方形を呈する。
八王子山古墳群(遺跡番号18048) 越前町岩開・佐々生の境に所在し、八王子山の丘陵上に立地する。北・南・西の3群に分かれ、9基を数える。北群には丘陵最高所の南北にのびる稜線上に円墳2基・方墳1基が分布する。南群には丘陵のほぼ中央にあたる稜線上に円墳1基・前方後円墳1基が分布する。西群には北群の位置する頂部から南西に延びる急な尾根の先端に円墳1基がある。南側の山麓には横穴式石室をもつ古墳が2基確認されている。
1号墳は西群にある。古墳を覆う封土は経年により流失し、天井石が露出する。石室は幅約1.5m、長さ約8mで、流土で大半が埋没している。羨道を覆う天井石はないが、側壁の石は露出し、開口部は南側である。側壁の深さは不明だが、横穴式石室とみられる。石材は背後の岩肌から剥ぎ取ったものと思われる。山側に半円型に残る周溝の痕跡から判断すると、墳丘は直径約20mの円墳である。築造年代は石室の形態などから古墳後期後葉~末(6世紀末~7世紀)と考えられる。町内で確認された横穴式石室をもつ古墳のなかでは最大級であるので、このあたり一帯に影響力をもつ政治権力者の墓と考えられる。町指定文化財。
南群の2号墳は、丘陵の最高所付近に立地する前方後円墳である。主軸長21.4m、後円部長16.0m・同径18.1m・同頂径4.8m×4.3m・同高2.5m・くびれ部幅11.4m・同頂部6.0m・前方部裾幅11.4m・同頂幅6.0m・同長5.4m・同高1.0mをはかる。前方部が発達しない前方後円墳である。築造時期は墳丘形態から古墳前期前葉~中葉(3世紀末~4世紀前葉)と考えている。
八王子山古墳群
八王子山古墳群の分布図
八王子山1号墳
鳥越古墳群(遺跡番号18045) 佐々生に所在し、丘陵先端部に展開する。3基の円墳が確認された。県道拡幅のため調査されることなく消滅した。これらに関して何の資料も残されず内容は不明である。石材の散乱はなく、墳頂部がわずかに窪んでいたということから、木棺直葬であった可能性が考えられる。
八地谷古墳群(遺跡番号18055) 佐々生に所在し、中世墓地に東接し丘陵裾部に展開する古墳群である。穴山古墳群という別称がある。いずれも盛土の流出・削平が著しく状態は良くない。比較的良好に横穴石室の確認されるもの2基、石室石材の抜き取られたものや、わずかに盛土・石室石材が残るもの各1基の合計4基が確認される。また、付近に天井石と思われる岩と須恵器片の散布する箇所があるが、この箇所に古墳があったものか、別の場所から移動されたものか、現況からは判断できない。採集された須恵器は7世紀前葉のもので、各古墳も同様な時期に造られたことが考えられる。
西大井古墳群(遺跡番号02029) 鯖江市西大井町・持明寺町・和田町、越前町漆本・宇田に所在し、三床山の西大井集落を挟んで山尾の北と東に伸びる2つの尾根上に展開し、100余基からなる。このうち越前町内および町界線上付近(尾山支群)には、疑わしいものも含め26基が確認される。内訳は方墳が15基、円墳が10基、前方後円墳の可能性をもつ古墳(16号墳)1基がある。西大井16号墳は『鯖江市史 通史編 上巻』(1993年)に記載があり、「円墳(径約15m、高さ約1.8m)か、前方後円墳(墳丘長約28m)か判断できない」とされる。
その後、墳丘北東側の後世の改変とみられる平坦面の存在が前方部の誤認とし円墳と認識されたが、再調査により墳長28.8mを前方後方墳として考えられるようになった。前方後方墳は尾山支群の最高所に位置し、段築・葺石・埴輪などは確認されない。築造時期は古墳前期中葉(4世紀中葉)と考えられる。また、鯖江市側には前方後方墳南東の急な尾根上には3基の円墳が並ぶ。
2 朝日山古墳群について
(1)朝日山古墳群の概要と発見史
朝日山古墳群は、福井県丹生郡越前町所在の弥生から古墳時代にかけて造営された墳丘墓・古墳群である。『福井県遺跡地図』(福井県教育委員会 1993年発行)によると「朝日山古墳群」(遺跡番号18087)として登録されている。本古墳群は南越盆地の整然とした条里が残る平野と丹生山地から流れ出る天王川を見下ろす絶景の場所に位置する。
本古墳群は2つの丘陵の最高所に、経ヶ塚古墳と朝日山古墳という2基の前方後円墳が立地し、それぞれの東側の緩斜面に墳丘墓と古墳が密に展開している。最北部に位置する二口・郡山支群は約30基(すべて消滅)、経ヶ塚古墳を中心に展開する観世音山支群は59基、朝日山古墳群を中心に展開する朝日山支群は46基を数え、合計130基以上(現在は105基)からなる県内有数の古墳群である。前方後円墳の2基は昭和31年(1956)に県史跡(番号19)に指定され、観世音山支群一帯は昭和50年(1975)に保存目的から古墳公園として整備されている。
