1 天王宮応神寺(現 八坂神社)
(1)「応神寺東寺修修造料足奉加注進状」
当社は近世まで祇園天王宮と呼ばれ草創は不祥だが、伝承では神功皇后が三韓出兵の帰途、天下安泰を祈願して当地に神祠を創建し牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのに始まるという。中世以来、田中郷(田中庄)の惣社として繁栄したが、中世の当社は神仏混合の色彩が特に強く、真言宗応神寺が別当神宮寺となって当社を支配した。
文安2年(1445)8月7日付「越前国応神寺東寺修造料足奉加人数注進状」(「教王護国寺文書」「町外中世文書」『朝日町誌』資2)には、端裏書に「天王 小山々応神寺」、冒頭に「越前国丹生北郡田中庄」とあり、応神寺の山号が「小山山」であること、丹生北郡田中庄に存在したことを明記している。この奉加人数注進状によれば、37名の僧侶が5貫文を東寺に奉加しているが、37名とは、それぞれ坊に分かれていたと考えられ、応神寺は多くの寺内坊を持つ大寺であった。
昭和38年(1963)6月、旧本殿内陣の床下から発見され重要文化財ともなった木造阿弥陀如来坐像・釈迦如来坐像・木造光背を含めた諸仏像などは、この応神寺安置のものであろう。
(2)「応神天王宝前造営記」
八坂神社文書の中で、特に注目したい史料は「応神天王宝前造営記」(八坂神社文書七号『朝日町誌』資2)である。これは、天王宮の縁起ともいうべきものであろうが、内容は天王宮社造営棟上げについての記録が中心である。近世初期に成立したものではあるが、中世以来、代々書き継がれ、或は修補し書き直されて伝来したものと思われ、史実や他の史料によって検証して見ると、少なくとも中世以来の内容はかなり正確であって驚かされる。
「応神天王宝前造営記」によると、当社は応神天皇の造営で、蛇谷山・宝栄山・愛宕山の三山に応神宮三社大権現を祭ったといい、本地は祇園牛頭大日如来という。その後、光仁天皇の天応元年(781)の造営、嵯峨天皇の弘仁13年(822)の修理、花山天皇の寛和2年(986)の造営までは、各天皇と元号は一致するものの、史実的には確認できない。
その後、美福門院が大治5年(1130)に奉加修理したとあるが、「美福門院」とは、藤原得子のことで、鳥羽天皇の后として権勢をふるった女性であった。そして、少なくとも永治元年(1141)以前から永暦元年(1160)まで越前国は、この美福門院の分国であったのである(『福井県史』通2)。大治5年とは年代に少しずれはあるが、当社を崇敬した美福門院が奉加修理した可能性はあろう。
次いで、嘉応元年(1169)には平重盛が奉加修理したとするが、この平重盛も仁安元年(1166)から治承3年(1179)まで越前国の知行主であって(『福井県史』通2)、奉加修理の年代と一致する。このように検証してみると、これまでの記述は必ずしもでたらめでもなく、以下、時代が下るにつれ、修理造営主は史料的にも裏付けられて、貴重な文献であることが明白となっていく。
なお、「院の分国」の「院」とは上皇やそれに準ずる女院をさし、その「院」が一国の公納物を年限を限って取得する国を「院の分国」といい、「知行主」とは、国司ではないが一国の職務の実権を握った公卿や廷臣のことをいい、平家の興隆期には平家一門が競ってこの「知行主」を求めて争った。
(3)佐々木六角氏の造営
さて、室町時代に入ると、応安壬子(5年)4月に、造営鐇立(はんだて)を行い、翌々年の7年2月に棟上げを挙行している。この時の応神寺の寺僧が、貫主・別当・学頭・大勧進・少勧進を勤める金剛院・円蔵坊・応ドウ(土+童)院・円禅坊・宝威坊の5院坊であった。そして、大檀越が「佐々木六角殿」であったとする。応安7年(1374)当時の「佐々木六角殿」とは、六角高詮に相当する。六角氏については、宇多源氏の流れを引く近江佐々木氏の一流の信綱の4人の子のうち、3男の泰綱が六角氏祖となり惣領家を継承するが、弟の氏信は京極氏の祖となって、六角氏と京極氏は互いに佐々木一族の分流として補完し合った。近江国の守護は代々六角氏が継承したが、一時期、京極高氏(道誉)が守護職に就任したこともあった。
