織田文化歴史館 デジタル博物館

1 浄勝寺

 浄勝寺は真宗大谷派に属す。寛保3年(1743)の「浄勝寺由緒書」によると、延暦24年(805)南無阿弥陀仏寺と称し糸生郷野田邑に建立された。元久2年(1205)の専修念仏停廃に従い、真如寺と改号する。天文年間(1532-55)本願寺証如に帰依したが、天正3年(1575)の織田信長の越前侵攻に際し寺院は断滅する。その後、糸生郷上野邑に寺を建て、慶長15年(1610)本願寺教如から浄勝寺の寺号を下付された。寺は下糸生字寺屋敷に移り、江戸時代末期に現在の地へ移転した。


浄勝寺 遠景

浄勝寺 本堂

2 丹山の誕生から青年期

(1)丹山の誕生

 天明5年(1785)、丹山(たんざん)は下糸生浄勝寺に生まれる。父は浄勝寺第12代住職の順慧、母は信子で、本名を上野順藝という。丹山の生涯については山田秋甫が著した『浄勝寺丹山』に詳しく、幼名は豊丸、烏山・志道・希芳・水月・来来子・ゝ一(ちゅこん)・桐蔭など数多くの雅号をもっていた。もっとも有名な雅号が丹山であり、その名は生まれ育った丹生の山々からとったと伝えられる。彼の郷土に対する深い愛情を見てとれる。

(2)幼少期の丹山

 丹山は4歳にして、1,869字からなる『阿弥陀経』を暗誦したと伝えられるほどの秀才であった。周囲の人々は、彼を「曇鸞の再生」と評したという。曇鸞(476-542)は中国北魏後半から北斉にかけて活躍した僧侶で、「浄土五祖」・「真宗七高祖」に数えられる聖人の一人である。

 寛成3年(1791)、7歳になった丹山は香月院深励(こうがついんじんれい)の弟子となる。深励は江戸時代後期の真宗大谷派を代表する僧侶で、高倉学寮(大谷大学の前身)の講師(現在の学長に相当する位階)となって精力的に講義をおこない、近世大谷派宗学を大成した。大谷大学博物館に伝わる『垂天結社簿』によれば、深励の門下生は全国に1,249人を数え、大谷派のなかでも主流な学派を形成する。『垂天結社簿』には、「一、越前糸生村浄勝寺新發意 随願(花押)/更名 丹山/右、加州覺城寮司先容」とみえ、丹山が「随願」と称していたことがうかがえる。

 深励の一派は経典の一言一句を正確に読むことで知られ、現在の仏教学・真宗学に通じる研究の礎を築いた。真宗大谷派から、明治時代に清沢満之(きよざわまんし)、大正時代に南条文雄(なんじょうぶんゆう)などの宗教哲学者が輩出された下地をつくったのは、まさに深励である。

 丹山は深励という最高の師のもと幼少より仏道修行に励み、仏典研究の基礎を学んだ。丹山が残した数々の業績をみると、彼は非常に几帳面で真面目な性格であったことがわかる。その特性は深励のもとで形成されたといえる。


木造丹山坐像(浄勝寺所蔵)

(3)京都での遊学

 文化2年(1805)、21歳になった丹山はさらなる研鑽を積むため、京都へ旅立った。文化3年(1806)、高倉学寮において擬寮司(ぎりょうす)に就任する。当時、高倉学寮に入学した学生は10ほどの寮のいずれかに所属した。寮には統括者として寮司(りょうす)が置かれ、擬寮司が補佐を行う。後に、丹山が『黄檗版一切経』の校合を行う際、寮司としてみずからの寮の学生を多数使って作業を進めた記録が遺る。

 この年以降、丹山に関する記録は長期間にわたって確認できず、彼の足取りをたどることは難しい。次に、丹山が登場するのは文政3年(1820)のことで、高倉学寮における夏安居(げあんご)会読で『金剛般若経賛述』を講義した。