古墳公園[県指定]
古墳公園
発見史をみてみる。本古墳群は昭和25年(1950)、斎藤優が経ケ塚古墳を発見したことに始まる。それまで福井県の嶺北地域では、平地に造営された椀貸山古墳は知られていたが、前方後円墳が丘陵性の山上を利用して造られる認識はなかった。しかし、経ヶ塚古墳の発見が契機となって丘陵上の分布調査も進み、福井県内では2年間で35基の前方後円墳(疑わしいものも入れると40基あまり)が確認されるにいたった。その点からも福井県の考古学史上、重要な古墳群といえるだろう。
また、斎藤はそれ以外に10m内外、高さ1mにも満たない130基前後の方墳の存在を示し、前方後円墳と小古墳を併せもつという本古墳群の様相を指摘した。このような良好な保存状態にもかかわらず、過去には丹生高等学校移転、朝日住宅団地造成などの度重なる開発行為によって数多くの墳丘墓・古墳が消滅してしまった。その都度、応急処置的な調査はなされてきたが、今となってはその全貌を知ることは難しい。
なかでも、『福井県丹生郡誌』に掲載された経ケ塚古墳出土の鉄製品(鉄鏃・鉄鎌など)、福井県陶芸館に所蔵された中条4号墳出土の石臼・石杵や写真のみが残る内行花文鏡などは貴重な資料である。これまでの調査については、以下に時系列で述べる。
1 昭和33年(1958) 丹生高等学校郷土研究部による二口・郡山支群の調査では、約30基あまりの古墳存在、2年間で4基の古墳が調査された。
2 昭和37年(1962) 朝日町教育委員会による中条4号墳の調査では、埋葬施設からは内行花文鏡と管玉、周溝からは石杵・石臼が出土した。築造時期は古墳前期前葉とされる。
3 昭和57年(1982) 朝日町教育委員会による観世音山支群46号墳の調査では、石造物と中世墓と弥生土器の小片が出土した
4 平成12年(2000)福井県教育庁埋蔵文化財調査センターによる中上山支群中上山1号墳の調査では、半裁した方形墓の調査、埋葬施設が検出されたが、遺物はなかったことから築造時期は不明である。
このように部分的な発掘調査と破壊が進むなか、平成13年度に朝日町では文化財保存を目的とした文化財悉皆調査事業が実施された。初年度は主に町内古墳の分布調査をおこない、範囲や基数などを把握し、その結果を『朝日町文化財調査報告書Ⅰ』(朝日町教育委員会 2001年)に報告した。また、町史編纂事業と併せて、町内の全体的な古墳の分布や様相が明らかとなった。
これらの結果によれば、朝日山古墳群は経ケ塚支群59基、朝日山支群46基、合計105基の墳丘墓・古墳を数え、斎藤優が調べた130基から比べると、25基ばかり減ったことになる。その後、平成13年度には朝日町教育委員会が急傾斜地崩壊対策事業にともなう、朝日山支群4・5・6号墓の発掘調査を実施した。そのさいに朝日山支群の様相が不明なこともあり、文化財悉皆調査事業によって主要古墳の測量調査も同時に実施した。その成果については『朝日町文化財調査報告書Ⅱ』(朝日町教育委員会 2002年)で報告し、1号墳と2号墳の墳丘測量図を掲載した。
(2)研究史
朝日山古墳群の大型前方後円墳2基が主な研究対象であった。斎藤優氏は、経ケ塚古墳→朝日山古墳という序列を考え、経ヶ塚古墳を古墳前期(4世紀後葉ないし末)、朝日山古墳を前期末ないし中期初頭(4世紀末葉ないし5世紀初頭)に比定した。その後、青木豊昭氏は両古墳の形態分析から同一設計と判断し、築造時期は立地や形態から斎藤の見解に対して異論がないと述べた。そして、朝日山古墳以後の首長墓は円墳となり、朝日山古墳に連結する2基や岩開古墳群の2基を想定し、勢威のあった地域首長の存在を考えている。
また、御嶽貞義氏は郡栄塚古墳を朝日山古墳の後続と考え、朝日地域の弥生時代終末期から古墳時代中期までの首長墓を番城谷山5号墓(長方形)→八王子山8号墳(前方後円墳)[現在は2号墳]→経ケ塚古墳(前方後円墳)→朝日山古墳(前方後円墳)→郡栄塚古墳(前方後円墳)と序列づけた。加えて、古川登と御獄貞義の両氏は小羽山古墳群の発掘調査報告書のなかで、越前地域の首長墳の集成を試み、新たな見解を発表した。
そのなかで御嶽氏は南越盆地を担当し、朝日地域では経ケ塚古墳(71m)→朝日山古墳(53.4m)→郡栄塚古墳(30m)、天津・立待地域では狐山古墳(35.8m)→清水山2号墳(55m)→高島古墳(45.6m)→中坂古墳(46m)、片山地域では古谷山7号墳(25m)→立中山12号墳(?m)→今北山古墳(75.3m)→弁財天3号墳(38m)といった前方後円(方)墳の序列を考えた。
