織田文化歴史館 デジタル博物館

1 西尾藩

(1)陣屋のはじまり

 明和元年(1764)6月、出羽国(山形県)山形の藩主松平和泉守乗佑(のりすけ)(大給松平氏第11代6万石)が、幕府より大坂城代に任命され、封(領地)を三河国(愛知県)西尾藩へ転ぜられるに伴い、本拠の知行地である西尾とその周辺で約2万7千石を領有し、不足分を当時天領(幕府直轄地)であった越前国(福井県)の丹生郡下41ヶ村、坂井郡下18ヶ村、南条郡下13ヶ村、合せて72ヶ村の分封地3万7千石を領有したことから「西尾藩天王陣屋」は始まる。現在の越前町のうち、天王・宝泉寺・内郡・上川去・田中・栃川・八田・江波の各村が含まれる。

 この異動が発令されたのは明和元年6月21日であるが、5月上旬にはすでに内示があったらしく、宝暦14年(1764)5月(この年6月2日年号を明和に改元された。)松平和泉守江戸屋敷の大代官宮村孫左衛門より使者をもって丹生郡天王村の郷(郡)中惣代筆頭内藤武左衛門及び、坂井郡藤田金右衛門に同道するよう達しがあり、両名は直ちに江戸に赴き、大代官より、何分暫くの滞在を仰せつけられ、浅草蔵前小島半次郎方に投宿。

 同年7月17日松平和泉守の使者として宮村孫左衛門より内藤武左衛門当屋敷を越前国統治の仮陣屋とする旨の申し渡しを受け、7月20日早朝松平和泉守屋敷へ参上し、大広間において大代官伊藤儀兵衛、目付堀川三郎助、手代役嶋村忠三郎、木下為右衛門が列座し越前国の統治役として赴任する故、領内72ヶ村の詳細について尋問があり、それらについて越前領知のほぼ中央、天王村から東西南北に村々迄の距離と略図を調製し逐一説明し尋問に答えた。

 その後日、数回に亘り補足説明を行ったが、いよいよ秋の気配も深まり、陣屋役人の赴任の時も近づき残用を金右衛門に託し、武左衛門は9月4日お暇を乞い江戸を出発9月14日帰宅し、早速自宅の模様替えのため、大工、畳屋、左官、其の他職人多数を雇い入れ、家族、使用人等は土蔵、長屋に住み仮陣屋に充て、9月20日、大代官伊藤儀兵衛外、目付、手代、地方(じかた)役、与力、同心等20人が赴任し政務が行われるようになった。

(注)赴任日程、西尾より55里(220㎞)を夏期(3月~9月)は4泊5日(宿泊先、清洲宿、関ヶ原宿、柳ケ瀬宿、今庄宿又は、府中宿一天王陣屋へ)冬季(10月~2月)は、8泊9日


陣屋の里

1770年(明和7)の越前の所領構成

(2)陣屋の位置決定

 陣屋の位置決定については、各村のいろいろな意見があり、陳情合戦が行われたが、翌明和2年8月2日、最終的に天王村に陣屋を置くことが決定し、陣屋敷地1.312坪(4,330㎡)のほとんどを内藤武左衛門が提供(現 越前町天宝6字9~10番)し、陣屋建物702坪(2.321㎡)を天王村高橋重兵衛が、金364両で落札(364両のうち、164両は西尾藩金御用、200両は領内72ヶ村に割合を以て出金)9月4日新築に向け着工し、昼夜兼行、突貫工事にて11月20日竣工し、同23日上陣式を挙行、12月5日新築なった陣屋に移転し執務が行われた。その間1年4ヶ月内藤武左衛門家が仮陣屋として使用された。

 松平乗佑(のりすけ)以来、乗完(のりさだ)、乗寛(のりひろ)、乗全(のりやす)、乗秩(のりつね)の5代約1世紀にわたり越前領地の統治にあたった。

 その間、領民に対する風水害への救援、防災、防火の徹底、橋梁の修築、潅概用水の整備、敬神、崇祖の鼓吹、善行良民への褒賞など、仁政を重んじつつ、その機能を果した。

(3)野田出張所の設置

 その後、時移り、明治初年に至るや、北陸特有の厳しい積雪、風雨により、陣屋の建物は老巧化が目立ち建替えの必要に迫られた。

 この問題をめぐって、南条郡と丹生郡のうち23ヶ村(過半数)は上野田、下野田、下氏家、漆原(以上現在鯖江市)片屋(現在武生市)の5村のいずれかに移転することを希望する村々との間に激しい陳情合戦が展開され、これを憂慮した割元役の天王村内藤庄左衛門は明治3年(1870)11月、この陳情関係書を携行して西尾城に登城し、民事方に訴願したが、西尾藩庁では双方の激しい陳情合戦に対し協議した結果、藩政改革につき、翌年より陣屋を廃止し、新たに野田出張所を設置する方針を決め、陣屋改築の議は中止されるに至った。

