織田文化歴史館 デジタル博物館

1 町内の城館

(1)餉(かれい)城

 所 在 地 :米ノ

 主な城主 :不明

 『城跡考』:記載なし

(2)栗屋(厨城山)城

 所 在 地 :厨

 主な城主 :新田義貞・滋野与市吉信・島津忠綱

 『城跡考』:栗屋城跡/新田義貞、滋野与市吉信/厨浦ヨリ二十五町計東方山上十四五間四方之所五六間四方之所二ヶ所馬場之迹一二三之堀形有之、自福井八里半

(3)織田中村館

 所 在 地 :中

 主な城主 :織田信長

 『城跡考』:館跡/織田信長/中村ヨリ三町計東方田畝之中八十間計之所、一方ハ川三方ハ堀土居形有之、自福井六里半計

(4)蔵ヶ岳城

 所 在 地 :入尾

 主な城主 :不明

 『城跡考』:記載なし

(5)織田城

 所 在 地 :上山中

 主な城主 :朝倉兵庫助景綱

 『城跡考』:城跡/朝倉兵庫助/織田郷上山中村ヨリ三町計南東山上ニ十五間ニ七間計之所有、自福井八里計

(6)織田三崎城

 所 在 地 :大王丸

 主な城主 :鈴木源左衛門、谷将監

 『城跡考』:城跡 時代不知、(俗ニ将監居ト云)/三崎村ヨリ一町計北方田畝之内三拾間ニ五十間計之所櫓之跡二ヶ所、十五六間ニ二十間計之所三方石垣之形、十二三間ニ二十間計之所三方石垣之形有、自福井六里半

(7)織田館

 所 在 地:鎌坂

 主な城主:朝倉兵庫助延景、同景綱

 『城跡考』:城跡/朝倉兵庫之助景綱、四王天覚書云太平記此織田次郎四郎常昌/織田村之内鎌坂村ヨリ二十間計西方田畝之中五十間四方計堀二重搔上大手口之形有、自福井六里半計