この見解を踏まえ、越前南部を視野に入れて大型古墳の変遷を追うと、今北山古墳→経ヶ塚古墳→朝日山古墳→兜山古墳→中坂古墳の順となる。広域首長墓が片山地域→朝日地域→鯖江台地地域→天津→立待地域と移動するとし、古墳中期には前方後円墳の造営が一端なくなることも指摘されている。
前者は広域首長権が移動した可能性が考えられており、後者は兜山古墳などの大型円墳へ一時的に取って代わる現象を何らかの政治的・社会的事情を反映した可能性が高い。朝日地域には2代の広域首長墓が存在し、朝日山支群では前方後円墳から円墳へと変化しているので、前方後円墳の後続の政治権力者とみれば、円墳化の流れのなかでとらえられる。
朝日山支群から見た丹南盆地北部
朝日山支群から見た丹南盆地中部
(3)朝日山古墳群の大規模古墳
朝日古墳 越前町朝日に所在し、朝日山支群に位置したというが、すでに消滅した。墳長32mの前方後方墳だったという。段築・葺石・埴輪などは確認されていない。築造時期は古式の前方後方墳であったことを想定すると、古墳前期前葉~中葉後半(3世紀中葉~後葉)に比定できる。
経ヶ塚古墳 越前町内郡に所在し、観音寺山支群中、最高所に位置する。北接する簡易水道貯水槽により前方部前面が破壊さている。そのため推定墳長74mをはかる前方後円墳である。墳丘規模は後円部径40m・高7m、前方部推定長35m・前方部前面幅23m・高3mをはかる。前方部を北に向け、周溝はともなわない。ただ、後円部南西側に旧地形の削り残しの部分が認められ、この部分のみ周溝状になる。段築・葺石・埴輪などは確認されていない。南越盆地における最大級の前方後円墳である。築造時期は墳形から古墳時代前期後葉~末(4世紀後葉~末)と考えられている。
経ヶ塚古墳
前方後円墳の後円部
後円部から見た前方部
朝日山古墳 越前町朝日に所在し、朝日山支群中、最高所に立地する。墳長54mの前方後円墳である。前方部を南に向け、丘陵頂部平坦面の平野側に偏って造られた。墳丘の周りに周溝状に溝が巡るが、平野側である東側は途切れている。西側に近接して1条の溝があり、周溝とともに墳丘の構築に際し、盛土を確保したものと推測される。墳丘規模は後円部径29m・高6m、前方部長25m・前方部前面幅9m・高4mをはかる。段築・葺石・埴輪などは確認されていない。築造時期は墳形から古墳前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初頭)に位置づけられ、経ヶ塚古墳に後出する古墳とみられている。
朝日山古墳
前方後円墳の後円部
くびれ部から前方部
その他の円墳 1号墳は、朝日山古墳の北側周溝を切って造られた円墳である。浅い周溝をもつが、葺石・埴輪などは確認されない。規模は直径約26m、墳丘頂の直径約10m、墳丘高約4mをはかる。墳丘斜面の中位やや上方に幅約1.5mをはかる平坦面がめぐる。朝日山古墳(前方後円墳)に後出する古墳とみられる。
2号墳は1号墳の北東に位置する円墳である。周溝をもつが、葺石・埴輪などは確認されない。平面形はやや楕円形となり、規模は直径18~20m、墳丘頂の直径10~13m、墳丘高約3mをはかる。周溝は約1.5mの深さをはかる。朝日山古墳(前方後円墳)に後出する古墳とみられる。
朝日山1号墳
(4)古墳からみる首長系譜
越前町朝日地区における大規模古墳は、古墳時代前期後葉~末に経ヶ塚古墳の築造を契機として、前期末~中期初頭の朝日山古墳、中期前葉の郡栄塚古墳と前方後円墳が続く。それ以外の古墳の時期比定は難しいが、すでに消滅した前方後方墳の朝日古墳(墳長32m)、三床山山麓に現存する西大井2号墳(墳長28.8m)などは前方後方墳であるので、古式のものとすれば古墳前期前葉~中葉に比定できるだろう。
なお、八王子山2号墳(墳長21.4m)は前方部が短い前方後円墳である。前期古墳とみれば古墳前期前葉~中葉に比定できる可能性は高い。
また、発掘調査がおこなわれた番城谷山4・5号墳は造出部付の円墳(墳長45m)で、出土遺物の時期から古墳中期前葉~中葉に比定できる。しかも、古墳の切り合い関係から5号墳→4号墳という順になることも判明している。
以上をまとめる。推測の域は出ないが、越前町における首長系譜は、朝日古墳・西大井2号墳[前方後方墳 古墳前期前葉~中葉]→八王子山2号墳[前方後円墳 古墳前期中葉]→経ヶ塚古墳[前方後円墳 古墳前期後葉~末]→朝日山古墳[前方後円墳 古墳前期末~中期初頭]→郡栄塚古墳[前方後円墳 古墳中期前葉]→番城谷山5号墳[造出部付円墳 古墳中期前葉~中葉]→番城谷山4号墳[円墳 古墳中期前葉~中葉]という築造順が考えられる。
