織田文化歴史館 デジタル博物館

1 スイセンとは

(1)スイセンとは?

 「越前水仙」は、品質の良い越前海岸産の花卉である水仙のブランド名で、植物学的には、ヒガンバナ科スイセン属のニホンズイセンである。一般的に、単に「すいせん」と言うと、ニホンズイセンの他にもバルボコスイセンやラッパズイセンも含んで、スイセン属を指す場合が多い。

 スイセン属の学名はNarcissusである。この名前はギリシャ語由来で、ギリシャ神話に登場するナルキッソスに由来すると言われ、この「ナルキッソス」は、麻痺させるという意味のギリシャ語「Narce(ナルケ)」に由来すると言われる。スイセン属植物は、アルカロイド系のリコリン(lycorine)、ガランタミン(galanthamin)、タゼチン(tazettine)や不溶性のシュウ酸カルシウムを全草に含み、有毒である。

 スイセン属は他のヒガンバナ科の植物に比べて、副花冠(花の中央の盃形で花弁状の部分)が目立ち、花糸(雄しべの柄の部分)が花弁に癒合しているのが特徴である。このような花の特徴は、スイセン属では動物によって花粉が媒介されているということを示している。実際、地中海沿岸では、スズメガ類(蛾のグループ)やハナアブ類が花粉媒介していると報告されている。

 野生のスイセン属は、地中海沿岸を中心にヨーロッパ・北アフリカに分布し、50~60種が知られている。花弁の形状や副花冠の形状、花の数などを基準に2亜属10節に分けられる。園芸品として日本でも多く流通しているラッパズイセンの野生種は、ヨーロッパに広く分布している。野生品では、花は1本の花茎に1個だけで、花弁も副花冠も黄色である。Narcissus亜属 Pseudonarcissus節に分類される。

 一方、ニホンズイセンは、花は花茎に5~8個もつき、花弁は白色、副花冠は黄色である。こちらは、Hermione亜属 Tazettae節に分類される。一言に「水仙」といわれるが、野生品であっても、かなりのバリエーションがある植物である。

(2)園芸植物としてのスイセン属

 紀元前ギリシャ時代の詩には既にスイセンが現れる。この頃には、園芸的価値が見出されていたと考えられる。交通網が発達し、花卉の産業的価値が高まった16世紀ごろから、人為的に改良され生産されていたスイセンの園芸品種についての分類が試みられ、1629年にJ. Parkinsonは約100種類を記載した。1954年までにイギリス王立園芸協会に登録された品種は、約1万1000種類と言われている。その後も、年間200種類ほどが新たに登録され続けているといわれている。

 このように多くの園芸品種が作出された理由としては、他の植物にはあまり見られない特徴的な副花冠という部分があること(改造し甲斐のある形態)、ヨーロッパに多くの野生種が広く分布しており、もともと雑種を作りやすい植物であったこと、種子だけでなく、球根を分球することによって、親と同じ品質のものを生産できたことなどが あげられる。また、虫媒花であるため、良い香りのものが多く、古代から多くの人々に好まれたのであろう。

2 ニホンズイセンとその来た道

(1)ニホンズイセンとは?

 それでは、越前海岸で広く栽培され、野生化もしていると言われるニホンズイセンは、どういった植物であろうか? ニホンズイセンは、葉は平たく線形で4~6枚、5~8花をつけ、花被片は白色、副花冠は黄色で、花期は11月~3月という特徴をもつ。これは、地中海沿岸に野生するフサザキスイセンNarcissus tazetta L.と共通している。しかし、ニホンズイセンは、結実せず、種子ができない。植物学的には、フサザキスイセンの変種として位置づけられている。ニホンズイセンの学名は、Narcissus tazetta L. var. chinensis M. Roem.である。学名の中のvar.は「変種」、「chinensis」は「中国の」という意味である。ニホンズイセンは、中国(福建省、浙江省)と日本に野生のものが知られている。

 染色体数では、フサザキスイセンが2n=20であるのに対し、ニホンズイセンは2n=30である。さらに詳しく染色体を比較すると、フサザキスイセンが10種類の染色体を2セット持つのに対して、ニホンズイセンでは同じセットの染色体を3セット持っている。つまり、ニホンズイセンは、フサザキスイセンの3倍体であると推察されている。

 3倍体植物は、突然変異(遺伝学上は、通常は起こり得ない変異:減数分裂の不具合など)を起源に生まれる個体で、正常な花粉や卵細胞がほとんどできず、したがって種子もほとんどできない(ごく稀に、稔性のある花粉や卵細胞が出来ることはある)。

 ニホンズイセンは、地中海沿岸のフサザキスイセン集団の中の突然変異個体を起源にした植物であり、分球(球根が分かれること)によって増えたと考えられる。しかし、地中で分球したもので、自然に広がるであろうか?しかも、現在のニホンズイセンとフサザキスイセンの分布は、あまりにも遠く離れて分断されている。

(2)ニホンズイセンの来た道

 中国におけるスイセンの最古の記事は、唐代(9世紀)の唐代の文人、段成式が860年頃に完成させた百科全書的な随筆集『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)にある。本書は、南方熊楠や岡本綺堂などが愛読した古典でもある。そこには東ローマ帝国からもたらされた「捺祇(ないぎ)」という植物が登場する。

