1 越前赤瓦の窯跡発見と概要
最古級の越前赤瓦の窯跡が平成18年(2006)に福井県越前町平等(たいら)で発見され、新聞紙上をにぎわした。越前赤瓦とは、鉄分を多く含む土の薄めたものを塗り、独自の方法で焼き上げた越前焼の瓦である。それまで赤瓦は、福井城や金沢城の発掘調査で大量に発見されていたが、その生産地までは特定されておらず、謎の瓦だったのである。
その窯は上鍵谷(かみかぎだに)窯跡といい、4か所で見つかった。窯の規模は幅4〜5m、長さ15〜20m前後をはかる。緩斜地を利用し、斜面に直交する形で確認された。赤瓦は城や寺院などの本瓦葺きに使われる軒丸瓦・軒平瓦・平瓦などで、福井城跡の出土瓦と同じものであった。
上鍵谷窯跡の分布調査により採集された越前赤瓦は6点を数える。三巴の軒丸瓦2点、丸瓦1点、軒平瓦2点、平瓦1点。いずれも江戸時代前期のものである。
右下2つの破片は軒丸瓦である。横13.4〜14.3cm、縦6.8〜6.9cm。瓦当面は厚く鉄釉を施し、よく焼き締まる。巴文と珠文が施文される。丸瓦部分の凸面にのみ鉄釉を施す。丸瓦と瓦当面の接する箇所は櫛目を入れて接合する。内面はナデ調整である。
右奥は丸瓦である。長さ27.3cm、幅13.5cm。厚みは均一で、タタラ成形の痕跡がある。玉縁を含む凸面にのみ鉄粕を施し、よく焼き締まる。玉縁を含む凹面には布目痕と縄目に近い大きな単位の粗い布目をもつ。端部は丁寧に削られる。無釉である。
左手前2つは軒平瓦である。手前は瓦当面は軒丸瓦に比べて薄く、鉄釉を施し、よく焼き締まる。簡略化した2本の葉脈をもつ半葉文と唐草文を施文する。平瓦部分の凹面、半分程度まで鉄釉を施釉する。不定方向のナデ調整で、工具の痕跡は認められない。その奥は、瓦当面は軒丸瓦に比べて薄く、鉄釉を施しよく焼き締まる。葉脈を4本もつ半葉文と唐草文を写実的に施文する。胎土は粘り気の強い粘土のような光沢をもつ。平瓦部分には凹面にのみ鉄釉を施し、平瓦部分とアゴの接する箇所に櫛目を入れる。接合箇所には丁寧なナデ調整を施す。
一番奥は平瓦である。長さ20.8cm、幅15.5cm。凹面と側面に鉄釉を施釉する。個体により全面に施釉されず、素地がむき出している箇所もある。よく焼き締まる。
上鍵谷窯跡の越前赤瓦
2 越前赤瓦の生産と歴史
福井城下では、石瓦やいぶし瓦とともに数多くの赤瓦が出土する。石瓦は笏谷(しゃくだに)石製で、天正3年(1575)柴田勝家が入城したころ、城の屋根は笏谷石で作られたという。いぶし瓦は加熱焼成された1100℃の粘土素地を、950℃前後に冷却した段階で密閉して還元状態とし、炭化水素を含むガスを粘土素地表面に接触させる。無酸素状態に密閉した窯のなかで煙を発生させる、いぶす瓦である。
ただ、いぶし瓦には難点があり、耐寒性の点で北陸の冬には適さない。そこで陶器の瓦をつくる流れになる。
越前での瓦の歴史を振り返ると、天正4年(1576)に佐々正成築城の小丸城跡では、笏谷石製の瓦や鬼瓦が出土するなか16世紀末のいぶし瓦が混在する。また、福井城跡でも、結城秀康が北庄城の築城に着手したのは慶長6年(1601)、完成をみたのは慶長11年(1606)とされる。当時は石瓦とともに、いぶし瓦が葺かれていた可能性が高く、その始まりは16世紀後葉の城郭建築が契機となっている。
実際に福井城跡では3種類の瓦がある。ほとんどがゴミ穴からの出土であるため、赤瓦の導入時期が確実に押さえられなかった。赤瓦の本格的な導入は17世紀に入ってからと指摘されていたが、それが生産地である上鍵谷窯跡の発見によって、17世紀中頃の越前焼と共伴したことから、遅くともその時期に赤瓦が導入されたことが明らかとなった。
17世紀には越前町平等でしか生産が確認できないが、18世紀半ばになると、福井城下周辺や武生、松岡などの越前国内に瓦生産地が展開していく。また、この時期の越前赤瓦は、加賀・能登・越中さらには出羽など、越前以北の日本海沿岸地域にも流通していた。これらの地域に残る瓦の銘文に、あらわ市の清滝や敦賀市の大比田などの職人の名前が多いことから、三国や敦賀の湊で船積みされて運ばれたのであろう。
このように広い地域で越前赤瓦が受け入れられたのは、その耐寒性が評価されたことが考えられる。また、これらの瓦産業がまだ発展途上にあり、越前から仕入れた方が時間や手間がかからなかったこともあるだろう。
ただし、これらの瓦には製作者名はあっても、瓦屋名がないため、越前の職人が現地に出向いて製作したものも含まれている。また、越前の瓦職人が国外の瓦産地に出稼ぎにでていたことも分かっている。こうした他の産地との接触は越前の技術を伝え、また越前に新しい技術を持ち帰ることにもつながったのであろう。