北陸南西部の古墳時代の幕開けは、東海系などの外来系土器の波及が契機となり、それまでの北陸独自性が強い土器様式は崩壊する。外来系土器波及とともに墓制も変革をむかえる。前期前葉は東海で盛行する前方後方墳が採用されることが多い。その影響が墳長30m前後の朝日古墳・西大井2号墳などの前方後方墳の築造ととらえている。
古墳前期前葉~中葉になると、北陸南西部では、畿内系土器の波及とともに墳長20~30m級の前方後円墳が出現するが、前方部が短いものを含み、前方後方墳と共存していく。八王子山2号墳(墳長21.4m)、織田地区の中3号墳(墳長28.7m)などの築造は、その流れのなかでとらえられるだろう。古墳前期中葉~後葉になると、前方部が発達した前方後円墳や帆立貝形の前方後円墳などが築造されるようになるが、古墳中期以降は前方後円墳が継続して築造される地域と円墳の築造に変わる地域がある。
越前町の場合は、前方後円墳の付近に円墳が築造されることが多いので、円墳化の流れで考えられる。とくに、番城谷山5号墳は墳長45mの造出部付円墳で、4号墳は直径18mの円墳である。ともに、葺石・埴輪をもつ丹南地区唯一の古墳である。古墳中期(初頭を除く)においては越前町の大規模古墳は帆立形の前方後円墳か円墳が多いので、典型的な前方後円墳でない古墳の築造にはヤマト王権との政治的な関係が想定できる。
3 番城谷山古墳群
(1)遺跡の位置と発見に至る経緯
福井県丹生郡越前町天王区・宝泉寺区の共有地に所在する。八坂神社の北側の丘陵上に位置し、栃川古墳群の番城谷山支群に含まれている。古墳は標高150~160mの丘陵上の尾根筋に連綿と築造されており、古墳からは南越盆地が一望できる。見晴らしのよい場所に築造されており、県内でも高所に位置する古墳群だといえる。
平成21年(2009)5月初旬、越前町文化財悉皆調査事業の一環で、古墳の分布調査を実施した。八坂神社裏の尾根筋の踏査のさい埴輪片を発見し、古墳の存在(のちの番城谷山4号墳)を認識した。墳丘斜面において隣接する古墳(のちの番城谷山5号墳)も調べたところ、直径40m程度の大型円墳(当時は、造出付円墳と認識していない)であることが分かった。
その後、地元区長および地権者などの関係者に許可をとり、墳丘規模や時期の把握のため、7月~9月に測量調査を実施した。その後の検討により、番城谷山5号墳は円墳ではなく、墳長55mの帆立貝形の前方後円墳である可能性が高まった。しかも、8月の測量調査のさい5号墳の墳裾北側から円筒埴輪の底部を発見した。埴輪は古墳中期中葉(5世紀中頃)のものとわかり、築造年代を比定する材料となった。
宝泉寺から見た番城谷山古墳群
円筒埴輪の底部
(2)従来の認識
番城谷山5号墳は従来、弥生時代の墳丘墓(番城谷山5号墓)という認識があった。しかも、多くの川原石の存在は昔から地元でも知られていた。しかし、石については葺石(古墳を覆う石)との認識はなく、番城谷という字から中世の山城にともなう「つぶて石」(中世の武器)との見方が強かった。つまり、番城谷山5号墳は墳丘墓上に山城を築いた複合遺跡と考えられていた。
しかし、5月の分布調査のさい番城谷山4号墳の墳頂部からは埴輪と葺石が発見された。そのため、4号墳と5号墳の間に散乱した川原石は、古墳の表面を覆っていた葺石であり、巨大な盛り上がりは墳丘墓ではなく円形を呈する古墳であることが判明した。これまで大規模古墳と認識されなかったのは、雑木により見通しが悪かったことが原因だと考えられる。
葺石
(3)発掘調査
本古墳群は当初、6基と考えたが、発掘調査の成果により7基からなることが明らかとなった。1号墳は円墳、2号墳は方墳、3号墳は方墳、4号墳は円墳、5号墳は造出部をもつ円墳、6号墳は円墳、7号墳は円墳である。とくに、5号墳は標高157mの尾根先端に位置する群中最大で、丹南盆地初となる埴輪と葺石の両方をもつ古墳である。北側に隣接する4号墳も同様であり、5号墳と密接な関係が指摘できる。高所にもかかわらず葺石を有していたので、その被葬者は越前の大首長に匹敵する政治権力者であったとみられる。
番城谷山5号墳の円丘部
越前町教育委員会は越前町文化財悉皆調査事業の一環で、平成22年(2010)から平成26年(2014)にかけて番城谷山4・5号墳の試掘調査を実施した。古墳の墳丘規模や築造時期だけでなく、その被葬者像と政治権力者の登場に至る社会背景を明らかにすることを目的とした。
