織田文化歴史館 デジタル博物館

1 角鹿(敦賀)の蟹はズワイガニか?

 『古事記』応神天皇段には角鹿(つぬが)の蟹(かに)に関する記事がある。角鹿は敦賀(つるが)のことで、敦賀は越前国に属するので、角鹿の蟹が記録上最古の越前蟹になるわけである。この蟹の正体については意見が分かれている。福井県としてはズワイガニと考えたいところだが、その当時に水深200mの深くに生息するズワイガニを取ることができたといえば、それは難しい。別の蟹と考えた方がいいので、ここでは最古の越前ガニの正体を詳しく見てみよう。

 応神天皇が近江国に行幸したとき、木幡村(京都府宇治市)で和邇(わに)の比布礼能幸忌富美(ひふれのおみ)の娘、宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)という美しい少女に出会った。応神は彼女を気に入り、その家に立ち寄って饗宴を受けた。そのさいに応神は、酒杯を矢河枝比売の手に持たせて、つぎの歌を贈った。

  この蟹や いづくの蟹 百伝(ももつた)う角鹿の蟹 横去らう いづくに到る 伊知遲(いちぢ)島 美島に著(と)き 鳰鳥(におどり)の潜(かづ)き息づき しなだゆふ ささなみ路を すくすくと 我が行ませばや 木幡の道に遇はしし嬢子(おとめご) 後姿は 小楯ろかも 歯並みは椎菱如(しひひしな)す……

 角鹿の蟹がはるばると横歩きでやってきて、伊知遲・美島に到着し、鳰鳥(カイツブリのこと)が潜って、魚を捕らえるときのように息継ぎをしながら、ささなみ道(近江路か)をまっすぐに私はやってきたという意味である。つまり、角鹿の蟹は応神自身の比喩として登場している。

 応神のたとえとして、なぜ角鹿の蟹が選ばれたのか。角鹿が大王に対して供膳を奉仕する窓口の機能を果たし、角鹿の蟹も大王の食膳に供する献上物=贄(にえ)としてもたらされたのであろうが、なにより気比大神と応神の特殊な関係が考えられる。敦賀から近江をたどり届けられる蟹は、大王の比喩にふさわしい珍味であったとみている。

 その蟹の正体に迫っていこう。『万葉集』巻16に「乞食者(ほかひびと)の詠(うた)二首」の長歌があり、前の一首が「鹿の為」(3885番)、後の一首が「蟹の為」(3886番)に痛(いたみ)を述べてつくったとある。後者については、難波の小江にいた葦蟹(あしがに)が大王の命で飛鳥に召され、干されて臼に搗(つ)かれ、甕に入れられて塩を塗られ、腊(きたい)(干物の一種)として食べられてしまうさまを、乞食者が蟹に代わって痛んでつくったという内容になる。

 のちの史料になるが、『延喜式』宮内省、諸国例貢御贄(みにえ)として摂津国が見える。『日本三代実録』元慶3年(879)正月3日条に、空海の弟真雅(しんが)の卒伝として、真雅は清和天皇の信任厚く、天皇は真雅の奏上にしたがって「摂津国の蟹の胥(ひしこ)(塩干し)、陸奥国の鹿尾」を食膳に供するのを停めたとある。つまり、難波に属する摂津国が蟹を贄として大王に献上していたと考えられる。

 『万葉集』の蟹の歌については、本来は蟹に扮した演者が登場し、蟹の所作を演じたのではないかとの見解がある。詳しくみると、蟹自身が「大君はどうして私を召すのだろう。私を歌うたいと思ってお召しになるのだろうか。笛吹と思ってお召しになるのだろうか。琴弾きと思ってお召しになるのだろうか。そんなはずはないだろう」と詠い、そのあとに臼で搗かれて塩干しにされる過程が描写される。こうした滑稽な内容は演劇的な所作で、難波の蟹の歌が芸能を生業とする乞食者によって市などで演じられたのだろう。

 角鹿の蟹の歌も「横去らう」という横歩きの表現や、「すくすくと」という擬音語の使用などから、蟹に扮(ふん)した演者を思わせる。その演じられた場所は、大王が臨席する宮廷の宴席だったとも考えられる。角鹿の蟹は大王の食膳を彩る珍味で、応神ゆかりの深い御食津大神(みけつのおおかみ)の鎮座する敦賀から献上されたものである。それが角鹿の蟹として取りあげられた理由とみたい。

 これらを前提にすると、角鹿の蟹は海底深くに生息するズワイガニと考えるわけにいかない。「百伝う」という遠くからはるばると、「鳰鳥」のように息継ぎをしながらやって来る表現や、難波の葦蟹の記録などから、川に生息する蟹と考える方が妥当であろう。それにふさわしいのはモクズガニだ。いまでも潰しながら食する調理方法があるし、産卵時は海に、普段は陸に生息し、海と陸をつなぐ存在でもある。その点で角鹿の蟹のイメージに近いといえる。