(8)織田陣屋

 所 在 地 :鎌坂

 主な城主 :不明

 『城跡考』:記載なし

(9)姥ヶ屋敷

 所 在 地 :上戸

 主な城主 :不明

 『城跡考』:記載なし

(10)織田下河原城

 所 在 地 :下河原

 主な城主 :奥田尾右衛門

 『城跡考』:城跡/奥田尾右衛門/織田郷下川原村ヨリ九町計子方朶村櫓村之内ニ二十五間ニ二十間之所堀形有、自福井六里半計

(11)左門屋敷

 所 在 地 :小曽原西

 主な城主 :新田義貞、滋野与市吉信、小曽原左衛門

 『城跡考』:左門屋敷跡/小曽原村枝郷西村之内東方十五間四方計、自福井六里半計

(12)寺村館

 所 在 地 :寺

 主な城主 :立髮兵庫頭、細川武兵衛

 『城跡考』:屋敷跡/四百年計以前 立髮兵庫頭/末野谷寺村際北方畑之中三十間ニ二十間計之所掻上形有之、自福井四里半計

 『城跡考』:屋敷跡/兵庫家来細川武兵衛/右兵庫屋敷跡之続十間四方計

(13)上野館

 所 在 地 :上野

 主な城主 :立髮七之助、同権之助

 『城跡考』:屋敷跡/兵庫頭弟立髮七之助/末野谷上野村ヨリ三町計北方稲場山ニ二十間四方計、自福井四里半計

 『城跡考』:屋敷跡/同右立髮権之助/末野谷上野村ヨリ三町計北方田畑之間三十間ニ二十間計之所土居堀形有

(14)八田館

 所 在 地 :八田

 主な城主 :稲井田弥三兵衛

 『城跡考』:屋敷跡/稲井田弥三兵衛/織田郷八田村之内北谷村ヨリ三十間計南方田畝之間二十間ニ二十五間計、自福井六里

(15)上糸生城

 所 在 地 :上糸生

 主な城主 :木曽義仲

 『城跡考』:城跡/木曽義仲/同右上糸生村ヨリ二町計北方山上ニ貳十間ニ十五間計之所堀形有、自福井四里

(16)小倉城

 所 在 地 :小倉

 主な城主 :織田信長

 『城跡考』:城跡/織田信長/小倉村之内寺村ニ貳十五間四方計之所、当時仏正寺之寺地

(17)豊蔵(荒神ヶ峰)城

 所 在 地 :小倉

 主な城主 :不明

 『城跡考』:荒神ヶ嶺城跡 時代不知/志津庄笹谷村之内四ッ輪村ヨリ五町計南山上ニ五十間四方計之所、自福井四里計

 『城跡考』:豊蔵城跡 時代不知/小倉村之内羽丹生村ヨリ二町計北方山上ニ一町四方計之所堀掻上大手口之形有、自福井四里計

(18)城ノ方城

 所 在 地 :大畑

 主な城主 :不明

 『城跡考』:記載なし

(19)茶臼山城

 所 在 地 :栃川

 主な城主 :不明

 『城跡考』:茶臼山城跡 時代不知/田中郷栃川村ヨリ一町計東方ニ五六間四方之所其外堀石垣形有、自福井三里計

(20)芝築地山(芝摺・乙坂山)城

 所 在 地 :乙坂

 主な城主 :畑六郎左衛門時能

 『城跡考』:芝築地山城跡(芝摺城トモ)/畑六郎左衛門/田中郷乙坂村ヨリ六七町計北方山上ニ壹町計四方之所掻上之形有、自福井三里

(21)尉ヶ峰城

 所 在 地 :栃川

 主な城主 :不明

 『城跡考』:尉ヶ嶺城跡 時代不知/同右栃川村ヨリ三町計西方山上ニ二十間計四方之所有

(22)田中館

 所 在 地 :田中

 主な城主 :山田喜右衛門

 『城跡考』:屋敷跡/太閤時代山田喜左衛門 田中村北端三十五間ニ三十間計之所堀大手口形有、自福井三里半計

(23)下糸生館

 所 在 地 :下糸生

 主な城主 :伊藤九郎兵衛

 『城跡考』:屋敷跡/朝倉家伊藤九郎兵衛/葛野谷下糸生村際西方三十間計四方之所堀形有、当時民屋有之、自福井四里

(24)烏ヶ岳城

 所 在 地 :下糸生

 主な城主 :織田信長、伊藤九郎兵衛

 『城跡考』:烏ヶ嶽城取跡/織田信長/葛野谷下糸生村ヨリ一町半計山上ニ四間四方計之所堀二重大手口之形有、自福井四里

(25)大窪鎌太館

 所 在 地 :青野

 主な城主 :大窪鎌太

 『城跡考』:館跡 大窪鎌太/青野村ヨリ五町計西青野川端ニ五十間ニ四十間計之所三方土居一方青野川大手口之方有、自福井四里

(26)武衛館

 所 在 地 :内郡

 主な城主 :不明

 『城跡考』:武衛館跡/内郡村ヨリ一町余西之山麓ニ五十間ニ四十間計掻上之形有、自福井四里計

(27)青野城

 所 在 地 :青野

 主な城主 :不明

 『城跡考』:記載なし

(28)佐々生館

 所 在 地 :佐々生

 主な城主 :不明

 『城跡考』:館跡 時代不知/佐々生村東之端畑之中ニ五十間ニ四十間計之所搔上大手口之形之、自福井四里半

(29)御床ヶ嵩城(三床山城) 越前町指定文化財

 所 在 地 :宇田

 主な城主 :宮川出雲守要光、足利高経

 『城跡考』:御床ヶ嵩城跡 時代不知/佐々生村ヨリ十四五間東山上堀切池形数ヶ所有


越前町の山城分布

※本文は、福井県教育委員会『福井県の中・近世城館跡』1987年より引用したものである。

2 主な城館

(1)栗屋(厨城山)城

 この山頂が厨城山で海抜573mの城跡であります。今を去る800年前、島津忠綱公が城を構え、今から650年の南北朝の頃には足利の部将斯波義将がたてこもりました。しかし、北陸の地に後醍醐天皇方の地盤を作ろうとした新田義貞の軍勢に攻めたてられ、落城しました。その時の戦死者は死屍塁々として谷を埋めたと伝えられ、今でもこの谷を死人谷と申します。明治の初期には錆びた刀などが出土したと伝えられています。