 夏安居とは、夏期に行う集中講義のことである。もともとインドでは春から夏にかけての3か月間は雨季になり、外を出歩くことが困難であった。また、むやみな殺生をさけるため、外出を控えたという。そこで、修行者たちは1か所で集団生活し、修行に専念した。これを雨安居(うあんご)という。雨季という明確な季節のない中国や日本では、陰暦4月16日より3か月間に安居が行われ、夏安居と呼ばれた。

 丹山は『金剛般若経賛述』の講義に備え、各種の経典を比較研究したという。この時、朝鮮半島の高麗(918-1392)で編纂された『高麗版大蔵経』(1251年に完成)がもっとも正確な内容を伝える一切経であることを知った。

3 『黄檗版一切経』の校合

(1)校合作業の着手

 文政9年(1826)、丹山は『黄檗版一切経』の校合作業に着手した。経典はブッダの教えを文章にまとめたもので、中国に仏教が伝わると経・律・論の三蔵に他の仏教文献をも含めて一切経とした。漢訳経典を中心に、日本ではさらに各宗派の宗祖の著述や作品までをも含む。

 江戸時代に入るまで、わが国では中国や朝鮮半島で編纂された一切経を利用していた。印刷技術の水準や外国からの請来のため、当時の一切経は非常に高価なもので、限られた寺院にしか収蔵されていない。日本でも一切経の編纂が求められ、天和元年(1681)黄檗宗の鉄眼道光によって『黄檗版一切経』が完成した。鉄眼の功績により日本国内に一切経が普及し、容易な経典の閲覧が可能となった。しかし『黄檗版一切経』には字句の誤りが多く、内容に正確性を欠く。このような状況を鑑み、父順慧は『黄檗版一切経』の校合を丹山に命じた。

 校合作業にあたり、丹山は高麗で編纂された『高麗版大蔵経』を底本とすることを決意し、閲覧の許可を求めて各地の寺院に依頼したという。しかし、その許可は下りず、時間だけが過ぎていく。文政8年(1825)、寺内での閲覧に限るという条件のもと、京都の建仁寺から許可が下った。

 文政9年(1826)、丹山は長男順尊(じゅんそん)・次男賢護(けんご)に加え、伊勢の大憃(だいとう)・近江の香厳(かごん)などの僧侶を助手に、高倉学寮の学生を多数引き連れ、建仁寺で『黄檗版一切経』の校合作業に着手した。

(2)校合『黄檗版一切経』の完成

 校合作業は、経典の一字一句を比較し『黄檗版一切経』に正しい用例を書き入れるものである。丹山は、細心の注意をはらい3回にわたって作業を行った。ついに天保7年(1836)、11年の歳月を経て校合を完了する。

 翌天保8年(1837)、京都建仁寺の罹災により『高麗版大蔵経』が焼失してしまう。失われた『高麗版大蔵経』の内容を知るうえでも、校合『黄檗版一切経』の価値は計り知れない。これを重視した東本願寺は、校合『黄檗版一切経』も失われることを恐れ、複製一式を本山に上納するよう命じた。『浄勝寺丹山』には、この時の様子が次のように記される。

  越前丹山が建仁寺高麗一切経蔵校合を完了したことを聴いたので、いま一度校合を行い御本山へ納めるよう仰せつけられたので、このことを丹山へ伝えよ


校合『黄檗版一切経』

(3)丹山の遷化

 東本願寺の命を受けた丹山は、校合『黄檗版一切経』の複製に取り組む。しかし、志半ばにして弘化4年9月29日に遷化する。丹山の遷化を弔う書翰は数百通にのぼったという。

 丹山の意志は長男の順尊に受け継がれ、安政3年(1856)、東本願寺に校合『黄檗版一切経』が納められた。その功績をたたえ東本願寺は順尊に羽二重一疋を贈り、丹山を贈擬講、つづいて贈嗣講に叙した。

 現在、丹山と順尊によって校合された『黄檗版一切経』は、浄勝寺と東本願寺に一式ずつ所蔵される。昭和25年(1950)、東本願寺は改めて丹山の偉業をたたえ、講師の位を追叙した。また、昭和59年(1984)3月2日、校合『黄檗版一切経』浄勝寺本は福井県指定文化財となる。