 かくて、明和元年(1764)より明治4年(1871)3月までの107年間、天王村に置かれた西尾藩松平氏の越前統治の根拠地「天王陣屋」は廃止され、ついで同年5月には陣屋建物の一切が競売に付され、隣村の栃川村五右衛と甚五郎の両名によって落札取壊され、ここに終焉を告げたのである。

 一方陣屋廃止に先立ち、決定どおり同年3月西尾藩出張所を下野田村に開庁されることとなったが、庁舎新築は見合せ、同村の郷士丹尾清左衛門家に置かれたが、明治4年7月14日廃藩置県になり、全国の藩を県名に改称され、これに伴い「西尾県出張所」と改称され、ついで11月15日全国目まぐるしい置県区域の変更により、三河国11県も廃止され、額田県が成立し、西尾県は額田県に引継がれることになった。

 また、時をまたず11月20日額田県へ太政官から、元西尾県管轄の越前国南条郡の内は敦賀県へ、丹生郡、坂井郡の内は福井県管轄となった旨通達され元西尾県庁から、旧西尾藩の越前領村が額田県の管轄から離れたことを旧領村へふれ出されたが12月20日を以て福井県を足羽県に改称され、ついで、翌明治5年3月改めて額田県より足羽県に移管され、下野田に置かれた野田出張所は1年間で廃止された。

(注)明治4年7月14日廃藩置県、同日福井、丸岡、大野、鯖江の各藩を各県名に改称、同年11月20日敦賀県を置く、また福井、丸岡、大野、勝山、本保、鯖江の各県を合併して福井県を置く。12月20日福井県を足羽県と改称す。明治6年1月14日足羽、敦賀の2県を廃して新たに敦賀県を置く。明治9年8月21日敦賀県を廃して越前国7郡を石川県に編入し、敦賀郡及び若狭全国を滋賀県に編入。明治14年2月7日石川県内の越前7郡滋賀県内の敦賀郡及び若狭全国を合併して新たに福井県を置き現在に至る。

(4)仁政への敬慕

 そして、めまぐるしい明治の夜明けとともに数年が過ぎ去ったが、百余年にわたる「天王陣屋」における松平候の仁政への敬慕の念が篤く、明治9年(1876)10月、領内の村々でこぞって元陣屋跡地に残る稲荷社(現八坂神社境内)の修復と、その傍に「松平和泉守霊位追福墓」が建立された。

 また、明治13年(1880)には領内田中村白山神社境内に田中村独自によって「松平和泉守頒徳碑」が建立されたほか、磯野助之丞が安永元年(1772)に地方(じかた)役としてはじめて天王陣屋に赴任して以来、断続的に17年間、殊に大代官に昇格して天明2年(1782)から寛政10年(1798)までの間13年間勤めたうち、寛政2(1790)年から10年まで連続9年間天王陣屋にあって忠実に勤め、この間領内の上野田、下野田村(現鯖江市)の水田干害の陳情の打開策に深く心を労し、潅概工事等を行い干害から救済し、助之丞が越前を去った2年後の寛政12年(1800)多大の配慮とその温情に報いるため、村内稲荷神社敷地の隣に「磯野神社」として村人によって祠を建て祀られた。

 後に日吉神社に移されたが、老巧した祠を昭和60年4月下野田町の篤志家の浄財寄進を機に改築され今日に至っており、民話としても語り継がれている。

 歳月は流れ天王陣屋廃止より1世紀が過ぎた今日、ここに往時を偲びつつ、幾多の資料を解きほぐすとき、領内の村人達が松平候への恩徳を後世に永く傅えんとした追慕の念をひしひしと伺い知ることが出来るのである。

 こうした先人達の遺業を偲びつつ、昭和55年(1980)には朝日町郷土資料館において、西尾市はじめ県内外多くの方々から貴重な文献、資料の出陳と支援を受け「天王陣屋展」が開催されている。

