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越前焼~日本遺産(六古窯)~ Echizen Ware Japan Heritage The Six Ancient Kilns

更新日:令和2年3月13日

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 日本六古窯 ホームページ 
The Six Ancient Kilns official website

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日本遺産の認定
 平成29年4月28日、越前焼(越前町)が、瀬戸焼(愛知県瀬戸市)、常滑焼(愛知県常滑市)、信楽焼(滋賀県甲賀市)、丹波焼(兵庫県丹波篠山市)、備前焼(岡山県備前市)とともに、日本六古窯として連携して日本遺産に認定されました。

 <越前焼の産地 越前町>
 越前のやきものの起源は約1,300年前にまでさかのぼりますが、産地としてのはじまりは約850年前の平安時代末期。現在までに200基以上の窯跡が発見されており、主に壷や甕(かめ)、すり鉢、舟徳利、お歯黒壺といった日常雑器を中心に生産していました。中世には、越前海岸に近い立地で生産された商品は、北前船によって北は北海道、南は島根県まで広まり、北陸最大の窯業産地として発展。しかし、明治時代に入り、水道の普及や磁器製品が広まるにつれて需要が落ち込み、衰退した時期も。その後、地元の古窯址研究者・水野九右衛門と、日本の陶磁器研究者・小山冨士夫が行った発掘調査と研究により、昭和23年、六古窯のひとつとして数えられ、全国に知られるやきものとなりました。また、昭和45年からはじまった越前陶芸村の建設により、窯元数及び生産額が飛躍的に増加し、産地再興を図ることに成功しました。昭和61年には国から伝統工芸品として指定を受け、古くからある技術を継承するとともに、多くの陶工が新しい越前焼の創作に取り組んでいます。

<越前焼の特徴>

 越前焼は東海地方の技術を導入して12世紀後葉に開窯し、主に壺・甕・擂鉢等の日常雑器を焼き締めで生産していました。室町時代後葉には日本海側で最大の窯業地に発展しましたが、全国的に茶陶の生産が始まる桃山時代にも越前では日常雑器の生産を続けていました。権力者・知識人のために茶陶の生産を行わなかったことは越前焼衰退の遠因とされますが、一貫して民衆のために生産された越前焼には素朴な美しさがあります。江戸時代になると焼き締めよりも効率的に生産できるように赤土を表面に塗るようになり、藁灰釉による装飾も行われました。

   

 ■ 原材料
 腰が強く耐火度も高い越前の土はよく焼き締まる性質があるので、大壺・大甕のような大型製品の生産に適しています。陶土の採掘場所と窯跡の場所には相関がなく、江戸時代までは特定の3ヶ所から採取した「山土」を用いていました。江戸時代初頭になると、田から採取した「田土」へと変わりました。

■ 技法
 「ねじたて技法」と「ねじたてロクロ技法」の2つの技法があります。「ねじたて技法」は陶工が粘土紐を持って周囲を回りながら円筒状に積み上げ、「はがたな」と呼ばれる木ごてで薄く引き伸ばす作業を何度も繰り返して形づくる技法です。

   

■ 技術
 中世までは赤褐色の地肌と緑色の自然釉を特色とする「焼締(やきしめ)」を主体としていました。江戸時代初頭には鉄分を多く含む赤土を表面に塗り、焼締より短い焼成時間でも水漏れを防ぐ工夫が施されるようになりました。

■ 窯
 東海地方の瓷器(しき)系窯の構造と酷似する窖窯(あながま)を用います。開窯期の平安末期には10メートル程度だった窯の全長は生産がピークに達する室町時代後葉には25メートル前後にまで大型化し、火の回りを良好に保つため傾斜も急になりました。

   


<越前焼の歴史>

■ 越前窯の開窯 ~ 平安時代末期 ~
 10世紀初頭に須恵器窯が閉窯すると、越前では陶器生産が途絶えます。再び窯業が活発になるのは12世紀後葉のことで、東海諸窯の技術を導入して越前窯が開窯します。当初は天王川東部丘陵の越前町小曽原周辺に築かれ、小規模な生産が行われていました。

   
   ・越前焼 三筋壺(所蔵:越前町教育委員会)

■ 生産の本格化 ~鎌倉・室町時代 ~
 13世紀になると操業地は天王西部丘陵に移り、壺・甕・擂鉢を中心に日常雑器が生産されました。鎌倉時代には水注・水瓶・経筒など宗教的色彩の濃い製品もつくっています。室町時代にかけて窯体の規模は次第に大きくなり、生産量が上昇していきました。


■ 大量生産の志向 ~ 戦国時代 ~
 戦国期の城下町建設に伴う需要の高まりに応じるべく、越前窯では巨大な窯体を築き、さまざまな技術革新が図られました。生産体制も一新され、この頃には北海道から島根県までの日本海側一帯に製品が流通し、越前は北陸最大の窯業産地になります。

   
    ・劔大明神領分平等村田畠居屋敷差出状(所蔵:劔神社)


■ 越前赤瓦の誕生 ~ 江戸時代 ~
 17世紀中葉、新たに瓦の生産がはじまりました。越前の瓦は鉄分を含む土壌を水に溶いた釉薬を用いることで赤黒く発色し、「越前赤瓦」と呼ばれます。後に造瓦技術は東北地方にまで及び。北海道函館市の函館奉行所の屋根にも越前赤瓦が葺かれています。

   
   ・越前赤瓦(所蔵:越前町教育委員会)


■ 「白いやきもの」を求めて ~ 明治-昭和時代~
 平等村に築かれた登窯で越前焼の協同生産が行われる一方、明治時代になると陶業振興や技術革新が図られます。「白いやきもの」である磁器生産を目指し、宮崎小曽原の山内伊右衛門は日渉園の設立に参加し、平等村の吉田長兵衛は葵園を開窯しました。


■ 「越前焼」の命名 ~ 現代 ~
 第二次世界大戦後に窯業試験場が開設されると、陶土の開発を積極的に行うなど窯業生産の機運が再び高まります。この頃、「小曽原焼(おぞわらやき)」「織田焼(おたやき)」など地域によって名称が異なる陶器について「越前焼」と命名され、全国にその名が定着していきました。



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