 「捺祇 払林(ふつりん)国(東ローマ帝国の地中海沿岸)に産出する。子を結ばない。その花をとって圧搾して油を作る。身に塗って風気(ふうき)を除く。貴族は皆これを使用している」との記述がある。この植物の姿形の特徴は、フサザキスイセンやニホンズイセンによく一致し、種子ができないとある。しかも、王や貴人は花から作った精油を薬として用いるとされている。おそらく、ニホンズイセンが登場する最も古い文献であると考えられる。

 種子ができない3倍体のニホンズイセンが東ローマ帝国から中国へ渡り、しかもその起源であったとすれば、なぜ種子で増えるフサザキスイセンではなかったのか?

 ひとつの推測が成り立つ。3倍体植物は種子ができないため、通常は結実に費やされる栄養を他にまわすことができる。これはスイセン属のような球根植物の場合、球根の生長へ費やされる。また、染色体が多いと細胞サイズが大きくなるという傾向がある。

 したがって、フサザキスイセンの中に、突然変異起源で生まれた3倍体(ニホンズイセンの親)は、球根の生長が早く、大型で目立つ、園芸家にとって魅力的な個体に見えたと思われる。また、種子が出来ないことによって、しばらくの間は利益を独占することができるため、商業的な価値があるものとして流通に乗った可能性がある。

 歴史的な背景からは、ニホンズイセンは9世紀以前に、園芸的に野生のフサザキスイセンから選抜・栽培され、流通によって中国へ入り、一部が野生化した植物であると推察できる。中国から日本への経路やその時期については、漂着説や伝承があるが、いまだに謎である。

(3)日本のニホンズイセン

 ニホンズイセンが、遠く日本で野生化することで、どのようなことが起こったのであろうか? もともとの自生地である地中海沿岸は、夏の暑さは日本(福井県)とほとんど変わらない。地中海沿岸は年間を通じて乾燥しているが、とくに夏季に乾燥している。日本は地中海沿岸に比べて、冬の気温が低い。ニホンズイセンが冬期に花を咲き、夏に休眠するのは、地中海沿岸の気候(乾燥して厳しい夏)に適応した特徴である。

 花期(11月~3月)に低温にもかかわらず、日本でも開花するのは、おそらく、秋のうちに花芽の形成が既に終わっているためである。海岸の傾斜地がニホンズイセンの生育に適するのは、冬も比較的温暖で、水はけが良いためであると考えられる。ニホンズイセンにとって、生育適地とまではいかないまでも、繁殖には十分な環境だったのであろう。

 ところで、3倍体植物には、種子ができないこと以外にもデメリットがある。それは、分球という、遺伝的構成に変化が無い繁殖をするため、すべての個体で同じ弱さをもつということである。とくに、天敵(病気や害虫)によって甚大な被害を受けやすい。しかし、野生種(フサザキスイセン)の自生地を遠く離れることで、天敵から逃れ、そのデメリットは非常に少なくなったと考えられる。

 とくに、葉が茂る晩秋~冬期の低温は天敵を寄せ付けないため、有利に働いたかもしれない。これとは逆に、花粉を運んでもらうパートナー(スズメガ類やハナアブ類)も、冬期の日本には活動できないため、僅かにできると思われる稔性のある花粉の受粉の機会も奪われており、1,000年ほども姿形に大きな変異を起こさずに存続しつづけてきたのであろうと思われる。

(4)他にもある3倍体史前帰化植物

 歴史的に古く、日本にやってきた時期が特定できない渡来植物で、野生化している植物を史前帰化植物という。単に「帰化植物」と言った場合は、渡来した時期が比較的近年(多くは江戸時代以降)で、その経緯がある程度わかっており、野生化している植物をさす場合が多い。ニホンズイセンも、広くは史前帰化植物と言ってもよいだろう。通常、あまりそう言われないのは、栽培品が頻繁に逸出し、長年にわたって野生のものとの区別がつき難いためであろう。

 たとえば、ウメ(梅)も古く、渡来時期が明らかではない。しかし、何回にもわたって移入され、現在みられるものは栽培品かその逸出、栽培放棄されたものである。そういう場合は、史前帰化植物とは言われない。

 じつは、史前帰化植物のなかには、3倍体植物が多い。ヒガンバナ、シャガ、オニユリ、ヤブカンゾウなどである。これらも、球根や地下茎、むかごなどで繁殖するが、種子はできない。山奥には見られず、人里近くで、花が美しいという共通点がある。これらは、稲作・畑作に伴って、中国から渡来したと考えられている。これらと同じ時期に、ニホンズイセンも移入されたかは判らないが、同じ3倍体という特徴をもち、人里で親しまれてきたということが、ニホンズイセンが日本にやってきた経緯についてヒントになるのではないかと思われる。