 また、平成7年(1995)陣屋跡地の一角に「郷土歴史文化傳承センター『陣屋の里』」が完成し、これまで陣屋の廃止とともに西尾との交流が途絶えていたが、これを契機として120年ぶりに西尾市と朝日町の民間親善相互交流が盛んとなり、「陣屋の里」に程近い水田に囲まれた静寂な感じの漂う日蓮宗「實相寺」に眠る西尾藩士ら14名の墓に詣でる西尾市民も多く、今後更なる友好親善交流が望まれる。


実相寺の墓にみえる西尾藩士名/過去帳のみ記載のもの

(5)松平氏霊位追福墓の銘文

  南越丹生郡一邑曰天王当封建時自明和元年至明治四年都百有余年属西尾藩侯松平氏之封土置陣営於此邑毎有凶年饑歳能憮恤窮民因此恵全生命者往々有之今也不見藩治之蹤里人憐之欲設碑陰営追福請記於予応之曰凡物宏遠無窮者不得認其体皇恩是猶造化之難認也卑近而狭小者得認其体守護之恵是也猶山川之易認也夫開闢以還幾千歳焉万民游泳恩波中而無認其体皇恩至大何物得比較之耶往時封建之制諸侯治封土皆動王事也是故弁別皇国之大義而後記守護之小恵可牟欲尚不弁別之特亨松平氏之鬼何以嚮之哉邑人曰皇恩至大而與天地同己得聞命牟此拳也惟不過表甘棠之微意耳予於之為議論以記紀元二千五百三十六年十月上浣秋山如林識

 南越丹生郡の一邑を天王と曰ふ、封建の時に當たり、明和元年より明治四年に至るまで都百有余年西尾藩侯松平氏の封土に属す。陣営を此の邑に置き凶年饑歳有る毎に能く窮民を憮恤す。此の恵(み)に因って生命を全うする者、往々之れ有るも今や藩治の蹤を見ず。里人之を憐みて碑を設けて陰に追福を営まんと欲し記を予に請う、之に応じて曰く、凡そ物の宏遠にして窮まりなきは其の體を認むるを得ず。皇恩是れなるは猶ほ造化の認め難きがごときなり。卑近にして狭小なる者は其の體を認むるを得。守護の恵(み)是れなるは猶ほ山川の認め易きがごときなり。夫れ開闢以還幾千歳。万民恩波の中に游泳して其の體を認むる無し。皇恩の至大なること何物か之に比較するを得んや。往時封建の制、諸侯封土を治め皆王事を勤む、是の故に皇国の大義を弁別して後に守護の小恵を記すこと可ならん。尚し之を弁別せず。特に松平氏の鬼を亨けんと欲せば何を以ってか之に嚮はんや。邑人曰はく皇恩は至大にして天地と同じと。己に命を聞くを得たり。此の拳なるや惟だに甘棠の微意を表わすに過ぎざるのみ。予、之に議論を為し以て記す。

  紀元二五三六年十月上浣 秋山如林識


松平氏霊位追福墓

※本文は、パンフレット『時の流れを刻む 三河国西尾藩天王陣屋』 より引用・一部改変したものである。

2 大野藩

(1)大野屋の設立

 大野藩が支配していた丹生郡内の飛び地のことを西方領という。現在の越前町では織田地区の中・三崎・上戸の各村がこれに含まれていた。天和2年(1682)大野藩主は松平家から土井家に替わるが、その後幕末に至ると、大野藩は財政難にあえいだ。そこで、土井利忠が登場し、藩政改革に乗り出す。倹約令・国産奨励・西洋式軍制への改革、洋学など学問の振興・人材登用などである。その一環として「大野屋」という藩営商店を設立する。国産品を売り利益を得るのが目的で、最初に安政2年(1855)大坂に開店した。

 翌年の安政3年(1856)には箱館、そして織田に開店した。織田の大野屋は馬場通と東参道との辻の南側を中心に敷地があった。現在のファミリーフーズ・チャオあたりだという。史料によれば、酒造業と金融業を営んでいたことがわかっている。その後、大野屋は横浜・岐阜、明治時代に入ると敦賀・名古屋・神戸・東京などへ出店している。


大野屋の跡地

(2)西方代官と陣屋

 大野屋の設立に活躍したのが、土井利忠が抜擢した内山七郎右衛門であった。内山といえば、七郎右衛門の弟・隆佐を忘れてはない。隆佐は、藩校・明倫館の教授・幹事をへて、嘉永3年(1850)に初代西方代官に任じられ、海防に従事する。このとき大野藩の陣屋が越前町鎌坂の浄秀寺跡地に置かれていた。明治4年(1871)の廃藩置県の後、陣屋の門が禅興寺に山門として移築され、現在も残っている。