 戦い終り平和が訪づれ、怨を呑みながら亡くなった戦死者の冥福の為に、三面六臂の愛染明王を祭つる愛染堂を建立しました。戦国の頃、落雷により焼失し、元禄年間に再建されましたが、第2次大戦中に落雷により焼失しました。現在祭ってある明王さまは、戦後に再建されたものであります。

 憎しみと戦いを怒られる明王さまは、みずからの尊いご身体を燃されて、平和と愛と長寿の尊さを人々に教えています。また、この附近一帯はブナの木が多く沿岸航行の目標として漁民より重要視される峻領でもあります。

※本文は、「城山史蹟 案内」より引用・一部改変したものである。

 厨浦の東背後にある城(じょう)山(513m)山頂にあり、その西方前面に通称小城(こじょう)がある。西は日本海、東は丹生山地から福井平野を望む絶好の要地で、城山と小城との間に別司峠、城山の南に厨峠があり、それぞれ海岸と内陸を結ぶ交通路として利用された。城跡は現在愛染明王社や釣鐘堂のある郭を中心に、東西両側に多くの腰郭をもち、北側には二本の堀切と一本の竪堀がみられる。

 鎌倉時代には島津豊後守忠久が、南北朝時代には新田義貞が拠城したと伝える。「太平記」巻39(諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事)に貞治4年(1365)8月(正しくは貞治5年)「道朝二宮ヲ待付テ、越前ヘ下着シ、軈テ我身ハ抽山城ニ籠リ、子息治郎大輔義将ヲ粟屋城ニ籠テ、北国ヲ打従ヘント議セラレケル間」と記され、失脚した越前守護斯波高経(入道道朝)の一族が越前に下国し、その子義将が当城に拠城している。内陸からの搦手である平等からの別司川上流には死人谷の通称が、また熊谷からの登り口には口城山(くちしろやま)・木戸口(きどぐち)などの名字が残る。


厨城跡

厨城跡 縄張図

※本文は、「栗屋城跡 旧 案内看板」より引用・一部改変したものである。

(2)織田城

 織田の地は、古来越前支配の上で要所でした。戦国時代、朝倉義景は当地に一族の朝倉兵庫介景綱(ひょうごのすけかげつな)3代貞景(さだかげ)の4男景延(かげのぶ)の子)を配置しました。

 景綱は、元亀元年(1570)4月、織田信長の敦賀侵攻に対して500余騎にて織田城(館)から河野口(こうのぐち)へ向け出陣しました。また、元亀4年8月、刀根坂(とねざか)の合戦で信長に負けた後は主君義景を裏切り信長に従い、再び織田の地が安堵されました。その後、天正2年(1574)2月、一揆勢が信長勢を越前(敦賀は除く)から駆逐すると、景綱は一揆勢に与しましたが、5月上旬再び信長方に寝返り、織田城(山城)に500~600人の兵と共に立篭り、一揆勢3000余人と対峙しました。戦国末の動乱の中で右往左往した景綱でしたが、最後は城兵を残したまま、妻子を連れて敦賀に落ち延びたと伝えられています。その後の消息は定かでありません。

 景綱の館は、織田40字「御館(おたち)」を中心に遺存し、東西約90m、南北約77mのほぼ方形をなし、周囲に堀(幅約11~30m)が巡っています。大規模な館跡で、その勢威のほどがうかがえます。


朝倉兵庫助景綱の館

※本文は、織田町歴史資料館『織田こころの里 わざの里 織田町歴史資料館 常設展示図録』2001年 より引用・一部改変したものである。

(3)織田館

 織田の地は、古来越前支配の上で要所でした。戦国時代、朝倉義景は当地に一族の朝倉兵庫介景綱(ひょうごのすけかげつな)3代貞景(さだかげ)の4男景延(かげのぶ)の子)を配置しました。