3 ニホンズイセンの栽培と歴史

(1)ニホンズイセンの栽培

 越前海岸で行われている越前水仙の栽培の概略は次のようである。

  1 5月中旬~6月下旬に掘上げ。掘り上げ後、乾燥。
  2 開花球(30g以上)、養成球(30g以下)に選別。開花球は切花栽培。
  3 球根は25~30℃、湿度50~60%で保存。
  4 定植前に25℃以下の流水に一昼夜浸けて休眠打破。
  5 8月中旬~10月10日までの間に土壌改良・施肥・定植。
  6 休眠打破から約90日で開花。

 海岸傾斜地で生育するため、植えつけ、刈り取りはたいへんな重労働である。とくに、丈夫で姿形の良い花を咲かせるためには、夏の圃場整備が要となっている。流通にのる商品価値の高い越前水仙を栽培するには、大変な苦労が伴う。地中海沿岸から日本まで約10,000kmを渡り、1,000年前からクローンで増え続け、絶滅せずに今も維持され、気候の違いにも耐えて野生化したニホンズイセンは、類まれな植物であることは間違いない。しかし、野生化していると言われているが、ニホンズイセンの集団の生き残りには、人間の手助けがあったと考えるのが自然であろう。

 今日、冬の海風厳しい越前海岸にニホンズイセンが変わらずにみられるのは、これを見つめ続け、苦労して維持してきた越前海岸の人々のニホンズイセンに対する思い入れ、すなわち愛情が大きく貢献しているといえるであろう。

(2)スイセンの名の由来

 中国の古典から来た名前だという。「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」という言葉がある。スイセンは「水の仙人」の意味で、水の豊かなところを好み、清らかで香しく生命力の強いさまに由来する。李時珍の『本草綱目』には、湿った場所に適し、水を多く必要とするため、水仙と名付けたとあるが、水仙が特に他の植物と比べて多くの水を必要とするわけではない。

 また本来、水仙は水中の道者や川の神のことで、仙人の名が水仙に名付けられたのは、湖面をのぞき込むナルキッソスの物語に由来すると推測する説もある。いずれにせよ、日本では中国名の「水仙」を音読みにしてスイセンとしたようである。

 他にも、スイセンには、金の盃に銀の台という意味の「金盞銀台(きんさんぎんだい)」、玉のように鮮やかに輝くという意味の「玉玲瓏(ぎょくれいろう)」、春玉、天蒜、麗蘭、長寿花、雅客(がかく)、凌波子、雅蒜(がさん)などの名前がある。次に触れるが、15世紀の日本の文献には漢名「水仙華」に加えて、和名として「雪中華」と記される。雪の残るところに咲く花との意味にもとれる。日本列島には千葉県房総半島、兵庫県淡路島、福井県越前海岸というスイセンの三大群生地が知られるが、雪のなかに咲く地域は越前海岸だけであるので、その名前の由来となった地なのかもしれない。

(3)スイセンは、どこから来た?

 日本列島に水仙はないという。その流入してきた時期に関しては諸説ある。中国から遣唐使が薬草として導入をしたという説、球根が海流に運ばれて漂着して海岸で自生を始めたとする説、室町時代に禅僧が持ってきたとする説があるが、よく分かっていない。しかし、スイセンは摂政、九条良経(1169~1206年)の色紙にしたためられたことから、平安時代末から鎌倉時代にかけて確実に存在したという。ところで、福井市(旧 越廼村)にはスイセンに変化した娘の伝説がある。伝説は平安時代末期の頃とされるので、遅くともその時期にはスイセンは日本に根付いていた可能性が高い。

 室町時代になると、さまざまな文献に登場する。東麓破衲(とうろくのはのう)の漢和辞書『下学集(かがくしゅう)』の文安元年(1444)の草木門には、漢名を「水仙華」、和名を「雪中華」とある。そこには水仙にとって山礬(沈丁花のことか)は弟、梅は兄とする漢詩も引用されている。また、一条兼良の『尺素往来(せきそおうらい)』(1480年頃)では春の花として分類されている。

 京都・相国寺の公用日記『蔭涼軒日録』文正元年(1466)正月条には、足利将軍に水仙を献上したという記録が残る。越前水仙の歴史を知るうえで重要な古文書といえる。国府の妙法寺(妙法寺町あたりか)から相国寺を経て、将軍家に毎年水仙が献上されたとあるので、この頃には水仙の栽培がおこなわれていたようである。

 さて、安土桃山時代以降は生け花や茶花として、江戸時代には着物や美術工芸のデザイン、俳句の題材等として、その風情が愛でられ、日本の和文化に根づいていった。江戸後期の画人、酒井抱一は四季花鳥図巻のなかで、雪の下に咲く水仙の気高い姿を描いており、「雪中華」の事例として注目される。

 福井県に関しては、江戸時代に越前の植物・動物・魚類などを記した『越前国福井領産物』(松平文庫)のなかに水仙が登場する。産業としてのスイセンに関する記述であり、のちの時代に編纂された『丹生郡誌』の出荷量等の記録とあわせて、越前水仙の歴史を知るうえで貴重な資料となっている。

※本文は、松本淳・堀大介「講義9 越前水仙の謎」『平成22年度越前学悠久塾講義要録』越前町教育委員会 2011年をもとに編集し直したものである。