すなわち、守護六角氏頼の応安3年の死後、嫡男の義信はすでに早世し、残る亀寿丸(満高)も未だ赤子であったため、京極家から高詮が迎えられ、亀寿丸が成人するまでの後見人となったのである。この六角高詮は京極秀綱の甥に当たるが、京極秀綱はすでに述べたように、建武4年に田中庄地頭職を将軍家から与えられているから、秀綱につながる六角高詮が田中庄惣社の天王社造営棟上げの大檀越となっても不思議ではなく、当時、六角高詮は田中庄と何らかの関係があったことを窺わせる。
(4)その後の修理造営檀那
次いで応永11年(1404)の屋根の上葺の際の大檀那は「飛鳥井右衛門佐殿」であった。次いで、永享7年(1435)の修理大檀那の大勝院を号する当寺別当法印守賢も、確実な史料によって検証される。すなわち、この10年後の文安2年の「越前国応神寺東寺修造料足奉加人数注進状」(「町外中世文書」『朝日町誌』資2)には奉加人数37名の1人として「大勝院 法印守賢」が記載され、100疋を東寺へ奉加している。他坊のすべてが20疋であるのに対して大勝院は群を抜く奉加高であった。時代はさらに下がって、朝倉時代の長享3年(1489)の上葺修理も「沙汰所阿閣梨守翁 大勝院」であった。
天正12年(1584)11月下旬の大地震で破損した宝殿を、翌13年2月に修理したのは高橋良珍入道成重であった。高橋良珍は慶長3年(1598)の太閤検地で神領の寄進を受けているが、当時すでに応神寺の諸坊は衰退していて、社家神主の筆頭が高橋氏であったらしい。天正16年11月上旬に拝殿を造立した大檀那「太田小源五一吉」は、天正12年7月2日付の「丹羽長秀奉行人連署状」(橘家文書『福井県史』資3)に筆頭の奉行として連署している。また、「越前国城跡考」には、田中郷内の清水山村に館跡があり、付近には太田の家来の屋敷跡も2か所記載されているから、「太田小源五一吉」は、丹羽長秀の家臣として田中郷一帯を支配した地頭であろう。
次いで、慶長19年(1614)に奉加修理・棟上・遷宮の際の大檀那「大見彦三郎元貞」は、「結城秀康給帳」(『福井市史』資4)には300石取りの越前藩(福井藩)の代官として記載されている。これ以後は神主の高橋氏が代々修理改築を進めてきたのであろう。
(5)田中郷の惣社天王宮の宮座
中世の田中郷では、惣社天王宮の神祭執行・神輿渡御(みこしとぎょ)・獅子舞などは、有力郷民(氏人)の主導する宮座によって運営された。宮座は一般に村の氏神を祭る組織の一形態、およびそれを構成する人々の集会のことをいうが、当時は村人、すなわち氏子全体が同等の権利や義務をもって祭りに参加することはできず、一部の有力者が独占的に神事執行に携わったもので、天王宮の宮座は東座・西座の両宮座に分かれていたが、田中郷内の集落が村に発展すると、各村の代表者で組織されたと考えられる。
東西両座の対立は、氏人の特権維持や主導権争いのための相論なども含んでいたが、進士正家文書によれば、少なくとも延文3年(1358)の南北朝時代から始まっており、嘉慶元年(1387)には室町幕府によって、また、享禄4年(1531)には朝倉政権によって裁許された内容は、貞友進士三郎と元弘九郎との座敷相論であるが、貞友進士三郎が先例に任せて正面に着座することを許されたもので、貞友氏は両宮座を超越した特別な地位にあったことを示している。