織田代官所陣屋門

※本文は、越前町教育委員会『平成30年度 越前町織田文化歴史館 幕末明治福井150年博特別展示 幕末明治の越前町』2018年 より引用・一部改変したものである。

(3)蝦夷地開拓

 安政元年(1854)3月、日米和親条約が締結され、長い間続いた鎖国は終った。同3年3月、大野藩は、蝦夷地は北門の鎖鑰(さやく)(北方防衛の要害の地)、国益のためにも蝦夷地を開発したい、そのために調査隊を派遣したいと上申し認可され、最初の調査隊が編成され派遣されることになった。

 3月6日、一隊は内山隆佐が中心となり陸路江戸経由で蝦夷地へ向かい、一隊は西方代官早川弥五左衛門・吉田拙蔵ら藩士4名、隊員13名(大野郡8名、西方5名)で織田陣屋に集結した。西方の5名は大樟浦金次郎・徳兵衛、小樟浦又七・市五郎、宇田村勘助である。勘助は黒鍬と書かれていて土木工事担当で、渡海に当たって大鍬・ツルハシ・刎打鍬・ジョレンの買い上げを命じられている。物資はすべて織田陣屋まで運び、そこから大樟浦木下の倉庫へ運ばれ、それは敦賀を経由し小浜へ運ばれた。

 3月10日、隊員は陸路糠浦にでて船を雇いに敦賀に渡り一泊、11日は三潟で一泊し小浜へ向かった。小浜の豪商清水源兵衛持ち船長福丸(1200石積、船頭道口浦長三郎)を借り蝦夷地へ渡海するのである。3月12日から風待ちをして21日出帆したが嵐にあい、丹後に退避、22日嵐のなか敦賀口水島へ強行し停泊、25日朝水島出帆、大樟浦沖で船をとめ伝馬船で大樟浦庄屋から酒など必要物資を補充、夕方順風に白帆をあげ蝦夷地へ出航した。途中異国船と出会い皆望遠鏡で見物した。船頭長三郎は蝦夷地へ何度も航海している熟練のつわもので、その的碓な操船により4月1日昼頃無事松前福山湊に入港した。神仏の加護と皆心から感謝した。

 城下廻船問屋大津屋や町役所に挨拶、2日は松前城下の見物である。近江商人をはじめ諸国から商人が殺到し、廻船入港の多いこと、物資の豊富さ、人の多さ、松前・箱館・江刺の繁栄ぶりはただただ感嘆するばかりであった。米船の入港があり、上陸した異人を初めてみた。感服するばかりであった。そのような中へ大野藩が新規参入するわけである。許可された場所を班に分かれて探検することにした。早川・又七・勘助ら5人は東蝦夷(太平洋側)オシャマンベまで行き、そこから山越えして西蝦夷(日本海側)へ出る。米・味噌・醤油(20㎏以上)まで持っての探検で難行苦行の連続で8月まで続く。なお内山隆佐隊と合流できたのは4月25日のことである。

 難行苦行の探検も期待した成果はなく、6月には内山隊は青森へ渡り陸路大野へ向かう。残りは8月15日箱館から出航、風待ちを繰り返し能登福浦に着いたのは24日、28日朝ここを出航29日昼ころ敦賀に帰港した(以上「蝦夷紀行」による)。

 宇田村勘助は内山隊と陸路帰ったのか船で帰ったのかはっきりしない。この時の西方5人の給金雑用勘定帳が残されているが(『大野市史』)、勘助の給金は1ヵ月1両1分、3月より7月分6両1分となっている。それは勘助が1両3分給金の前借りをしていたからである。あとの4人は帰国直後も大野藩の仕事であちこち出かけているが勘助の姿はもうみえない。村に帰って体験談を聞かせているところか。蝦夷地の厳しい自然、繁栄する蝦夷地南部、アイヌ人の生活、初めてみたアメリカ人等々、勘助が体験したことはたちまち村を駆け巡ったに違いない。開国の影響はいち早く当地に及んできたのである。