第1次調査 平成22年9日1日~29日に実施した。平成21年度の測量調査により、墳長55mをはかる帆立貝形の前方後円墳と考えたので、調査は墳丘規模の確認と造営時期の比定を主な目的とした。造出部・後円部・くびれ部・前方部など墳丘周辺部を対象とし、調査区は幅1mで、合計10か所のトレンチを設定した。調査面積は57㎡である。
第1トレンチでは造出部長の規模を確認した。造出部には葺石は存在せず、埴輪も検出されなかった。平野から見えない場所に位置していた可能性が高い。第2・6・9・10トレンチでは円墳部分の墳丘裾部を検出することを目的とした。すべてのトレンチにおいて天王川の川原石を用いた葺石が検出された。とくに、墳裾の基底部には他より大きめの石が採用され、墳丘の外縁部を縁取るように配されていた。第6トレンチでは墳裾から1mほど離れた距離に埴輪列があり、直線を意識して樹立されていた。第9・10トレンチは、くびれ部あたりの調査区で、後円部の外縁をめぐる埴輪列が検出された。第5トレンチとつながる埴輪列である。
第3・4・5・7・8トレンチは前方部の墳丘裾部を対象とした。第3トレンチからは葺石が検出されたが、反対側にあたる第4トレンチからは葺石の検出はなかった。第5トレンチでは墳丘斜面に直線方向を意識して葺石が葺かれたが、埴輪列は確認されなかった。第8トレンチでは葺石が検出されたが、上部からの転落とみられる。第7トレンチでは直線を意識した部分的な葺石のあり方であった。第4トレンチからは葺石が皆無であったので、平野から見えない箇所は省略したとみられる。各トレンチからは円筒埴輪が出土したが、朝顔形の欠片も含まれていた。
第2次調査 平成23年8日15日~30日に実施した。5号墳の東側には幅広の第15トレンチを設定し、くびれ部の検出に努めた。他にも後円部径を把握するため、墳頂部に第11~14という4か所のトレンチを設定した。調査面積は51.3㎡をはかる。後世の山城の造成により墳頂部の半分ほどが崩れていたため、第14トレンチでは遺構らしきものは何も発見されなった。しかし、第11・12トレンチでは埴輪の基底部が中心から一定距離で残存し、第11トレンチでは墳丘斜面近くに葺石がわずかに検出された。第13トレンチでは埴輪も出土したことから、墳頂部には埴輪がめぐり、墳丘斜面には葺石をもつことが確実となった。第15トレンチでは円墳の墳裾から1mほどの距離に埴輪が樹立し、短く直線を意識した配列であった。円墳部分を取り囲む多角形の枠をはめ込んだイメージの樹立であった。埴輪列の外側からは大甕・須恵器・管玉が出土し、いずれも粉々に破砕し墳裾に廃棄された状況であったので、埋葬儀礼にともなうものとみられる。
円筒埴輪は多数出土し、上部が大きく開く朝顔形の破片も含まれていた。永平寺町の鳥越山古墳出土の埴輪と酷似するので、古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できる。第15トレンチのくびれ部付近からは、大甕1点ともに坏・高坏などの須恵器20点が出土した。大甕はその形態的特徴から陶質土器の可能性が高く、古墳中期初頭あたりに比定できる。陶質土器であれば、朝鮮半島南部からもたらされた可能性が高い。須恵器は古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できるが、大阪の陶邑産のほかに産地不明のものを多く含んでいた。産地不明のものは丹生窯産の可能性もあり、今後の分布調査の成果が期待される。
須恵器の出土状況(15トレ)
須恵器大甕の出土状況(15トレ)
第3次調査 平成24年8月21日~9月28日に実施した。測量調査により前方後円墳としたが、その決定づける根拠はなく、別々の古墳である可能性が高まってきた。墳丘形態と規模の把握を目的として、第16~20 トレンチの調査を実施した。調査面積は48.1㎡である。第3~5・7・8・16~18トレンチは前方部と想定した地点である。
調査の結果、各トレンチで墳裾が確認された。長軸18.8m、短軸10.9mの長方形であった。第3・7・17・18トレでは、墳丘の周りを大きめの石で縁取り、それを基点に石を積み上げていた。第10・15・16トレンチでは埴輪列を検出した。墳裾から1mほど離れた地点に位置する。埴輪列は円形の墳丘に沿うようにカーブ描いてはめぐらず、ある程度のまとまりで直線を意識して樹立されていた。埴輪列には一定の隙間があり、数個の埴輪を単位としている。方丘部の中央を断ち割ると、第19・20トレで埋葬施設が検出された。墓壙は長さ6m、幅1.7m以上、木棺は約2.4m、幅0.9m以上をはかり、土層の堆積状況から箱形木棺と判断した。