嘉慶元年の「天王宮御幸供奉日記写」(「進士正家文書」『朝日町誌』資2)によると、神輿渡御の際には村単位に役割が分担されていたが、大宮司であった貞友館には神輿が7夜旅泊した後、装束に身を固めた貞友の後に元弘・木下・友久・末元・願教の5人が騎馬でお供し、郷内の村々を渡御した。獅子舞・八乙女・田楽などの他、幸若舞(こうわかまい)も神事として執行された。傘鉾の山車も各村の代表者に守られて郷内を練った。このため、大宮司貞友を祖先とする進士家は、近世に入って社家を退いても天王宮の神輿渡御の際には特別の格式があったとして、神主の高橋左京と相論に及んだほどである。
(6)近世の天王宮
中世末期の越前一向一摸の蜂起によって、国内の一向宗以外の他宗他派の諸寺院・諸神社は悉く焼亡した。『朝倉始末記』には越知山大谷寺の一揆襲撃が記されているから、天王宮応神寺も同時に焼亡したと考えられ、この結果、応神寺の諸院坊は衰退して、近世に入ると天王宮だけが残ったらしい。現在、種別の異なる「八坂神社古図」と称する絵図が伝来するが、これは近世中期以降に当時残された資料や伝承を基にして、中古の姿に復元した絵図であろう。中世の天王宮応神寺の状況を正しく伝えるものではないが、当時の繁栄を偲ぶのには参考となる。
応神寺の諸坊が廃退して田中郷の惣社としての天王宮が残るとその広大な寺社境内地も、慶長3年(1598)の太閤検地の際には「寺屋敷壱町・田五段」が神領として寄進され、「堂前之廻り」、すなわち天王宮の堂社の周りは除地として残されただけであった。そして、これら神領等を支配し天王宮の神事を継承したのが、社家の一人であったと思われる高橋良珍であった。このうち「堂前之廻り」の除地については、その範囲をめぐって天王村百姓と訴訟があったらしく、村方と良珍との間で口書が取り決められている。この神領はその後も代々の福井藩主によって安堵されたが、延享2年(1745)の天王宮除地・朱印地改めニ付願書(「八坂神社文書17号」『朝日町誌』資2)では、「堂前之廻り」の除地の範囲は旧来通りとして歩畝を明らかにしてはいない。
明和元年(1764)に天王村は三河国西尾藩領となり西尾藩陣屋が置かれて、天王宮も西尾藩支配に移るが、社領や除地はそのまま受け継がれて西尾藩松平家の祈願所となった。従って、祭礼には必ず西尾藩松平家から代参が行われ、社殿の修築や神門の寄進・神饌料(しんせんりょう)の奉納などもあった。
社家の高橋家は、全国の神道を取り仕切る京都吉田家の支配下に入り、代々の神職の継目相続の御礼と官位昇進のための神道裁許状や神官補任状(ぶにんじょう)は京都吉田家へ参洛して受けていた。苗字は「高橋」でも、神道裁許状や神官補任状では、姓は「藤原」、「飛鳥井家進士大宮司」を称し、牛頭天王・白山権現・八幡宮の三社の祠官を兼ねた。
天王宮の氏子は、旧田中郷13か村(田中・清水山・馬場・市・乙坂・甑谷・坪谷・真栗・御油・在田・栃川・宝泉寺・天王)であった。氏子にとって神祭執行上特に重要なのは神輿渡御であった。神輿渡御にはしばしば氏子圏の両端に位置する田中・清水山の両村で対立が起こったが、特に、田中村では中世以来の宮座の頭分であった進士家が、古来からの慣習を主張して高橋神主と相論に及んだこともあった。
(7)近代の八坂神社
明治維新後は、神仏分離令によって、明治2年(1889)に阿麻伎美(あまきみ)神社と改号したが、後に八坂神社と改称し同8年に郷社に列し、同41年には神饌幣帛料供進(しんせんへいはくりょうきょうしん)神社に指定された。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・応神天皇の三体とされた。境内地には八幡神社・市姫神社・愛宕神社・白山神社・辻神社・神明神社・天満神社・薬師神社・御塔神社の九社の境内末社が合祀されているが、これらは天王宮背後の蛇谷山の嶺谷に散在鎮座していた神仏を応安7年(1374)に移転したものという。大正10年(1921)5月に朝日町馬場区に鎮座していた村社の若八幡神社を合併した。