※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編 2003年 より引用・一部改変したものである。

3 葛野藩

(1)成立と廃藩

 貞享元年(1684)和歌山藩主徳川光貞の四男として生まれた松平頼方(よりかた)は元禄8年従5位下主税頭(ちからのかみ)となり、元禄10年(1697)14歳のとき越前国丹生郡で下糸生村など13ヵ村6580石、坂井郡で針原村など32ヵ村23,420石合計30,000石(完禄郷帳)を与えられて大名となった。頼方は下糸生村の枝郷葛野に陣屋を設置し代官などの諸役人を送って統治した。『徳川実紀』第8巻有徳院実紀13には「常憲院(綱吉)殿紀伊邸にわたらせたまひしとき、御兄内蔵頭頼職朝臣と共に領知三万石を給ひ、越前丹生の郷鯖江の地を領したまふ」とある。鯖江とあるのは勿論『徳川実紀』の誤りである。当時地元での呼び名は「紀州様御領」が最も多く、ほかに「松平主税頭様御領分」がある。葛野藩とは最近の用語で、頼方は宝永2年10月兄頼職の死により和歌山藩主を継ぎ葛野藩は上知廃藩となった。9年間の支配であった。

 本藩を継いだ頼方は徳川吉宗と名を改め12年間藩政を主導し、享保元年(1716)にはついに8代将軍に就任、享保の改革を推進した。葛野藩領には上・下天下(てが)村(福井市)があったので、吉宗の子孫である松平慶永の日記「真雪草子」には、「我者紀州ニありし時、天下村を領したり全ク此将軍となるの吉兆なり」という有名な吉宗の回想を載せている。勿論慶永が直接聞いたわけではない。真偽のほどは分からない。一方葛野の地にはこのあと享保5年(1720)まで15年間幕府葛野陣屋がおかれた。


葛野藩跡地

(2)吉宗伝承

 頼方が葛野藩主の地位を離れ本藩の藩主となり、吉宗と名乗ったこと、更に幕府8代将軍となったことについては多くの領民は知らなかったとみていい。しかしそのあと、幕府葛野陣屋が15年間設置され、幕府領も出現したので、ある程度知るものが出てきたであろう。そこから後世吉宗に付会する伝承が形成されてくる。

 「仏性寺由緒書」(年未詳)によれば、小倉村仏性寺は「紀州吉宗公様」が葛野にいた時の「御祈祈禱所」である。

  御紋付の御戸帳と提灯を寄附下された。笹谷の居館に居られたとき「壱ヶ月ニ一度又ハ二度」御成りになった。御家中様宗旨・葬儀・埋葬・石塔建立すべて当寺がとりしきった。(『朝日町誌』資2)

 上天下村の「石川家由緒」(弘化5年)には、次のようにある。

  私方へ御立ち寄りになった。私3、4歳のとき御目見え許され御箱菓子を頂戴した。領土のなかに上・下天下村があったので大変「御喜悦」遊ばされた。「角葵御紋御上下並びに狩野探雪画芦に雁の御掛物」など拝領した。四ッ合村堀田家文書、有徳院殿百回忌法要届(安政7年)笹谷村も「松平主税頭吉宗様」御領分になったさい、紀州表より御役人衆の御出張があり、村中へ「大制札」を建てられた。渡辺与右衛門地内字北屋敷へ「御仮館御補理」され入られた。乗泉寺住職の祐也御命をうけ昼夜御伽申し上げ、その度に菓子類、その他品々頂戴、時には御膳の御相伴等も仰せ付けられた。そのうえ、葵御紋付幕・提灯・「与内禁制札」の御判物も下された。翌年葛野へ御転館されても相変わらず御命を受けて御奉仕申し上げた。(『清水町史』)

 『越前国名蹟考』によれば、葛野の産土社(うぶすなしゃ)(現在の葛野神社)に所蔵される木像は、「紀州御元祖頼宣卿の御像」とされる。しかし、明治27年の『神社明細帳』に「徳川吉宗像」とみえ、いつの頃からか徳川吉宗を表した像と考えられるようになった。

 葛野藩は江戸時代270年のうち9年間存在しただけであるから、その確実な痕跡を見つけるのもむずかしい。しかし、葛野の地には葛野藩・幕府領とあわせて24年間陣屋所在地であったので、駐在役人の生活物資供給や奉公先があり、ある程度地元を潤したものと思われる。そして自然周辺の村とはちがった商人・職人の多い町的姿が形成され、現在の姿はそれを受け継いだものと伝えられている。

※本文は、朝日町誌編纂委員会 編『朝日町誌』通史編 2003年 より引用・一部改変したものである。