各トレンチでは多くの円筒埴輪が出土した。上部が大きく開く朝顔形のものも含む。第19トレの埋葬施設内で、鉄剣(長さ76㎝・幅4㎝)が出土した。中心よりやや南側で、遺体の脇に置いた副葬品になる。木質の痕跡があることから、木製の鞘に収められていたと考えられる。
当初、前方後円墳との理解で調査を開始したが、前方部と後円部は溝で区画され、それぞれ葺石をめぐらすことから、別々の古墳であった可能性が高い。両古墳の接続部には埴輪を樹立させない箇所(橋状のものか)が1mほどあり、円形の半径が方形の長軸と一致することを考えると、前方部と考えた墳丘は陪冢的な方形古墳(番城谷山7号墳とした)ととらえる。結果として陪冢をもつ大型円墳となり、両墳の強い関係性が浮き彫りとなった。第1トレンチで検出された造出部とすれば、造出部付円墳と考えられる。
埴輪列(16トレ)
番城谷山5号墳の陪冢
第4次調査 平成25年8月21日~9月20日に実施した。これまで5号墳の墳丘周辺を中心に20か所(1~20トレンチ)の調査区を設定し、その墳丘形態と規模の把握と造営時期については把握できた。現状では、後世の城の築造により墳丘半分が撹乱を受けていた。埋葬施設も同様に削られたことも考えられたので、その内容を把握することを目的とした。墳頂部にあたる第21・22トレンチの2か所の調査を実施した。調査面積は10.7㎡である。
第21トレンチは幅1mのL字状のもので、北側に伸びたトレンチの中程において埋葬施設が検出された。幅1m(断ち割り幅0.4m)と部分的ではあるが、断面の観察と陥没状況から木棺(2号埋葬)で、短軸幅0.5m、長軸0.5m以上をはかる。墓壙は短軸2.1m、長軸1.1m以上をはかる。
その南側に位置する第22トレンチも幅1mのL字状のもので、その結節点のあたりで埋葬施設(断ち割り幅 0.4m)が検出された。木棺(1号埋葬)直葬で、棺の裏込めの土からは5~15㎝程度の川原石が充填された。墓壙の短軸幅は6.3m、長軸は8.3mをはかる。木棺の規模は推定になるが、短軸1.0m、長軸4.0mをはかる。
2つの埋葬施設は墳丘を形成した後、地山まで掘り込んで木棺を埋設していた。また、埴輪の底部が、第21トレンチの延長にあたる第12トレンチと第22トレンチの延長にあたる第11トレンチの傾斜変換点において検出されたので、墳頂部外縁には埴輪が樹立していた。
1号・2号埋葬からは副葬品が確認できた。しかし、調査の目的は内容の把握であったので、記録をとり、きれいな砂を敷き詰め丁寧に埋め戻した。5号墳の墳頂部は攪乱を受けていたが、2つの埋葬施設が確認できた。1号埋葬は規模が大きいことから中心埋葬と考えられる。幅の狭いトレンチ調査であったが、墓壙や木棺の規模がある程度判明した点で、ひとつの成果といえるだろう。
第5次調査 平成26年8月19日~9月24日に実施した。5号墳の墳丘周辺を中心に22か所(1~22トレンチ)の調査区を設定し、その墳丘形態と規模の把握と造営時期について把握した。造出部にあたる第23・24トレンチの2か所と4号墳の2か所を実施した。調査面積は30㎡である。
5号墳は墳丘西側の円墳に造出部が付属すると考えられる。造出部の幅は未確定であったので、1トレンチに直交するトレンチを設定した。第23トレンチでは何も検出されなかったが、24トレンチでは造出部の長軸に直交する形で、埴輪列が検出された。造出部長は7.5m、円墳部分は直径37.5mをはかり、墳長45mの造出部付の円墳として規模が確定した。
5号墳の前後関係を確定するために、4号墳に十字状に2か所(第1・2トレンチ)設定した。5号墳に近い方のトレンチを伸ばして設定し、その切り合い関係を明らかにした。その結果、5号墳をめぐる埴輪列が確認でき、しかも破壊されていた。そのため、5号墳→4号墳という築造順になった。4号墳は直径18mの円墳で、埴輪と葺石が検出された。埴輪は5号墳と似たタイプであり、時期差は認められない。
築造時期は5号墳と同じ時期で、古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できる。ただし、葺石は5号墳と比べ若干小ぶりで、陪冢(7号墳)のものと似ていたので、5号墳と差別化された可能性が高い。
番城谷山4号墳の葺石