なお、八坂神社の境内地に鎮座する旧村社の雨夜(あまや)神社(祭神は保食神)は、明治43年に移転したもので、延喜式の式内社の1つ、「雨夜神社」といわれ、八坂神社とは別に一社として登記されている。なお、この雨夜神社にも無格社の稲荷神社が合併している。
八坂神社(鳥居)
八坂神社
※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編 2003年 より引用・一部改変したものである。
2 八坂神社の文化財
(1)概要
昭和38年(1964)6月16日に神殿の祭壇床下より仏像などの片部材(矧ぎ面で離された大小数十片)が不規則に積み重ねられた状態で発見された。これらの部材を組みたてたところ、阿弥陀如来坐像2躯、釈迦如来坐像1躯、菩薩(大日)坐像1躯など半丈六を超える大像4躯と、残欠像・光背・舞楽面残欠などが復原された。いずれも平安時代の制作とみられる。八坂神社の絵図によると、中世の当社には坊院14の頭塔(たっちゅう)を擁していた応神寺という別当寺があったので、これらの仏像は応神寺関係のものとみられている。
これらの像を詳しくみると、欅造の阿弥陀如来坐像は一見割矧造のようであるが、頭体躯幹部は前後二材矧で、頬や胸、両脚の木取りも厚手で、しかもハリがあるなど、ローカル性の強い手法により彫出がなされている。他の3像も、釈迦如来坐像は頭体の躯幹部を一材から彫出し、後頭部に方形の刳りと、背中から地付きまでの背刳りが施され、各蓋板をあてているなど、地方独特の手法により彫出されている。半丈六像を超える本格的な像が、古代の越前に伝承されていた手法により彫出されていることは貴重というほかはない。
(2)木造 阿弥陀如来坐像(国重要文化財)
欅材、寄木造、彫眼、素地。本像は螺髪(らほつ)形のもとに、偏袒右肩の衲衣をまとい、上品上生の定印を結び、結趺跏坐する頭体の躯幹部は両耳を通る面で、前後の二材を矧寄せ内刳りを施す。この本体の左は、袖を含み膝奥に至る左肩材を矧ぎ、右は厚さ2.7㎝の板を挟み右肩材を矧ぐ。定印を結ぶ左右の手は、両肘より先を共木で彫出し、膝部は裳先を含み横一材を矧付ける。大粒の螺髪、彫りの強い目鼻だちや三道、胸などの肉取りも厚手で、ハリがあり、衣文の彫出もこれに調子をそろえ、像は地方作であるが、意欲的な刀法を以て簡素に、しかも堂々たる像容を彫出している。本像は、当社の像中もっとも古様の像で、造立は平安時代も11世紀前半のものとみられる。彩色がなく素地仕上である。像高140.0㎝。なお本像の頭体の躯幹部は、一材を前後割矧いだものでなく、前後二材を矧寄せたものであるので寄木造とした。
木造 阿弥陀如来坐像1
(3)木造 阿弥陀如坐像(国重要文化財)
桂材、一木造、彫眼、素地。偏袒右肩の衲衣をまとい、上品上生の定印を結び、結趺跏坐する像で、頭体の躯幹部を桂の一材をもって彫成し、本体の左は袖材を含み地付きまで、左肩材を矧ぎ、右は右肩口に右腕材を矧付ける。膝材は横一材を矧ぐ。左膝の欠損部分に仮材を補足している。後頭部に方形の刳り、背部に地付きまで背刳が施され蓋材をあてる。上品上生の定印を結ぶ左右の手は、上膊を含め共木で彫出し肘で矧付ける。刀法は比較的素朴であるが、美しい弧を描く眉、目尻の上る切れ長の両眼、小さい鼻坐などその表情は個性的であり、衣文は浅く平明に鋤かれ、刃先に全神経を集中し、静かに鋤き上げているなど、彫出は平安後期の手法によるもので、像の造立は12世紀頃とみられる。布かけ錆下地らしき痕もみられるが、現状は素地に近い。像高146.0㎝。
木造 阿弥陀如来坐像2
(4)木造 釈迦如来坐像(国重要文化財)