一切経蔵

4 丹山の交流

(1)頼山陽との親交

 京都へ遊学中の丹山は、漢学を頼山陽(らいさんよう)・村瀬栲亭(むらせこうてい)に、歌学を香川景樹(かがわかげき)に、書道を上田咸之(うえだみなゆき)に師事したという。

 頼山陽(1780-1832)は江戸時代後期の儒学者・歴史家・漢詩人で、安永9年(1780)大阪に生まれる。少年時代から儒学を修し、詩才の文を示した。文化8年(1811)、京都へ上って私塾を開き、著述を続けるとともに諸国を巡遊する。文政9年(1826)、代表作となる『日本外史』が完成し、翌年、老中・松平定信に献上された。その後も『日本政記』・『通議』などの完成を急いだが、体調を崩して容態が悪化。天保3年(1832)逝去した。山陽の私塾には多くの学生が集い、陽明学者にして大阪町奉行与力であった大塩平八郎(1793-1837)も門下の一人である。

 丹山は生涯にわたって頼山陽との親交を深めた。天保3年の頼山陽の葬儀にあたり、参列者名簿に「建仁寺丹山」の名がみえる。現在でも、浄勝寺には丹山と頼山陽の交流を示す資料が伝わる。

(2)大納言広幡家

 丹山の長男・順尊の妻・牧子は、大納言広幡家の出身である。牧子の兄・広幡基豊は丹山の人となりを慕い、妹を順尊に嫁がせた。広幡家は江戸時代前期の正親町天皇(おうぎまちてんのう)の血脈を継ぎ、寛文4年(1664)に新しく創立された。家格は五摂家(ごせっけ)に次いで高く、清華家(せいがけ)に属す。

 現在、浄勝寺には修理復元された長屋門が建つ。越前町教育委員会の調査により、江戸時代に築造されたことが明らかとなった。長屋門の下から菊の御紋が出土しており、浄勝寺が牧子を迎えた際に、長屋門を建立したと考えられる。


長屋門

(3)贈られた瓦経

 浄勝寺には東条義門から贈られた瓦経と筥書が伝わる。瓦経は、厚さ2.0㎝をはかる。色調は表面・灰白色、裏面・黒色を呈し、焼成は良好である。遺存状況は悪く、大部分が欠失する。表裏は縦横の罫線で区画され、箆書きによって『妙法蓮華経』巻第六分別功徳品第十七が刻される。

 筥書は次の通りである。

今茲つちを取と度會郡上三郷といへる山をはほり侍けるに
思う玉へかけす底より瓦の碎けたるなん夥く出ぬる
佛經のと覚敷文字の裡にも表にも皆彫れる侍て
なかにハ承安の文し見えて月日記せるも侍りさは
菩提求る深信の古人のしわさなめり是ハ其か片われそと
伊勢白米神主よりわかうますな小濱へ年に消息傅る井村
傅信の贈れるを獲て六百とせに七十やそち餘れる昔の志のハ
るる侭に斯様の物好ませれハと聞えて越前丹山師に参らせ
けるにこハ妙經分別功徳品の偈文そと押戴つつやかて函つくら
されてさて此蓋にをと件の事の實記しつ淡いう誂へ
ませるまにまに其師能京乃僑舎にして天保十年
といふとしの冬かくしるすはわかさの義

 東条義門(1786-1843)は真宗大谷派の学僧で、若狭国小浜妙玄寺第7世住職である。享保2年(1802)高倉学寮に入学し、真宗聖教を学ぶ。宝暦年間における宗界の混乱から、宗典解釈に国語学導入の必要を痛感し、国語学研究に生涯を傾けた。

 義門は、本居宣長をはじめとする国語学史上注目すべき業績を考察し、独自の学風を築きあげた。彼の研究は音韻研究・活用研究・聖教研究に及び、『男信』3巻・『於乎軽重義』2巻・『活語指南』2巻をはじめとする多数の著作を遺すなど、今日の国語学の基礎を築く。


瓦経並筥書

※本文は、越前町教育委員会『平成30年度 越前町織田文化歴史館 幕末明治福井150年博特別展示 幕末明治の越前町』2018年 より引用・一部改変したものである。