まとめ 5号墳は墳長45mの造出部付の円墳、4号墳は18mの円墳であり、ともに古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中頃)に比定できる。両墳は埴輪と葺石をともに有し、両方もつものとしては丹南盆地唯一といえる。当初、前方部と考えていた方墳(7号墳)は陪冢と考えた。4号墳は5号墳のあとに造営された古墳で、同じく埴輪・葺石をもつ古墳で、古墳中期前半でも中頃に近い時期と考えられる。とくに5号墳については県内有数の政治権力者の墓といえるだろう。当該期に限定すれば、越国の王に匹敵するような墓の規模となる。その被葬者は相当な力を有する政治権力者であったことが推測できる。
番城谷山5号墳
(4)古墳の概要
番城谷山4号墳 4号墳は5号墳の北側に隣接し、標高155mに位置する。直径18m、高さ2.5mの円墳である。発掘調査では埴輪列が検出され、墳頂部と墳丘周辺に円筒埴輪が樹立されていた。墳丘には葺石が葺かれていた。5号墳が崩壊したあと4号墳の墳丘を成形しているので、5号墳→4号墳の順とみられる。築造時期は5号墳と同規格の埴輪であるので、古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できるが、より中葉に近い時期と考えられる。
番城谷山4号墳
番城谷山5号墳 尾根先端の標高155mに位置し、墳長45m、高さ6mをはかる造出部付円墳である。前方部は後世の崩れにより不明確であるため、円墳の可能性も残されている。後円部は直径37.5m、後円部の北西部には長さ7.5mの造出部が付属する。墳丘は葺石で覆われ、その周囲には円筒埴輪が樹立されていた。埋葬施設は2基あり、いずれも木棺直葬であった。ひとつは粘土槨をもつ有していた。築造時期は埴輪と須恵器の時期から古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できる。
番城谷山7号墳 当初、5号墳の前方後円墳の前方部と考えていた古墳である。一辺17m×18mをはかる長方形の古墳である。平野側と5号墳側の墳丘には葺石をともなうが、平野から見えない箇所は省略されている。ちなみに5号墳の葺石と比べると、小ぶりであり、番城谷山4号墳のあり方に近い。墳裾からは円筒埴輪の底部(朝顔形埴輪か)が発見された。築造時期は5号墳との関係性と埴輪の時期から、古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できる。
円筒埴輪 4号墳と5号墳からは円筒埴輪の底部が採集された。ここで、その1点を紹介する。上部は経年により欠損し、底部のみ残存する。底径24.2㎝、底部高13.3㎝、残存高16.9㎝、厚みは最大で約1.6㎝をはかり、突帯部は断面がほぼ台形を呈し、器壁から約1.2㎝外方に突出する。胎土は橙色でやや粗く、3~5㎜程度の小石を含む。調整は摩滅のため確認できない。他にもラッパ状に開く口縁部や肩部の破片があるので、朝顔形も存在していた。埴輪は永平寺町の鳥越山古墳出土のものと規格が酷似するので、古墳中期前葉~中葉(5世紀前葉~中葉)に比定できる。
円筒埴輪
葺石 古墳の周辺には15~30㎝程度の川原石が散乱し、実際の発掘調査により古墳の表面が葺石で覆われていたことが判明している。川原石は天王川のものとみられる。古墳と平野との比高は約140mをはかり、大量の葺石を高位置まで運んだことになる。古墳が造られた当時、平野側野から古墳を見たとき、川原石で覆われた古墳は光り輝き、南越盆地のシンボル的な存在として、人々の目にうつっていただろう。
なお、福井県内の葺石と埴輪をもつ大規模古墳のなかでは、坂井市の六呂瀬山1・3号墳、永平寺町の手繰ヶ城山古墳に匹敵する高所の造営である。六呂瀬山1号墳は北陸最大の前方後円墳(墳長140m 4世紀末築造)であり、越国の盟主的な人物が埋葬されている。標高180mに位置し、平野からの比高約150mをはかる。番城谷山5号墳は、越国の盟主的な墓の高さに匹敵することが特筆すべき点である。しかも、古墳時代中期に限れば、番城谷山5号墳は県内で最も高い場所にある葺石と埴輪をもつ古墳となるだろう。
陶質土器 平成23年(2011)の15トレンチから出土した。調査時は、赤みを帯びた陶器の破片が散乱していたので、越前焼だと認識していた。ただ、破片中に1㎝程度の突起をもつものがあり、接合を試みると高さ76.8㎝、最大幅59.6㎝の大甕に復元できた。古墳時代の須恵器ならば、表面に叩き工具の跡が残るが、きれいになで消されていた。それは内面にも及ぶ。下半分の一部が欠損していたが、かろうじて底部は残っており、指押さえの明瞭な跡と放射状のしぼり痕が底面に認められた。