 景綱は、元亀元年(1570)4月、織田信長の敦賀侵攻に対して500余騎にて織田城(館)から河野口(こうのぐち)へ向け出陣しました。また、元亀4年8月、刀根坂(とねざか)の合戦で信長に負けた後は主君義景を裏切り信長に従い、再び織田の地が安堵されました。その後、天正2年(1574)2月、一揆勢が信長勢を越前(敦賀は除く)から駆逐すると、景綱は一揆勢に与しましたが、5月上旬再び信長方に寝返り、織田城(山城)に500~600人の兵と共に立篭り、一揆勢3000余人と対峙しました。戦国末の動乱の中で右往左往した景綱でしたが、最後は城兵を残したまま、妻子を連れて敦賀に落ち延びたと伝えられています。その後の消息は定かでありません。

 城(山城)は、館の西南西の方位約2,550mにある山頂を中心郭とし、東西約670m、南北約360mの規模です。館と城との高低差は約187mあります。その地籍は、織田・三崎・上山中・下山中・平等に及びます。その構造は、堀切(ほりきり)、竪堀(たてぼり)、畝状(うねじょう)竪堀、多数の郭(くるわ)からなっています。城は一揆勢に降伏した後に壊されましたが、竪堀や郭の遺存状態がよいことから、壊されたのは木戸・櫓(やぐら)・柵列(さくれつ)・逆茂木(さかもぎ)・倉庫・小屋などの造作物であったと考えられています。


朝倉兵庫助景綱の山城縄張見取図

※本文は、織田町歴史資料館『織田こころの里 わざの里 織田町歴史資料館 常設展示図録』2001年 より引用・一部改変したものである。

(4)大窪鎌太館

 大窪鎌太館は、狭小な谷間を通る県道朝日~織田線の北側の杉林の中にある。館主は、平家落武者の一人である大窪鎌太といわれるが、鎌太正家という説もある。

 館の北は東流する天王川に面し、東・南・西と北側の一部は、基底幅8m・高さ2~2.5mの土塁に囲まれている。西面には、幅6mほどの外濠跡がある。広さは土塁を含めて東西96m・南北75mである。

 西側が館の正面で、出入口は西と東に造られている。西門は、土塁の北側から約20mのところに、東門は南端から同じく20mほどの所に位置している。門どうしが、相対することがないように配慮されている。南側の出入口は、後世に徐々にできあがったものであろう。土塁の東北部をわずかに屈曲させているのは、鬼門除けのためかもしれない。土塁内部は、ほぼ平坦であるが、西北隅と西南隅に高さ1.2mほどの高まりがみられる。

 未発掘であるが、中世の館の形態をよくとどめる遺構である。


大窪鎌太館 縄張図

※本文は、福井県『福井県史 資料編13 考古―本文編―』1986年 より引用・一部改変したものである。

(5)御床ヶ嵩城(三床山城) 越前町指定文化財

 城は越前町佐々生、鯖江市和田町・石生谷町に位置し、北に和田川の谷、東に日野川の平野を望む要害の地に立地する。三床山山頂(標高約280m)の東西約100m×南北約200mの範囲に展開し、5つの方向に延びる尾根を5本の堀切で断ち、その内外に約20近くの郭を構える。北東部が最も高く、ここから南西に向かって小郭が階段状に、しかも並郭的に続く。この城の縄張は、北西2kmに位置する青野城と極めて類似し、築造者が同じであったと考えられる。

 三床山は「御床山」とも書き、「御床ケ岳」ともいう。山麓に鎮座する佐々牟志神社は「延喜式」神名帳にみえる佐佐牟志神社四座に比定され、もとは山頂にあったという。9世紀、宮川要光出雲守が神社を遷して築城したと伝えられ、南北朝時代には北朝方の大将斯波高経が一時この城に立てこもったという。


三床山城跡

三床山城跡 縄張図

※本文は、『佐々牟志神社社記』、角川書店『角川日本地名大辞典18 福井県』1989年 をもとに記述したものである。