2 越前ガニの歴史

 越前ガニを代表するズワイガニ。十脚目ケセンガニ科のカニで、水深200~300mほどの深海に生息するカニである。福井県の近海で取れたズワイガニは、福井県民からの募集にもとづいて平成元年(1989)3月、県の魚として定められ、翌年にシンボルマークが選定された。本物の越前ガニには黄色いタグが付いており、のちに類似したブランドガニが各地に登場したが、全国最初にタグ付けを実施したのは越前ガニである。冬になると越前町では越前ガニ漁が盛んになるが、福井県を代表する特産品で、「冬の味覚の王者」として知られる。

 それでは、越前ガニは記録上いつから出てくるのか? 最も古い記録は、室町時代後期の公家、三条西実隆の日記『実隆公記』である。1511年3月20日には「伯少将送越前蟹一折」、翌21日の日記には「越前蟹一折遣竜崎許了」とある。しかし残念ながら、この記事の越前蟹がズワイガニかどうかは分からない。

 ズワイガニが確実に登場するようになったのは、水深200m前後の深い海で漁が可能になった安土桃山時代(16世紀後葉~17世紀初頭)とみられている。また、若狭では1600年代になると全国にさきがけ、若狭湾沖合の深い海でもカレイなどを目的とした漁がおこなわれ、そのなかにズワイガニも混じっていたという。こうした事例から16世紀前葉にみられる越前蟹は、漁の発達などを踏まえると、ズワイガニであった可能性は高いだろう。

 それでは、ズワイガニは歴史的にいつ頃から獲れ、食べられるようになったのか? やはりズワイガニが偶然、海岸に打ち上げられることは考えにくいので、やはり底引き漁の発達する16世紀以降とみられる。ズワイガニは漢字で「楚蟹」と記す。「楚」は訓読みで「いばら」、音読みで「そ」と読む。「すわえ」とも読むが、意味は「若い枝のまっすぐなもの」である。和名には色々な諸説があるが、ズワイガニの細長い脚が木の幹からたくさんの枝が伸びたように見えるので、「楚」がその由来になったと考える説は妥当であろう。とすれば「すわえ」がなまり、「ずわい」になった可能性が高い。

 ズワイガニの名称は江戸時代中期に使われ始めるという。この頃にはすでに漁獲され、京都まで運ばれていたことになる。全国の諸藩が江戸時代中頃に領内の産物帳を幕府に提出するが、北陸と山陰ではズワイガニを指すとみられる記録がある。『越前国福井領産物』(1724年)では、「取得かたき時節も御座候」との注意書きを加え、「ずわいかに」と記されている。また、江戸時代の小浜の様子を伝える『稚狭考(わかさこう)』や『日本山海名産図会』の若狭鰈(がれい)の項には、漁のさい一緒にカニが採れたとある。とすればズワイガニは、おそらく室町時代頃から取られるようになり、江戸時代の初めには漁村で食用とされると、次第に都市部へと広がっていったのだろう。

 さて、明治時代になると、越前ガニが皇室への献上品となっていくが、献上の最初は明治42年(1909)とみられる。明治43年(1910)元旦の福井新聞によると、「蟹を献上す」の見出しのもと「客秋 東宮殿下の行啓に際して殿下が本県の物産陳列場へ成らせられたる時、中村知事は一々御説明申上げつつ、本県の水産物に関し蟹の美味たることを言上し、且つ仝漁期に至れば献上致したきことを侍従へ申出でたる由して、知事は旧臘状況を機とし、態さ丹生郡四箇浦より新鮮なる蟹を取寄せ、自身之れを携帯し、帰京早々東宮御所に奉伺し、献上の手続を為したるに殿下には深く御満足あらせられ、即日御晩餐の御膳、召させられたるやに漏れ承はる」とある。

 明治42年12月に、福井県の中村知事が丹生郡四箇浦村(越前町)で捕れた越前ガニを東宮御所に献上した内容である。具体的に、東宮殿下が福井県に行啓された時、知事は県の水産物に関して蟹が美味であることを申し上げ、かつ漁期になると献上したいという旨を侍従へ申し出た。知事は年末に上京した際、四ケ浦から新鮮な蟹を取り寄せ、東宮御所に献上したところ殿下には深くご満足され、その日の晩餐の御膳で召し上がられたという。これが福井県からズワイガニが皇室に献上された最初とみられている。

 その後、代々の天皇に三国港で獲れたカニを献上しているため、越前蟹は献上ガニとしても知られる。献上は大正11年(1922)から毎シーズン続けられている。ただし、戦後の3年間と昭和天皇崩御の年を除く。現在は三国の魚問屋が持ち回りで担当している。2007年は2月7日に三国漁港(坂井市三国町)に水揚げされた越前ガニから15匹を厳選し、両陛下、皇太子家、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家に届けられている。こうして天皇皇后両陛下をはじめ、7つの宮家へ献上が今でも続いている。


越前ガニ

堀大介「講義10 越前蟹の献上と御食国」『平成22年度越前学悠久塾講義概要』2011年をもとにした。