最大の特徴は両肩の突起にある。朝鮮半島の土器は肩部に突起をもつことが多い。こうした特徴のものは、大阪府堺市の大庭寺窯跡や和歌山県和歌山市の鳴滝遺跡などで出土する程度で、朝鮮半島南部に多い。生産地を探ると、朝鮮半島南東部の新羅であった可能性が高く、しかも製作時期は4世紀末頃~5世紀初頭とみられる。全国でも類例が少なく、極めて稀なものといえる。
しかし、胎土を観察すると、甕には赤い粒状のものが多数含まれ、他の須恵器高杯と似た様相であった。ここでは陶質土器として報告したが、高杯などは陶邑産とは考えにくいものもあるので、須恵器工人を招き、埴輪とともに地元で製作した可能性も考えておく。今後の調査で明らかにしたい。
陶質土器
(5)発掘調査の成果
発掘調査の成果は以下の3点にまとめられる。
20年ぶりの新発見の古墳 福井県の嶺北南部にあたる丹南地区では、これまで墳長50m前後あるいは50m以上の大型古墳は5基が知られていた。これらは丹南地区でも盟主的な存在であり、4~5世紀に位置づけられるものであった。これらの系列は以下のようになる。
①鯖江市の今北山古墳(墳長74m 前方後円墳 4世紀中葉)
②越前町の経ヶ塚古墳(墳長74m 前方後円墳 4世紀末)
③越前町の朝日山古墳(墳長57m 前方後円墳 5世紀初頭)
④鯖江市の兜山古墳 (墳長60m 円墳 5世紀前半)
⑤番城谷山5号墳(墳長55m 造出部付円墳 5世紀前半)
⑥鯖江市の中坂古墳(墳長46m 前方後円墳 5世紀後半)
これまで④と⑥あたりの状況が判然としなかった。その点で兜山古墳の後続とみている番城谷山5号墳の存在が大きな意味をもつ。なお、6代続く系列のうち3代が越前町の政治権力者で占めるため、丹南地区における政治的な優位性がうかがえるだろう。かりに一代を20年とすれば、政治の中心地が少なくとも60年は越前町にあったことになる。
埴輪と葺石をもつ古墳は丹南初の発見 丹南地区では埴輪をもつ古墳として、これまで越前市の村国山古墳(墳長22m 円墳 5世紀中頃)、越前市の岡本山1号墳(墳長45m 帆立貝形古墳 6世紀前葉)が知られていた。しかし、葺石をもつ古墳は発見されていなかった。番城谷山5号墳は、葺石と埴輪をもつ唯一の古墳であることから、その特異性が浮き彫りとなる。
5世紀中頃では県内最大級、県内最高所に造られた古墳 番城谷山5号墳(墳長55m 帆立貝形古墳)と同時期とされる大型古墳は、永平寺町の泰遠寺山古墳(墳長62m 帆立貝形古墳)、永平寺町の鳥越山古墳(墳長54m 帆立貝形古墳)があげられる。泰遠寺山古墳は平野部にあり、葺石や埴輪を有するが、鳥越山古墳は標高257mと高所にあるせいか、葺石をもたない。ふたつの古墳を副葬品など、他の要素で比較すれば、越国の盟主的な存在は明らかに泰遠寺山古墳の被葬者と考えられる。
また、嶺北北部(福井平野・坂井平野)と嶺北南部(南越盆地)の古墳を比較すると、嶺北北部の方が圧倒的に大きく、倍ほどの大きさの差があった。その中にあって、番城谷山5号墳は標高155mの高所にもかかわらず、葺石が全面に葺かれている。しかも、規模でいえば、永平寺町の大型古墳と大差ない。したがって、番城谷山5号墳に埋葬された人物は、かなりの政治権力を有しており、越国の盟主的な政治権力者に匹敵するだけの力を有していた可能性が高い。
次に、葺石と埴輪をもつとともに標高の高い古墳は以下にある。
①六呂瀬山1号墳・3号墳(標高180m 比高150m 4世紀末~5世紀初頭)
②番城谷山5号墳(標高155m 比高140m 墳長45m 5世紀前葉~中葉)
③手繰ヶ城山古墳(標高145m 比高110m 墳長138m 4世紀後半)
葺石と埴輪をもつ標高の高い古墳は、いずれも4世紀代のもので、しかも、越国の盟主的な古墳にしか採用されていない。番城谷山5号墳は古墳中期にあって異例の存在といえる。番城谷山5号墳の被葬者は高さの点からも、越国の盟主的な政治権力者に匹敵する人物であっただろう。
番城谷山5号墳から見た白山
※本文は、御嶽貞義「朝日町域の首長墳の動向」『朝日町あ誌 通史編』朝日町誌編纂委員会 2003年、古川登・御嶽貞義「越前地方における古墳時代―首長墓古墳の動向を中心に―」『小羽山古墳群』清水町教育委員会 2003年、堀大介「調査速報 番城谷山5号墳の分布調査の成果―丹南地区初の埴輪と葺石をもつ古墳の発見―」『越前町織田文化歴史館 館報』第5号、越前町教育委員会 2010年、堀大介「番城谷山4・5号墳」『第30回福井県発掘調査報告会資料』福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 2015年などをもとに執筆した。