檜材、一木造、彫眼、現状素地。偏袒右肩の衲衣のもとに、右手を施無畏(せむい)、左手与願(よがん)印をなし、結坐する像である。頭体の軀幹部を檜の一木を以て彫成し、後頭部及び背部に地付まで背刳等の刳りを施し、各蓋板をあてる。左肩は袖を含み地付きまでを矧付け、さらに袖口の上面を矧ぎ、これに左手首を差し込む。右肩は右手を、さらに肘、手首を各矧ぎ、右滕奥材を矧ぐ。両膝部は横一材を矧付ける。面貌は細い伏目がちの両眼のもとに、内省的な表情に彫出がなされ、これに調子を合せるかのように、体軀の彫出もふっくらと彫出し、衲衣の衣文線の彫りも浅く、長い静かな曲線を鋤き上げて、穏かな像容によくまとめられている。後頭部の螺髪をはじめ、地方作特有の素朴な表出も目立つが、像は平安後期のもので、12世紀頃の造立とみられる。像高140.2㎝。
木造 釈迦如来坐像
(5)木造 菩薩形坐像(国重要文化財)
桂材、一木造、彫眼、錆下地一部残。天冠台、条帛、裳をつけ結趺跏坐する像で、残欠像であるが、像容、前膊の矧ぎ口の向き等からみて、智拳印を結ぶ金剛界の大日如来像でないかとみられる。頭体の軀幹部を一材から木取りし、後頭部、背部に背刳等の刳りを施し、各蓋板(後頭部は亡失)をあてるなど、彫出の手法は、前記の阿弥陀(桂材)、釈迦の両像と同じ手法がとられている。宝髻及び両手の肘より先を亡失。膝は横一材を矧ぐ。但し中央約3分の1を欠失しているので、仮材を補足している。欠損のため残欠像である点が惜しまれる。彫成の手法からみて、像は平安時代後期のものとみられる。像高124.0㎝。
木造 菩薩形坐像
(6)木造 光背(国重要文化財)
杉材製、二重円相部のみを残すもので、正中線で2材矧付ける。平安時代後期の様式を示すが、当社に遣存する4躯の像のうちいずれに属するかは不明である。半杖六像用の作創として貴重である。高さ155.2㎝。
木造 光背
(7)舞楽面
祭壇の下から発見されたものの中には、残欠ではあるが採桑老(さいそうろう)・陵王の舞楽面がある。このことは当社でもかつては、この面を用いて舞楽の神事奉納が行われていたことを示すもので、舞人とともに恐らく舞に必要な雅楽の楽人などの仲間も、当社に附属していたことと思われる。古代・中世の農村社会の庶民の生活は、経済的には想像以上に低く、一面また、当社のような地方の大社では、その氏子たちは、今日の我々とは比較にならない程の、精神的に高い文化のともなう舞楽の如き格調の高い伝承文化が生活の間に伝えられていたのである。
(8)木造 十一面女神坐像(県指定文化財)
当社の摂社御塔神社の祭神は、頭上の天冠台上に十一面観音同様の仏菩薩面を戴き、右袵(うじん)の衣を着け、大袖内に拱手し安坐する像で、頭部は仏像、体部は女神像という像容そのものが、神仏習合の姿をとる遺例の少ない、珍しい神像である。
檜材、一木造、彫眼、彩色。頭部は十一面観音の図像にしたがい、体部は右袵の衣をまとい、臂に古代神像によくみられる袖くくりと、襞をとった鰭(ひれ)を肩にかける、女神像の姿に彫出されている珍しい像である。頭体の軀幹部は一木より彫出し、膝材は横一材を、頭上の仏菩薩面は別材を以て彫出し、各矧付けている。薄鑿(うすのみ)を用いて、感情的な刀法を避け、形を美しく整えつつ静かに平明に彫出がなされているこの像には、平安後期の像の特色がよく窺えるが、しかし面貌をはじめ着衣の表出には、当時の形式的な表出とは異なった、鎌倉彫刻の先駆的彫出ともみられ、写実性の追求もなされている点が注目される。頭部は仏像、体部は神像として、神仏習合の姿に彫出されている、誠に珍しい像である。像高62.8㎝、膝張43.2㎝。
木造 十一面女神坐像
※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編2 2004年 より引用・一部改変したものである。